【日本経済新聞】
自衛隊初の海外拠点、海賊対策強化でジブチに1日開設
2011/5/31 19:51
政府は1日、海外に初めての自衛隊の本格的な活動拠点をアフリカ東部のジブチに開設する。2009年6月から続くソマリア沖での海賊対策の長期化を念頭に独自の拠点を設け、活動しやすくする。海賊の動向を上空から警戒監視している海上自衛隊のP3C哨戒機の整備用格納庫や宿舎、体育館を完備。事実上の「海外基地」となる。
自衛隊はこれまでジブチ国際空港の南側に構える米軍基地内を間借りし、海賊対策を展開してきた。P3C2機と護衛艦2隻を派遣し、陸上、海上両自衛隊の約150人が活動に当たっていた。
今回の拠点新設で約30人を増員。施設の警備などに充てる。
自衛隊の新拠点は同空港の滑走路を挟んで北側に位置する。約12ヘクタールの用地をジブチ政府から借り受けた。施設整備に約47億円を投じた。
新拠点を構える中東・アフリカ地域では今後、国連平和維持活動(PKO)といった自衛隊による国際協力活動を想定する。その際に新拠点を人員や物資の輸送拠点として活用することも視野に入れる。
2011年5月31日火曜日
福島原発でベント遅れたのは首相の思いつき視察のせいだった
(NEWSポストセブン - 05月31日 07:14)
東日本大震災発生直後の3月12日15時半過ぎ、東京電力福島第一原子力発電所1号機の建屋で水素爆発が起きた。
菅直人首相は、事前に専門家から大丈夫との説明を受けていたため、この事態に激怒した。しかし水素爆発そのものが、自身の初動ミスで起きたものだ。
東電は事故から2か月以上経ってから、1~3号炉が炉心溶融を起こしていたという分析結果を発表した。
菅首相は「聞いてなかった。知っていて嘘をついていたことはない」というが、それこそ真っ赤な嘘である。
震災が発生した3月11日の22時、原子力災害対策本部の事務局は、ERSS(緊急時対策支援システム)を稼働させて福島原発の事故進展予測を行ない、メルトダウンを明確に予測し、その情報は官邸にも報告されていた。
ERSSとは全国の原発の原子炉の圧力、温度などのプラント情報をリアルタイムで把握し、事故が起きればその後の進展を予測して、炉心溶融などに至る時間や放射性物質の放出量をはじき出すシステムだ。
保安院の資料によると、予測は原子炉の冷却水の水位などプラント情報が比較的失われなかった2号機を中心として行なわれた。
2号機は地震発生の11日14時47分に緊急停止し、20時30分に原子炉への注水機能が喪失。そして22時のERSS予測にはこう記されていた。
22:50 炉心露出
23:50 燃料被覆管破損
24:50 燃料溶融
27:20 原子炉格納容器設計最高圧到達。原子炉格納容器ベントにより放射性物質の放出
燃料溶融も、原子炉格納容器の弁を開けて放射性物質を含む蒸気を排出するベントをしなければ格納容器が設計最高圧を超えて危険な状態になることも官邸に伝えられていたのである。原子力災害対策本部事務局は、この2号機の予測をもとに、1号機と3号機の事故進展予測も行なっていた。
これだけ重要で正確な情報があったのだから、その日のうちに避難地域を拡大させなければならなかったことはいうまでもない。
それ以上に罪が重いのは、このERSS予測が、その後も公表されなかった理由だ。それがあれば住民の被曝は最小限にとどめられたはずなのだ。
この予測が隠されたのは、ベントが遅れた理由が、菅氏の“思いつき視察”だったことを明白に示すからではなかったか。
緊急停止した原子炉のうち、真っ先に非常用電源が止まって危機に陥ったのは1号機だった。そこで原子力災害対策本部は、ERSS予測通りに12日の「3時半」に1号機のベントを実施する計画を立てた。
それを物語る資料がある。
同日未明の1時12分、同対策本部は気象情報をもとに放射性物質の拡散予測を行なう文科省のSPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)に、「3時半放出開始」という条件で、1号機のベントによる放射能拡散を予測させた。
この時の試算図では、風は海に向かい、内陸部に放射性物質は拡散しないという結果を弾き出した。すなわち、被害を最小限に抑えるタイミングであることを示していた。
それを妨害したのが「視察に行く」と言い出した菅首相だった。
当時、首相官邸のオペレーションルームには警察、防衛、国交など各省庁から集められた課長補佐クラスが詰め、首相の原発視察の調整を行なっていた。そこに原子力災害対策本部の事務局からSPEEDI試算図がファックス送信された。
「オペレーションルームでコピーは回覧された。ベントを予定通りに行なえば、総理を被曝させることになる。行かなければ、絶好のタイミングでベントできる。視察を中止すべきだという慎重論も出たが、結局、総理の意向が優先された」(内閣官房の事務スタッフ)
ここから官邸はベント延期に動き出した。
菅首相の原発視察(12日7~8時)は、3時過ぎから開かれた枝野氏の記者会見で発表された。それと同時に、ベントの予定時間が変更された。
証拠がある。
枝野会見後の3時53分、原子力災害対策本部事務局はSPEEDIを運用する文科省に、1号機のベント実施時間を「12時(正午)放出開始」へと遅らせて試算し直させていた図が存在するのだ。正午とは、首相が視察を終えて官邸に戻った直後だ。この延期は首相を被曝させないためだとしか合理的に説明できない。
だからこそ、枝野官房長官はSPEEDIの1時12分に作成された「3時30分からベントした場合の試算図」が官邸に送られていたことが発覚すると、「私も総理も見ていない」(5月20日の記者会見)と言い張って責任逃れしようと躍起になったのだろう。
※週刊ポスト2011年6月10日号
東日本大震災発生直後の3月12日15時半過ぎ、東京電力福島第一原子力発電所1号機の建屋で水素爆発が起きた。
菅直人首相は、事前に専門家から大丈夫との説明を受けていたため、この事態に激怒した。しかし水素爆発そのものが、自身の初動ミスで起きたものだ。
東電は事故から2か月以上経ってから、1~3号炉が炉心溶融を起こしていたという分析結果を発表した。
菅首相は「聞いてなかった。知っていて嘘をついていたことはない」というが、それこそ真っ赤な嘘である。
震災が発生した3月11日の22時、原子力災害対策本部の事務局は、ERSS(緊急時対策支援システム)を稼働させて福島原発の事故進展予測を行ない、メルトダウンを明確に予測し、その情報は官邸にも報告されていた。
ERSSとは全国の原発の原子炉の圧力、温度などのプラント情報をリアルタイムで把握し、事故が起きればその後の進展を予測して、炉心溶融などに至る時間や放射性物質の放出量をはじき出すシステムだ。
保安院の資料によると、予測は原子炉の冷却水の水位などプラント情報が比較的失われなかった2号機を中心として行なわれた。
2号機は地震発生の11日14時47分に緊急停止し、20時30分に原子炉への注水機能が喪失。そして22時のERSS予測にはこう記されていた。
22:50 炉心露出
23:50 燃料被覆管破損
24:50 燃料溶融
27:20 原子炉格納容器設計最高圧到達。原子炉格納容器ベントにより放射性物質の放出
燃料溶融も、原子炉格納容器の弁を開けて放射性物質を含む蒸気を排出するベントをしなければ格納容器が設計最高圧を超えて危険な状態になることも官邸に伝えられていたのである。原子力災害対策本部事務局は、この2号機の予測をもとに、1号機と3号機の事故進展予測も行なっていた。
これだけ重要で正確な情報があったのだから、その日のうちに避難地域を拡大させなければならなかったことはいうまでもない。
それ以上に罪が重いのは、このERSS予測が、その後も公表されなかった理由だ。それがあれば住民の被曝は最小限にとどめられたはずなのだ。
この予測が隠されたのは、ベントが遅れた理由が、菅氏の“思いつき視察”だったことを明白に示すからではなかったか。
緊急停止した原子炉のうち、真っ先に非常用電源が止まって危機に陥ったのは1号機だった。そこで原子力災害対策本部は、ERSS予測通りに12日の「3時半」に1号機のベントを実施する計画を立てた。
それを物語る資料がある。
同日未明の1時12分、同対策本部は気象情報をもとに放射性物質の拡散予測を行なう文科省のSPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)に、「3時半放出開始」という条件で、1号機のベントによる放射能拡散を予測させた。
この時の試算図では、風は海に向かい、内陸部に放射性物質は拡散しないという結果を弾き出した。すなわち、被害を最小限に抑えるタイミングであることを示していた。
それを妨害したのが「視察に行く」と言い出した菅首相だった。
当時、首相官邸のオペレーションルームには警察、防衛、国交など各省庁から集められた課長補佐クラスが詰め、首相の原発視察の調整を行なっていた。そこに原子力災害対策本部の事務局からSPEEDI試算図がファックス送信された。
「オペレーションルームでコピーは回覧された。ベントを予定通りに行なえば、総理を被曝させることになる。行かなければ、絶好のタイミングでベントできる。視察を中止すべきだという慎重論も出たが、結局、総理の意向が優先された」(内閣官房の事務スタッフ)
ここから官邸はベント延期に動き出した。
菅首相の原発視察(12日7~8時)は、3時過ぎから開かれた枝野氏の記者会見で発表された。それと同時に、ベントの予定時間が変更された。
証拠がある。
枝野会見後の3時53分、原子力災害対策本部事務局はSPEEDIを運用する文科省に、1号機のベント実施時間を「12時(正午)放出開始」へと遅らせて試算し直させていた図が存在するのだ。正午とは、首相が視察を終えて官邸に戻った直後だ。この延期は首相を被曝させないためだとしか合理的に説明できない。
だからこそ、枝野官房長官はSPEEDIの1時12分に作成された「3時30分からベントした場合の試算図」が官邸に送られていたことが発覚すると、「私も総理も見ていない」(5月20日の記者会見)と言い張って責任逃れしようと躍起になったのだろう。
※週刊ポスト2011年6月10日号
2011年5月30日月曜日
中国空母の新たな内幕:ウクライナ軍需企業と深い関係
ウクライナは今後もさらに中国に武器と技術を売却するチャンスがある。
発信時間: 2011-05-30 16:26:42 チャイナネット
ロシア海軍の関係者は27日、カナダの軍事専門誌「漢和亜州防務」(Kanwa Asian Defence)の取材に、中国の艦載機パイロット地上模擬訓練システムはとウクライナの“ニトカ”システムと大きさから外観までよく似ていると話した。
▽ウクライナ製の主動力装置を装備
同関係者は、ウクライナの国営企業が中国の航空母艦の建造と「ワリャーグ」の改修に深く参与した可能性が高いとしている。得られた情報はすべてこの企業からだが、ウクライナ側の参加規模は予想されているほどはないと強調する。
「ワリャーグ」はウクライナ製の主動力装置を搭載するという報道は確かで、他にもウクライナ側は中国にジュブル型エアクッション揚陸艦4隻を提供したと報道されているが、実際には2隻の揚陸艦が提供されたという。
ウクライナの専門家は中国・哈爾浜(ハルビン)のボイラー工場を視察。ハルビンのボイラー工場における大出力の軍用ボイラーと動力装置の生産が、ウクライナと中国海軍の最大プロジェクトとなっている。ただ、新型ボイラーがまもなく完成する空母に設置されるかについては明らかにされていない。
「ワリャーグ」と中国独自に開発した空母にはウクライナの大型軍用ボイラーを搭載。すべての作業は非常に順調に進んでおり、ウクライナは中国側にテスト用のボイラーを数台提供することになっている。
▽訓練、武器、技術などで協力
中国初の空母「ワリャーグ」の最新写真
中国が建造した艦載機のパイロット地上模擬訓練システムに関して関係者は、両国の協力には限界があるという。その理由は、ウクライナ側はすでに技術と武器・装備を売却し、軍用施設の建設には係わらないためだ。ウクライナは中国側は関連施設の内部計画の相談を受け、建物と施設に関する情報を提供したに過ぎない。
こうしたサポートだけでも、中国にとってはかなりの成果といえる。ウクライナとの協力を通じて、中国はすでに訓練施設の建設方法が明白になったと思われる。
ウクライナは今後もさらに中国に武器と技術を売却するチャンスがある。かつて中国に空対空ミサイル「R-27T/R」を提供したARTEM社は、単独輸出の権利をもつため、対戦車ミサイルを輸出できるし、ハルコフ設計局もおなじく、6TD-2型戦車用エンジンを輸出する権利があり、アントノフ社とイーフチェンコ社は直接中国に航空エンジンを提供することが可能だ。
中国の空母建造に対するウクライナからの支援について、ウクライナの関係者は、中国にはごく限られた人数の専門家しか派遣していないと話す。このことから、解雇された大部分の専門家は個人的に中国に渡った可能性があるとみられる。
「中国網日本語版(チャイナネット)」 2011年5月30日
発信時間: 2011-05-30 16:26:42 チャイナネット
ロシア海軍の関係者は27日、カナダの軍事専門誌「漢和亜州防務」(Kanwa Asian Defence)の取材に、中国の艦載機パイロット地上模擬訓練システムはとウクライナの“ニトカ”システムと大きさから外観までよく似ていると話した。
▽ウクライナ製の主動力装置を装備
同関係者は、ウクライナの国営企業が中国の航空母艦の建造と「ワリャーグ」の改修に深く参与した可能性が高いとしている。得られた情報はすべてこの企業からだが、ウクライナ側の参加規模は予想されているほどはないと強調する。
「ワリャーグ」はウクライナ製の主動力装置を搭載するという報道は確かで、他にもウクライナ側は中国にジュブル型エアクッション揚陸艦4隻を提供したと報道されているが、実際には2隻の揚陸艦が提供されたという。
ウクライナの専門家は中国・哈爾浜(ハルビン)のボイラー工場を視察。ハルビンのボイラー工場における大出力の軍用ボイラーと動力装置の生産が、ウクライナと中国海軍の最大プロジェクトとなっている。ただ、新型ボイラーがまもなく完成する空母に設置されるかについては明らかにされていない。
「ワリャーグ」と中国独自に開発した空母にはウクライナの大型軍用ボイラーを搭載。すべての作業は非常に順調に進んでおり、ウクライナは中国側にテスト用のボイラーを数台提供することになっている。
▽訓練、武器、技術などで協力
中国初の空母「ワリャーグ」の最新写真
中国が建造した艦載機のパイロット地上模擬訓練システムに関して関係者は、両国の協力には限界があるという。その理由は、ウクライナ側はすでに技術と武器・装備を売却し、軍用施設の建設には係わらないためだ。ウクライナは中国側は関連施設の内部計画の相談を受け、建物と施設に関する情報を提供したに過ぎない。
こうしたサポートだけでも、中国にとってはかなりの成果といえる。ウクライナとの協力を通じて、中国はすでに訓練施設の建設方法が明白になったと思われる。
ウクライナは今後もさらに中国に武器と技術を売却するチャンスがある。かつて中国に空対空ミサイル「R-27T/R」を提供したARTEM社は、単独輸出の権利をもつため、対戦車ミサイルを輸出できるし、ハルコフ設計局もおなじく、6TD-2型戦車用エンジンを輸出する権利があり、アントノフ社とイーフチェンコ社は直接中国に航空エンジンを提供することが可能だ。
中国の空母建造に対するウクライナからの支援について、ウクライナの関係者は、中国にはごく限られた人数の専門家しか派遣していないと話す。このことから、解雇された大部分の専門家は個人的に中国に渡った可能性があるとみられる。
「中国網日本語版(チャイナネット)」 2011年5月30日
【防衛省】 映画「でんでこ」に制作強力
朝雲ニュース5/26日付
東日本大震災 津川雅彦氏の映画企画に防衛省協力
北沢大臣(左)に東日本大震災を題材にした映画の企画を説明する津川さん(中央)と角川会長(5月18日、防衛省で)
俳優の津川雅彦さん(71)が5月18日に防衛省を訪れ北沢大臣と面会、東日本大震災を扱う映画製作に協力を求めた。
映画は未曾有の大災害に襲われた東北地方の復興のために戦う人々の姿を、自衛隊の青年隊員と福島第1原発技術者の親子の物語を軸にドキュメンタリータッチで描く予定で、仮題は「てんでんこ」(てんでに逃げろの方言)。
津川さんはマキノ雅彦名で「寝ずの番」など3作を監督しており、本作では総指揮を担当する。
津川さんは角川グループの角川歴彦会長と大臣室で面会。
北沢大臣は企画書を手に「私の田舎でも『てんでんこ』と言いますよ」と話しながら説明に聞き入り全面的な協力を約束した。
都内ロケ中に今回の地震を体験し、震災関連記事の切り抜きを続けるうち映画化の構想を持ったと話す津川さん。
大臣から贈られた五つ星入りの帽子を手に、「大自然と科学の極みがもたらした災害の中、東北の方々が世界を感動させた『忍耐』に象徴される『恥の文化』を持つ日本の伝統的な美しい心を通じてモノ、カネ中心の価値観からの変換を描き、見た後に勇気や希望が湧く映画にしたい」と話した。
東日本大震災 津川雅彦氏の映画企画に防衛省協力
北沢大臣(左)に東日本大震災を題材にした映画の企画を説明する津川さん(中央)と角川会長(5月18日、防衛省で)
俳優の津川雅彦さん(71)が5月18日に防衛省を訪れ北沢大臣と面会、東日本大震災を扱う映画製作に協力を求めた。
映画は未曾有の大災害に襲われた東北地方の復興のために戦う人々の姿を、自衛隊の青年隊員と福島第1原発技術者の親子の物語を軸にドキュメンタリータッチで描く予定で、仮題は「てんでんこ」(てんでに逃げろの方言)。
津川さんはマキノ雅彦名で「寝ずの番」など3作を監督しており、本作では総指揮を担当する。
津川さんは角川グループの角川歴彦会長と大臣室で面会。
北沢大臣は企画書を手に「私の田舎でも『てんでんこ』と言いますよ」と話しながら説明に聞き入り全面的な協力を約束した。
都内ロケ中に今回の地震を体験し、震災関連記事の切り抜きを続けるうち映画化の構想を持ったと話す津川さん。
大臣から贈られた五つ星入りの帽子を手に、「大自然と科学の極みがもたらした災害の中、東北の方々が世界を感動させた『忍耐』に象徴される『恥の文化』を持つ日本の伝統的な美しい心を通じてモノ、カネ中心の価値観からの変換を描き、見た後に勇気や希望が湧く映画にしたい」と話した。
航空観閲式、準備指示 「被災地・原発に集中を」制服組批判
航空観閲式、準備指示 「被災地・原発に集中を」制服組批判
2011.5.30 07:09
防衛省が今秋の「航空観閲式」開催に向け準備作業に着手したことが29日、分かった。震災への支援に追われるなか、自衛隊内からは「戦力と基地機能を被災地支援と危機管理に集中すべきだ」(幹部)との批判が出ている。
前回の航空観閲式は平成20年10月で、今年も10月に航空自衛隊百里基地(茨城県)で開くことを想定。2月に航空幕僚長通達で準備要員の派遣を各部隊に求め、約60人を招集した。大震災発生で部隊に戻したが、4月中旬に再び同規模の要員を百里基地などに集めた。
今月に入り、防衛省内局が北沢俊美防衛相に航空観閲式を含む自衛隊行事を開催するか判断を仰いだ際、北沢氏は「淡々とやるべきだ」と指示。
これを受け空自は20日に「実施構想について」と題する通達を出し、詳細な式典計画を各部隊に提示した。
実施構想によると、82機の飛行や展示を行った前回に比べ航空機は60機以下に減らすが、招待客は前回の約7千人より多い約8500人を予定している。
ただ、空自は震災対応でなお1万1千人以上を派遣、物資輸送や行方不明者の捜索を続けている。福島第1原発の状況がさらに悪化し空自の消防車が再派遣されることになれば百里基地が拠点になる。
百里基地の隊員は通常約1800人だが、開催に向け8月ごろから警備要員として約1千人を増援させる必要があり、要員を差し出す各部隊の負担も増す。
前回経費は燃料代を除く会場設営機材費などだけで約6億4千万円。
一方、空自は被災した松島基地(宮城県)の復旧などで約8億円を平成23年度第1次補正予算に計上。水没したF2戦闘機の修理にも数百億円かかる。観閲式の経費を復旧や復興事業に充てるべきだとの声も多い。
2011.5.30 07:09
防衛省が今秋の「航空観閲式」開催に向け準備作業に着手したことが29日、分かった。震災への支援に追われるなか、自衛隊内からは「戦力と基地機能を被災地支援と危機管理に集中すべきだ」(幹部)との批判が出ている。
前回の航空観閲式は平成20年10月で、今年も10月に航空自衛隊百里基地(茨城県)で開くことを想定。2月に航空幕僚長通達で準備要員の派遣を各部隊に求め、約60人を招集した。大震災発生で部隊に戻したが、4月中旬に再び同規模の要員を百里基地などに集めた。
今月に入り、防衛省内局が北沢俊美防衛相に航空観閲式を含む自衛隊行事を開催するか判断を仰いだ際、北沢氏は「淡々とやるべきだ」と指示。
これを受け空自は20日に「実施構想について」と題する通達を出し、詳細な式典計画を各部隊に提示した。
実施構想によると、82機の飛行や展示を行った前回に比べ航空機は60機以下に減らすが、招待客は前回の約7千人より多い約8500人を予定している。
ただ、空自は震災対応でなお1万1千人以上を派遣、物資輸送や行方不明者の捜索を続けている。福島第1原発の状況がさらに悪化し空自の消防車が再派遣されることになれば百里基地が拠点になる。
百里基地の隊員は通常約1800人だが、開催に向け8月ごろから警備要員として約1千人を増援させる必要があり、要員を差し出す各部隊の負担も増す。
前回経費は燃料代を除く会場設営機材費などだけで約6億4千万円。
一方、空自は被災した松島基地(宮城県)の復旧などで約8億円を平成23年度第1次補正予算に計上。水没したF2戦闘機の修理にも数百億円かかる。観閲式の経費を復旧や復興事業に充てるべきだとの声も多い。
米当局最警戒のテロ組織TPP 司令官に懸賞金500万ドルも
(NEWSポストセブン - 05月30日 07:14)
ビンラディン殺害後、テロの脅威はむしろ増幅するという指摘がある。
軍事ジャーナリストの黒井文太郎氏は、ここ数年、アルカイダに代わるテロ組織が台頭していると解説する。
米当局がいまもっとも警戒しているのが、「パキスタン・タリバン運動(TTP)」だ。
パキスタン北西部部族地域の南ワジリスタンを本拠とし、アルカイダおよびタリバンと非常に近い関係にある組織である。
TTPはビンラディン死亡直後の5月2日に、いち早くアメリカへの報復宣言を行なった。
そして、13日にはさっそく、パキスタン北西部のチャルサダのパキスタン治安部隊訓練学校で自爆テロを実行し、訓練生80人以上を殺害している。
TTPは犯行声明で、この攻撃がビンラディン殺害に対する最初の報復であるとし、さらなるテロも言明している。
TTPは、9.11テロ後にタリバンの対米戦に参加したパキスタン北西部出身者を中核とし、同エリアへのパキスタン軍侵攻に抵抗した部族民兵を吸収して2007年に結成された。主にパキスタン国内を活動エリアとしているが、近年は国際的なネットワークを広げつつあり、そこを米当局は強く警戒している。
それというのも、従来はアルカイダが同地域に軍事キャンプを設置し、海外の自爆テロ志願者を受け入れて訓練していたが、2000年代後半以降、アルカイダのキャンプは閉鎖され、自爆テロ志願者はアルカイダとのコンタクトが難しくなった。
そのため近年では、世界各地からの自爆テロ志願者はTTPの軍事キャンプで訓練を受けているケースが非常に増えている。
つまり、アルカイダに代わって、パキスタンのイスラム過激派が世界のテロ・ネットワークのセンターになったのだ。
こうしたことから、本来は土着の武装組織だったTTPが国際的なネットワークを広げていて、その存在感が飛躍的にアップしている状況となっている。
そもそもパキスタンのイスラム過激派には、同国東部を地盤とするカシミール系の勢力と、北西部を地盤とする勢力の2派があった。
このうち、カシミール系組織の代表格が「ラシュカレ・トイバ(正しい軍隊)」だ。
同組織はパキスタン軍の情報機関「統合情報局(ISI)」の強い監督下にあったが、2008年にインドのムンバイで大規模な無差別テロを起こし、169人を殺害したことが大きな外交問題になってから、パキスタン当局の圧力で現在は活動を抑えられている。
TTPは以前から、タリバンの共闘勢力としてアメリカ当局の攻撃目標だった。2009年には当時の司令官がアフガンから越境したCIA無人機によって爆殺されたが、それ以降、対米テロをさらに激化させた。
一昨年12月には、アフガン東部のCIA拠点「チャップマン基地」で自爆テロを実行し、CIA要員ら9人を殺害した。これはヨルダン人の自爆志願者を使ったテロ作戦だった。
昨年9月、アメリカ政府はTTPを国際テロ組織に指定した。ハキムッラー・メフスード司令官を特別指定国際テロリスト(SDGT)に指定し、500万ドルの懸賞金をかけた。ちなみに、パキスタン政府も60万ドルの懸賞金でメフスードの行方を追っている。
ビンラディン亡き今、これからはTTPの動向に要注意といえそうだ。
※SAPIO2011年6月15日号
ビンラディン殺害後、テロの脅威はむしろ増幅するという指摘がある。
軍事ジャーナリストの黒井文太郎氏は、ここ数年、アルカイダに代わるテロ組織が台頭していると解説する。
米当局がいまもっとも警戒しているのが、「パキスタン・タリバン運動(TTP)」だ。
パキスタン北西部部族地域の南ワジリスタンを本拠とし、アルカイダおよびタリバンと非常に近い関係にある組織である。
TTPはビンラディン死亡直後の5月2日に、いち早くアメリカへの報復宣言を行なった。
そして、13日にはさっそく、パキスタン北西部のチャルサダのパキスタン治安部隊訓練学校で自爆テロを実行し、訓練生80人以上を殺害している。
TTPは犯行声明で、この攻撃がビンラディン殺害に対する最初の報復であるとし、さらなるテロも言明している。
TTPは、9.11テロ後にタリバンの対米戦に参加したパキスタン北西部出身者を中核とし、同エリアへのパキスタン軍侵攻に抵抗した部族民兵を吸収して2007年に結成された。主にパキスタン国内を活動エリアとしているが、近年は国際的なネットワークを広げつつあり、そこを米当局は強く警戒している。
それというのも、従来はアルカイダが同地域に軍事キャンプを設置し、海外の自爆テロ志願者を受け入れて訓練していたが、2000年代後半以降、アルカイダのキャンプは閉鎖され、自爆テロ志願者はアルカイダとのコンタクトが難しくなった。
そのため近年では、世界各地からの自爆テロ志願者はTTPの軍事キャンプで訓練を受けているケースが非常に増えている。
つまり、アルカイダに代わって、パキスタンのイスラム過激派が世界のテロ・ネットワークのセンターになったのだ。
こうしたことから、本来は土着の武装組織だったTTPが国際的なネットワークを広げていて、その存在感が飛躍的にアップしている状況となっている。
そもそもパキスタンのイスラム過激派には、同国東部を地盤とするカシミール系の勢力と、北西部を地盤とする勢力の2派があった。
このうち、カシミール系組織の代表格が「ラシュカレ・トイバ(正しい軍隊)」だ。
同組織はパキスタン軍の情報機関「統合情報局(ISI)」の強い監督下にあったが、2008年にインドのムンバイで大規模な無差別テロを起こし、169人を殺害したことが大きな外交問題になってから、パキスタン当局の圧力で現在は活動を抑えられている。
TTPは以前から、タリバンの共闘勢力としてアメリカ当局の攻撃目標だった。2009年には当時の司令官がアフガンから越境したCIA無人機によって爆殺されたが、それ以降、対米テロをさらに激化させた。
一昨年12月には、アフガン東部のCIA拠点「チャップマン基地」で自爆テロを実行し、CIA要員ら9人を殺害した。これはヨルダン人の自爆志願者を使ったテロ作戦だった。
昨年9月、アメリカ政府はTTPを国際テロ組織に指定した。ハキムッラー・メフスード司令官を特別指定国際テロリスト(SDGT)に指定し、500万ドルの懸賞金をかけた。ちなみに、パキスタン政府も60万ドルの懸賞金でメフスードの行方を追っている。
ビンラディン亡き今、これからはTTPの動向に要注意といえそうだ。
※SAPIO2011年6月15日号
麻木久仁子さんが2ちゃんねるの書き込みで訴訟 問題の書き込み内容はコピペ?
2011年05月29日16時20分提供:ガジェット通信
麻木久仁子さんが2ちゃんねるの書き込みで誹謗中傷を受けたとして、プロバイダーに発信者情報開示を求め匿名書き込み主に訴訟を起こした。
匿名掲示板のはずの2ちゃんねるの書き込みが何故訴えられるのか?
2ちゃんねるは「名無し」で書き込むことが出来る。しかし2ちゃんねるに精通しているユーザーなら理解されていることではあるが、発信者の情報は記録されている。
もちろん2ちゃんねるだけに限らずSNS、Twitterも同じだ。
全ての発信情報は記録されており相手がプロバイダーもしくはサービス提供側に情報開示請求をすれば応じなくてはいけない(通常警察経由で開示請求が来る)。
そうなればIPアドレスから書き込んだ日、時間、接続先を割り出しどのユーザーが書き込んだのか簡単に割り出すことができるのだ。
プロバイダーもこのIPアドレス情報を保存する義務があるため過去にさかのぼり情報を求めることが出来る。
発信者情報開示の対象となった2011年1月5日の書き込みだが、もともとはネット上でみつけた文章の一部を改変した、いわゆる「コピペ」だったという。
調査したところ、そちらは2010年5月15日に書き込みがおこなわれていた。
「コピペ」が元となった今回の出来事。経緯が注目される。
元 2010年5月15日
コピペ文章が「浜松ケーブルテレビ」経由で、2011年1月5日に書き込まれる
麻木久仁子さんが2ちゃんねるの書き込みで誹謗中傷を受けたとして、プロバイダーに発信者情報開示を求め匿名書き込み主に訴訟を起こした。
匿名掲示板のはずの2ちゃんねるの書き込みが何故訴えられるのか?
2ちゃんねるは「名無し」で書き込むことが出来る。しかし2ちゃんねるに精通しているユーザーなら理解されていることではあるが、発信者の情報は記録されている。
もちろん2ちゃんねるだけに限らずSNS、Twitterも同じだ。
全ての発信情報は記録されており相手がプロバイダーもしくはサービス提供側に情報開示請求をすれば応じなくてはいけない(通常警察経由で開示請求が来る)。
そうなればIPアドレスから書き込んだ日、時間、接続先を割り出しどのユーザーが書き込んだのか簡単に割り出すことができるのだ。
プロバイダーもこのIPアドレス情報を保存する義務があるため過去にさかのぼり情報を求めることが出来る。
発信者情報開示の対象となった2011年1月5日の書き込みだが、もともとはネット上でみつけた文章の一部を改変した、いわゆる「コピペ」だったという。
調査したところ、そちらは2010年5月15日に書き込みがおこなわれていた。
「コピペ」が元となった今回の出来事。経緯が注目される。
元 2010年5月15日
コピペ文章が「浜松ケーブルテレビ」経由で、2011年1月5日に書き込まれる
2011年5月29日日曜日
【日本赤軍】 丸岡 修(享年60歳)/八王子医療刑務所
1949年10月 - 2011年5月29日 日本赤軍の元メンバー。
清水谷高校卒業後、大阪浪共闘やベ平連で市民活動家として活動。
日本赤軍
1973年 ドバイ日航機ハイジャック事件、(22歳)
1973年7月20日、テルアビブ空港乱射事件に対する関与等で国際指名手配を受け逃亡していた日本赤軍の丸岡修ら5人の「被占領地の息子たち」と自称するパレスチナ解放人民戦線(PFLP)と日本赤軍の混成部隊が、爆弾などの武器を持ちフランス、パリ発アムステルダム、アンカレジ経由東京(羽田)行きの日本航空404便(ボーイング747-246B型機、機体記号JA8109)をハイジャックし、アラブ首長国連邦のドバイ国際空港へ着陸させた。
▼日本航空404便(B747-246B型機)
パリ 離陸
7月20-22日 ドバイ(UAE)
サウジアラビア政府 領空侵犯時は爆破命令
7月22日 ダマスカス国際空港 燃料補給 シリア
イスラエル政府 領空侵犯時は爆破命令
ベンガジ市(シリア)ベニア空港
ベンガジへ
ドバイには3日間駐機し、その間に犯人グループから、40億円の身代金の支払いと逮捕されていた日本赤軍メンバー2名の釈放を要求する旨の脅迫状が日本航空の東京支店に届いた。これらを受けてドバイ首長の弟であるモハメッド・ラシッド国防大臣(当時。現在のドバイ首長)や佐藤孝行運輸政務次官らが犯人グループとの交渉に当たったが解決出来ず、その後ドバイ国際空港を離陸し、シリアのダマスカス国際空港で燃料の補給を行い、リビアのベンガジにあるベニナ空港に着陸させた。
爆破
その後犯人グループは、乗員乗客145人の人質を解放後、同機を爆破しリビア当局に投降した。なお、この際に女性メンバー1人が死亡した。犯人グループは投降後、ムアンマル・アル=カッザーフィー大佐率いるリビア政府の黙認(積極的な援助)の元、リビアの友好国経由で国外逃亡した。
撃墜指令
2004年に公開されたイギリス外務省の当時の機密文書によって、この事件の発生時に、ハイジャック機が領空の近辺を通過したイスラエルとサウジアラビアの両政府が、当該機が両国の石油関連施設や市街地に突入する行動を取った場合、乗客乗員もろとも撃墜する方針であったことが明らかになった。
1977年のダッカ日航機ハイジャック事件(27歳)に主導的立場で関与
1987年11月21日に東京で警察に偽造パスポートを所持していたため逮捕(38歳)
丸岡が翌年に迫ったソウルオリンピックを妨害工作するためにソウル行きを計画していたことが明らかになる。
ドバイ・ダッカの両ハイジャック事件に対するハイジャック防止法違反と、偽造旅券で帰国したとする旅券法違反の罪に問われ、
1993年12月、無期懲役の判決を受けた。(44歳)
1997年4月に控訴を、2000年3月に上告をそれぞれ棄却されて無期懲役が確定。当初は宮城刑務所で服役した。
2002年1月27日、『読売新聞』の記事「若王子さん事件 日本赤軍の影」において「三井物産マニラ支店長誘拐事件の際に犯人側に渡された身代金と丸岡の所持していた紙幣の番号が一致した」などと報じられた。
丸岡は名誉毀損で民事訴訟に起こし、2007年1月19日に東京地裁は三代川三千代裁判長は証拠不十分として読売新聞社に105万円の賠償支払いを命じた。
2007年6月28日、控訴審の東京高裁で吉戒修一裁判長は一審判決を破棄し、新聞記事を真実と認め、丸岡の名誉毀損による請求を退けた。
クアラルンプール事件で実行犯として関与したと疑われていたが、クアラルンプール事件では起訴はされていない。
2004年(54歳)には拡張型心筋症と診断され車椅子生活を送っていた。投薬治療を受けていたが、刑務所内には医師が常駐しておらず十分な治療がうけられなかったという。発作で失神することもあり、丸岡は4回も刑の執行停止を申し立てたがいずれも却下されていた。
2010年6月30日、刑の執行停止が認められず精神的苦痛を受けたとして、国を相手取り約1100万円の損害賠償と刑の執行停止をもとめ東京地裁に提訴。
2011年5月29日、服役中の八王子医療刑務所内にて心臓病により60歳で死去。
その他
日本赤軍メンバーの岡本公三によると、テルアビブ空港乱射事件は当初の計画では丸岡を含めた4人でおこなう予定であったが、丸岡が別行動を取ったために3人で襲撃したと供述している。
1977年9月28日(当時27歳)
に、フランスのパリ、シャルル・ド・ゴール国際空港発東京国際空港(羽田)行きの南回りヨーロッパ線の日本航空機472便(ダグラスDC-8-62型、JA8033、高橋重男機長以下乗員14名、乗客137名、犯人グループ5名)が、経由地のインドのムンバイ空港を離陸直後、拳銃、手榴弾等で武装した日本赤軍グループ5名によりハイジャックされた。
同機はカルカッタ方面に一旦向かった後、進路を変更してバングラデシュのダッカ国際空港に強行着陸し、犯人グループは人質の身代金としてアメリカドルで600万ドル(当時の為替レート〈1USドル≒約266円〉で約16億円)と、日本で服役及び勾留中の9名(奥平純三、城崎勉、大道寺あや子、浴田由紀子、泉水博、仁平映、植垣康博、知念功、大村寿雄)の釈放と日本赤軍への参加を要求し、これが拒否された場合、または回答が無い場合は人質を順次殺害すると警告した。この時、犯人グループから、「アメリカ人の人質を先に殺害する」という条件が付けられ、この「条件」の影響を受けて、その後の日本政府の対応にアメリカへの外交的配慮があったとする見方もある。
その後、ハイジャック機は燃料消費を抑えるためにエンジンを停止し、直ちに機内のエアコンが停止したために機内の気温が45度以上に上昇し、機内では倒れる者が続出した。しかし、たまたま乗り合わせた日本航空の嘱託医師の穂刈正臣が手当てを行なったほか、高橋機長が空港関係者にエアコンを作動させるための補助動力車と水を要求し、これが受け入れられたために事なきを得た[1]。
超法規的措置
日本国政府は10月1日に福田赳夫首相(当時)が「一人の生命は地球より重い」と述べて、身代金600万ドルの支払い及び、超法規的措置として獄中メンバーなどの引き渡しを決断。釈放要求された9人の内、植垣康博は「日本に残って連合赤軍問題を考えなければならない」、知念功は「一切の沖縄解放の闘いは沖縄を拠点に沖縄人自身が闘うべきものであり、日本赤軍とは政治的、思想的な一致点がない」、大村寿雄は「政治革命を目指す赤軍とはイデオロギーが異なる」と3人が釈放および日本赤軍への参加を拒否した。
日本政府は議論の過程で釈放要求リストに載っていた獄中者組合2人については「思想犯ではなく刑事犯」である理由から2人の釈放拒否の方針を持ってハイジャック犯と交渉した。しかし、ハイジャック犯は拒否し、日本政府が折れ2人も釈放対象となった。
日本政府は同日朝に、運輸政務次官の石井一を派遣団長とし、日本航空の朝田静夫社長ら同社の役員や運輸省幹部を中心としたハイジャック対策の政府特使と、身代金と釈放に応じたメンバーなど6人を日本航空特別機(ダグラスDC-8-62型 JA8031)でダッカへ輸送した[2]。
日本政府が過激派による獄中メンバーの釈放要求に応じたのは1975年のクアラルンプール事件以来2回目となった。なお、検事総長の神谷尚男と法務大臣の福田一は、この様な「超法規的措置」の施行に対して強硬に反発した。福田一は施行が決定された後に「引責辞任」した。
軍事クーデター
バングラデシュ軍部中枢を含む政府首脳がこの事件の対応に追われている隙間を縫って、10月2日の早朝に軍事クーデターが発生した[2]。その後戒厳令が発令され、最終的に反乱軍は鎮圧されたものの、ダッカ国際空港近辺でも戦闘があり政府軍の士官が11名が死亡するなど現地は緊迫したが、当時報道規制により詳細は分からなかった。
終結
10月2日に人質との交換が行われ、乗員乗客のうち118名が解放された。その後10月3日に、高橋機長とデッドヘッドで乗り合わせていた澤田隆介機長の機転で更なる人質の解放に成功した後[2]、残りの人質を乗せたままハイジャック機は離陸、クウェートとシリアのダマスカスを経て人質17名を解放、アルジェリアのダル・エル・ペイダ空港に着陸し、同国当局の管理下に置かれた。日本赤軍がアルジェリアを選んだのはアルジェリアがハイジャック防止条約を結んでなかったためである。この時点で残りの乗客乗員も全員解放され、事件は終結した。
事件の影響
事件解決に多大な協力を受けた上に、11名の死者を出した軍事クーデターのきっかけを作ったことを受け、事件解決後に日本政府はバングラデシュに謝礼と謝罪の意味を含めて特派使節を送ることとなった。しかし、バングラデシュ政府は日本政府に対し(高尚な思想から)なんら補償や見返り等を求めなかった。
また、この事件における日本の対応は、一部諸外国から「(日本から諸外国への電化製品や自動車などの輸出が急増していたことを受けて)日本はテロまで輸出するのか」などと非難を受けたといわれる。
ただし、当時は欧米各国においても、テロリストの要求を受け入れて、身柄拘束中のテロリストを釈放することが通常であり(例、PFLP旅客機同時ハイジャック事件やハーグ事件、ルフトハンザ航空615便事件などを参照)、日本政府のみがテロに対して弱腰であったわけではない。そのため当時世界各国では、この様な事件に対処する為に対テロ特殊部隊の創設が進められつつある所だった。
このテロリストの要求を受け入れる流れが変わるきっかけとなったのが、ダッカ事件と同じ年に起こったルフトハンザ航空181便ハイジャック事件である。西ドイツ政府は、ミュンヘンオリンピック事件を機に創設された特殊部隊GSG-9を航空機内に突入させ、犯人グループを制圧し、人質を救出した。
同年、日本政府はGSG-9の成功例を参考に、ハイジャック事件に対処する特殊部隊を警視庁と大阪府警察に創設した。また、アメリカ合衆国もGSG-9の突入作戦を教訓として、陸軍にデルタフォースを設立した。
日本警察の特殊部隊は、創設当初、特科中隊もしくは零中隊などと呼ばれており、部隊の存在自体が長期間、非公開とされていたが、1995年に発生した全日空857便ハイジャック事件に出動し、犯人を逮捕、人質を救出したことで世間に知られるようになった。その後、これらの特殊部隊は部隊を増設し、装備を強化した上で、SAT(Special Assault Teamの略称)と呼ばれるようになった。
なおこの事件を報道するニュースをきっかけに、福岡県の結核療養所に入院していた患者が「人質がどうなってしまうのか」で同室の患者と口論となり、ナイフで刺殺してしまったという事件も起こっている。
後日談
[編集] 「モガディシオ事件」
詳細は「ルフトハンザ航空181便ハイジャック事件」を参照
ダッカ日航機ハイジャック事件から、1ヶ月も経たない1977年10月13日、スペイン領マリョルカ島パルマ・デ・マリョルカ発フランクフルト行きのルフトハンザ・ドイツ航空615便(ボーイング737型機)が、『黒い九月』を名乗る西ドイツ赤軍(バーダー・マインホフ・グループ)と、PFLPの混成グループにハイジャックされ、ソマリアのモガディシオに着陸させられた。
テロリストは西ドイツ政府に対して、身代金と政治犯釈放を要求したが、10月17日、ミュンヘンオリンピック事件をきっかけに創設された、西ドイツの特殊部隊「国境警備隊第9グループ(GSG-9)」が航空機に突入し、テロリストを制圧、人質全員を救出した。 なお機長1名がテロリストにより射殺され犠牲となったものの他の乗員乗客は無事だった。西ドイツ赤軍は、内容からしてダッカ日航機ハイジャック事件を参考にしたようだが、GSG-9により制圧される結果となった。
ハイジャック機その後
ハイジャックされたDC-8-62型機(JA8033)はその後日本国内へ戻され、ハイジャック犯人による爆弾の爆発実験により一部が破損した機内トイレの修繕や、機内清掃などが施された後に通常運航へと戻され、1984年まで日本航空で使用された後にメキシコのアエロメヒコ航空へと売却され、1990年代前半まで運行された。
日本航空クアラルンプール墜落事故
「日本航空クアラルンプール墜落事故」を参照
ダッカ事件発生前日、日本航空715便がマレーシアのクアラルンプールへ着陸する途中に空港手前のゴム園に墜落する事故を起こしていた。その為、日本航空は事件と事故の対応に追われていた。
釈放要求されたメンバー・実行犯メンバーのその後
釈放された6人メンバーの内、1986年に泉水博、1996年に城崎勉、1997年に浴田由紀子がそれぞれ身柄拘束されている。また実行犯として丸岡修と西川純が逮捕され、無期懲役判決を受けている。和光晴生はこの事件では訴追されず、別事件で訴追され無期懲役判決を受けている。
2010年現在も奥平純三・大道寺あや子・仁平映は国際指名手配されている。
ハイジャック犯人グループ
丸岡修
和光晴生(?)
佐々木規夫
坂東國男
西川純
清水谷高校卒業後、大阪浪共闘やベ平連で市民活動家として活動。
日本赤軍
1973年 ドバイ日航機ハイジャック事件、(22歳)
1973年7月20日、テルアビブ空港乱射事件に対する関与等で国際指名手配を受け逃亡していた日本赤軍の丸岡修ら5人の「被占領地の息子たち」と自称するパレスチナ解放人民戦線(PFLP)と日本赤軍の混成部隊が、爆弾などの武器を持ちフランス、パリ発アムステルダム、アンカレジ経由東京(羽田)行きの日本航空404便(ボーイング747-246B型機、機体記号JA8109)をハイジャックし、アラブ首長国連邦のドバイ国際空港へ着陸させた。
▼日本航空404便(B747-246B型機)
パリ 離陸
7月20-22日 ドバイ(UAE)
サウジアラビア政府 領空侵犯時は爆破命令
7月22日 ダマスカス国際空港 燃料補給 シリア
イスラエル政府 領空侵犯時は爆破命令
ベンガジ市(シリア)ベニア空港
ベンガジへ
ドバイには3日間駐機し、その間に犯人グループから、40億円の身代金の支払いと逮捕されていた日本赤軍メンバー2名の釈放を要求する旨の脅迫状が日本航空の東京支店に届いた。これらを受けてドバイ首長の弟であるモハメッド・ラシッド国防大臣(当時。現在のドバイ首長)や佐藤孝行運輸政務次官らが犯人グループとの交渉に当たったが解決出来ず、その後ドバイ国際空港を離陸し、シリアのダマスカス国際空港で燃料の補給を行い、リビアのベンガジにあるベニナ空港に着陸させた。
爆破
その後犯人グループは、乗員乗客145人の人質を解放後、同機を爆破しリビア当局に投降した。なお、この際に女性メンバー1人が死亡した。犯人グループは投降後、ムアンマル・アル=カッザーフィー大佐率いるリビア政府の黙認(積極的な援助)の元、リビアの友好国経由で国外逃亡した。
撃墜指令
2004年に公開されたイギリス外務省の当時の機密文書によって、この事件の発生時に、ハイジャック機が領空の近辺を通過したイスラエルとサウジアラビアの両政府が、当該機が両国の石油関連施設や市街地に突入する行動を取った場合、乗客乗員もろとも撃墜する方針であったことが明らかになった。
1977年のダッカ日航機ハイジャック事件(27歳)に主導的立場で関与
1987年11月21日に東京で警察に偽造パスポートを所持していたため逮捕(38歳)
丸岡が翌年に迫ったソウルオリンピックを妨害工作するためにソウル行きを計画していたことが明らかになる。
ドバイ・ダッカの両ハイジャック事件に対するハイジャック防止法違反と、偽造旅券で帰国したとする旅券法違反の罪に問われ、
1993年12月、無期懲役の判決を受けた。(44歳)
1997年4月に控訴を、2000年3月に上告をそれぞれ棄却されて無期懲役が確定。当初は宮城刑務所で服役した。
2002年1月27日、『読売新聞』の記事「若王子さん事件 日本赤軍の影」において「三井物産マニラ支店長誘拐事件の際に犯人側に渡された身代金と丸岡の所持していた紙幣の番号が一致した」などと報じられた。
丸岡は名誉毀損で民事訴訟に起こし、2007年1月19日に東京地裁は三代川三千代裁判長は証拠不十分として読売新聞社に105万円の賠償支払いを命じた。
2007年6月28日、控訴審の東京高裁で吉戒修一裁判長は一審判決を破棄し、新聞記事を真実と認め、丸岡の名誉毀損による請求を退けた。
クアラルンプール事件で実行犯として関与したと疑われていたが、クアラルンプール事件では起訴はされていない。
2004年(54歳)には拡張型心筋症と診断され車椅子生活を送っていた。投薬治療を受けていたが、刑務所内には医師が常駐しておらず十分な治療がうけられなかったという。発作で失神することもあり、丸岡は4回も刑の執行停止を申し立てたがいずれも却下されていた。
2010年6月30日、刑の執行停止が認められず精神的苦痛を受けたとして、国を相手取り約1100万円の損害賠償と刑の執行停止をもとめ東京地裁に提訴。
2011年5月29日、服役中の八王子医療刑務所内にて心臓病により60歳で死去。
その他
日本赤軍メンバーの岡本公三によると、テルアビブ空港乱射事件は当初の計画では丸岡を含めた4人でおこなう予定であったが、丸岡が別行動を取ったために3人で襲撃したと供述している。
1977年9月28日(当時27歳)
に、フランスのパリ、シャルル・ド・ゴール国際空港発東京国際空港(羽田)行きの南回りヨーロッパ線の日本航空機472便(ダグラスDC-8-62型、JA8033、高橋重男機長以下乗員14名、乗客137名、犯人グループ5名)が、経由地のインドのムンバイ空港を離陸直後、拳銃、手榴弾等で武装した日本赤軍グループ5名によりハイジャックされた。
同機はカルカッタ方面に一旦向かった後、進路を変更してバングラデシュのダッカ国際空港に強行着陸し、犯人グループは人質の身代金としてアメリカドルで600万ドル(当時の為替レート〈1USドル≒約266円〉で約16億円)と、日本で服役及び勾留中の9名(奥平純三、城崎勉、大道寺あや子、浴田由紀子、泉水博、仁平映、植垣康博、知念功、大村寿雄)の釈放と日本赤軍への参加を要求し、これが拒否された場合、または回答が無い場合は人質を順次殺害すると警告した。この時、犯人グループから、「アメリカ人の人質を先に殺害する」という条件が付けられ、この「条件」の影響を受けて、その後の日本政府の対応にアメリカへの外交的配慮があったとする見方もある。
その後、ハイジャック機は燃料消費を抑えるためにエンジンを停止し、直ちに機内のエアコンが停止したために機内の気温が45度以上に上昇し、機内では倒れる者が続出した。しかし、たまたま乗り合わせた日本航空の嘱託医師の穂刈正臣が手当てを行なったほか、高橋機長が空港関係者にエアコンを作動させるための補助動力車と水を要求し、これが受け入れられたために事なきを得た[1]。
超法規的措置
日本国政府は10月1日に福田赳夫首相(当時)が「一人の生命は地球より重い」と述べて、身代金600万ドルの支払い及び、超法規的措置として獄中メンバーなどの引き渡しを決断。釈放要求された9人の内、植垣康博は「日本に残って連合赤軍問題を考えなければならない」、知念功は「一切の沖縄解放の闘いは沖縄を拠点に沖縄人自身が闘うべきものであり、日本赤軍とは政治的、思想的な一致点がない」、大村寿雄は「政治革命を目指す赤軍とはイデオロギーが異なる」と3人が釈放および日本赤軍への参加を拒否した。
日本政府は議論の過程で釈放要求リストに載っていた獄中者組合2人については「思想犯ではなく刑事犯」である理由から2人の釈放拒否の方針を持ってハイジャック犯と交渉した。しかし、ハイジャック犯は拒否し、日本政府が折れ2人も釈放対象となった。
日本政府は同日朝に、運輸政務次官の石井一を派遣団長とし、日本航空の朝田静夫社長ら同社の役員や運輸省幹部を中心としたハイジャック対策の政府特使と、身代金と釈放に応じたメンバーなど6人を日本航空特別機(ダグラスDC-8-62型 JA8031)でダッカへ輸送した[2]。
日本政府が過激派による獄中メンバーの釈放要求に応じたのは1975年のクアラルンプール事件以来2回目となった。なお、検事総長の神谷尚男と法務大臣の福田一は、この様な「超法規的措置」の施行に対して強硬に反発した。福田一は施行が決定された後に「引責辞任」した。
軍事クーデター
バングラデシュ軍部中枢を含む政府首脳がこの事件の対応に追われている隙間を縫って、10月2日の早朝に軍事クーデターが発生した[2]。その後戒厳令が発令され、最終的に反乱軍は鎮圧されたものの、ダッカ国際空港近辺でも戦闘があり政府軍の士官が11名が死亡するなど現地は緊迫したが、当時報道規制により詳細は分からなかった。
終結
10月2日に人質との交換が行われ、乗員乗客のうち118名が解放された。その後10月3日に、高橋機長とデッドヘッドで乗り合わせていた澤田隆介機長の機転で更なる人質の解放に成功した後[2]、残りの人質を乗せたままハイジャック機は離陸、クウェートとシリアのダマスカスを経て人質17名を解放、アルジェリアのダル・エル・ペイダ空港に着陸し、同国当局の管理下に置かれた。日本赤軍がアルジェリアを選んだのはアルジェリアがハイジャック防止条約を結んでなかったためである。この時点で残りの乗客乗員も全員解放され、事件は終結した。
事件の影響
事件解決に多大な協力を受けた上に、11名の死者を出した軍事クーデターのきっかけを作ったことを受け、事件解決後に日本政府はバングラデシュに謝礼と謝罪の意味を含めて特派使節を送ることとなった。しかし、バングラデシュ政府は日本政府に対し(高尚な思想から)なんら補償や見返り等を求めなかった。
また、この事件における日本の対応は、一部諸外国から「(日本から諸外国への電化製品や自動車などの輸出が急増していたことを受けて)日本はテロまで輸出するのか」などと非難を受けたといわれる。
ただし、当時は欧米各国においても、テロリストの要求を受け入れて、身柄拘束中のテロリストを釈放することが通常であり(例、PFLP旅客機同時ハイジャック事件やハーグ事件、ルフトハンザ航空615便事件などを参照)、日本政府のみがテロに対して弱腰であったわけではない。そのため当時世界各国では、この様な事件に対処する為に対テロ特殊部隊の創設が進められつつある所だった。
このテロリストの要求を受け入れる流れが変わるきっかけとなったのが、ダッカ事件と同じ年に起こったルフトハンザ航空181便ハイジャック事件である。西ドイツ政府は、ミュンヘンオリンピック事件を機に創設された特殊部隊GSG-9を航空機内に突入させ、犯人グループを制圧し、人質を救出した。
同年、日本政府はGSG-9の成功例を参考に、ハイジャック事件に対処する特殊部隊を警視庁と大阪府警察に創設した。また、アメリカ合衆国もGSG-9の突入作戦を教訓として、陸軍にデルタフォースを設立した。
日本警察の特殊部隊は、創設当初、特科中隊もしくは零中隊などと呼ばれており、部隊の存在自体が長期間、非公開とされていたが、1995年に発生した全日空857便ハイジャック事件に出動し、犯人を逮捕、人質を救出したことで世間に知られるようになった。その後、これらの特殊部隊は部隊を増設し、装備を強化した上で、SAT(Special Assault Teamの略称)と呼ばれるようになった。
なおこの事件を報道するニュースをきっかけに、福岡県の結核療養所に入院していた患者が「人質がどうなってしまうのか」で同室の患者と口論となり、ナイフで刺殺してしまったという事件も起こっている。
後日談
[編集] 「モガディシオ事件」
詳細は「ルフトハンザ航空181便ハイジャック事件」を参照
ダッカ日航機ハイジャック事件から、1ヶ月も経たない1977年10月13日、スペイン領マリョルカ島パルマ・デ・マリョルカ発フランクフルト行きのルフトハンザ・ドイツ航空615便(ボーイング737型機)が、『黒い九月』を名乗る西ドイツ赤軍(バーダー・マインホフ・グループ)と、PFLPの混成グループにハイジャックされ、ソマリアのモガディシオに着陸させられた。
テロリストは西ドイツ政府に対して、身代金と政治犯釈放を要求したが、10月17日、ミュンヘンオリンピック事件をきっかけに創設された、西ドイツの特殊部隊「国境警備隊第9グループ(GSG-9)」が航空機に突入し、テロリストを制圧、人質全員を救出した。 なお機長1名がテロリストにより射殺され犠牲となったものの他の乗員乗客は無事だった。西ドイツ赤軍は、内容からしてダッカ日航機ハイジャック事件を参考にしたようだが、GSG-9により制圧される結果となった。
ハイジャック機その後
ハイジャックされたDC-8-62型機(JA8033)はその後日本国内へ戻され、ハイジャック犯人による爆弾の爆発実験により一部が破損した機内トイレの修繕や、機内清掃などが施された後に通常運航へと戻され、1984年まで日本航空で使用された後にメキシコのアエロメヒコ航空へと売却され、1990年代前半まで運行された。
日本航空クアラルンプール墜落事故
「日本航空クアラルンプール墜落事故」を参照
ダッカ事件発生前日、日本航空715便がマレーシアのクアラルンプールへ着陸する途中に空港手前のゴム園に墜落する事故を起こしていた。その為、日本航空は事件と事故の対応に追われていた。
釈放要求されたメンバー・実行犯メンバーのその後
釈放された6人メンバーの内、1986年に泉水博、1996年に城崎勉、1997年に浴田由紀子がそれぞれ身柄拘束されている。また実行犯として丸岡修と西川純が逮捕され、無期懲役判決を受けている。和光晴生はこの事件では訴追されず、別事件で訴追され無期懲役判決を受けている。
2010年現在も奥平純三・大道寺あや子・仁平映は国際指名手配されている。
ハイジャック犯人グループ
丸岡修
和光晴生(?)
佐々木規夫
坂東國男
西川純
元自衛官俳優・今井雅之が被災地でヘドロかき出し 「国会議員全員がやるべき」と苦言も
(シネマトゥデイ - 05月29日 08:00)
今井雅之(50)
1980年4月陸上自衛隊一般曹候補学生
12月今津駐屯地第3戦車大隊
1981年9月退職。 1年6ヶ月間
今井雅之が、東日本大震災の被災地・宮城県仙台市でヘドロのかき出しなどのボランティア活動を行い、被災地の現状や感じたことを率直に語った。
父・兄共に自衛官という家系の今井。今井自身も元自衛官で災害派遣の経験もある。
東日本大震災の2日後に被災地へ派遣された兄や自衛隊時代の後輩たちが危険な任務にあたっていることを聞き、「芸能人としてではなく、いち人間として、日本人としてできることは何か」を自問したという今井。日本という国を愛する心が、自身の付き人や俳優仲間に声を掛け被災地へ足を運び、車での寝泊りを覚悟して支援活動をするきっかけとなった。
知人を通して被災地の情報を得た今井は、4月に2回に分けて活動を行った。
作業日数は実に6日間。特に人手が行き届いていない地区での活動を希望したが、知人から「仙台市内」を指定され驚いたという。
「人手に困っているところといえば、『仙台市』という大きな街ではなく、もっと交通の便が悪いようなところを想像していた。一人で作業せざるを得ないお年寄りを手伝うことを希望したのだが……」と語る今井。
しかし実際に作業を行った仙台市若林地区に到着すると「360度、地平線まで、どこを見渡しても茶色く、がれきの山だった」と目の当たりにした光景にがくぜんとしたという。「こんなところにまで津波がきていたとは」とテレビなどで映像は目にしていたが、今井が作業した現場の近くで、34キロ先に住んでいた方の遺体が見つかるなど、厳しい実情を改めて感じた。
悪臭を放つヘドロのかき出しは想像を絶する重労働だ。「とにかくにおいがきつい。きっと有害な物質も含まれていると思うけど、何時間もすくっては出し、すくっては出しの作業を繰り返していると腰に負担もかかる」と今井は経験した者にしかわからない作業の過酷さを明かす。そして「国会議員全員が視察ではなくヘドロのかき出しをやるべき」と苦言を呈した。
一方で、2回目の活動で一緒になった、若者やマレーシアの留学生が黙々と作業している姿を見て、「日本人だけでなく、同じアジア人として海外の方までもが一つになっていると感じ、温かい気持ちになった」。そんな今井に今、被災地に必要なものを聞いてみると「心のケア」だという。
現地の方とのやりとりで自身が原作・脚本・演出などを手掛け、神風特攻隊を題材とした舞台「THE WINDS OF GOD ~零のかなたへ~」を「ぜひ仙台でやってほしい」との言葉が、もともと予定していた本舞台の仙台公演を自粛せずに実施しようと今井の背中を押した。
今井自ら100人以上に取材して作り上げた「THE WINDS OF GOD ~零のかなたへ~」。売れないコンビ芸人が、タイムスリップして神風特攻隊の隊員と入れ替わるというファンタジックな設定で、「生きる喜び」を描いた作品だ。今井は過酷な状況下にある被災地の方について「これだけの震災に見舞われても譲り合う気持ち、規律を守る姿勢を見て、日本人は何て素晴らしい民族なんだろうと本当に思った」と胸中を明かし、自身が舞台で描くテーマと重ね合わせて「自分のやってきたことは間違いではなかった」と熱く語る。23年前に初演してから、さまざまな批判も受けてきたが、「一番訴えたいのは、電気もつくし、おなかがすいても食べ物に困らない現代の平和に感謝すること。本当にありがたいと思って生きていかなくてはいけない」と力を込めて今井は訴える。「自粛」と「萎縮」は違うとし、落ち込んでいるときほど明るいニュースが東北を活気づけると今井は信じている。「まだまだ困っている方がたくさんいます。特攻隊で家族を失った方もそうですが、今回の震災で家族を失った方の気持ちを100パーセント理解できるわけではないけれど、『生きる喜び』『生かされている喜び』を感じてもらえると思う」と最後は役者だからこそできる支援「心のケア」へ思いを膨らませた。(編集部・小松芙未)
舞台「THE WINDS OF GOD ~零のかなたへ~」2011 JAPAN TOURは11月5日から12月11日まで仙台を含む9か所、17公演を予定。詳細はオフィシャルサイトで確認できる。
今井雅之(50)
1980年4月陸上自衛隊一般曹候補学生
12月今津駐屯地第3戦車大隊
1981年9月退職。 1年6ヶ月間
今井雅之が、東日本大震災の被災地・宮城県仙台市でヘドロのかき出しなどのボランティア活動を行い、被災地の現状や感じたことを率直に語った。
父・兄共に自衛官という家系の今井。今井自身も元自衛官で災害派遣の経験もある。
東日本大震災の2日後に被災地へ派遣された兄や自衛隊時代の後輩たちが危険な任務にあたっていることを聞き、「芸能人としてではなく、いち人間として、日本人としてできることは何か」を自問したという今井。日本という国を愛する心が、自身の付き人や俳優仲間に声を掛け被災地へ足を運び、車での寝泊りを覚悟して支援活動をするきっかけとなった。
知人を通して被災地の情報を得た今井は、4月に2回に分けて活動を行った。
作業日数は実に6日間。特に人手が行き届いていない地区での活動を希望したが、知人から「仙台市内」を指定され驚いたという。
「人手に困っているところといえば、『仙台市』という大きな街ではなく、もっと交通の便が悪いようなところを想像していた。一人で作業せざるを得ないお年寄りを手伝うことを希望したのだが……」と語る今井。
しかし実際に作業を行った仙台市若林地区に到着すると「360度、地平線まで、どこを見渡しても茶色く、がれきの山だった」と目の当たりにした光景にがくぜんとしたという。「こんなところにまで津波がきていたとは」とテレビなどで映像は目にしていたが、今井が作業した現場の近くで、34キロ先に住んでいた方の遺体が見つかるなど、厳しい実情を改めて感じた。
悪臭を放つヘドロのかき出しは想像を絶する重労働だ。「とにかくにおいがきつい。きっと有害な物質も含まれていると思うけど、何時間もすくっては出し、すくっては出しの作業を繰り返していると腰に負担もかかる」と今井は経験した者にしかわからない作業の過酷さを明かす。そして「国会議員全員が視察ではなくヘドロのかき出しをやるべき」と苦言を呈した。
一方で、2回目の活動で一緒になった、若者やマレーシアの留学生が黙々と作業している姿を見て、「日本人だけでなく、同じアジア人として海外の方までもが一つになっていると感じ、温かい気持ちになった」。そんな今井に今、被災地に必要なものを聞いてみると「心のケア」だという。
現地の方とのやりとりで自身が原作・脚本・演出などを手掛け、神風特攻隊を題材とした舞台「THE WINDS OF GOD ~零のかなたへ~」を「ぜひ仙台でやってほしい」との言葉が、もともと予定していた本舞台の仙台公演を自粛せずに実施しようと今井の背中を押した。
今井自ら100人以上に取材して作り上げた「THE WINDS OF GOD ~零のかなたへ~」。売れないコンビ芸人が、タイムスリップして神風特攻隊の隊員と入れ替わるというファンタジックな設定で、「生きる喜び」を描いた作品だ。今井は過酷な状況下にある被災地の方について「これだけの震災に見舞われても譲り合う気持ち、規律を守る姿勢を見て、日本人は何て素晴らしい民族なんだろうと本当に思った」と胸中を明かし、自身が舞台で描くテーマと重ね合わせて「自分のやってきたことは間違いではなかった」と熱く語る。23年前に初演してから、さまざまな批判も受けてきたが、「一番訴えたいのは、電気もつくし、おなかがすいても食べ物に困らない現代の平和に感謝すること。本当にありがたいと思って生きていかなくてはいけない」と力を込めて今井は訴える。「自粛」と「萎縮」は違うとし、落ち込んでいるときほど明るいニュースが東北を活気づけると今井は信じている。「まだまだ困っている方がたくさんいます。特攻隊で家族を失った方もそうですが、今回の震災で家族を失った方の気持ちを100パーセント理解できるわけではないけれど、『生きる喜び』『生かされている喜び』を感じてもらえると思う」と最後は役者だからこそできる支援「心のケア」へ思いを膨らませた。(編集部・小松芙未)
舞台「THE WINDS OF GOD ~零のかなたへ~」2011 JAPAN TOURは11月5日から12月11日まで仙台を含む9か所、17公演を予定。詳細はオフィシャルサイトで確認できる。
【エジプト】 【海外事件簿】
http://sankei.jp.msn.com/world/news/110529/mds11052907000002-n1.htm
【海外事件簿】
宗教対立の引き金 改宗女性の「家庭の事情」とは
2011.5.29 07:00
9日、カイロの国営放送局の前で、キリストの肖像を手にコプト教徒襲撃事件に抗議するコプト教徒ら(AP)
ムバラク前大統領の退陣後のエジプトで、急進的なイスラム教徒と、人口の約1割を占めるとされるキリスト教の一派コプト教徒との衝突が相次いでいる。
5月上旬に首都カイロの貧民街インババ地区で起きたコプト教会襲撃事件では、イスラム教に改宗したとされるコプト女性が教会に幽閉されているとの噂が引き金となり12人の死者を出す惨事に発展した。事件後、女性はテレビの電話インタビューに応じるなどして「改宗」にまつわる事情を語り始めたが、果たして彼女の言葉はどこまでが真実なのか。(カイロ 大内清)
家庭の事情
「夫が暴力を振るうので逃げ出したのです。しかし家族に連れ戻され、教会の施設に閉じ込められていました」
エジプトのかつての過激派「イスラム集団」系ウェブサイトに掲載された動画で、一人の女性が語り始めた。
女性の名はアビール・タラアト・ファクリーさん。イスラム教の預言者ムハンマドの時代への回帰を目指す急進的な「サラフィー主義者」らが、インババの教会に「幽閉」されていたところを「救出」したとしている女性だ。
話の内容を総合すると、中部アシュートのコプト教徒の家庭に生まれ育ったアビールさんは、同じコプト教徒の男性と結婚し、一女をもうけた。
しかし、結婚後しばらくすると夫は彼女に暴力を振るったり暴言を吐いたりし始めた上、子供が望んでいた男児ではなかったことから家にも寄りつかなくなった。
こうした生活に耐えきれなくなったアビールさんは子供を連れて実家に戻り、その後、イスラム教徒の男性ヤシーン・サーベトさんと恋仲となって家出、改宗を決意したという。
ここでポイントとなるのが、コプト教の夫婦は離婚が認められていないことだ。
アビールさんらは、2人が結ばれるためには、アビールさんが改宗することで婚姻関係を無効にするしかない-と考えたとみられる。
アビールさんはその後、家族によって連れ戻され、「インババの教会施設に閉じ込められた」。そして今年5月の事件当日、サーベトさんに電話をかけて居場所を知らせ、サーベトさんからその情報を得たサラフィー主義者らによって助け出されたのだという。
本来ならば「家庭内の不和」で片づけられるはずの問題が、宗教が絡み、噂が独り歩きを始めることで暴動にまで発展する-。ここにエジプトの抱える病巣がある。
棒読み
事件後、いくつかのテレビ番組に電話出演したアビールさんとされる女性は、判で押したように同じ言葉で、事件にいたる経緯を説明した。
だが、それを聞いても、いくつもの疑問が浮かぶ。
あるテレビ番組の司会者が、「幽閉されているのにどうやってサーベトさんに電話がかけられたのか?」と聞くと、アビールさんは「とにかくかけたの!」と怒ってインタビューを打ち切ってしまった。
イスラム集団系サイトに掲載されたアビールさんとされる女性の映像では、女性がしきりに横目で何かを読んでいるような仕草をみせながら事件のあらましを説明している。あるエジプト人ジャーナリストは「台本があってそれを棒読みしている感じ」だと指摘する。
そもそも事件当夜、インババの教会施設にアビールさんはいたのか?
エジプトの治安当局は事件直後、「インババにアビールなる女性はいなかった」とする声明を発表し、事件につながる噂を流布したなどとして恋人のサーベトさんを拘束。その後、アビールさん自身も拘束を受け、現在はカイロの女性刑務所で拘留中だ。事件前後の正確な事実関係は、まだはっきりしていない。
宗教対立が先鋭化
噂が原因で大規模な衝突につながった例はほかにもある。
カイロのコプト教徒が多く住む地区で3月、13人が死亡した暴動では、近隣地区に「イスラム教徒の女性がコプトに拉致された」とのデマが広がり、これに怒った多くのイスラム教徒の若者が暴動に参加した。
この事件で経営する工場が破壊されたコプト教徒の男性は「イスラム教の女性を拉致するなんてあり得ない。けど、コプトをエジプトから排除しようという連中からすれば、噂が本当かどうかは関係ないんだ」と怒りをぶちまけた。
「噂に踊らされていては、宗教対立を煽ろうとする一部のサラフィー主義者の思うつぼなのに…」。前出のジャーナリストはこう嘆き、イスラム教徒とコプト教徒の対立がさらに先鋭化しかねない現状に警告を発している。
【海外事件簿】
宗教対立の引き金 改宗女性の「家庭の事情」とは
2011.5.29 07:00
9日、カイロの国営放送局の前で、キリストの肖像を手にコプト教徒襲撃事件に抗議するコプト教徒ら(AP)
ムバラク前大統領の退陣後のエジプトで、急進的なイスラム教徒と、人口の約1割を占めるとされるキリスト教の一派コプト教徒との衝突が相次いでいる。
5月上旬に首都カイロの貧民街インババ地区で起きたコプト教会襲撃事件では、イスラム教に改宗したとされるコプト女性が教会に幽閉されているとの噂が引き金となり12人の死者を出す惨事に発展した。事件後、女性はテレビの電話インタビューに応じるなどして「改宗」にまつわる事情を語り始めたが、果たして彼女の言葉はどこまでが真実なのか。(カイロ 大内清)
家庭の事情
「夫が暴力を振るうので逃げ出したのです。しかし家族に連れ戻され、教会の施設に閉じ込められていました」
エジプトのかつての過激派「イスラム集団」系ウェブサイトに掲載された動画で、一人の女性が語り始めた。
女性の名はアビール・タラアト・ファクリーさん。イスラム教の預言者ムハンマドの時代への回帰を目指す急進的な「サラフィー主義者」らが、インババの教会に「幽閉」されていたところを「救出」したとしている女性だ。
話の内容を総合すると、中部アシュートのコプト教徒の家庭に生まれ育ったアビールさんは、同じコプト教徒の男性と結婚し、一女をもうけた。
しかし、結婚後しばらくすると夫は彼女に暴力を振るったり暴言を吐いたりし始めた上、子供が望んでいた男児ではなかったことから家にも寄りつかなくなった。
こうした生活に耐えきれなくなったアビールさんは子供を連れて実家に戻り、その後、イスラム教徒の男性ヤシーン・サーベトさんと恋仲となって家出、改宗を決意したという。
ここでポイントとなるのが、コプト教の夫婦は離婚が認められていないことだ。
アビールさんらは、2人が結ばれるためには、アビールさんが改宗することで婚姻関係を無効にするしかない-と考えたとみられる。
アビールさんはその後、家族によって連れ戻され、「インババの教会施設に閉じ込められた」。そして今年5月の事件当日、サーベトさんに電話をかけて居場所を知らせ、サーベトさんからその情報を得たサラフィー主義者らによって助け出されたのだという。
本来ならば「家庭内の不和」で片づけられるはずの問題が、宗教が絡み、噂が独り歩きを始めることで暴動にまで発展する-。ここにエジプトの抱える病巣がある。
棒読み
事件後、いくつかのテレビ番組に電話出演したアビールさんとされる女性は、判で押したように同じ言葉で、事件にいたる経緯を説明した。
だが、それを聞いても、いくつもの疑問が浮かぶ。
あるテレビ番組の司会者が、「幽閉されているのにどうやってサーベトさんに電話がかけられたのか?」と聞くと、アビールさんは「とにかくかけたの!」と怒ってインタビューを打ち切ってしまった。
イスラム集団系サイトに掲載されたアビールさんとされる女性の映像では、女性がしきりに横目で何かを読んでいるような仕草をみせながら事件のあらましを説明している。あるエジプト人ジャーナリストは「台本があってそれを棒読みしている感じ」だと指摘する。
そもそも事件当夜、インババの教会施設にアビールさんはいたのか?
エジプトの治安当局は事件直後、「インババにアビールなる女性はいなかった」とする声明を発表し、事件につながる噂を流布したなどとして恋人のサーベトさんを拘束。その後、アビールさん自身も拘束を受け、現在はカイロの女性刑務所で拘留中だ。事件前後の正確な事実関係は、まだはっきりしていない。
宗教対立が先鋭化
噂が原因で大規模な衝突につながった例はほかにもある。
カイロのコプト教徒が多く住む地区で3月、13人が死亡した暴動では、近隣地区に「イスラム教徒の女性がコプトに拉致された」とのデマが広がり、これに怒った多くのイスラム教徒の若者が暴動に参加した。
この事件で経営する工場が破壊されたコプト教徒の男性は「イスラム教の女性を拉致するなんてあり得ない。けど、コプトをエジプトから排除しようという連中からすれば、噂が本当かどうかは関係ないんだ」と怒りをぶちまけた。
「噂に踊らされていては、宗教対立を煽ろうとする一部のサラフィー主義者の思うつぼなのに…」。前出のジャーナリストはこう嘆き、イスラム教徒とコプト教徒の対立がさらに先鋭化しかねない現状に警告を発している。
【笠原健の信州読解】
【笠原健の信州読解】
石油を絶たれた70年前の日本は、日米開戦に踏み切るか懊悩していた
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110529/stt11052907000000-n1.htm
2011.5.29 07:00
東京電力福島第1原子力発電所の事故はいまだに収束が見通せないどころか、発表が二転三転するなど政府の統治能力に疑問符が突きつけられている。
今の政治家にこの国を守る決意は本当にあるのか。
実は70年前の日本もこの命題を突きつけられていた。国の命綱といってもいい、石油を確保するため日米開戦に踏み切るのか。開戦するとしたら、そのタイミングはいつなのか。
どんよりと曇った梅雨空と同じように日本の政府、そして軍の首脳の心は一様に暗かったに違いない。
■「我慢すれば、朝鮮と台湾は残る」
「君は本当にやったほうがいいと思っているのかね。いいかい、ここでやけっぱちで事を構えたら、満州はもちろんのこと、朝鮮も台湾もなくしちゃうことになるんだよ。この際ひとつ我慢をすれば、満州は駄目だが、朝鮮と台湾はうまくいけば残るよ」
この一節は、作家で東京都副知事を務めている猪瀬直樹氏の「空気と戦争」(文春新書)からの引用で、70年前のちょうど今頃、東京の三宅坂から赤坂見附までを歩いている2人の陸軍将校の間でかわされた会話だ。
以下、「空気と戦争」をもとにしながら、当時の日本の雰囲気を探ろう。
70年前の昭和16(1941)年6月、日米関係は日本の中国進出をめぐり極度に緊張していた。事態打開をはかるために日本政府は対米交渉に乗り出していたが、その道は容易に見つからない。
米国が日本への石油輸出を全面禁止
昭和15(1940)年7月に輸出許可品目に石油及び石油製品を追加していたアメリカは翌昭和16(1941)年6月21日に「石油製品輸出許可制」の完全実施に踏み切る。アメリカが対日石油輸出の全面禁止を発表したのは8月1日だが、猪瀬氏によると6月21日以後、日本は一滴の石油も入手できなくなった。
旧陸軍は石炭を液化して石油にする人造石油の開発に着手していたが、それも思うようにはかどっていない。このままでは間違いなくじり貧になる。陸軍省で燃料問題を担当していた2人の将校が陸軍大臣の東條英機中将と大臣室で面会し、陸軍の燃料需給の見通しを説明して、窮状を訴える。6月22日にはヒトラー率いるドイツとスターリンのソ連との間で戦争が始まっていた。
猪瀬氏は東條英機に面会した陸軍中尉で、昭和60(1985)年に回想録「油断の幻影-一技術将校の見た日米開戦の内幕」を出版した当時の技術将校、高橋健夫氏に面会して取材を進めた。
「こうなったら、アメリカとの衝突覚悟で南方に武力で進出するしかないのか?」。陸軍大臣室にいた3人の脳裏にこんな思いが浮かんだとしても不思議ではない。
石油確保のため蘭印に進出
オランダが植民地支配していたインドネシア(オランダ領インドネシア=蘭印)からは石油が産出されていて、アメリカからの輸入が駄目ならば、力ずくで打って出るしかない、というのがほぼ常識になっていた。
大臣室を出た高橋氏は、仕事のことで相談に乗ってもらうことが多かった10歳ほど年長の原田菅雄少佐と帰路、歩きながらなぜ上層部は石油を確保するために軍事行動を起こさないのか、グズグズしていると時機を失ってしまうのではないか、と尋ねる。
冒頭に掲げた言葉は、原田少佐が疑問をぶつけてきた高橋氏に対して投げ返した答えだ。高橋氏が軍人精神を忘れてしまっているといわれるのでは、と切り返すと原田少佐は「だから危ないんだよ。そういう雰囲気が、ますます危ない方向へ国を引っ張っていくんだ」と高橋氏を諭す。
「結局戦争、そして敗けるんだよ」
原田少佐はこう続ける。「大政治家というものは、正しいと自分で信じた場合、国民など黙らしてもその方向へ引っ張っていくものなんだ。その代わり、自分も永遠に黙らされることを覚悟の上でね」と、昔は、身命を賭(と)して国難に当たる政治家がいたが、今はもういないと慨嘆する。
そして「結局、戦争することになるさ。そして敗けるんだよ」と、アメリカとの戦いに突入したあげく、日本は敗北するとの見通しを披露する。
中国大陸からの撤兵、満州からの撤退は絶対にまかりならぬという国内の強硬論に突き上げられたままでは日米交渉の妥結は絶対に無理。
日清戦争に勝利した後、遼東半島を清国に返還するようにロシア、ドイツ、フランスから三国干渉を受けた際、臥薪嘗胆したように、米国や英国から中国大陸の利権を放棄するよう強要されても、歯を食いしばって耐え続ければ、やがて活路を見いだすことはできる、というのが原田少佐の見立てだ。
中国大陸から撤退していたら…
だが、中国大陸からの撤兵や満州からの撤退を切り出した途端、軍部の強硬派の標的や右翼のテロの対象になりかねない。すでに昭和7年には5・15事件が、昭和11年には2・26事件が起きるなど時代は殺伐としていた。
国の針路を誤らぬように正論を唱え続け、政策を実行に移すには命がけで臨む必要があった。
原田少佐の言葉通りに、命がけで事に当たろうという政治家は当時の日本にはいなかった。日本がアメリカとの戦争に踏み切るのは、高橋氏と原田少佐の会話が交わされた日から約半年後の12月8日だ。(長野支局長 笠原健)
石油を絶たれた70年前の日本は、日米開戦に踏み切るか懊悩していた
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110529/stt11052907000000-n1.htm
2011.5.29 07:00
東京電力福島第1原子力発電所の事故はいまだに収束が見通せないどころか、発表が二転三転するなど政府の統治能力に疑問符が突きつけられている。
今の政治家にこの国を守る決意は本当にあるのか。
実は70年前の日本もこの命題を突きつけられていた。国の命綱といってもいい、石油を確保するため日米開戦に踏み切るのか。開戦するとしたら、そのタイミングはいつなのか。
どんよりと曇った梅雨空と同じように日本の政府、そして軍の首脳の心は一様に暗かったに違いない。
■「我慢すれば、朝鮮と台湾は残る」
「君は本当にやったほうがいいと思っているのかね。いいかい、ここでやけっぱちで事を構えたら、満州はもちろんのこと、朝鮮も台湾もなくしちゃうことになるんだよ。この際ひとつ我慢をすれば、満州は駄目だが、朝鮮と台湾はうまくいけば残るよ」
この一節は、作家で東京都副知事を務めている猪瀬直樹氏の「空気と戦争」(文春新書)からの引用で、70年前のちょうど今頃、東京の三宅坂から赤坂見附までを歩いている2人の陸軍将校の間でかわされた会話だ。
以下、「空気と戦争」をもとにしながら、当時の日本の雰囲気を探ろう。
70年前の昭和16(1941)年6月、日米関係は日本の中国進出をめぐり極度に緊張していた。事態打開をはかるために日本政府は対米交渉に乗り出していたが、その道は容易に見つからない。
米国が日本への石油輸出を全面禁止
昭和15(1940)年7月に輸出許可品目に石油及び石油製品を追加していたアメリカは翌昭和16(1941)年6月21日に「石油製品輸出許可制」の完全実施に踏み切る。アメリカが対日石油輸出の全面禁止を発表したのは8月1日だが、猪瀬氏によると6月21日以後、日本は一滴の石油も入手できなくなった。
旧陸軍は石炭を液化して石油にする人造石油の開発に着手していたが、それも思うようにはかどっていない。このままでは間違いなくじり貧になる。陸軍省で燃料問題を担当していた2人の将校が陸軍大臣の東條英機中将と大臣室で面会し、陸軍の燃料需給の見通しを説明して、窮状を訴える。6月22日にはヒトラー率いるドイツとスターリンのソ連との間で戦争が始まっていた。
猪瀬氏は東條英機に面会した陸軍中尉で、昭和60(1985)年に回想録「油断の幻影-一技術将校の見た日米開戦の内幕」を出版した当時の技術将校、高橋健夫氏に面会して取材を進めた。
「こうなったら、アメリカとの衝突覚悟で南方に武力で進出するしかないのか?」。陸軍大臣室にいた3人の脳裏にこんな思いが浮かんだとしても不思議ではない。
石油確保のため蘭印に進出
オランダが植民地支配していたインドネシア(オランダ領インドネシア=蘭印)からは石油が産出されていて、アメリカからの輸入が駄目ならば、力ずくで打って出るしかない、というのがほぼ常識になっていた。
大臣室を出た高橋氏は、仕事のことで相談に乗ってもらうことが多かった10歳ほど年長の原田菅雄少佐と帰路、歩きながらなぜ上層部は石油を確保するために軍事行動を起こさないのか、グズグズしていると時機を失ってしまうのではないか、と尋ねる。
冒頭に掲げた言葉は、原田少佐が疑問をぶつけてきた高橋氏に対して投げ返した答えだ。高橋氏が軍人精神を忘れてしまっているといわれるのでは、と切り返すと原田少佐は「だから危ないんだよ。そういう雰囲気が、ますます危ない方向へ国を引っ張っていくんだ」と高橋氏を諭す。
「結局戦争、そして敗けるんだよ」
原田少佐はこう続ける。「大政治家というものは、正しいと自分で信じた場合、国民など黙らしてもその方向へ引っ張っていくものなんだ。その代わり、自分も永遠に黙らされることを覚悟の上でね」と、昔は、身命を賭(と)して国難に当たる政治家がいたが、今はもういないと慨嘆する。
そして「結局、戦争することになるさ。そして敗けるんだよ」と、アメリカとの戦いに突入したあげく、日本は敗北するとの見通しを披露する。
中国大陸からの撤兵、満州からの撤退は絶対にまかりならぬという国内の強硬論に突き上げられたままでは日米交渉の妥結は絶対に無理。
日清戦争に勝利した後、遼東半島を清国に返還するようにロシア、ドイツ、フランスから三国干渉を受けた際、臥薪嘗胆したように、米国や英国から中国大陸の利権を放棄するよう強要されても、歯を食いしばって耐え続ければ、やがて活路を見いだすことはできる、というのが原田少佐の見立てだ。
中国大陸から撤退していたら…
だが、中国大陸からの撤兵や満州からの撤退を切り出した途端、軍部の強硬派の標的や右翼のテロの対象になりかねない。すでに昭和7年には5・15事件が、昭和11年には2・26事件が起きるなど時代は殺伐としていた。
国の針路を誤らぬように正論を唱え続け、政策を実行に移すには命がけで臨む必要があった。
原田少佐の言葉通りに、命がけで事に当たろうという政治家は当時の日本にはいなかった。日本がアメリカとの戦争に踏み切るのは、高橋氏と原田少佐の会話が交わされた日から約半年後の12月8日だ。(長野支局長 笠原健)
2011年5月28日土曜日
菅首相が多額の寄付した団体 日の丸を引き下ろそうとした過去
(NEWSポストセブン - 05月28日 16:14)
過去に菅直人の資金管理団体「草志会」は、「政権交代をめざす市民の会(以下、市民の会)」という団体に、多額の寄附をしている。
菅の「草志会」からの寄附の額は2007年に5000万円、2008年に1000万円、2009年に250万円と特筆すべき多さである。
ジャーナリストの田村建雄氏が報告する。
* * *
さる政界関係者はこう解説する。
「『市民の会』は、神奈川県厚木市の市議が代表を務め、現民主党衆院議員の後藤祐一氏を支援するために2006年に立ち上げられた団体。平河町にある『市民の党』のメンバーが中心になっていて、実質的には同一団体と見ています」
「市民の会」と「市民の党」の2つの政治資金収支報告書を見ると、多くの同じ名前が重複して登場する。
「市民の会」の代表の厚木市議は「市民の党」の所属議員。2007年の政治資金収支報告書で「市民の会」の収入を見ると、個人からの寄附は、「市民の党」所属の地方議員たち15人と「市民の党」代表である斎藤まさし氏(59)からのみ(総額1880万円)。また、「市民の会」に個人で寄附をしている地方議員15人は全員、「市民の党」にもほぼ同額を寄附している。
「市民の会」からの支出として、「市民の党」所属の地方議員が代表を務める政治団体への数百万円単位の寄附も記載されている。政治資金の受け皿を複数設けて、まるで仲間内で資金を融通し合っているように見受けられる。
06年に「市民の党」代表の斎藤氏が、後藤祐一氏の支援を記者会見で発表。それを受けて、「市民の党」所属地方議員4人が後藤氏を支援する「市民の会」を結成したと報じられている。
菅が多額の寄附をする「市民の会」と、その「市民の会」と極めて近い関係にあると見られる「市民の党」問題は、その先にある。
彼らはどのような団体なのか。菅氏とはどのような関係なのか。民主党関係者はこう証言する。
「市民の党代表の斎藤氏は、もとは学生運動に携わって上智大学を除籍処分になった人物と聞いている。その後もベトナム反戦運動や反公害など様々な市民運動と関わってきた。今も『革命を目指している』と公言する人物だ。故・田英夫参院議員の娘と結婚したと聞く。
選挙との関わりは故・宇都宮徳馬氏を参議院に当選させたのを皮切りに菅総理の選挙運動をも初期の頃から熱心に手伝っていたという。2005年の都議選では、武蔵野市選挙区で民主党と市民の党の間で候補者調整が行なわれ、2人が共同で記者会見を開いたこともあった。斎藤氏は、堂本暁子千葉県知事を誕生させた参謀として、全国紙でもその手腕が紹介されている“市民選挙の神様”。総理とは相当深い仲だと聞く」
「市民の会」はそんな斎藤氏が選挙運動を展開するための組織なのか。
一方で、斎藤氏の「市民の党」は、かなり“反日的”で過激な一面をも持つ。
2002年5月、当時の中田宏横浜市長が施政方針演説をしようとした横浜市議会定例議会。そこで突然、女性市議2人が議場正面に立てられた国旗を引き下ろそうとした。この暴挙に出た市議が、「市民の党」所属議員だったのだ。
この場では、市職員が女性議員たちを強制退場させた。だが、あくまで国旗掲揚に反対の2人は議長に公開質問状で退場命令の説明を求め、回答がなかったなどとし市議会の議長席を約5時間にわたり占拠した。
結果、2人の市議は懲罰委員会で最も重い除名処分。日本では極めて特異な事件として記録されている。
この、日の丸に唾するような暴挙に出た女性市議のうち一人は「市民の会」に1政治団体に対する個人献金の上限である150万円を寄附している。「市民の会」の活動を菅氏と肩を並べて支えている。
今年4月の統一地方選の三鷹市議選に「市民の党」の候補者として出馬した男性は、よど号ハイジャック事件のリーダー・田宮高麿の長男であると報じられている。北朝鮮に亡命した赤軍派リーダーの長男が所属する「市民の党」。
こうした事件や騒動を起こした「市民の党」を公安関係者はこう解説する。
「『市民の党』は、1998年9月に設立された団体だが、同じ所在地に斎藤氏が代表を務める団体として元々あったのが、1982年10月設立の『MPD・平和と民主運動』という政治団体で、そこから派生している。MPDは1983年参院選で比例代表制が導入された際に数多く生まれたミニ政党の一つで、故・田氏らが発起人として名を連ね、MPDは選挙区では田氏を支援していた。
一見穏やかそうに見えながら、一方では、ラジカルな市民運動組織として注目されていた。また、田氏が1989年当時に拉致実行犯容疑者・辛光洙を含む在日韓国人政治犯釈放の要望書に署名するよう菅総理にはたらきかけ、総理が署名した経緯があることは周知のことでしょう。田氏は社民連時代の菅総理の先輩で、2009年に田氏が亡くなった際には『国会での質問の仕方は田さんに教わった』と総理も語っていた。総理と『市民の党』に何らか関係があることは決して不自然ではない」
「市民の会」と「市民の党」の近い関係を考えた時に、結果的に菅氏の寄附が「市民の党」の活動を支える一助になっていないか。国のトップとして国益を守ることができる政治家なのか、脇の甘さは否めない。
さらに「市民の党」周辺を調査していくと、奇妙な事実が浮上する。
冒頭で触れた事務所のある平河町のビル。最上階の9階とその下の8階には、同じ人物が代表を務める貸金業者が入居している。
その代表A氏というのが、朝鮮総連傘下団体である在日本朝鮮青年商工会の会長を務めた人物なのである。
建物の謄本を見ると、ビルが建築されたのは1976年。1991年時点のビルの所有権はA氏が代表を務めた別の不動産会社とその役員にあった。
その後、何らかの原因で資金繰りが苦しくなったのか、1993年にかけ朝銀東京信用組合などの債権者らが次々とこのビルを差し押さえ、競売にかけられた。最終的には97年に都内の不動産会社が落札。とはいえ、ビル名は変わらず、A氏が代表の複数の企業も相変わらずビルの最上階などで営業を継続中だ。そんな総連絡みの物件に、「市民の党」は事務所を構えている。
ある野党関係者はこう言う。
「『市民の党』の前身とも言うべきMPDが平河町のビルに転居してきたのは、94年3月。当時は差し押さえで競売開始決定が出始めた頃。賃貸に際し、調査すればどんな勢力がビルに関わっているかは簡単にわかるし、調査をするのが普通。総連と北朝鮮の関係は言わずもがなだ。政治関係の団体なら避けるのが常識」
しかも転居直後の1994年4月22日、A氏が代表を務めた不動産会社の会長は何者かに拳銃で殺害されている。「殺された会長は当時、“北朝鮮への送金王”とも言われた在日朝鮮人関係者の大物だった」と公安関係者。
それでも「市民の党」は事務所をこのビルに構え続けた。
菅氏は、このような背景を持つ「市民の党」に近いと目される「市民の会」へ巨額の資金提供を、なぜ続けたのか。菅事務所は、「法に則り適正に処理している」と答えるのみ。
「市民の会」は代表の厚木市議が、「団体を立ち上げたのは、政権交代につながる選挙を支えようという趣旨だけ。(菅氏からは)そういう趣旨であればということで寄附を受けた。その他の背景は全くわからない。『市民の党』と『市民の会』は目的が違う。私は国旗引き下ろし事件とは関係ない」と答えた。
とはいえ、「市民の会」が支援していたはずの後藤祐一氏の事務所はこう答える。
「06年の補欠選挙の時は確かに市民の会から応援をいただいた(後藤氏は落選)。09年衆院選の前も市民の会から『応援しましょう』と言われましたが、お断わりしている。それ以降お付き合いもない」
言い分が微妙に食い違う。では、07年の5000万円の菅氏の寄附は何のためなのか。
一方「市民の党」代表の斎藤氏は、「市民の会」がどういう経緯で菅氏から巨額の支援を受けているかについては、「答える立場にない」という返答。「市民の党」の所在ビルには前記のように現在も多くの北朝鮮系の企業がある。その企業との関連を問うと「他の階のそうした企業とは交流も関係もない」とする。
単なる偶然だという「市民の党」の言葉、「市民の党」との関わりについて口を噤む菅事務所に、違和感を持つのは私だけだろうか。
※SAPIO2011年6月15日号
過去に菅直人の資金管理団体「草志会」は、「政権交代をめざす市民の会(以下、市民の会)」という団体に、多額の寄附をしている。
菅の「草志会」からの寄附の額は2007年に5000万円、2008年に1000万円、2009年に250万円と特筆すべき多さである。
ジャーナリストの田村建雄氏が報告する。
* * *
さる政界関係者はこう解説する。
「『市民の会』は、神奈川県厚木市の市議が代表を務め、現民主党衆院議員の後藤祐一氏を支援するために2006年に立ち上げられた団体。平河町にある『市民の党』のメンバーが中心になっていて、実質的には同一団体と見ています」
「市民の会」と「市民の党」の2つの政治資金収支報告書を見ると、多くの同じ名前が重複して登場する。
「市民の会」の代表の厚木市議は「市民の党」の所属議員。2007年の政治資金収支報告書で「市民の会」の収入を見ると、個人からの寄附は、「市民の党」所属の地方議員たち15人と「市民の党」代表である斎藤まさし氏(59)からのみ(総額1880万円)。また、「市民の会」に個人で寄附をしている地方議員15人は全員、「市民の党」にもほぼ同額を寄附している。
「市民の会」からの支出として、「市民の党」所属の地方議員が代表を務める政治団体への数百万円単位の寄附も記載されている。政治資金の受け皿を複数設けて、まるで仲間内で資金を融通し合っているように見受けられる。
06年に「市民の党」代表の斎藤氏が、後藤祐一氏の支援を記者会見で発表。それを受けて、「市民の党」所属地方議員4人が後藤氏を支援する「市民の会」を結成したと報じられている。
菅が多額の寄附をする「市民の会」と、その「市民の会」と極めて近い関係にあると見られる「市民の党」問題は、その先にある。
彼らはどのような団体なのか。菅氏とはどのような関係なのか。民主党関係者はこう証言する。
「市民の党代表の斎藤氏は、もとは学生運動に携わって上智大学を除籍処分になった人物と聞いている。その後もベトナム反戦運動や反公害など様々な市民運動と関わってきた。今も『革命を目指している』と公言する人物だ。故・田英夫参院議員の娘と結婚したと聞く。
選挙との関わりは故・宇都宮徳馬氏を参議院に当選させたのを皮切りに菅総理の選挙運動をも初期の頃から熱心に手伝っていたという。2005年の都議選では、武蔵野市選挙区で民主党と市民の党の間で候補者調整が行なわれ、2人が共同で記者会見を開いたこともあった。斎藤氏は、堂本暁子千葉県知事を誕生させた参謀として、全国紙でもその手腕が紹介されている“市民選挙の神様”。総理とは相当深い仲だと聞く」
「市民の会」はそんな斎藤氏が選挙運動を展開するための組織なのか。
一方で、斎藤氏の「市民の党」は、かなり“反日的”で過激な一面をも持つ。
2002年5月、当時の中田宏横浜市長が施政方針演説をしようとした横浜市議会定例議会。そこで突然、女性市議2人が議場正面に立てられた国旗を引き下ろそうとした。この暴挙に出た市議が、「市民の党」所属議員だったのだ。
この場では、市職員が女性議員たちを強制退場させた。だが、あくまで国旗掲揚に反対の2人は議長に公開質問状で退場命令の説明を求め、回答がなかったなどとし市議会の議長席を約5時間にわたり占拠した。
結果、2人の市議は懲罰委員会で最も重い除名処分。日本では極めて特異な事件として記録されている。
この、日の丸に唾するような暴挙に出た女性市議のうち一人は「市民の会」に1政治団体に対する個人献金の上限である150万円を寄附している。「市民の会」の活動を菅氏と肩を並べて支えている。
今年4月の統一地方選の三鷹市議選に「市民の党」の候補者として出馬した男性は、よど号ハイジャック事件のリーダー・田宮高麿の長男であると報じられている。北朝鮮に亡命した赤軍派リーダーの長男が所属する「市民の党」。
こうした事件や騒動を起こした「市民の党」を公安関係者はこう解説する。
「『市民の党』は、1998年9月に設立された団体だが、同じ所在地に斎藤氏が代表を務める団体として元々あったのが、1982年10月設立の『MPD・平和と民主運動』という政治団体で、そこから派生している。MPDは1983年参院選で比例代表制が導入された際に数多く生まれたミニ政党の一つで、故・田氏らが発起人として名を連ね、MPDは選挙区では田氏を支援していた。
一見穏やかそうに見えながら、一方では、ラジカルな市民運動組織として注目されていた。また、田氏が1989年当時に拉致実行犯容疑者・辛光洙を含む在日韓国人政治犯釈放の要望書に署名するよう菅総理にはたらきかけ、総理が署名した経緯があることは周知のことでしょう。田氏は社民連時代の菅総理の先輩で、2009年に田氏が亡くなった際には『国会での質問の仕方は田さんに教わった』と総理も語っていた。総理と『市民の党』に何らか関係があることは決して不自然ではない」
「市民の会」と「市民の党」の近い関係を考えた時に、結果的に菅氏の寄附が「市民の党」の活動を支える一助になっていないか。国のトップとして国益を守ることができる政治家なのか、脇の甘さは否めない。
さらに「市民の党」周辺を調査していくと、奇妙な事実が浮上する。
冒頭で触れた事務所のある平河町のビル。最上階の9階とその下の8階には、同じ人物が代表を務める貸金業者が入居している。
その代表A氏というのが、朝鮮総連傘下団体である在日本朝鮮青年商工会の会長を務めた人物なのである。
建物の謄本を見ると、ビルが建築されたのは1976年。1991年時点のビルの所有権はA氏が代表を務めた別の不動産会社とその役員にあった。
その後、何らかの原因で資金繰りが苦しくなったのか、1993年にかけ朝銀東京信用組合などの債権者らが次々とこのビルを差し押さえ、競売にかけられた。最終的には97年に都内の不動産会社が落札。とはいえ、ビル名は変わらず、A氏が代表の複数の企業も相変わらずビルの最上階などで営業を継続中だ。そんな総連絡みの物件に、「市民の党」は事務所を構えている。
ある野党関係者はこう言う。
「『市民の党』の前身とも言うべきMPDが平河町のビルに転居してきたのは、94年3月。当時は差し押さえで競売開始決定が出始めた頃。賃貸に際し、調査すればどんな勢力がビルに関わっているかは簡単にわかるし、調査をするのが普通。総連と北朝鮮の関係は言わずもがなだ。政治関係の団体なら避けるのが常識」
しかも転居直後の1994年4月22日、A氏が代表を務めた不動産会社の会長は何者かに拳銃で殺害されている。「殺された会長は当時、“北朝鮮への送金王”とも言われた在日朝鮮人関係者の大物だった」と公安関係者。
それでも「市民の党」は事務所をこのビルに構え続けた。
菅氏は、このような背景を持つ「市民の党」に近いと目される「市民の会」へ巨額の資金提供を、なぜ続けたのか。菅事務所は、「法に則り適正に処理している」と答えるのみ。
「市民の会」は代表の厚木市議が、「団体を立ち上げたのは、政権交代につながる選挙を支えようという趣旨だけ。(菅氏からは)そういう趣旨であればということで寄附を受けた。その他の背景は全くわからない。『市民の党』と『市民の会』は目的が違う。私は国旗引き下ろし事件とは関係ない」と答えた。
とはいえ、「市民の会」が支援していたはずの後藤祐一氏の事務所はこう答える。
「06年の補欠選挙の時は確かに市民の会から応援をいただいた(後藤氏は落選)。09年衆院選の前も市民の会から『応援しましょう』と言われましたが、お断わりしている。それ以降お付き合いもない」
言い分が微妙に食い違う。では、07年の5000万円の菅氏の寄附は何のためなのか。
一方「市民の党」代表の斎藤氏は、「市民の会」がどういう経緯で菅氏から巨額の支援を受けているかについては、「答える立場にない」という返答。「市民の党」の所在ビルには前記のように現在も多くの北朝鮮系の企業がある。その企業との関連を問うと「他の階のそうした企業とは交流も関係もない」とする。
単なる偶然だという「市民の党」の言葉、「市民の党」との関わりについて口を噤む菅事務所に、違和感を持つのは私だけだろうか。
※SAPIO2011年6月15日号
なぜ復興財源に使わない? 92兆円を超える「外貨準備高」とは
(MONEYzine - 05月28日 14:03)
92兆円を超えた日本の「外貨準備高」。
19兆円ともいわれる復興財源に使えないものだろうか。
財務省の発表によると、2011年4月末現在で、日本の外貨準備高は1兆1355億4900万ドル(約92兆6600億円)となった。これは、中国に次ぐ世界第2位となる巨額な資金だ。
それでは、外貨準備高とは一体、何のための資金なのか。
なぜこれ程までの額を保有し、しかも使うことができないのだろうか。
まず、外貨準備高(外貨準備金)とは、政府や中央銀行(日本銀行)が保有する外貨を指す。
目的は大きく分けて2つある。
ひとつは輸入代金決済や債務(借金)などの対外支払いが、困難になった際に使う資金。もうひとつは、急激な円高を防止するために経済の安定をはかるための為替介入資金、いわゆる円売りドル買いに使うのだ。
そしてこの為替介入が莫大な利益、あるいは損失を生む。日本の場合、買ったドルの大半はアメリカ国債の購入に充てられている。当然国債なので金利がつく。つまりアメリカ経済が好調であれば、比例して日本の外貨準備高も増加していくことになる。
しかし、アメリカ経済が悪化し、アメリカ国債の価格が下落すれば損失が生じる。このリスクを避ける手だては、国債を売却すること。とはいえ、世界経済に多大なる影響を持つアメリカの国債である。おいそれとは売ることもできない。したがって使いたくても、使えないのが実情だ。
2011年3月の時点で日本のアメリカ国債保有額は、9079億ドル(約74兆2000億円)に達した。一方で、世界銀行がまとめた報告書によれば、震災復興に際し必要な資金は2350億ドル(約19兆3000億円)となっている。
外貨準備金は、アメリカ国債などほとんどが海外債券のため、国内の経済振興などに自由に使うことができないと、たびたび指摘されてきた。
先の東日本大震災の復興資金の捻出を巡る議論が行われている今こそ、これまで以上に外貨準備金の活用方法を含めた存在意義を、再考すべき時なのかもしれない。
92兆円を超えた日本の「外貨準備高」。
19兆円ともいわれる復興財源に使えないものだろうか。
財務省の発表によると、2011年4月末現在で、日本の外貨準備高は1兆1355億4900万ドル(約92兆6600億円)となった。これは、中国に次ぐ世界第2位となる巨額な資金だ。
それでは、外貨準備高とは一体、何のための資金なのか。
なぜこれ程までの額を保有し、しかも使うことができないのだろうか。
まず、外貨準備高(外貨準備金)とは、政府や中央銀行(日本銀行)が保有する外貨を指す。
目的は大きく分けて2つある。
ひとつは輸入代金決済や債務(借金)などの対外支払いが、困難になった際に使う資金。もうひとつは、急激な円高を防止するために経済の安定をはかるための為替介入資金、いわゆる円売りドル買いに使うのだ。
そしてこの為替介入が莫大な利益、あるいは損失を生む。日本の場合、買ったドルの大半はアメリカ国債の購入に充てられている。当然国債なので金利がつく。つまりアメリカ経済が好調であれば、比例して日本の外貨準備高も増加していくことになる。
しかし、アメリカ経済が悪化し、アメリカ国債の価格が下落すれば損失が生じる。このリスクを避ける手だては、国債を売却すること。とはいえ、世界経済に多大なる影響を持つアメリカの国債である。おいそれとは売ることもできない。したがって使いたくても、使えないのが実情だ。
2011年3月の時点で日本のアメリカ国債保有額は、9079億ドル(約74兆2000億円)に達した。一方で、世界銀行がまとめた報告書によれば、震災復興に際し必要な資金は2350億ドル(約19兆3000億円)となっている。
外貨準備金は、アメリカ国債などほとんどが海外債券のため、国内の経済振興などに自由に使うことができないと、たびたび指摘されてきた。
先の東日本大震災の復興資金の捻出を巡る議論が行われている今こそ、これまで以上に外貨準備金の活用方法を含めた存在意義を、再考すべき時なのかもしれない。
島の争奪を虎視眈々と狙う日本の「準空母」
【中国網】2011年5月27日
島の争奪を虎視眈々と狙う日本の「準空母」
発信時間: 2011-05-27 17:08:23 チャイナネット
発信時間: 2011-05-27 17:08:23 チャイナネット
米ディプロマット誌はこのほど、琉球諸島周辺の重要な海上航路の防衛のため、日本政府はヘリコプター搭載駆逐艦を含む新型艦船を配備する計画だと伝えた。日本の国土防衛戦略ではヘリ搭載駆逐艦を、重要な海域または航路の監視のほか、対潜戦、島嶼戦に用いる。
▽駆逐艦の大型化
「ひゅうが」型駆逐艦
日本の海上自衛隊が長期にわたり琉球諸島沖の海域を掌握する場合、ヘリ搭載駆逐艦が最も適した装備であることは間違いない。今年3月16日、「ひゅうが」型駆逐艦の2番艦「いせ」の引き渡し式と自衛艦旗授与式が横浜市のIHIマリンユナイテッド横浜工場で行われた。これで日本が保有する全通甲板のヘリ搭載駆逐艦は2隻になった。
ひゅうが型ヘリ搭載駆逐艦の基準排水量は1万3500トン、全長197メートル、幅33メートル、速力30ノット、乗員 380人。「発展型シースパロー」対空ミサイル垂直発射装置(VLS)、対潜ミサイル「アスロック」、近接防御火器システム「ファランクス 」2基を装備、ヘリコプターを最大11機搭載し、4機の同時離着陸が可能だ。
ひゅうが型をベースに、日本はさらに大型のヘリコプター搭載駆逐艦を建造。海上自衛隊の次世代22DDH型駆逐艦は全長248メートル、満載排水量2万4000トンで、全通甲板にはヘリ14機を搭載でき、5機の同時離着陸が可能だ。
日本の高官は、「22DDHは駆逐艦としての作戦能力だけでなく、他艦の作戦を支援できるよ支援艦の設計もされている」と説明した。海上自衛隊のヘリコプター搭載駆逐艦を「しらね」型、「おおすみ」型、「ひゅうが」型と見ていくと徐々に大型化し、全体的な設計も空母に近づいているのがわかる。
▽対潜も島奪還も可能
多目的強襲水陸両用艦と違い、日本のヘリコプター搭載駆逐艦の使命は潜水艦の捜索、対艦ミサイルの射程外における敵艦の偵察など単一的だ。そのため日本は多くのヘリコプターを搭載できる大型艦を必要とするようになった。22DDHは就役後、「列島戦」付近の海域を長期巡航し、多くの対潜ヘリコプターを利用して「遠隔哨兵」の役割を果たし、他国の潜水艦と軍艦の活動範囲を狭める。
また、水陸両用の能力を持たない駆逐艦でも「島嶼衝突」に用いることができる。ひゅうが型にはドッグと上陸用舟艇はないが、艦載ヘリで離島に部隊を送ることができる。日本が周辺諸国と争う島嶼の多くは面積が小さく、大規模な水陸両用上陸部隊は活動が難しいため、ヘリをプラットフォームとする垂直上陸方式のほうが実用的だ。海上自衛隊の各艦艇のなかでも全通甲板をもつヘリ搭載駆逐艦は幅広い用途に使える「制海旗艦」といえる。
安全保障問題を専門にする米独立系シンクタンク「グローバル・ セキュリティー」のホームページは、以前、日本の八八艦隊は主に旧ソ連の潜水艦の防衛に配備されていたが、現在は強大化する中国海軍に対抗するためだとの見方を示す。日本が国土防衛戦略を打ち出したということは、中国海軍を抑止するのに「準空母」を使わないとは言い切れないということだ。
「中国網日本語版(チャイナネット)」 2011年5月27日
多目的強襲水陸両用艦と違い、日本のヘリコプター搭載駆逐艦の使命は潜水艦の捜索、対艦ミサイルの射程外における敵艦の偵察など単一的だ。そのため日本は多くのヘリコプターを搭載できる大型艦を必要とするようになった。22DDHは就役後、「列島戦」付近の海域を長期巡航し、多くの対潜ヘリコプターを利用して「遠隔哨兵」の役割を果たし、他国の潜水艦と軍艦の活動範囲を狭める。
また、水陸両用の能力を持たない駆逐艦でも「島嶼衝突」に用いることができる。ひゅうが型にはドッグと上陸用舟艇はないが、艦載ヘリで離島に部隊を送ることができる。日本が周辺諸国と争う島嶼の多くは面積が小さく、大規模な水陸両用上陸部隊は活動が難しいため、ヘリをプラットフォームとする垂直上陸方式のほうが実用的だ。海上自衛隊の各艦艇のなかでも全通甲板をもつヘリ搭載駆逐艦は幅広い用途に使える「制海旗艦」といえる。
安全保障問題を専門にする米独立系シンクタンク「グローバル・ セキュリティー」のホームページは、以前、日本の八八艦隊は主に旧ソ連の潜水艦の防衛に配備されていたが、現在は強大化する中国海軍に対抗するためだとの見方を示す。日本が国土防衛戦略を打ち出したということは、中国海軍を抑止するのに「準空母」を使わないとは言い切れないということだ。
「中国網日本語版(チャイナネット)」 2011年5月27日
体液とは
動物がなんらかの形で体内に持っている液体
生物学的には、動物の体内にあって、組織間や体腔内、あるいは全身に広がった管や循環系の中を満たしているものだけを指す。
一般的には、唾液・汗・精液・尿など、体内外に分泌・排泄される様々な液体も体液と呼ばれることがある。
体液は大きく細胞内液(ICF)と細胞外液(ECF)に分けられるが、細胞内液は体液に含まないことが多い。
細胞外液には、血液やリンパ液、血管の外の細胞間を満たす組織液、および体腔内の体腔液などが含まれる。
狭い意味での体液
血液
リンパ液
組織液(組織間液、細胞間液、間質液)
体腔液
漿膜腔液
胸水
腹水
心嚢液
脳脊髄液(髄液)
関節液(滑液)
眼房水(房水)(→眼圧)
ときに体液と呼ばれるもの
消化液
唾液
胃液
胆汁
膵液
腸液
汗
涙
鼻水
尿
精液
膣液
羊水
乳汁
体液量
ヒトの成人男性において、健常時の全体液(細胞内液+細胞外液)は体重の60%を占める。
内訳は、体重に対して細胞内液が40%、組織液が15%、血液(血漿のみ)・リンパ液が4.5%・体腔液などが0.5%である。
脂肪組織はほとんど水を含まないため、男性に比べて脂肪が多い成人女性では、体重に対する体液の比率が小さくなる(男性の8割ほど)。
体液比は年齢とともに減少していく。新生児で最も高く約78%であるが、これは細胞外液量が多いためである。4歳くらいで成人とほぼ同じ比率になる。一方、老人の体液比は約50%で、これは細胞内液量が減少したことによる。
体液量の測定法
生体の水分代謝の異常を知るためには体液量を測定する必要がある。 日常的には、尿量や尿比重、血液組成などから体液量を推測する間接的な方法を用いるが、より正確に知りたい場合には直接的な方法で測定する。
直接法の中で臨床的に使われる方法としては希釈法がある。これは、すみやかに体内に拡散して代謝や排泄が行われにくい標識物質を一定量投与し、平衡状態に達したときの濃度から各体液量を算出する方法である。
全体液量の測定には、標識物質として細胞内外に均一に分布するアンチピリンや重水が使用される。また細胞外液量測定には、細胞内に移行しないイヌリン、マンニトール、チオ硫酸塩、チオシアン酸ナトリウムなどが標識物質となる。細胞内液量は直接測定できないため、全体液量と細胞外液量との差から求める。
血液量の測定には、アルブミンと結合して血中に長時間残留する色素Evans blueや、51Crなどの放射性同位元素を用いる。組織液量も直接測定できないため、細胞外液量と血液量の差から求める。
体液の組成
細胞内液は細胞質基質として、生命活動の基本となるさまざまな代謝の場となる。 その組成は細胞の種類によってさまざまであるが、電解質に関しては陽イオンとしてカリウムイオン、陰イオンとしてリン酸イオンとタンパク質が多い。
一方、細胞外液は細胞が生きるための環境である。 陽イオンとしてナトリウムイオン、陰イオンとして塩化物イオンが多く含まれ、ほぼ0.9%の食塩水である(生理的食塩水)。これは、生命が生まれた当時の海の環境を体の中に持ち込んだものとみなせるため、内部環境とも呼ばれる。
これらの電解質バランスは一定に保たれ、細胞の浸透圧が維持されている。 またその濃度勾配は、神経細胞の興奮や筋肉の収縮などの際に活動電位を生じさせるために必要となる。
生物学的には、動物の体内にあって、組織間や体腔内、あるいは全身に広がった管や循環系の中を満たしているものだけを指す。
一般的には、唾液・汗・精液・尿など、体内外に分泌・排泄される様々な液体も体液と呼ばれることがある。
体液は大きく細胞内液(ICF)と細胞外液(ECF)に分けられるが、細胞内液は体液に含まないことが多い。
細胞外液には、血液やリンパ液、血管の外の細胞間を満たす組織液、および体腔内の体腔液などが含まれる。
狭い意味での体液
血液
リンパ液
組織液(組織間液、細胞間液、間質液)
体腔液
漿膜腔液
胸水
腹水
心嚢液
脳脊髄液(髄液)
関節液(滑液)
眼房水(房水)(→眼圧)
ときに体液と呼ばれるもの
消化液
唾液
胃液
胆汁
膵液
腸液
汗
涙
鼻水
尿
精液
膣液
羊水
乳汁
体液量
ヒトの成人男性において、健常時の全体液(細胞内液+細胞外液)は体重の60%を占める。
内訳は、体重に対して細胞内液が40%、組織液が15%、血液(血漿のみ)・リンパ液が4.5%・体腔液などが0.5%である。
脂肪組織はほとんど水を含まないため、男性に比べて脂肪が多い成人女性では、体重に対する体液の比率が小さくなる(男性の8割ほど)。
体液比は年齢とともに減少していく。新生児で最も高く約78%であるが、これは細胞外液量が多いためである。4歳くらいで成人とほぼ同じ比率になる。一方、老人の体液比は約50%で、これは細胞内液量が減少したことによる。
体液量の測定法
生体の水分代謝の異常を知るためには体液量を測定する必要がある。 日常的には、尿量や尿比重、血液組成などから体液量を推測する間接的な方法を用いるが、より正確に知りたい場合には直接的な方法で測定する。
直接法の中で臨床的に使われる方法としては希釈法がある。これは、すみやかに体内に拡散して代謝や排泄が行われにくい標識物質を一定量投与し、平衡状態に達したときの濃度から各体液量を算出する方法である。
全体液量の測定には、標識物質として細胞内外に均一に分布するアンチピリンや重水が使用される。また細胞外液量測定には、細胞内に移行しないイヌリン、マンニトール、チオ硫酸塩、チオシアン酸ナトリウムなどが標識物質となる。細胞内液量は直接測定できないため、全体液量と細胞外液量との差から求める。
血液量の測定には、アルブミンと結合して血中に長時間残留する色素Evans blueや、51Crなどの放射性同位元素を用いる。組織液量も直接測定できないため、細胞外液量と血液量の差から求める。
体液の組成
細胞内液は細胞質基質として、生命活動の基本となるさまざまな代謝の場となる。 その組成は細胞の種類によってさまざまであるが、電解質に関しては陽イオンとしてカリウムイオン、陰イオンとしてリン酸イオンとタンパク質が多い。
一方、細胞外液は細胞が生きるための環境である。 陽イオンとしてナトリウムイオン、陰イオンとして塩化物イオンが多く含まれ、ほぼ0.9%の食塩水である(生理的食塩水)。これは、生命が生まれた当時の海の環境を体の中に持ち込んだものとみなせるため、内部環境とも呼ばれる。
これらの電解質バランスは一定に保たれ、細胞の浸透圧が維持されている。 またその濃度勾配は、神経細胞の興奮や筋肉の収縮などの際に活動電位を生じさせるために必要となる。
2011年5月27日金曜日
【空自松島救難隊】 国民のために飛ぶ
被災した救難隊「一緒に飛ばせてください!」
★桜林美佐「東日本大震災と自衛隊」
2011.05.27
震災が起きた日から、多くの被災者を救うことになったのは、空からの救助だった。
その主体となるはずだったのが、航空自衛隊松島基地に所在する松島救難隊である。
しかし、救難ヘリUH-60Jなどが水没したため、1機たりとも飛び立つことができなかった。
「今、すぐに向かわなければ間に合わない…」
生存者を救出できるタイムリミットを考えると、ヘリさえあれば…。
その思いで気は焦るばかりだった。
自分たちの愛機が目の前で流され、壁にたたきつけられたショック、自家用車も押しつぶした津波の恐怖がまだまぶたに残っている。家族の安否さえ分からないままだ。
しかし、彼らには
「こんな時に飛べないなんて」
「今まで何のために厳しい訓練を重ねてきたんだ」という、やりきれない思いしかなかった。
その時、他基地から救援のヘリがたどり着いた。
「来てくれた!」
佐々野真救難隊長は隊員を集合させた。
「家族が被災してない者、独身者、電話がつながった者を中心にクルーを編成する!」 移動手段さえあれば、どこかの救難隊に臨時編入させることができると考えついたのだ。
隊員たちがざわめいた。
「隊長! 私も行かせてください」
隊長は胸が熱くなった。
意気消沈している者などいなかった。
「助けたい」という気持ちが何にも勝っていた。
「われわれを乗せていってくれ!」
救援物資輸送で基地に降りたCH-47(チヌーク)を引きとめた。
このヘリに便乗し、まずは、航空救難団本部がある入間基地まで運んでもらおうという算段だ。
突然の要請に司令部との調整は混乱した。
「そんなニーズはあるのか?」と言われたが、必死の説得に、それ以上は問われなかった。
他の救難ヘリは夜通し飛んでいるのだ。
今、細かい手続きや説明をしている余裕はない。
半ば力ずくで80人の隊員のうち12人を向かわせた。
12人の松島救難隊員は、入間からさらに百里基地に移動し、翌朝から百里救難隊に臨時勤務する形で活動することになった。
「よく来てくれた…」 彼らの姿を見て、百里基地では驚愕していたが、快く受け入れてくれた。
「一緒に飛ばせてください! 燃料が続く限り」
それから不休の救出作戦が始まった。
一方、陸上自衛隊の航空部隊も壮絶な救出劇を繰り広げていた。
★桜林美佐「東日本大震災と自衛隊」
2011.05.27
震災が起きた日から、多くの被災者を救うことになったのは、空からの救助だった。
その主体となるはずだったのが、航空自衛隊松島基地に所在する松島救難隊である。
しかし、救難ヘリUH-60Jなどが水没したため、1機たりとも飛び立つことができなかった。
「今、すぐに向かわなければ間に合わない…」
生存者を救出できるタイムリミットを考えると、ヘリさえあれば…。
その思いで気は焦るばかりだった。
自分たちの愛機が目の前で流され、壁にたたきつけられたショック、自家用車も押しつぶした津波の恐怖がまだまぶたに残っている。家族の安否さえ分からないままだ。
しかし、彼らには
「こんな時に飛べないなんて」
「今まで何のために厳しい訓練を重ねてきたんだ」という、やりきれない思いしかなかった。
その時、他基地から救援のヘリがたどり着いた。
「来てくれた!」
佐々野真救難隊長は隊員を集合させた。
「家族が被災してない者、独身者、電話がつながった者を中心にクルーを編成する!」 移動手段さえあれば、どこかの救難隊に臨時編入させることができると考えついたのだ。
隊員たちがざわめいた。
「隊長! 私も行かせてください」
隊長は胸が熱くなった。
意気消沈している者などいなかった。
「助けたい」という気持ちが何にも勝っていた。
「われわれを乗せていってくれ!」
救援物資輸送で基地に降りたCH-47(チヌーク)を引きとめた。
このヘリに便乗し、まずは、航空救難団本部がある入間基地まで運んでもらおうという算段だ。
突然の要請に司令部との調整は混乱した。
「そんなニーズはあるのか?」と言われたが、必死の説得に、それ以上は問われなかった。
他の救難ヘリは夜通し飛んでいるのだ。
今、細かい手続きや説明をしている余裕はない。
半ば力ずくで80人の隊員のうち12人を向かわせた。
12人の松島救難隊員は、入間からさらに百里基地に移動し、翌朝から百里救難隊に臨時勤務する形で活動することになった。
「よく来てくれた…」 彼らの姿を見て、百里基地では驚愕していたが、快く受け入れてくれた。
「一緒に飛ばせてください! 燃料が続く限り」
それから不休の救出作戦が始まった。
一方、陸上自衛隊の航空部隊も壮絶な救出劇を繰り広げていた。
【隠れ巨乳】 小郷知子アナ(32)
05/07 17:00
NHK女子アナに大変化! 美人度重視“隠れ巨乳”も
井上あさひアナ(写真提供 産経新聞社)
NHKの女性アナウンサーの容姿が知らず知らずのうちに、変わっているのをご存じだろうか。
民放の30代男性アナが、こう明かす。
「最近は民放よりも美人が多いし、化粧も派手になっている。NHKでは教養よりも美人度重視に移行しているように思えてなりません」
確かに4月の改編あたりを機に美人が増えた。
「ニュースウオッチ9」の大越健介キャスター(49)の隣に座って4月からニュースを読む井上あさひアナ(29)=お茶の水女子大卒=は、髪の毛を肩まで伸ばし、女優と間違えるほどの端正な顔立ち。同番組のスポーツキャスター、廣瀬智美アナ(29)=津田塾大卒=は健康美人だ。与田剛氏(野球解説者)と「サンデースポーツ」の司会を2年間担当した後、平日のゴールデンタイムに“昇格”した形だ。
「おはよう日本」で、さわやかな笑顔を見せる鈴木奈穂子アナ(29)=法政大卒=には、アイドル的要素も。「毎日、髪の毛をアップにしておしゃれなお嬢さん風。ちょっと太目の脚も愛嬌がある」(女子アナウオッチャー)
「NHKニュース7」も大きく変わった。月曜から金曜までは、メーンキャスターを主婦層に人気のイケメン、武田真一アナ(43)が務め、その隣ではサブキャスターを久保田祐佳アナ(28)=慶応大卒=と守本奈実アナ(30)=学習院大卒=の両美人が交代で受け持つ。久保田アナは、初任地の静岡放送局時代に入局2年目で知的バラエティー番組「解体新ショー」の司会に抜擢されたほどのホープだ。
極めつけは、「ニュース7」の土日担当メーンキャスター、小郷知子アナ(32)=早大卒=で、「美人度は局内でもトップクラスの新・おやじキラー。トチることも少ない正統派でありながら、『YAHOO!知恵袋』で“隠れ巨乳”の指摘もある。同時間帯の視聴率を2~3%上げたのでは、とも言われている」(先の女子アナウオッチャー)。
NHKで女性がメーンキャスターを務めるのは森田美由紀アナ(51)以来12年ぶりというから、期待の大きさがわかる。
こうした変化のワケを芸能評論家の肥留間正明氏が解説する。
「小じわやシミまでズバリ映してしまう地上波デジタル時代の本格的な到来と無縁ではないでしょう。抜擢された美人アナの中には、民放の美人アナと肩を並べて“地デジ大使”を務めた人物も多い。かつてNHKといえば、森田美由紀アナ(北海道大卒)や渡邊あゆみアナ(東大卒)のように国立大卒の堅実で個性的な人が多かった。今は私大が圧倒していて、基準が民放並みになりつつある」
もっとも、美人が反感を買いそうな主婦層の視聴者が多い「あさイチ」には、「V6」井ノ原快彦(34)と、愛きょうのある有働由美子アナ(42)を配して、ワイドショー的な色彩へのチェンジに成功。冒頭の民放アナは、「これじゃ“民業圧迫”ですよ」とボヤくことしきりだ。
NHK女子アナに大変化! 美人度重視“隠れ巨乳”も
井上あさひアナ(写真提供 産経新聞社)
NHKの女性アナウンサーの容姿が知らず知らずのうちに、変わっているのをご存じだろうか。
民放の30代男性アナが、こう明かす。
「最近は民放よりも美人が多いし、化粧も派手になっている。NHKでは教養よりも美人度重視に移行しているように思えてなりません」
確かに4月の改編あたりを機に美人が増えた。
「ニュースウオッチ9」の大越健介キャスター(49)の隣に座って4月からニュースを読む井上あさひアナ(29)=お茶の水女子大卒=は、髪の毛を肩まで伸ばし、女優と間違えるほどの端正な顔立ち。同番組のスポーツキャスター、廣瀬智美アナ(29)=津田塾大卒=は健康美人だ。与田剛氏(野球解説者)と「サンデースポーツ」の司会を2年間担当した後、平日のゴールデンタイムに“昇格”した形だ。
「おはよう日本」で、さわやかな笑顔を見せる鈴木奈穂子アナ(29)=法政大卒=には、アイドル的要素も。「毎日、髪の毛をアップにしておしゃれなお嬢さん風。ちょっと太目の脚も愛嬌がある」(女子アナウオッチャー)
「NHKニュース7」も大きく変わった。月曜から金曜までは、メーンキャスターを主婦層に人気のイケメン、武田真一アナ(43)が務め、その隣ではサブキャスターを久保田祐佳アナ(28)=慶応大卒=と守本奈実アナ(30)=学習院大卒=の両美人が交代で受け持つ。久保田アナは、初任地の静岡放送局時代に入局2年目で知的バラエティー番組「解体新ショー」の司会に抜擢されたほどのホープだ。
極めつけは、「ニュース7」の土日担当メーンキャスター、小郷知子アナ(32)=早大卒=で、「美人度は局内でもトップクラスの新・おやじキラー。トチることも少ない正統派でありながら、『YAHOO!知恵袋』で“隠れ巨乳”の指摘もある。同時間帯の視聴率を2~3%上げたのでは、とも言われている」(先の女子アナウオッチャー)。
NHKで女性がメーンキャスターを務めるのは森田美由紀アナ(51)以来12年ぶりというから、期待の大きさがわかる。
こうした変化のワケを芸能評論家の肥留間正明氏が解説する。
「小じわやシミまでズバリ映してしまう地上波デジタル時代の本格的な到来と無縁ではないでしょう。抜擢された美人アナの中には、民放の美人アナと肩を並べて“地デジ大使”を務めた人物も多い。かつてNHKといえば、森田美由紀アナ(北海道大卒)や渡邊あゆみアナ(東大卒)のように国立大卒の堅実で個性的な人が多かった。今は私大が圧倒していて、基準が民放並みになりつつある」
もっとも、美人が反感を買いそうな主婦層の視聴者が多い「あさイチ」には、「V6」井ノ原快彦(34)と、愛きょうのある有働由美子アナ(42)を配して、ワイドショー的な色彩へのチェンジに成功。冒頭の民放アナは、「これじゃ“民業圧迫”ですよ」とボヤくことしきりだ。
日本の自彊不息力が弱まっていないか?
【日経ビジネス】
日本の自彊不息力が弱まっていないか?
「自ら努め励んで休まない」ことの大切さ
宮田 秀明
私の研究室は、普通の大学の研究室、東大の他の研究室とは違うところがある。私の研究室は独立した建物の中にあるのだ。日本海軍の外郭団体である海防義会の寄付によって、1936年(昭和11年)に船型試験水槽が建設された。長さ86mのプールのような水槽で、精密な船の実験ができる。翌1937年にその実験施設に連結して建設したのが研究棟である。昭和10年代に建設された本郷構内のたくさんの建物と統一して設計されているので、ゴシック風の趣のある建物だ。
このゴシック風の2階建研究棟の2階に学生がいて、私は1階にいる。私はこの1200平方メートルばかりの研究室を30年以上管理運営してきた。あまりに古い施設なので、大学が面倒を見てくれるのは建物の外装くらい。このため、この広い施設の管理運営を一研究室の予算で賄うのはけっこう大変なことだ。私がたくさんの産学連携プロジェクトをずっと行っている理由の一つはここにある。民間企業から継続的に寄付を頂いてこの施設を維持することが、東大のほかの教員にはない使命になっている。
船型試験水槽の建設を主導したのは、当時の工学部長、平賀譲教授だった。海軍から来た人で、軍艦設計で有名な方だった。当時の工学部船舶工学科は海軍と密接につながっていた。学科の成績優秀なトップ5人は、3年生の時から海軍から奨学金をもらって学び、海軍技術将校への道を選んだ。戦艦大和に至るまで、日本の軍艦技術を支えていたのは彼らだった。
アメリカズカップのプロジェクトを行った時も、ここが中心になった。船体形状の設計は、2階でコンピューター・シミュレーションを行い、1階で実験を行う。これを3年以上繰り返した。
近年まれな、真面目な学生たち
今はここで環境プロジェクトと小売流通業のプロジェクトを行っている。ちょうど50%ずつくらいの力の入れようだ。
研究棟の2階の入口に、6つのデスクを向かい合わせに置いている。2010年度は、そこに4年生が6人居た。このうち3人の研究テーマが環境プロジェクトに関連していて、残りの3人が小売流通業の進化プロジェクトに関連していた。
最近の学生は大学に居ないことが多い。パソコンとネットワークがあるので、自宅でできることが多いからだ。ところが、この4年生6人は、毎日午後からだが、仲良くそろって研究していることが多かった。夕食も6人そろって食べに行くので、まだ時間に余裕のあるころは、私が食事に誘いたくなることもあった。
つまりこの4年生6人はそろって、近年稀に見る真面目な学生だったのである。真面目に勉強を続ける、これは人が成長するための基本だと思う。大学も、職業も、年齢も、国も問わない。真面目に勉強を続ける人が成長し、企業を支え、国を支える。
自ら努め励んで休まない
私が松山の実家で中高時代の学生生活を送っていた時、勉強机の上に徳富健次郎(蘆花)の扇面を表装した額があった。「自彊不息」と書かれている。為書があって、楠正雄君為とある。徳富蘆花が、明治大学の弁論部員だった私の母方の祖父のために書いたものである。祖父は社会人になって横浜正金銀行に勤務したのだが、この時は学生だったのだと思う。徳富蘆花は相手が学生だったから、こんな言葉を贈ったのだろう。
「自彊不息」とは、自ら努め励んで休まないという意味である。易経が出典のようだ。ある分野をマスターするために努力する場合も、プロジェクトの創造に挑戦し続ける場合も、このことが共通して大切だ。
もし私が色々なプロジェクトで成果を出したとすれば、最大の秘訣は「自彊不息」をモットーにしていたからかもしれない。大きな成果を生み出すための素質とかDNAを、生まれながらに持っていたかと言うと、それは絶対に違うと思う。
中学校に入ってから2年間は、成績が振るわなかった。ところが、中学3年になった時、英語に対してだけだが「自彊不息」を実行した。毎日4~5時間、英語の勉強をした。英会話を習い、英単語を覚え、英文法の例文を覚え、英語の小説を読んだ。こうして東大へ入学するための能力の一つを養った。
大学院修士課程では、1年半の間に5000時間集中して研究し、ほとんど博士論文のような修士論文が完成した。5000時間は1日10時間で1年半集中するということだ。この修士論文の発表を聞いた隣の研究室の乾崇夫先生が、卒業後5年目に私を東大に誘ってくれた。修士課程で実行した1年半の「自彊不息」が、今から思えば素晴らしい人生の入口を拓いてくれたのだ。
それ以後も同じことの連続だった。「自彊不息」は私が仕事に向かう時の習慣的な姿勢になった。アメリカズカップのプロジェクトでも同じだった。環境エネルギープロジェクトに挑戦している今も全く変わらない気持ちでいる。
国の力は、国民の“自彊不息力”の積分値
「自彊不息」は私だけではなく、日本人の優れた特性だ。国民の「自彊不息」の姿勢の強さを積分したものが、国力の重要な部分を占めるのではないだろうか。たいへん失礼かもしれないが、低開発国が貧しい国から脱出できない理由の一つは、この力が不十分だからではないだろうか。明治時代に日本が急成長した理由の一つも「自彊不息」ではないだろうか。
しかし、昨今この優れた特性が少し弱くなっているような気がする。ネットを使ったカンニング事件は特殊な例かもしれないが、最小の努力で成果を出そうというような「自彊不息」の気持ちとは逆の気持ちの人が増えていないだろうか。中国や韓国の人々が、学校教育や社会人になってからの教育の中で、日本人以上または日本人に近い「自彊不息」の気持ちを強めてきているとすれば、日本にとっては厳しい闘いになるだろう。
冒頭の6人の4年生に「自彊不息」の姿を見た。人生に曲がり角を迎えた時、国の成長が曲がり角にさしかかった時、一つの有力な戦略は「自彊不息」の気持ちを強めることではないだろうか。
日本の自彊不息力が弱まっていないか?
「自ら努め励んで休まない」ことの大切さ
宮田 秀明
私の研究室は、普通の大学の研究室、東大の他の研究室とは違うところがある。私の研究室は独立した建物の中にあるのだ。日本海軍の外郭団体である海防義会の寄付によって、1936年(昭和11年)に船型試験水槽が建設された。長さ86mのプールのような水槽で、精密な船の実験ができる。翌1937年にその実験施設に連結して建設したのが研究棟である。昭和10年代に建設された本郷構内のたくさんの建物と統一して設計されているので、ゴシック風の趣のある建物だ。
このゴシック風の2階建研究棟の2階に学生がいて、私は1階にいる。私はこの1200平方メートルばかりの研究室を30年以上管理運営してきた。あまりに古い施設なので、大学が面倒を見てくれるのは建物の外装くらい。このため、この広い施設の管理運営を一研究室の予算で賄うのはけっこう大変なことだ。私がたくさんの産学連携プロジェクトをずっと行っている理由の一つはここにある。民間企業から継続的に寄付を頂いてこの施設を維持することが、東大のほかの教員にはない使命になっている。
船型試験水槽の建設を主導したのは、当時の工学部長、平賀譲教授だった。海軍から来た人で、軍艦設計で有名な方だった。当時の工学部船舶工学科は海軍と密接につながっていた。学科の成績優秀なトップ5人は、3年生の時から海軍から奨学金をもらって学び、海軍技術将校への道を選んだ。戦艦大和に至るまで、日本の軍艦技術を支えていたのは彼らだった。
アメリカズカップのプロジェクトを行った時も、ここが中心になった。船体形状の設計は、2階でコンピューター・シミュレーションを行い、1階で実験を行う。これを3年以上繰り返した。
近年まれな、真面目な学生たち
今はここで環境プロジェクトと小売流通業のプロジェクトを行っている。ちょうど50%ずつくらいの力の入れようだ。
研究棟の2階の入口に、6つのデスクを向かい合わせに置いている。2010年度は、そこに4年生が6人居た。このうち3人の研究テーマが環境プロジェクトに関連していて、残りの3人が小売流通業の進化プロジェクトに関連していた。
最近の学生は大学に居ないことが多い。パソコンとネットワークがあるので、自宅でできることが多いからだ。ところが、この4年生6人は、毎日午後からだが、仲良くそろって研究していることが多かった。夕食も6人そろって食べに行くので、まだ時間に余裕のあるころは、私が食事に誘いたくなることもあった。
つまりこの4年生6人はそろって、近年稀に見る真面目な学生だったのである。真面目に勉強を続ける、これは人が成長するための基本だと思う。大学も、職業も、年齢も、国も問わない。真面目に勉強を続ける人が成長し、企業を支え、国を支える。
自ら努め励んで休まない
私が松山の実家で中高時代の学生生活を送っていた時、勉強机の上に徳富健次郎(蘆花)の扇面を表装した額があった。「自彊不息」と書かれている。為書があって、楠正雄君為とある。徳富蘆花が、明治大学の弁論部員だった私の母方の祖父のために書いたものである。祖父は社会人になって横浜正金銀行に勤務したのだが、この時は学生だったのだと思う。徳富蘆花は相手が学生だったから、こんな言葉を贈ったのだろう。
「自彊不息」とは、自ら努め励んで休まないという意味である。易経が出典のようだ。ある分野をマスターするために努力する場合も、プロジェクトの創造に挑戦し続ける場合も、このことが共通して大切だ。
もし私が色々なプロジェクトで成果を出したとすれば、最大の秘訣は「自彊不息」をモットーにしていたからかもしれない。大きな成果を生み出すための素質とかDNAを、生まれながらに持っていたかと言うと、それは絶対に違うと思う。
中学校に入ってから2年間は、成績が振るわなかった。ところが、中学3年になった時、英語に対してだけだが「自彊不息」を実行した。毎日4~5時間、英語の勉強をした。英会話を習い、英単語を覚え、英文法の例文を覚え、英語の小説を読んだ。こうして東大へ入学するための能力の一つを養った。
大学院修士課程では、1年半の間に5000時間集中して研究し、ほとんど博士論文のような修士論文が完成した。5000時間は1日10時間で1年半集中するということだ。この修士論文の発表を聞いた隣の研究室の乾崇夫先生が、卒業後5年目に私を東大に誘ってくれた。修士課程で実行した1年半の「自彊不息」が、今から思えば素晴らしい人生の入口を拓いてくれたのだ。
それ以後も同じことの連続だった。「自彊不息」は私が仕事に向かう時の習慣的な姿勢になった。アメリカズカップのプロジェクトでも同じだった。環境エネルギープロジェクトに挑戦している今も全く変わらない気持ちでいる。
国の力は、国民の“自彊不息力”の積分値
「自彊不息」は私だけではなく、日本人の優れた特性だ。国民の「自彊不息」の姿勢の強さを積分したものが、国力の重要な部分を占めるのではないだろうか。たいへん失礼かもしれないが、低開発国が貧しい国から脱出できない理由の一つは、この力が不十分だからではないだろうか。明治時代に日本が急成長した理由の一つも「自彊不息」ではないだろうか。
しかし、昨今この優れた特性が少し弱くなっているような気がする。ネットを使ったカンニング事件は特殊な例かもしれないが、最小の努力で成果を出そうというような「自彊不息」の気持ちとは逆の気持ちの人が増えていないだろうか。中国や韓国の人々が、学校教育や社会人になってからの教育の中で、日本人以上または日本人に近い「自彊不息」の気持ちを強めてきているとすれば、日本にとっては厳しい闘いになるだろう。
冒頭の6人の4年生に「自彊不息」の姿を見た。人生に曲がり角を迎えた時、国の成長が曲がり角にさしかかった時、一つの有力な戦略は「自彊不息」の気持ちを強めることではないだろうか。
【東京電力】 福島第一原子力発電所長 吉田昌郎
海水注入独断継続の吉田所長はこんな人
海水注入の継続を独断で決めた吉田昌郎所長は、東京工業大大学院で原子核工学を修めて、東電に入社以来、一貫して原子力畑を歩んできた。
所長就任前の本店・原子力設備管理部長時代には、新潟県中越沖地震で被災した柏崎刈羽原発の復旧に取り組んだ。
4回目の赴任となる福島第一原発を知り尽くしており、細野豪志首相補佐官は「人を引っ張っていく人。事故対応に欠かせない」とそのリーダーシップを評価する。
4月22日、福島第一原発で陣頭指揮をする吉田所長に会った、原子力委員会専門委員で独立総合研究所の青山繁晴社長も「現場の作業に細かく目配りし、上手に統率していた」と語る。
東電関係者によると、本店などとのテレビ会議では、現場の状況を無視した指示に対し、「現場を見てから判断しろ」などと、厳しい口調で主張することが多いという。
現場を大切にする指揮官像が浮かび上がるが、その一方で「本店の言うことを聞かない。自信家」との声もある。
(2011年5月27日07時07分 読売新聞)
東京工業大学大学院 原子核工学修士
東京電力株式会社
本店・原子力設備管理部長
福島第一原子力発電所長/福島第一原発4回目の赴任
海水注入の継続を独断で決めた吉田昌郎所長は、東京工業大大学院で原子核工学を修めて、東電に入社以来、一貫して原子力畑を歩んできた。
所長就任前の本店・原子力設備管理部長時代には、新潟県中越沖地震で被災した柏崎刈羽原発の復旧に取り組んだ。
4回目の赴任となる福島第一原発を知り尽くしており、細野豪志首相補佐官は「人を引っ張っていく人。事故対応に欠かせない」とそのリーダーシップを評価する。
4月22日、福島第一原発で陣頭指揮をする吉田所長に会った、原子力委員会専門委員で独立総合研究所の青山繁晴社長も「現場の作業に細かく目配りし、上手に統率していた」と語る。
東電関係者によると、本店などとのテレビ会議では、現場の状況を無視した指示に対し、「現場を見てから判断しろ」などと、厳しい口調で主張することが多いという。
現場を大切にする指揮官像が浮かび上がるが、その一方で「本店の言うことを聞かない。自信家」との声もある。
(2011年5月27日07時07分 読売新聞)
東京工業大学大学院 原子核工学修士
東京電力株式会社
本店・原子力設備管理部長
福島第一原子力発電所長/福島第一原発4回目の赴任
2011年5月26日木曜日
重要戦犯・ムラジッチ被告逮捕…7千人虐殺指揮
【ローマ=末続哲也】セルビアのタディッチ大統領は26日、ボスニア・ヘルツェゴビナ内戦時のセルビア人武装勢力司令官で、旧ユーゴスラビア国際法廷(オランダ・ハーグ)に起訴され、逃亡していたラトコ・ムラジッチ被告(69)をセルビア国内で逮捕したと発表した。
欧州諸国が「重要戦犯」と見なす同被告の逮捕は、セルビアの欧州連合(EU)加盟の条件とされており、同国のEU加盟に弾みがつく可能性が高い。
タディッチ大統領は記者会見で、ムラジッチ被告の同法廷への引き渡し手続きを進めていることも明らかにしたうえで、「これでセルビアの重荷が取り払われ、われわれの不幸な歴史が終わる」と語った。
ムラジッチ被告は、ボスニア・ヘルツェゴビナ東部スレブレニツァで1995年7月にイスラム教徒7000人以上がセルビア人武装勢力に虐殺された事件を指揮したとして、同年、大量虐殺や人道に対する罪で旧ユーゴ国際法廷に起訴された。
だが、同被告を英雄視するセルビア人は依然多く、同被告の逮捕が遅れる一因と指摘されてきた。
(2011年5月26日21時14分 読売新聞)
欧州諸国が「重要戦犯」と見なす同被告の逮捕は、セルビアの欧州連合(EU)加盟の条件とされており、同国のEU加盟に弾みがつく可能性が高い。
タディッチ大統領は記者会見で、ムラジッチ被告の同法廷への引き渡し手続きを進めていることも明らかにしたうえで、「これでセルビアの重荷が取り払われ、われわれの不幸な歴史が終わる」と語った。
ムラジッチ被告は、ボスニア・ヘルツェゴビナ東部スレブレニツァで1995年7月にイスラム教徒7000人以上がセルビア人武装勢力に虐殺された事件を指揮したとして、同年、大量虐殺や人道に対する罪で旧ユーゴ国際法廷に起訴された。
だが、同被告を英雄視するセルビア人は依然多く、同被告の逮捕が遅れる一因と指摘されてきた。
(2011年5月26日21時14分 読売新聞)
当局に不満持ち連続爆破か 中国江西省 2人死亡
江西省撫州市
1回目午前9時18分 撫州市検察院の駐車場で自動車が爆発 警備員1名が死亡
2回目午前9時29分 臨川区政府ビル1階 四人が負傷 →1人が病院で死亡。1人が現場で死亡
3回目午前9時45分 臨川区食品薬品監督管理局の建物そばに停めていた自動車が爆発
【ロイター】2011年 05月 26日 15:04 JST
中国江西省撫州市の政府庁舎付近3カ所で同時爆発、不満持つ農民の犯行か=新華社";
[北京 26日 ロイター] 新華社によると、26日午前、江西省撫州市の政府庁舎付近の3カ所でほぼ同時に爆発があり、少なくとも5人が負傷、自動車10台が破壊された。
爆発の原因は調査中だが、新華社が地元当局者の話として伝えたところによると、不満を持った農民による犯行とみられる。
新華社によると、現場から100メートル足らず離れた8階建ての検察当局のオフィスビルでは窓の大半が割れた。
現在のところ、撫州市政府のコメントは得られていない。
江西省には爆発物や花火に用いられる鉱山が多くあり、これまでも不満を持った人々や精神状態が不安定な者による爆破事件が起きている。
【朝日】
当局に不満持ち連続爆破か 中国江西省 2人死亡
2011年5月27日3時19分
中国江西省撫州の地元政府などで26日に起きた連続爆破事件で、国営新華社通信は、容疑者が地元の無職男性(52)だったと報じた。地元政府当局は男が強制立ち退きなどで当局の対応に不満を持っていたとみており、事前に爆破を予告していたとの情報もある。
新華社によると、少なくとも2人が死亡、6人が負傷した。容疑者の男も爆発で死亡したという。中国の地方都市では、役人の深刻な腐敗や拡大する収入格差を背景に、市民不満が高まっているが、政府機関での連続爆破は異例。
爆発があったのは撫州の検察庁舎の駐車場、同市臨川区行政センターの建物、同区薬事管理当局庁舎近くの車両。午前9時18分からの約30分間で連続して爆発が起きたという。
検察庁舎の爆発を目撃したタクシー運転手(41)は「車の中で爆発物が発火し、地響きのような爆発音がした。駐車場の車3台が焼け焦げた」と話す。8階建ての庁舎は約50枚のガラスが割れ、地面は赤茶色に焦げた。同区行政センターから500メートル離れたところにいた男性(35)は「驚くほどの爆発音だった」。
爆発前の25日未明、容疑者の男の名前で、強制立ち退きや補償に絡む地元政府幹部の汚職を批判し、「近日中に撫州で起きる爆発のニュースに注目して欲しい」とネット上のミニブログに書き込みがあった。当局が事件との関連を調べている模様だ。
撫州では昨年9月、地元政府による立ち退き命令に反対する住民と当局が衝突。住民1人が死亡、2人がけがをする事件があった。「焼身自殺だった」とも報じられ、立ち退きに絡む当局の強引な手法や腐敗ぶりに批判が集まり、全国で大きな問題になったばかりだった。(撫州=奥寺淳、広州=林望)
1回目午前9時18分 撫州市検察院の駐車場で自動車が爆発 警備員1名が死亡
2回目午前9時29分 臨川区政府ビル1階 四人が負傷 →1人が病院で死亡。1人が現場で死亡
3回目午前9時45分 臨川区食品薬品監督管理局の建物そばに停めていた自動車が爆発
【ロイター】2011年 05月 26日 15:04 JST
中国江西省撫州市の政府庁舎付近3カ所で同時爆発、不満持つ農民の犯行か=新華社";
[北京 26日 ロイター] 新華社によると、26日午前、江西省撫州市の政府庁舎付近の3カ所でほぼ同時に爆発があり、少なくとも5人が負傷、自動車10台が破壊された。
爆発の原因は調査中だが、新華社が地元当局者の話として伝えたところによると、不満を持った農民による犯行とみられる。
新華社によると、現場から100メートル足らず離れた8階建ての検察当局のオフィスビルでは窓の大半が割れた。
現在のところ、撫州市政府のコメントは得られていない。
江西省には爆発物や花火に用いられる鉱山が多くあり、これまでも不満を持った人々や精神状態が不安定な者による爆破事件が起きている。
【朝日】
当局に不満持ち連続爆破か 中国江西省 2人死亡
2011年5月27日3時19分
中国江西省撫州の地元政府などで26日に起きた連続爆破事件で、国営新華社通信は、容疑者が地元の無職男性(52)だったと報じた。地元政府当局は男が強制立ち退きなどで当局の対応に不満を持っていたとみており、事前に爆破を予告していたとの情報もある。
新華社によると、少なくとも2人が死亡、6人が負傷した。容疑者の男も爆発で死亡したという。中国の地方都市では、役人の深刻な腐敗や拡大する収入格差を背景に、市民不満が高まっているが、政府機関での連続爆破は異例。
爆発があったのは撫州の検察庁舎の駐車場、同市臨川区行政センターの建物、同区薬事管理当局庁舎近くの車両。午前9時18分からの約30分間で連続して爆発が起きたという。
検察庁舎の爆発を目撃したタクシー運転手(41)は「車の中で爆発物が発火し、地響きのような爆発音がした。駐車場の車3台が焼け焦げた」と話す。8階建ての庁舎は約50枚のガラスが割れ、地面は赤茶色に焦げた。同区行政センターから500メートル離れたところにいた男性(35)は「驚くほどの爆発音だった」。
爆発前の25日未明、容疑者の男の名前で、強制立ち退きや補償に絡む地元政府幹部の汚職を批判し、「近日中に撫州で起きる爆発のニュースに注目して欲しい」とネット上のミニブログに書き込みがあった。当局が事件との関連を調べている模様だ。
撫州では昨年9月、地元政府による立ち退き命令に反対する住民と当局が衝突。住民1人が死亡、2人がけがをする事件があった。「焼身自殺だった」とも報じられ、立ち退きに絡む当局の強引な手法や腐敗ぶりに批判が集まり、全国で大きな問題になったばかりだった。(撫州=奥寺淳、広州=林望)
学生2千人が抗議行動 中国の内モンゴル
【産経】2011.5.26 01:36
英BBC放送(中国語電子版)などによると、中国の内モンゴル自治区シリンホト市の市庁舎前で25日、モンゴル族の学生ら約2千人が、石炭採掘による環境破壊に反対していた遊牧民がトラックにはねられ死亡したことについて、抗議行動を実施した。
この遊牧民はモンゴル族で、仲間に呼び掛け炭鉱開発に反対するなどしていたが、11日に事故死。殺害を疑う住民が死亡原因の究明などを求め、24日にも抗議し、数人が拘束された。
地元の警察当局は24日、遊牧民をはねたトラックの運転手ら2人を逮捕したと発表した。(共同)
英BBC放送(中国語電子版)などによると、中国の内モンゴル自治区シリンホト市の市庁舎前で25日、モンゴル族の学生ら約2千人が、石炭採掘による環境破壊に反対していた遊牧民がトラックにはねられ死亡したことについて、抗議行動を実施した。
この遊牧民はモンゴル族で、仲間に呼び掛け炭鉱開発に反対するなどしていたが、11日に事故死。殺害を疑う住民が死亡原因の究明などを求め、24日にも抗議し、数人が拘束された。
地元の警察当局は24日、遊牧民をはねたトラックの運転手ら2人を逮捕したと発表した。(共同)
2011年5月25日水曜日
ビンラディン殺害、軍と情報機関の関係強化が成功導く
2011年 5月 25日 16:18 JST
今年1月、米軍の精鋭特殊部隊を率いるウィリアム・マクレイブン大将は異例の呼び出しを受け、米中央情報局(CIA)本部を訪れた。そこで初めて、世界一重要な指名手配者の居所を示す写真と地図を見せられた。
今回の作戦につながったCIAによるウサマ・ビンラディン容疑者の捜索に軍高官として早い時期から関わっていた同大将は、率直な判断を示した――ビンラディンの隠れ家を襲撃することはある程度容易だがパキスタンへの対処は困難だろうと。
ウォール・ストリート・ジャーナルが再現した作戦計画の経過から、この会合が、米国の対テロ戦争で根本的に新しい戦略が形作られるきっかけになったことが分かる。つまり、軍事的な諜報活動に支えられた、秘密の、米国単独で行う作戦の採用である。この新戦略は、情報機関と軍という、歴史的に警戒し合ってきた二つの組織間に信頼関係が芽生えたことを意味するものだ。
ある米当局者は、ビンラディン殺害はこの戦略の「概念実証」だったと語っている。
米当局者らはすでに、今回の米軍によるパキスタン国内でのビンラディン急襲作戦を、同国を含め他のテロリストをかくまっていると思われる国々への交渉ツールとして使っている。「あんなことをまた我々にやらせるなよ」と言っているようなものだ。当局者らによると、イエメンやソマリアでも地元政府の協力が十分に得られなかった場合、同様の作戦が展開される可能性があるという。
米国のこの新戦略は、レオン・パネッタCIA長官とマクレイブン大将の緊密な関係から生まれた。2人は2009年、合同ミッションの規則を定めた秘密の合意文書に署名した。ビンラディン殺害の前にも、この合意を基にアフガニスタン戦争で数十の作戦が展開された。
オバマ政権の国家安全保障チームの人事刷新により、情報機関と軍幹部の関係は一層強まりそうだ。今夏、国防長官に就任する予定のパネッタ長官は、国防総省の特殊作戦能力を十分把握している。またCIA長官に就任予定のデービッド・ペトレアス・アフガニスタン駐留米軍司令官は、同国やイラクの戦争で特殊作戦の指揮を何度も経験している。
本稿では、政権、諜報、軍、議会当局者ら十数人へのインタビューを基に、パキスタン・アボタバードでのビンラディン邸急襲作戦の経緯を追った。
当局者や専門家らは、米国のこの新たな手法は今後、限定的にしか用いられないだろうと述べている。ある当局者は、「昔はこのようなことを実現可能と考えたのは映画と同じように思っている人だけで、政府関係者は誰も実現可能とは考えていなかった」と語る。
オバマ大統領は22日、英BBCでのインタビューで、今後も同様の急襲作戦を承認することを厭わないとした上で、「我々の仕事は米国を守ることだ」と述べた。
パキスタンのサルマン・バシール外務次官は今月のインタビューで、ビンラディン急襲と同様の作戦が再び行われた場合、「恐ろしい結果」を招く可能性があると語った。パキスタンの他の当局者らも、同様の攻撃があった場合は諜報活動における米国との協力関係を縮小するとしている。
より伝統的な手法を用いるのであれば、ステルス航空機を使い、場合によってはパキスタン軍と協力して、単純にビンラディンの邸宅を爆撃すればよかった。しかし、オバマ大統領ははじめからパキスタンを関与させないと決めていた。
パキスタンは米国にとり、緊密ながらも不安定な同盟国だ。米当局者の一部、とりわけゲーツ国防長官は、パキスタンを蚊帳の外に置くことが両国関係にどう影響するかを懸念した。しかし、そうした懸念よりパキスタンへの不信の方が勝っていた。
結局、米政府内の数百人が急襲作戦のことを事前に知っていたが、情報が漏れることはなかった。
米当局者らは互いに暗号を用いて話すなど、情報漏洩を防ぐために特別な対策をとった。ある者はうっかり同僚に漏らしてしまわないよう、作戦のことを「アトランティックシティーへの旅行」と呼ぶことにしていた。
2010年8月、米国人3000人近くを殺害した男を10年間追い続けてきたCIAにようやくチャンスが巡ってきた。ビンラディンの連絡係とみられる人物を追跡した結果、パキスタンの首都から約64キロのアボタバードにある1軒の邸宅にたどり着いたのだ。CIAは数カ月観測した末、この邸宅に住む3家族のうち一つはビンラディンの家族である可能性がきわめて高いとの最終判断に至った。
12月、パネッタ長官はオバマ大統領にCIAとして最善の情報根拠を示し、確実とは言えないが、その邸宅にビンラディンが潜んでいる可能性が高いと伝えた。大統領は計画策定を開始するようパネッタ長官に指示した。
パネッタ長官はマクレイブン大将を呼んだ。関係者らによれば、同大将が1月にCIA本部を訪れ、メリットとデメリットを素早く分析したことで、2人の関係は確固としたものになったという。
2人のきずなは歴史的転換を意味する。冷戦時代、国防総省とCIAの間にはほとんど交流がなく、軍はソ連との地上戦を計画することに専念し、情報機関は分析に没頭していた。状況は1990年代に変わり始めたが、CIAと軍が本当に緊密に協力するようになったのはここ数年のことだ。
マクレイブン大将は、「アボタバード邸宅1(AC1)」と名付けられた作戦の担当者に、ある特殊作戦部隊幹部を抜てきした。最強特殊部隊ユニットの一つ、海軍特殊部隊(SEALs)チーム6の海軍大佐だ。同大佐は毎日、バージニア州ラングレーのCIA敷地内の人里離れた安全な施設でCIAのチームとともに作業に当たった。
2月25日夕、数台の黒い「シボレー・サバーバン」がバージニア州ラングレーのCIA本部前に止まった。会合は、人目につきにくい金曜日の日暮れ後を選んで設定されていた。マクレイブン大将とパネッタ長官とともに、国防総省のマイケル・ビッカーズ・テロ対策首席補佐官、米軍統合参謀本部のカートライト副議長、CIA高官らが、窓のないCIA長官の会議室で大きな木製テーブルを囲んだ。
テーブルの中央には、邸宅の縮尺模型が置かれていた。約1.2メートル四方のこの模型は、国家地球空間情報局(NGA)が衛星写真を基に作成したもので、木の1本1本まで正確に再現されていた。
分析官らは、この邸宅に「重要な」テロリストが住んでいるとの情報は信頼性が高く、その人物がビンラディンである「可能性は大きい」と説明した。
計画策定者らは自分たちが考えたオプションを検討した。一つ目はB-2ステルス爆撃機による爆撃で、邸宅と地下トンネルすべてを破壊する作戦だ。二つ目は米特殊部隊によるヘリコプター攻撃だが、この作戦はソマリアで米軍ヘリが撃墜され米兵19人が死亡した悲惨なモガディシュの戦闘を描いた映画、『ブラックホーク・ダウン』の場面を連想させた。
三つ目は、パキスタン側に支援の機会を与える作戦で、例えば米軍が妨害を受けずに作戦を遂行できるよう邸宅の周囲を警備させることが考えられた。
計画策定を本格化させるべく、3月14日の国家安全保障会議の会合でオバマ大統領がこれらのオプションを検討した。大統領が最初に下した決断の一つは、ビンラディンが確実にそこにいることを確認するためにさらなる情報を集めるという考えを捨て去ることだった。得られる利点より、計画が暴露するリスクの方が大きいとの判断だ。
関係者らによると、オバマ大統領はパキスタンとの合同作戦も否定した。ある政権当局者によれば、機密保護が求められたため、合同作戦の見込みが真剣に検討されることはなかったという。
パキスタンで拘束されたCIA契約要員のレイモンド・デービス氏(写真中央、今年1月)
数人の当局者は、当時パキスタン・ラホールの刑務所に拘束されていたCIA契約要員のレイモンド・デービス氏の身の上を案じた。デービス氏はパキスタン人2人を射殺したために拘束されたのだが、殺害時の状況を巡り論争が起きていた。パネッタ長官は、もしビンラディン急襲の前に釈放させることができなければ同氏は殺されるかもしれないと考え、釈放を強く求めていた。
B-2機による作戦は軍関係者を中心に多くの支持を集めた。爆撃は邸宅に住む者を確実に殺害でき、米側の人的リスクが比較的小さい。ただゲーツ国防長官は、ビンラディンが邸宅にいるとの情報の論拠に懐疑的だった。
この会合の終盤にはオバマ大統領も爆撃作戦を支持していた、と関係者らは考えている。カートライト統合参謀本部副議長は、空軍高官2人にこの計画を具体化するよう要請した。
しかし、すぐに問題にぶち当たった。CIAの分析官らは邸宅の下にトンネル網があるかどうかを確認できなかった。計画策定者らはトンネルがあると仮定せざるをえず、それはB-2爆撃機が大量の爆弾を投下せねばならないことを意味した。しかし、大規模な爆撃をすれば罪のない近隣住民をも殺害してしまう可能性が高い。
近隣住民を守るため、より規模の小さい爆弾を用いるという選択肢もあるが、それではトンネルがあった場合に破壊することができない。
カートライト副議長は何の進言もしなかった。しかし、大統領との会合直後に作成されたパワーポイントのプレゼン資料には、大規模爆撃を行った場合のデメリットだけが羅列されていた。そこには明らかに爆発範囲に入る近隣住居が1軒示され、最大十数人の民間人が死亡する可能性があると推計されていた。ビンラディンが死亡した証拠を回収するのも難しく、パキスタン領空を侵犯した理由すら示せそうになかった。
国家安全保障会議の次の会合が行われた3月29日には、大統領も爆撃オプションに慎重になっていた。ある当局者は、「(大統領は)その計画を棚上げした」と話す。
代わりに大統領はマクレイブン大将に対し、ヘリコプターによる急襲作戦を検討するよう指示した。同大将はSEALsチーム6を構成する4戦隊の一つ、「赤色戦隊」からチームを招集した。赤色戦隊はアフガニスタンから帰還することになっており、軍内部でほとんど気づかれることなく再配置が可能だった。
このチームは、アフガニスタン・パキスタン国境上での任務の経験があり、語学力もあったため都合がよかった。チームは米国内のある場所で2度リハーサルを行った。
計画策定者らは起こりうるさまざま事態を検証した。ビンラディンが降伏したらどうするか?(ある軍高官によると、バグラム空軍基地付近に拘束された可能性が高い)。米部隊が急襲作戦中にパキスタン側に見つかったらどうするか?(米高官がパキスタン軍の高官に電話して何とか切り抜けることにする)。
米側はパキスタン側に警戒されることなく現場に出入りできることに相当の自信を持っていた。関係者らによると、急襲に使われたヘリコプターはレーダーに感知されにくく、できる限り音が出ないよう設計されていた。
さらに、米国はパキスタン軍を設備や訓練の面で支援しており、アフガニスタン国境沿いに設置されているレーダーシステムの感度から、イスラマバードやアボタバードの内部・周辺のパキスタン軍の警戒体制まで、同国の能力を十分把握していた。
もしパキスタン側が調査のためにF-16戦闘機を発進させれば、米側は同機がどのくらいの時間で現場に到達するかわかるという。ウィキリークスが入手し、ウォール・ストリート・ジャーナルが精査した外交公電によると、F16機は米国による常時監視の下、パキスタン軍基地に置かれることを条件に、米国がパキスタンに提供している。
4月11日、パネッタ長官はパキスタン軍統合情報局(ISI)のパシャ長官とラングレーで重要な会談を行った。ラホールで拘束されたCIA契約要員のデービス氏の問題もあり、両国の関係は冷え切っていた。しかし、同氏はその後釈放されており、この会談では両国の関係改善が意図された。
会談でパシャ長官はパネッタ長官に、CIAがパキスタン国内で行っている活動をもっと公開するよう求めた。さらにパシャ長官は、CIAが自分に隠れてパキスタン国内で活動していることへのいら立ちを訴えた。もちろん同長官はビンラディン急襲計画のことは何も知らなかった。
パシャ長官は、この会合では怒鳴り合う場面もあったと話しているが、米関係者らは否定している。米当局者らによると、パネッタ長官はパシャ長官の懸念について調査すると約束したという。パネッタ長官の目的は、ビンラディン急襲作戦の実行時に両国関係が最悪の状態に陥っていることを避けるため、関係の改善を図ることであった。
8日後、国家安全保障会議の会合が再び開かれ、オバマ大統領がヘリコプター急襲作戦を暫定的に承認した。だが、大統領はパキスタンへの対応計画が甘すぎないかと心配していた。
米側は、米部隊員がパキスタン側に捕まった場合、簡単に帰国させることはできないと予想していた。デービス氏の一件では交渉が難航し、問題解決までに2カ月以上を要したことを考えれば、「領空に200キロ以上侵入したことをどうやって認めてもらうのか」(ある米当局者)という話になる。
オバマ大統領はマクレイブン大将に、より強固な脱出計画を策定するよう指示した。作戦実行チームが自力で脱出できるよう装備を施し、非常時に備えてヘリコプター2機を待機させることになった。
ビンラディン急襲作戦を数日後に控えた4月28日、オバマ大統領はホワイトハウスのイーストルームで新たな国家安全保障人事を発表した。その後、大統領とパネッタ長官は危機管理室に移動し、国家安全保障会議のメンバーとともにマレン統合参謀本部議長から最終作戦計画の説明を受けた。
ビンラディンが邸宅にいるとの情報に懐疑的だったゲーツ国防長官は、この会合でようやく作戦への全面支持を表明した。
オバマ大統領は補佐官らに対し、作戦開始前にマクレイブン大将と直接話がしたいと言った。同大将はアフガニスタンで作戦実行チームの準備に当たっていた。
電話はワシントン時間の4月30日午後、安全な回線を使ってかけられた。オバマ大統領は同大将に、最終準備段階での最新情報を求めた。また、アフガニスタンに着いてから任務への確信に変化をもたらすような新たな情報が入っていないか尋ねた。
マクレイブン大将は、チームは準備万端であり、自身の状況評価に変更はないと大統領に告げた。
今年1月、米軍の精鋭特殊部隊を率いるウィリアム・マクレイブン大将は異例の呼び出しを受け、米中央情報局(CIA)本部を訪れた。そこで初めて、世界一重要な指名手配者の居所を示す写真と地図を見せられた。
今回の作戦につながったCIAによるウサマ・ビンラディン容疑者の捜索に軍高官として早い時期から関わっていた同大将は、率直な判断を示した――ビンラディンの隠れ家を襲撃することはある程度容易だがパキスタンへの対処は困難だろうと。
ウォール・ストリート・ジャーナルが再現した作戦計画の経過から、この会合が、米国の対テロ戦争で根本的に新しい戦略が形作られるきっかけになったことが分かる。つまり、軍事的な諜報活動に支えられた、秘密の、米国単独で行う作戦の採用である。この新戦略は、情報機関と軍という、歴史的に警戒し合ってきた二つの組織間に信頼関係が芽生えたことを意味するものだ。
ある米当局者は、ビンラディン殺害はこの戦略の「概念実証」だったと語っている。
米当局者らはすでに、今回の米軍によるパキスタン国内でのビンラディン急襲作戦を、同国を含め他のテロリストをかくまっていると思われる国々への交渉ツールとして使っている。「あんなことをまた我々にやらせるなよ」と言っているようなものだ。当局者らによると、イエメンやソマリアでも地元政府の協力が十分に得られなかった場合、同様の作戦が展開される可能性があるという。
米国のこの新戦略は、レオン・パネッタCIA長官とマクレイブン大将の緊密な関係から生まれた。2人は2009年、合同ミッションの規則を定めた秘密の合意文書に署名した。ビンラディン殺害の前にも、この合意を基にアフガニスタン戦争で数十の作戦が展開された。
オバマ政権の国家安全保障チームの人事刷新により、情報機関と軍幹部の関係は一層強まりそうだ。今夏、国防長官に就任する予定のパネッタ長官は、国防総省の特殊作戦能力を十分把握している。またCIA長官に就任予定のデービッド・ペトレアス・アフガニスタン駐留米軍司令官は、同国やイラクの戦争で特殊作戦の指揮を何度も経験している。
本稿では、政権、諜報、軍、議会当局者ら十数人へのインタビューを基に、パキスタン・アボタバードでのビンラディン邸急襲作戦の経緯を追った。
当局者や専門家らは、米国のこの新たな手法は今後、限定的にしか用いられないだろうと述べている。ある当局者は、「昔はこのようなことを実現可能と考えたのは映画と同じように思っている人だけで、政府関係者は誰も実現可能とは考えていなかった」と語る。
オバマ大統領は22日、英BBCでのインタビューで、今後も同様の急襲作戦を承認することを厭わないとした上で、「我々の仕事は米国を守ることだ」と述べた。
パキスタンのサルマン・バシール外務次官は今月のインタビューで、ビンラディン急襲と同様の作戦が再び行われた場合、「恐ろしい結果」を招く可能性があると語った。パキスタンの他の当局者らも、同様の攻撃があった場合は諜報活動における米国との協力関係を縮小するとしている。
より伝統的な手法を用いるのであれば、ステルス航空機を使い、場合によってはパキスタン軍と協力して、単純にビンラディンの邸宅を爆撃すればよかった。しかし、オバマ大統領ははじめからパキスタンを関与させないと決めていた。
パキスタンは米国にとり、緊密ながらも不安定な同盟国だ。米当局者の一部、とりわけゲーツ国防長官は、パキスタンを蚊帳の外に置くことが両国関係にどう影響するかを懸念した。しかし、そうした懸念よりパキスタンへの不信の方が勝っていた。
結局、米政府内の数百人が急襲作戦のことを事前に知っていたが、情報が漏れることはなかった。
米当局者らは互いに暗号を用いて話すなど、情報漏洩を防ぐために特別な対策をとった。ある者はうっかり同僚に漏らしてしまわないよう、作戦のことを「アトランティックシティーへの旅行」と呼ぶことにしていた。
2010年8月、米国人3000人近くを殺害した男を10年間追い続けてきたCIAにようやくチャンスが巡ってきた。ビンラディンの連絡係とみられる人物を追跡した結果、パキスタンの首都から約64キロのアボタバードにある1軒の邸宅にたどり着いたのだ。CIAは数カ月観測した末、この邸宅に住む3家族のうち一つはビンラディンの家族である可能性がきわめて高いとの最終判断に至った。
12月、パネッタ長官はオバマ大統領にCIAとして最善の情報根拠を示し、確実とは言えないが、その邸宅にビンラディンが潜んでいる可能性が高いと伝えた。大統領は計画策定を開始するようパネッタ長官に指示した。
パネッタ長官はマクレイブン大将を呼んだ。関係者らによれば、同大将が1月にCIA本部を訪れ、メリットとデメリットを素早く分析したことで、2人の関係は確固としたものになったという。
2人のきずなは歴史的転換を意味する。冷戦時代、国防総省とCIAの間にはほとんど交流がなく、軍はソ連との地上戦を計画することに専念し、情報機関は分析に没頭していた。状況は1990年代に変わり始めたが、CIAと軍が本当に緊密に協力するようになったのはここ数年のことだ。
マクレイブン大将は、「アボタバード邸宅1(AC1)」と名付けられた作戦の担当者に、ある特殊作戦部隊幹部を抜てきした。最強特殊部隊ユニットの一つ、海軍特殊部隊(SEALs)チーム6の海軍大佐だ。同大佐は毎日、バージニア州ラングレーのCIA敷地内の人里離れた安全な施設でCIAのチームとともに作業に当たった。
2月25日夕、数台の黒い「シボレー・サバーバン」がバージニア州ラングレーのCIA本部前に止まった。会合は、人目につきにくい金曜日の日暮れ後を選んで設定されていた。マクレイブン大将とパネッタ長官とともに、国防総省のマイケル・ビッカーズ・テロ対策首席補佐官、米軍統合参謀本部のカートライト副議長、CIA高官らが、窓のないCIA長官の会議室で大きな木製テーブルを囲んだ。
テーブルの中央には、邸宅の縮尺模型が置かれていた。約1.2メートル四方のこの模型は、国家地球空間情報局(NGA)が衛星写真を基に作成したもので、木の1本1本まで正確に再現されていた。
分析官らは、この邸宅に「重要な」テロリストが住んでいるとの情報は信頼性が高く、その人物がビンラディンである「可能性は大きい」と説明した。
計画策定者らは自分たちが考えたオプションを検討した。一つ目はB-2ステルス爆撃機による爆撃で、邸宅と地下トンネルすべてを破壊する作戦だ。二つ目は米特殊部隊によるヘリコプター攻撃だが、この作戦はソマリアで米軍ヘリが撃墜され米兵19人が死亡した悲惨なモガディシュの戦闘を描いた映画、『ブラックホーク・ダウン』の場面を連想させた。
三つ目は、パキスタン側に支援の機会を与える作戦で、例えば米軍が妨害を受けずに作戦を遂行できるよう邸宅の周囲を警備させることが考えられた。
計画策定を本格化させるべく、3月14日の国家安全保障会議の会合でオバマ大統領がこれらのオプションを検討した。大統領が最初に下した決断の一つは、ビンラディンが確実にそこにいることを確認するためにさらなる情報を集めるという考えを捨て去ることだった。得られる利点より、計画が暴露するリスクの方が大きいとの判断だ。
関係者らによると、オバマ大統領はパキスタンとの合同作戦も否定した。ある政権当局者によれば、機密保護が求められたため、合同作戦の見込みが真剣に検討されることはなかったという。
パキスタンで拘束されたCIA契約要員のレイモンド・デービス氏(写真中央、今年1月)
数人の当局者は、当時パキスタン・ラホールの刑務所に拘束されていたCIA契約要員のレイモンド・デービス氏の身の上を案じた。デービス氏はパキスタン人2人を射殺したために拘束されたのだが、殺害時の状況を巡り論争が起きていた。パネッタ長官は、もしビンラディン急襲の前に釈放させることができなければ同氏は殺されるかもしれないと考え、釈放を強く求めていた。
B-2機による作戦は軍関係者を中心に多くの支持を集めた。爆撃は邸宅に住む者を確実に殺害でき、米側の人的リスクが比較的小さい。ただゲーツ国防長官は、ビンラディンが邸宅にいるとの情報の論拠に懐疑的だった。
この会合の終盤にはオバマ大統領も爆撃作戦を支持していた、と関係者らは考えている。カートライト統合参謀本部副議長は、空軍高官2人にこの計画を具体化するよう要請した。
しかし、すぐに問題にぶち当たった。CIAの分析官らは邸宅の下にトンネル網があるかどうかを確認できなかった。計画策定者らはトンネルがあると仮定せざるをえず、それはB-2爆撃機が大量の爆弾を投下せねばならないことを意味した。しかし、大規模な爆撃をすれば罪のない近隣住民をも殺害してしまう可能性が高い。
近隣住民を守るため、より規模の小さい爆弾を用いるという選択肢もあるが、それではトンネルがあった場合に破壊することができない。
カートライト副議長は何の進言もしなかった。しかし、大統領との会合直後に作成されたパワーポイントのプレゼン資料には、大規模爆撃を行った場合のデメリットだけが羅列されていた。そこには明らかに爆発範囲に入る近隣住居が1軒示され、最大十数人の民間人が死亡する可能性があると推計されていた。ビンラディンが死亡した証拠を回収するのも難しく、パキスタン領空を侵犯した理由すら示せそうになかった。
国家安全保障会議の次の会合が行われた3月29日には、大統領も爆撃オプションに慎重になっていた。ある当局者は、「(大統領は)その計画を棚上げした」と話す。
代わりに大統領はマクレイブン大将に対し、ヘリコプターによる急襲作戦を検討するよう指示した。同大将はSEALsチーム6を構成する4戦隊の一つ、「赤色戦隊」からチームを招集した。赤色戦隊はアフガニスタンから帰還することになっており、軍内部でほとんど気づかれることなく再配置が可能だった。
このチームは、アフガニスタン・パキスタン国境上での任務の経験があり、語学力もあったため都合がよかった。チームは米国内のある場所で2度リハーサルを行った。
計画策定者らは起こりうるさまざま事態を検証した。ビンラディンが降伏したらどうするか?(ある軍高官によると、バグラム空軍基地付近に拘束された可能性が高い)。米部隊が急襲作戦中にパキスタン側に見つかったらどうするか?(米高官がパキスタン軍の高官に電話して何とか切り抜けることにする)。
米側はパキスタン側に警戒されることなく現場に出入りできることに相当の自信を持っていた。関係者らによると、急襲に使われたヘリコプターはレーダーに感知されにくく、できる限り音が出ないよう設計されていた。
さらに、米国はパキスタン軍を設備や訓練の面で支援しており、アフガニスタン国境沿いに設置されているレーダーシステムの感度から、イスラマバードやアボタバードの内部・周辺のパキスタン軍の警戒体制まで、同国の能力を十分把握していた。
もしパキスタン側が調査のためにF-16戦闘機を発進させれば、米側は同機がどのくらいの時間で現場に到達するかわかるという。ウィキリークスが入手し、ウォール・ストリート・ジャーナルが精査した外交公電によると、F16機は米国による常時監視の下、パキスタン軍基地に置かれることを条件に、米国がパキスタンに提供している。
4月11日、パネッタ長官はパキスタン軍統合情報局(ISI)のパシャ長官とラングレーで重要な会談を行った。ラホールで拘束されたCIA契約要員のデービス氏の問題もあり、両国の関係は冷え切っていた。しかし、同氏はその後釈放されており、この会談では両国の関係改善が意図された。
会談でパシャ長官はパネッタ長官に、CIAがパキスタン国内で行っている活動をもっと公開するよう求めた。さらにパシャ長官は、CIAが自分に隠れてパキスタン国内で活動していることへのいら立ちを訴えた。もちろん同長官はビンラディン急襲計画のことは何も知らなかった。
パシャ長官は、この会合では怒鳴り合う場面もあったと話しているが、米関係者らは否定している。米当局者らによると、パネッタ長官はパシャ長官の懸念について調査すると約束したという。パネッタ長官の目的は、ビンラディン急襲作戦の実行時に両国関係が最悪の状態に陥っていることを避けるため、関係の改善を図ることであった。
8日後、国家安全保障会議の会合が再び開かれ、オバマ大統領がヘリコプター急襲作戦を暫定的に承認した。だが、大統領はパキスタンへの対応計画が甘すぎないかと心配していた。
米側は、米部隊員がパキスタン側に捕まった場合、簡単に帰国させることはできないと予想していた。デービス氏の一件では交渉が難航し、問題解決までに2カ月以上を要したことを考えれば、「領空に200キロ以上侵入したことをどうやって認めてもらうのか」(ある米当局者)という話になる。
オバマ大統領はマクレイブン大将に、より強固な脱出計画を策定するよう指示した。作戦実行チームが自力で脱出できるよう装備を施し、非常時に備えてヘリコプター2機を待機させることになった。
ビンラディン急襲作戦を数日後に控えた4月28日、オバマ大統領はホワイトハウスのイーストルームで新たな国家安全保障人事を発表した。その後、大統領とパネッタ長官は危機管理室に移動し、国家安全保障会議のメンバーとともにマレン統合参謀本部議長から最終作戦計画の説明を受けた。
ビンラディンが邸宅にいるとの情報に懐疑的だったゲーツ国防長官は、この会合でようやく作戦への全面支持を表明した。
オバマ大統領は補佐官らに対し、作戦開始前にマクレイブン大将と直接話がしたいと言った。同大将はアフガニスタンで作戦実行チームの準備に当たっていた。
電話はワシントン時間の4月30日午後、安全な回線を使ってかけられた。オバマ大統領は同大将に、最終準備段階での最新情報を求めた。また、アフガニスタンに着いてから任務への確信に変化をもたらすような新たな情報が入っていないか尋ねた。
マクレイブン大将は、チームは準備万端であり、自身の状況評価に変更はないと大統領に告げた。
インド女児数が急激に減少、10年間で800万人の女児が堕胎
(サーチナ - 05月25日 09:24)
5月23日BBCによると、インドの2011年国勢調査の結果から、インドでは過去10年間で7歳以下の女児の人数が急激に減少、約800万人の女児が堕胎されたことになる。
国勢調査のデータによると、1961年、7歳以下のインド男女児童の割合は1000:976だったが、現在は1000:914に下がっている。堕胎された女児の数は約800万人に達した。
インドの首都ニューデリーではもっと厳しく、男女児童の比例はすでに1000:866になっている。 女性の人数は寿命の延長など要素で改善されるが、インド若者の男女の割合は依然として世界で最大の格差がある。女児人数が急激に減少する原因は出産前の性別測定だと考える人は多い。
インドでは女児は家庭の厄介者と見なされる。結婚前に実家は大量に嫁入り道具を用意する必要があり、大部分の人は男児が産みたいと望む。30年前、超音波スキャンで性別判別することがインドの女性で盛んに行われ、政府は女児の堕胎を急速に増加する人口を抑制する有効な手段として採用していた。
今インドには約4万社の超音波検査治療所が経営されている。 インドのマンモハン・シン首相が、女児の流産と堕胎は国の恥で、罪のない女児を救うように呼びかけた。有名な人権活動家サブー・ジョージ(Sabu George)氏が、政府はこれまでの女児を殺害する悪習慣を根絶する決心をはっきりと示していないと非難した。
ほとんどの超音波検査治療所は不法な性別検査・測定はしていないというが、女性はどこで女児の検査や堕胎が出来るか知っている。5つ星ランクの診療所で、性別測定と女児の堕胎はあわせて1万ルピー(約18万円)、安いところならわずか数百ルピーで可能だ。 インド国勢調査活動の責任者VarshaJoshi氏は、「現在、性別測定行為に有効な措置を採用しなければならない。さもなくばインドの未来がどのようになるのか想像できない」という。
5月23日BBCによると、インドの2011年国勢調査の結果から、インドでは過去10年間で7歳以下の女児の人数が急激に減少、約800万人の女児が堕胎されたことになる。
国勢調査のデータによると、1961年、7歳以下のインド男女児童の割合は1000:976だったが、現在は1000:914に下がっている。堕胎された女児の数は約800万人に達した。
インドの首都ニューデリーではもっと厳しく、男女児童の比例はすでに1000:866になっている。 女性の人数は寿命の延長など要素で改善されるが、インド若者の男女の割合は依然として世界で最大の格差がある。女児人数が急激に減少する原因は出産前の性別測定だと考える人は多い。
インドでは女児は家庭の厄介者と見なされる。結婚前に実家は大量に嫁入り道具を用意する必要があり、大部分の人は男児が産みたいと望む。30年前、超音波スキャンで性別判別することがインドの女性で盛んに行われ、政府は女児の堕胎を急速に増加する人口を抑制する有効な手段として採用していた。
今インドには約4万社の超音波検査治療所が経営されている。 インドのマンモハン・シン首相が、女児の流産と堕胎は国の恥で、罪のない女児を救うように呼びかけた。有名な人権活動家サブー・ジョージ(Sabu George)氏が、政府はこれまでの女児を殺害する悪習慣を根絶する決心をはっきりと示していないと非難した。
ほとんどの超音波検査治療所は不法な性別検査・測定はしていないというが、女性はどこで女児の検査や堕胎が出来るか知っている。5つ星ランクの診療所で、性別測定と女児の堕胎はあわせて1万ルピー(約18万円)、安いところならわずか数百ルピーで可能だ。 インド国勢調査活動の責任者VarshaJoshi氏は、「現在、性別測定行為に有効な措置を採用しなければならない。さもなくばインドの未来がどのようになるのか想像できない」という。
2011年5月24日火曜日
【金正日】 中国訪問
金正日
【訪中初日】5月20日(金)
【訪中2日目】5月21日(土)
【訪中3日目】5月22日(日) 江蘇省揚州市
中国共産党揚州市委員会の書記を含めた要人らが、駅に到着した金正日氏を迎えた
【訪中4日目】5月23日(月)
午前9時 揚州迎賓館
痩西湖
カン江経済開発区
午後3時 大型スーパー
********************************************************
【読売】
金総書記が訪中5月20日(金)21時26分配信
【ソウル=門間順平、ハルビン(中国黒竜江省)=比嘉清太】金総書記は昨年5月と8月にも訪中しており、約9か月ぶりの訪中になる。 特別列車は20日早朝、北朝鮮北東部から豆満江(トゥマンガン)(中国名・図們江(ともんこう))を渡り、中国北東部の吉林省図們に入った。
その後、列車は黒竜江省の牡丹江に到着し、市内のホテルで金総書記とみられる男性の姿が確認された。
外交筋によると、金総書記一行は20日、抗日戦争の戦死者をたたえる記念碑がある牡丹江の公園や景勝地の鏡泊湖付近を視察した模様だ。
同日夜、金総書記を乗せたとみられる特別列車が牡丹江の駅を出発した。ハルビンや吉林省長春に向かった可能性がある。
金総書記は前回訪中時に胡錦濤国家主席との間で、中国の東北3省の経済開発計画と中朝国境地帯で北朝鮮が計画する開発構想を連携させることで合意している。今月末には、鴨緑江河口の黄金坪共同開発や、日本海に面した北朝鮮の羅先(ラソン)地域と中国の琿春地域を結ぶ道路の補修工事の起工式も予定されている。訪中はこうした経済協力の再確認や緊急食糧支援を求める狙いがあるとみられる。
最終更新:5月20日(金)21時26分
【
訪中2日目の金正日総書記、長春に到着
2011/05/21 10:22 KST
【長春21日聯合ニュース】金正日総書記は訪中2日目の21日、吉林省・長春に到着したことが確認された。
金総書記を乗せた特別列車は現地時間の21日午前8時20分ごろ長春駅に到着したもようだ。特別列車は20日午後9時ごろ、黒竜江省・牡丹江を出発したことが確認されていた。中国の鉄道事情などから黒竜江省・ハルビンを通過し、長春に到着したとみられる。
また同消息筋は、金総書記一行を乗せたと見られる車両が長春市内の南湖賓館(南湖ホテル)方面に向かっていることも確認したとしている。同ホテルは昨年8月に金総書記が訪中した際、胡錦濤・国家主席と首脳会談を行った場所だ。
【中央日報】
金正日、スーパー訪れ痩西湖で船遊び
2011年05月24日10時39分
23日、江蘇省揚州で1991年に同地を訪れた金日成主席の痕跡探訪とともに市場経済学習に出た。東北3省の長春から1945kmの距離を約30時間かけての強行軍の翌日のためか動線は目立って単純だった。
午前9時ごろ、金委員長は揚州迎賓館を出て名勝地の痩西湖を回りながら一種のノスタルジア外交を展開した。
91年に金日成主席が中国共産党総書記だった江沢民とともに水上観光をしながら友情を確かめた場所だ。金委員長は続いて揚州市内から南に30分ほどの距離にあるカン江経済開発区を訪れた。
上海幇の後見人の江沢民の故郷にある改革・開放成功地を視察したのだ。ここは太陽光・風力発電設備・数値制御・金属板材加工・生物・医薬・保健食品産業を主軸に構成された工業団地だ。江蘇省が指定した省単位の開発区で2001年9月から稼動している。北朝鮮が開発区を作ればどのような結果を得られるかを確認できる所だ。 カン江開発区で金委員長が訪問した企業は太陽エネルギー業者の晶澳太陽熱有限公司とされる。金委員長の訪問を控えこの企業が位置する八里鎮近くではあちこちに公安が配置された。金委員長一行はこの企業で40~50分ほど参観した。金委員長一行には警察警護車両のほかにも救急車が目についた。2008年8月に脳関連疾患で倒れた金委員長の健康に突然の異常が発生した場合の応急対応のためとみられる。
金委員長はこの日午後3時ごろ宿舎の揚州迎賓館から車で1分の距離にある大型スーパーチェーン華潤蘇果の2階食料品コーナーに立ち寄り20分ほど視察した。
スーパー関係者は、「食用油とコメのコーナーを注意深く見た。担当従業員に商品の種類を尋ねた」と伝えた。この日金委員長のサプライズ“市場経済”現場視察には王燕文揚州市党書記が随行した。
王書記は江沢民の妻のめいに当たる。 現地では金委員長が東南部まで下りてきたことから、上海だけでなく広東省広州まで訪れるという観測も出回っている。
一方では金委員長が揚州一帯を視察した後に北京に移動して胡錦涛国家主席と首脳会談をするだろうという見通しも出てきている。
【訪中初日】5月20日(金)
【訪中2日目】5月21日(土)
【訪中3日目】5月22日(日) 江蘇省揚州市
中国共産党揚州市委員会の書記を含めた要人らが、駅に到着した金正日氏を迎えた
【訪中4日目】5月23日(月)
午前9時 揚州迎賓館
痩西湖
カン江経済開発区
午後3時 大型スーパー
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【読売】
金総書記が訪中5月20日(金)21時26分配信
【ソウル=門間順平、ハルビン(中国黒竜江省)=比嘉清太】金総書記は昨年5月と8月にも訪中しており、約9か月ぶりの訪中になる。 特別列車は20日早朝、北朝鮮北東部から豆満江(トゥマンガン)(中国名・図們江(ともんこう))を渡り、中国北東部の吉林省図們に入った。
その後、列車は黒竜江省の牡丹江に到着し、市内のホテルで金総書記とみられる男性の姿が確認された。
外交筋によると、金総書記一行は20日、抗日戦争の戦死者をたたえる記念碑がある牡丹江の公園や景勝地の鏡泊湖付近を視察した模様だ。
同日夜、金総書記を乗せたとみられる特別列車が牡丹江の駅を出発した。ハルビンや吉林省長春に向かった可能性がある。
金総書記は前回訪中時に胡錦濤国家主席との間で、中国の東北3省の経済開発計画と中朝国境地帯で北朝鮮が計画する開発構想を連携させることで合意している。今月末には、鴨緑江河口の黄金坪共同開発や、日本海に面した北朝鮮の羅先(ラソン)地域と中国の琿春地域を結ぶ道路の補修工事の起工式も予定されている。訪中はこうした経済協力の再確認や緊急食糧支援を求める狙いがあるとみられる。
最終更新:5月20日(金)21時26分
【
訪中2日目の金正日総書記、長春に到着
2011/05/21 10:22 KST
【長春21日聯合ニュース】金正日総書記は訪中2日目の21日、吉林省・長春に到着したことが確認された。
金総書記を乗せた特別列車は現地時間の21日午前8時20分ごろ長春駅に到着したもようだ。特別列車は20日午後9時ごろ、黒竜江省・牡丹江を出発したことが確認されていた。中国の鉄道事情などから黒竜江省・ハルビンを通過し、長春に到着したとみられる。
また同消息筋は、金総書記一行を乗せたと見られる車両が長春市内の南湖賓館(南湖ホテル)方面に向かっていることも確認したとしている。同ホテルは昨年8月に金総書記が訪中した際、胡錦濤・国家主席と首脳会談を行った場所だ。
【中央日報】
金正日、スーパー訪れ痩西湖で船遊び
2011年05月24日10時39分
23日、江蘇省揚州で1991年に同地を訪れた金日成主席の痕跡探訪とともに市場経済学習に出た。東北3省の長春から1945kmの距離を約30時間かけての強行軍の翌日のためか動線は目立って単純だった。
午前9時ごろ、金委員長は揚州迎賓館を出て名勝地の痩西湖を回りながら一種のノスタルジア外交を展開した。
91年に金日成主席が中国共産党総書記だった江沢民とともに水上観光をしながら友情を確かめた場所だ。金委員長は続いて揚州市内から南に30分ほどの距離にあるカン江経済開発区を訪れた。
上海幇の後見人の江沢民の故郷にある改革・開放成功地を視察したのだ。ここは太陽光・風力発電設備・数値制御・金属板材加工・生物・医薬・保健食品産業を主軸に構成された工業団地だ。江蘇省が指定した省単位の開発区で2001年9月から稼動している。北朝鮮が開発区を作ればどのような結果を得られるかを確認できる所だ。 カン江開発区で金委員長が訪問した企業は太陽エネルギー業者の晶澳太陽熱有限公司とされる。金委員長の訪問を控えこの企業が位置する八里鎮近くではあちこちに公安が配置された。金委員長一行はこの企業で40~50分ほど参観した。金委員長一行には警察警護車両のほかにも救急車が目についた。2008年8月に脳関連疾患で倒れた金委員長の健康に突然の異常が発生した場合の応急対応のためとみられる。
金委員長はこの日午後3時ごろ宿舎の揚州迎賓館から車で1分の距離にある大型スーパーチェーン華潤蘇果の2階食料品コーナーに立ち寄り20分ほど視察した。
スーパー関係者は、「食用油とコメのコーナーを注意深く見た。担当従業員に商品の種類を尋ねた」と伝えた。この日金委員長のサプライズ“市場経済”現場視察には王燕文揚州市党書記が随行した。
王書記は江沢民の妻のめいに当たる。 現地では金委員長が東南部まで下りてきたことから、上海だけでなく広東省広州まで訪れるという観測も出回っている。
一方では金委員長が揚州一帯を視察した後に北京に移動して胡錦涛国家主席と首脳会談をするだろうという見通しも出てきている。
2011年5月22日日曜日
【辺野古】 滑走路建設までの道
海兵隊辺野古航空基地建設への道
辺野古海域の最終環境アセスメント調査
沖縄防衛施設局長
↓申請(滑走路建設)
沖縄県知事
↓地元自治体の承認が必要
名護市長
↓答申
名護市議会 建設について議会の賛成が必要
辺野古海域の最終環境アセスメント調査
沖縄防衛施設局長
↓申請(滑走路建設)
沖縄県知事
↓地元自治体の承認が必要
名護市長
↓答申
名護市議会 建設について議会の賛成が必要
【東京電力】 顧問13人体制へ 平均1千万円
顧問、11人退任=清水社長、無報酬で就任―東電
(時事通信社 - 05月21日 21:02)
東京電力 5月21日記者会見
顧問 6月28日に11人が退任(10人留任)
白川進元副社長(経済産業省出身) 退任
川島毅氏(国土交通省出身)
藤川寛之( 〃 )
栗本英雄(警察庁出身)
近藤純一(国際協力銀行出身)
▽東電役員OB16人
田村滋美前会長
南直哉元社長
ほか14名
新顧問 3人
清水正孝社長 無報酬
築舘勝利常任監査役 〃
武藤栄副社長 〃
顧問 現在21人(総額2億1900万円、平均1043万)→13人(9800万円 平均980万)
自由民主党 政調会長 石破茂 妻=佳子 義父 中村明 昭和電工取締役/平成21年6月7日死去。
娘 2011年4月01日 東京電力株式会社入社
(時事通信社 - 05月21日 21:02)
東京電力 5月21日記者会見
顧問 6月28日に11人が退任(10人留任)
白川進元副社長(経済産業省出身) 退任
川島毅氏(国土交通省出身)
藤川寛之( 〃 )
栗本英雄(警察庁出身)
近藤純一(国際協力銀行出身)
▽東電役員OB16人
田村滋美前会長
南直哉元社長
ほか14名
新顧問 3人
清水正孝社長 無報酬
築舘勝利常任監査役 〃
武藤栄副社長 〃
顧問 現在21人(総額2億1900万円、平均1043万)→13人(9800万円 平均980万)
自由民主党 政調会長 石破茂 妻=佳子 義父 中村明 昭和電工取締役/平成21年6月7日死去。
娘 2011年4月01日 東京電力株式会社入社
【萌える日本史講座】 国境の孤島「対馬」の謎に迫る
〇_中国
随 581-
唐 618-907
〇_朝鮮半島
北部 高句麗 前37-668
中部 新羅 356- 935
南部 百済 346-660
〇_日本国
平城京 元明天皇 710
長岡京 桓武天皇 784
※日本国は、遣隋使や遣唐使のように、随・唐時代は、中国とは交流が盛んだった。元時代になって疎遠になる
【萌える日本史講座】国境の孤島「対馬」の謎に迫る
2011.5.21 18:00
島の奥深くまで入り込んだリアス式海岸。一見するとダム湖のようにも=長崎県対馬市
「壱岐・対馬」-。まるできょうだいのように、ひとくくりにしてしまいがちな玄界灘に浮かぶ2つの島。どちらも長崎県に属し、朝鮮半島と日本を結ぶ玄関口として古代から栄えた海洋王国だった。
しかし、島のおもむきは全く異なる。
のどかな田園風景が広がる壱岐に対し、対馬は海岸からすぐ急峻(きゅうしゅん)な山並みが迫り、リアス式海岸がうねるように島を取り巻く。島の北端からは韓国の山々がかすかに望める一方、航空自衛隊がレーダー監視を行うなど、国境の島ならではの緊張感も漂う。魏志倭人伝の舞台でもある対馬を訪ねた。(小畑三秋)
「土地山険」
島巡りに車を走らせると、いきなり急カーブの連続だった。山中を縫うように走る国道からは、細長い湖のような水面が見え隠れする。「ダム湖かな」とよく見ると、海。リアス式海岸が島の奥まで入り込んでいた。水平線は全く見えない。
「(朝鮮半島から)始めて一海を渡ること千余里、対馬国にいたる。居するところ絶島にして、方四百余里ばかり。土地山険にして深林多く、道路は禽鹿(きんろく)の径(けい)(獣道)のごとし」
1800年前の倭国(日本)について記した中国の歴史書、魏志倭人伝の一節だ。「絶島」という表現が、神秘性を増幅させる。
本土を圧倒
国境の島であることは、島内の遺跡からもうかがえる。
なかでも、考古学者を一様に圧倒させるのが、弥生時代を代表する青銅器、銅矛(どうほこ)の数。朝鮮半島から伝わり、本来は突き刺すための武器だったが、対馬で発見された銅矛の大半は、刃の部分が平らで、巨大なヘラのようになっている。九州北部で誕生した日本独自のもので、「広形銅矛」と呼ばれる。長さ80~90センチ、重さは2キロ。とても戦場で武器として振り回すことはできない。
この広形銅矛が、島内だけで国内最多の130本以上見つかっており、その数は九州北部をはるかにしのぐ。
権力者の副葬品として確認されているのはわずか5本程度で、大半は墓以外の何の変哲もない場所に埋められている。現在でも、道路工事中に突然発見されることがあるという。
対馬市豊玉町郷土館では、数十本もの広形銅矛が展示されている。どっしりとした重量感でケース内に横たわる姿はまさに圧巻。神々への畏怖(いふ)さえ感じさせる。
大量埋納の謎
福岡から140キロも離れた対馬になぜ、これほど大量の広形銅矛が存在するのか-。
そのヒントはやはり、魏志倭人伝に隠されていた。「船に乗って南北に市糴(してき=交易)す」。朝鮮半島や倭国との間で盛んに交易していたことを記す。
この記述から、広形銅矛は航海の安全のためという説が浮かび上がる。当時の航海は手こぎボートのような小舟で、ただでさえ潮の流れが激しい対馬海峡を渡るのは命がけ。そのため、航海に出るときは銅矛を神々に捧げて祭祀(さいし)を行い、その後は再び地中に埋めたという。
ある研究者は「銅矛は霊力が強く、普段は力を封じこめるため地中に埋め、祭祀を行うときだけ掘り出して使ったのではないか」と推測する。
国境の守護神
一方、大量に埋められた広形銅矛がいずれも九州製であることから、「国境の守り」という説も有力だ。
対馬からわずか50キロ北方は韓国の釜山。晴れ渡った早朝には対馬の北端から韓国の山並みが見え、夜には釜山の街明かりが浮かび上がる。
謎を秘めた広形銅矛は、倭国の国境にあたる対馬に埋められ、その霊力によって朝鮮半島からの侵入を防ごうとした-。大量の広形銅矛は、それだけ半島勢力が脅威だったことをうかがわせる。
島内には戦前ごろまで、一風変わった風習が残っていた。「塞(さえ)の神祭り」。刀の形をしたものを集落の端のほこらにまつり、外から邪悪なものが集落に入ってこないようにしたという。もしかすると、広形銅矛の名残かもしれない。
朝鮮半島との綱引き
対馬にはいつごろから人々が暮らし始めたのだろう。この謎については、遺跡発掘が解明の糸口を与えてくれる。
縄文時代前期の約8千年前の地層からは、北部九州系の土器が出土している。ということは、この時期に九州から縄文人が丸木舟などに乗ってやってきたことになる。
それから1千年後、今度は朝鮮半島系の土器が出現。このころになって朝鮮半島の人々が渡ってきたようだ。
縄文時代中期(4500年前)以降は、北部九州の土器がまとまって見つかるようになり、佐賀県産の黒曜石も出土。発掘調査からみる限り、対馬は7千年前までは九州と朝鮮半島とで綱引き状態にあったのが、4500年前ごろからは明らかに九州の文化圏に入った。
国境紛争
対馬中部の浅茅湾を望む斜面を上ると、びっしりと積み上げられた石垣が突然姿を現す。あまりにも整然と積まれているため、せいぜい数百年前のものかと思いきや、1300年以上前の667年に築かれた砦(とりで)「金田城」の石垣だった。
663年、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)(のちの天智天皇)らは、同盟国・百済(朝鮮半島南部)再興を期して、唐・新羅連合軍と戦ったが惨敗。この白村江(はくすきのえ)の戦いの4年後、朝鮮半島との最前線・対馬に国土防衛の要として築かれたのが、金田城だった。
東国などから防人(さきもり)として兵士を集め、対馬だけでなく壱岐、筑紫(福岡)にも配備。金田城には頂上部にのろしを設け、敵軍接近など異変があれば煙によって島内の別の場所に伝達し、壱岐を経て福岡までリレーで結んだという。
金田城跡の石垣は高さ10メートルほどあるが、多くが当時のままで残っている。石垣の総延長は2キロ以上。現在は観光ルートになっており、頂上まで50分ほどかかる。昭和57年に対馬で唯一の国特別史跡になり、平成5年度からは発掘調査が行われ、掘っ立て柱建物跡や柵列跡などを発見。14年度からは石垣の修復や周辺整備に取りかかり、休憩所や解説板が設けられている。
当時の都・飛鳥(奈良県)からはるか600キロも離れた孤島に積み上げられた石垣。1300年以上崩れずに残る石一つ一つには、国家を守ろうとした飛鳥時代の指導者たちの気構えが込められていた。
随 581-
唐 618-907
〇_朝鮮半島
北部 高句麗 前37-668
中部 新羅 356- 935
南部 百済 346-660
〇_日本国
平城京 元明天皇 710
長岡京 桓武天皇 784
※日本国は、遣隋使や遣唐使のように、随・唐時代は、中国とは交流が盛んだった。元時代になって疎遠になる
【萌える日本史講座】国境の孤島「対馬」の謎に迫る
2011.5.21 18:00
島の奥深くまで入り込んだリアス式海岸。一見するとダム湖のようにも=長崎県対馬市
「壱岐・対馬」-。まるできょうだいのように、ひとくくりにしてしまいがちな玄界灘に浮かぶ2つの島。どちらも長崎県に属し、朝鮮半島と日本を結ぶ玄関口として古代から栄えた海洋王国だった。
しかし、島のおもむきは全く異なる。
のどかな田園風景が広がる壱岐に対し、対馬は海岸からすぐ急峻(きゅうしゅん)な山並みが迫り、リアス式海岸がうねるように島を取り巻く。島の北端からは韓国の山々がかすかに望める一方、航空自衛隊がレーダー監視を行うなど、国境の島ならではの緊張感も漂う。魏志倭人伝の舞台でもある対馬を訪ねた。(小畑三秋)
「土地山険」
島巡りに車を走らせると、いきなり急カーブの連続だった。山中を縫うように走る国道からは、細長い湖のような水面が見え隠れする。「ダム湖かな」とよく見ると、海。リアス式海岸が島の奥まで入り込んでいた。水平線は全く見えない。
「(朝鮮半島から)始めて一海を渡ること千余里、対馬国にいたる。居するところ絶島にして、方四百余里ばかり。土地山険にして深林多く、道路は禽鹿(きんろく)の径(けい)(獣道)のごとし」
1800年前の倭国(日本)について記した中国の歴史書、魏志倭人伝の一節だ。「絶島」という表現が、神秘性を増幅させる。
本土を圧倒
国境の島であることは、島内の遺跡からもうかがえる。
なかでも、考古学者を一様に圧倒させるのが、弥生時代を代表する青銅器、銅矛(どうほこ)の数。朝鮮半島から伝わり、本来は突き刺すための武器だったが、対馬で発見された銅矛の大半は、刃の部分が平らで、巨大なヘラのようになっている。九州北部で誕生した日本独自のもので、「広形銅矛」と呼ばれる。長さ80~90センチ、重さは2キロ。とても戦場で武器として振り回すことはできない。
この広形銅矛が、島内だけで国内最多の130本以上見つかっており、その数は九州北部をはるかにしのぐ。
権力者の副葬品として確認されているのはわずか5本程度で、大半は墓以外の何の変哲もない場所に埋められている。現在でも、道路工事中に突然発見されることがあるという。
対馬市豊玉町郷土館では、数十本もの広形銅矛が展示されている。どっしりとした重量感でケース内に横たわる姿はまさに圧巻。神々への畏怖(いふ)さえ感じさせる。
大量埋納の謎
福岡から140キロも離れた対馬になぜ、これほど大量の広形銅矛が存在するのか-。
そのヒントはやはり、魏志倭人伝に隠されていた。「船に乗って南北に市糴(してき=交易)す」。朝鮮半島や倭国との間で盛んに交易していたことを記す。
この記述から、広形銅矛は航海の安全のためという説が浮かび上がる。当時の航海は手こぎボートのような小舟で、ただでさえ潮の流れが激しい対馬海峡を渡るのは命がけ。そのため、航海に出るときは銅矛を神々に捧げて祭祀(さいし)を行い、その後は再び地中に埋めたという。
ある研究者は「銅矛は霊力が強く、普段は力を封じこめるため地中に埋め、祭祀を行うときだけ掘り出して使ったのではないか」と推測する。
国境の守護神
一方、大量に埋められた広形銅矛がいずれも九州製であることから、「国境の守り」という説も有力だ。
対馬からわずか50キロ北方は韓国の釜山。晴れ渡った早朝には対馬の北端から韓国の山並みが見え、夜には釜山の街明かりが浮かび上がる。
謎を秘めた広形銅矛は、倭国の国境にあたる対馬に埋められ、その霊力によって朝鮮半島からの侵入を防ごうとした-。大量の広形銅矛は、それだけ半島勢力が脅威だったことをうかがわせる。
島内には戦前ごろまで、一風変わった風習が残っていた。「塞(さえ)の神祭り」。刀の形をしたものを集落の端のほこらにまつり、外から邪悪なものが集落に入ってこないようにしたという。もしかすると、広形銅矛の名残かもしれない。
朝鮮半島との綱引き
対馬にはいつごろから人々が暮らし始めたのだろう。この謎については、遺跡発掘が解明の糸口を与えてくれる。
縄文時代前期の約8千年前の地層からは、北部九州系の土器が出土している。ということは、この時期に九州から縄文人が丸木舟などに乗ってやってきたことになる。
それから1千年後、今度は朝鮮半島系の土器が出現。このころになって朝鮮半島の人々が渡ってきたようだ。
縄文時代中期(4500年前)以降は、北部九州の土器がまとまって見つかるようになり、佐賀県産の黒曜石も出土。発掘調査からみる限り、対馬は7千年前までは九州と朝鮮半島とで綱引き状態にあったのが、4500年前ごろからは明らかに九州の文化圏に入った。
国境紛争
対馬中部の浅茅湾を望む斜面を上ると、びっしりと積み上げられた石垣が突然姿を現す。あまりにも整然と積まれているため、せいぜい数百年前のものかと思いきや、1300年以上前の667年に築かれた砦(とりで)「金田城」の石垣だった。
663年、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)(のちの天智天皇)らは、同盟国・百済(朝鮮半島南部)再興を期して、唐・新羅連合軍と戦ったが惨敗。この白村江(はくすきのえ)の戦いの4年後、朝鮮半島との最前線・対馬に国土防衛の要として築かれたのが、金田城だった。
東国などから防人(さきもり)として兵士を集め、対馬だけでなく壱岐、筑紫(福岡)にも配備。金田城には頂上部にのろしを設け、敵軍接近など異変があれば煙によって島内の別の場所に伝達し、壱岐を経て福岡までリレーで結んだという。
金田城跡の石垣は高さ10メートルほどあるが、多くが当時のままで残っている。石垣の総延長は2キロ以上。現在は観光ルートになっており、頂上まで50分ほどかかる。昭和57年に対馬で唯一の国特別史跡になり、平成5年度からは発掘調査が行われ、掘っ立て柱建物跡や柵列跡などを発見。14年度からは石垣の修復や周辺整備に取りかかり、休憩所や解説板が設けられている。
当時の都・飛鳥(奈良県)からはるか600キロも離れた孤島に積み上げられた石垣。1300年以上崩れずに残る石一つ一つには、国家を守ろうとした飛鳥時代の指導者たちの気構えが込められていた。
2011年5月21日土曜日
児玉さん遺稿「われらは何をなすべきか」
(日刊スポーツ - 05月21日 10:15)
16日に胃がんのため亡くなった児玉清(こだま・きよし)さん(本名・北川清、享年77)の“遺稿”と思われる原稿が「文芸春秋」5月特別号に掲載されている。
東日本大震災を受け、同誌が特集した「われらは何をなすべきか」に緊急寄稿した。
児玉さんは2月下旬に体調不良を訴え都内の病院で検査、胃がんと診断された。
3月下旬に入院した闘病生活から推測すると、原稿は3月11日の大震災後の、入院直前に書かれたものとみられる。
同誌編集部によると、原稿の締め切りは3月24日前後に設定されており、手書きの、ファクスで送信されてきたという。
直後に本人から電話があり「内容に満足できないので、ボツ(不掲載)でも構いません。ご判断をお任せします。必要とあれば書き直します」と伝えてきたという。
しかし、その後病状が悪化したのか、再び原稿が送られることはなかったという。
書き出しは
「この国の危機管理のお粗末さに日々啞然としている」と怒りの心境が込められていた。
菅首相の震災対応についても「“決死で頑張る”とか精神論を披歴するだけ、まるで昔の旧軍人総理となんら変わらない幼稚さだ」と厳しく批判。
原発問題についても東京電力の対応を後手後手とし、「日本は完全に幼稚化した人間たちがリーダーシップを握っていることを露呈した」と続けた。
震災への具体的な対応、危機を乗り越えるために何をなすべきかを訴えていた。
16日に胃がんのため亡くなった児玉清(こだま・きよし)さん(本名・北川清、享年77)の“遺稿”と思われる原稿が「文芸春秋」5月特別号に掲載されている。
東日本大震災を受け、同誌が特集した「われらは何をなすべきか」に緊急寄稿した。
児玉さんは2月下旬に体調不良を訴え都内の病院で検査、胃がんと診断された。
3月下旬に入院した闘病生活から推測すると、原稿は3月11日の大震災後の、入院直前に書かれたものとみられる。
同誌編集部によると、原稿の締め切りは3月24日前後に設定されており、手書きの、ファクスで送信されてきたという。
直後に本人から電話があり「内容に満足できないので、ボツ(不掲載)でも構いません。ご判断をお任せします。必要とあれば書き直します」と伝えてきたという。
しかし、その後病状が悪化したのか、再び原稿が送られることはなかったという。
書き出しは
「この国の危機管理のお粗末さに日々啞然としている」と怒りの心境が込められていた。
菅首相の震災対応についても「“決死で頑張る”とか精神論を披歴するだけ、まるで昔の旧軍人総理となんら変わらない幼稚さだ」と厳しく批判。
原発問題についても東京電力の対応を後手後手とし、「日本は完全に幼稚化した人間たちがリーダーシップを握っていることを露呈した」と続けた。
震災への具体的な対応、危機を乗り越えるために何をなすべきかを訴えていた。
<米国>オバマ大統領、欧州歴訪へ
(毎日新聞 - 05月21日 10:53)
【ワシントン古本陽荘】米ホワイトハウスは20日、フランス・ドービルの主要国首脳会議(G8サミット)出席に伴うオバマ大統領の訪欧日程を発表した。
5月23日(月) アイルランド、マカリース大統領と会談
オバマ大統領の母方の祖先の出身地とされるマネーゴール村を訪れ
24(火) ロンドン エリザベス女王と面会
キャメロン首相との会談
英国議会で米欧関係に関し演説
26(木) G8サミット ドービル(フランス) メドベージェフ露大統領、夕方に菅直人(当初は27日)
27(金) 〃 サルコジ仏大統領
ポーランドへ移動 コモロフスキ大統領とともに、中・東欧諸国の首脳らを招いて、夕食会を開く予定
28(土)ポーランド
【ワシントン古本陽荘】米ホワイトハウスは20日、フランス・ドービルの主要国首脳会議(G8サミット)出席に伴うオバマ大統領の訪欧日程を発表した。
5月23日(月) アイルランド、マカリース大統領と会談
オバマ大統領の母方の祖先の出身地とされるマネーゴール村を訪れ
24(火) ロンドン エリザベス女王と面会
キャメロン首相との会談
英国議会で米欧関係に関し演説
26(木) G8サミット ドービル(フランス) メドベージェフ露大統領、夕方に菅直人(当初は27日)
27(金) 〃 サルコジ仏大統領
ポーランドへ移動 コモロフスキ大統領とともに、中・東欧諸国の首脳らを招いて、夕食会を開く予定
28(土)ポーランド
「腕組み」が痛み緩和に効果、脳が混乱=英研究
(ロイター - 05月20日 16:06)
[ロンドン 20日 ロイター] 腕を組むことが脳の機能を混乱させ、痛みの緩和につながることが、20日発売の学術誌「Pain」に掲載される研究結果で明らかになった。
研究結果を発表したユニバーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)の科学者チームは、腕組みが痛みの軽減につながる理由として、腕を交差させることにより、体と外部空間を司る脳内の2つの場所で互いの情報が相反することにあるとした。
UCLのジャンドメニコ・イアネッティ氏は「日常生活ではたいてい、左側にあるものは左手で、右側にあるものは右手で触る」とし、その結果、体の右側および右側の空間を担当する部分はそれぞれ通常同時に活性化され、痛みの処理が非常に効率良く行われるという。
ところが腕を交差すると、同時には活性化されず、痛みなどの刺激が弱く感知されると説明した。
イアネッティ氏は「けがなどをした場合は、患部をさするだけでなく、腕組みもしたほうがいいかもしれない」と述べた。
研究では参加者8人に対し、レーザーを用いて体に触れることなく手に刺すような痛みを与え、腕組みをしたときとそうでないときを比較した。参加者自身が痛みの強さを評価したほか、脳波検査(EEG)で脳の反応も測定された。
その結果、参加者自身の評価とEEGの両方で、腕組みをしたときのほうが痛みの感じ方が弱かったという。
[ロンドン 20日 ロイター] 腕を組むことが脳の機能を混乱させ、痛みの緩和につながることが、20日発売の学術誌「Pain」に掲載される研究結果で明らかになった。
研究結果を発表したユニバーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)の科学者チームは、腕組みが痛みの軽減につながる理由として、腕を交差させることにより、体と外部空間を司る脳内の2つの場所で互いの情報が相反することにあるとした。
UCLのジャンドメニコ・イアネッティ氏は「日常生活ではたいてい、左側にあるものは左手で、右側にあるものは右手で触る」とし、その結果、体の右側および右側の空間を担当する部分はそれぞれ通常同時に活性化され、痛みの処理が非常に効率良く行われるという。
ところが腕を交差すると、同時には活性化されず、痛みなどの刺激が弱く感知されると説明した。
イアネッティ氏は「けがなどをした場合は、患部をさするだけでなく、腕組みもしたほうがいいかもしれない」と述べた。
研究では参加者8人に対し、レーザーを用いて体に触れることなく手に刺すような痛みを与え、腕組みをしたときとそうでないときを比較した。参加者自身が痛みの強さを評価したほか、脳波検査(EEG)で脳の反応も測定された。
その結果、参加者自身の評価とEEGの両方で、腕組みをしたときのほうが痛みの感じ方が弱かったという。
原発対処 放水など任務解除 線量、熱画像計測も終了
福島第1原発の復旧作業の進捗を受け、折木統幕長は5月3日、福島・楢葉町のJビレッジに前方展開する3自衛隊の高圧消防車部隊(放水冷却隊)と陸自74式戦車部隊(機動路啓開隊)に任務解除を命じた。
これを受け、陸自中央即応集団は同日、現地で任務終了式を行い、両部隊を原隊に戻した。
3自消防車部隊で編成された「放水冷却隊」は原子炉建屋の水素爆発後に現地に入り、放射能汚染の環境下で、3月17日の空自救難消防車を皮切りに3自消防車5両で原子炉3号機に放水。
同21日までに陸自木更津、北宇都宮、相馬原、霞ヶ浦、立川各駐屯地、海自下総、館山両基地、空自百里、入間、三沢、小松、小牧各基地から現地入りした延べ44両が計336トンを放水して原子炉の冷却に当たった。
一方、1戦大(駒門)と1機甲教(同)の戦車2両、戦車回収車1両、1後支連(練馬)の車両などで編成された「機動路啓開隊」は3月20日から瓦礫除去のためJビレッジで即応態勢をとっていた。出動はなかった。
福島第1原発ではその後、近くの坂下ダムから淡水が引かれたほか、東電手配のタンクローリー車と岸壁に接岸した米軍バージ船により水源が確保され、核燃料プールへの注水用に大型コンクリートポンプ車などが導入された。
また、瓦礫除去についても遠隔操縦式の油圧ショベルなど各種器材が導入され、東電で対応できるようになった。
3日に行われた任務終了式では、田浦即応集団副司令官が訓示、「自衛隊の原発対処任務はまだ道半ばだが、本日、放水冷却隊と機動路啓開隊の編成を解組する。今般の厳しい任務に諸官らと共に立ち向かい、共に戦えたことを誇りに思う。各人が危険を顧みず献身的に行動してくれたことに心から感謝する」と述べ、約1カ月 半にわたり原子力災害に立ち向かった隊員をねぎらった。即応集団では今後もJビレッジに連絡員を配置し、東電と連携していくほか、福島県内での除染活動などに当たる。
◇ 自衛隊機による上空からの福島第1原発の撮影と原子炉各施設の放射線量計測、赤外線サーモグラフィーによる熱画像計測作業も4月26日で終了した。
空自偵察航空隊(百里)のRF4偵察機による航空偵察は3月11日の震災直後から、また陸自ヘリ団(木更津)のCH47ヘリを使った技本の赤外線温度計測と陸自の放射線量計測は3月19日から続けられていた。今後は原発の非常事態に備えて態勢を保持しながら待機する。
これを受け、陸自中央即応集団は同日、現地で任務終了式を行い、両部隊を原隊に戻した。
3自消防車部隊で編成された「放水冷却隊」は原子炉建屋の水素爆発後に現地に入り、放射能汚染の環境下で、3月17日の空自救難消防車を皮切りに3自消防車5両で原子炉3号機に放水。
同21日までに陸自木更津、北宇都宮、相馬原、霞ヶ浦、立川各駐屯地、海自下総、館山両基地、空自百里、入間、三沢、小松、小牧各基地から現地入りした延べ44両が計336トンを放水して原子炉の冷却に当たった。
一方、1戦大(駒門)と1機甲教(同)の戦車2両、戦車回収車1両、1後支連(練馬)の車両などで編成された「機動路啓開隊」は3月20日から瓦礫除去のためJビレッジで即応態勢をとっていた。出動はなかった。
福島第1原発ではその後、近くの坂下ダムから淡水が引かれたほか、東電手配のタンクローリー車と岸壁に接岸した米軍バージ船により水源が確保され、核燃料プールへの注水用に大型コンクリートポンプ車などが導入された。
また、瓦礫除去についても遠隔操縦式の油圧ショベルなど各種器材が導入され、東電で対応できるようになった。
3日に行われた任務終了式では、田浦即応集団副司令官が訓示、「自衛隊の原発対処任務はまだ道半ばだが、本日、放水冷却隊と機動路啓開隊の編成を解組する。今般の厳しい任務に諸官らと共に立ち向かい、共に戦えたことを誇りに思う。各人が危険を顧みず献身的に行動してくれたことに心から感謝する」と述べ、約1カ月 半にわたり原子力災害に立ち向かった隊員をねぎらった。即応集団では今後もJビレッジに連絡員を配置し、東電と連携していくほか、福島県内での除染活動などに当たる。
◇ 自衛隊機による上空からの福島第1原発の撮影と原子炉各施設の放射線量計測、赤外線サーモグラフィーによる熱画像計測作業も4月26日で終了した。
空自偵察航空隊(百里)のRF4偵察機による航空偵察は3月11日の震災直後から、また陸自ヘリ団(木更津)のCH47ヘリを使った技本の赤外線温度計測と陸自の放射線量計測は3月19日から続けられていた。今後は原発の非常事態に備えて態勢を保持しながら待機する。
爆発リスク覚悟、陸自ヘリが緊迫の放水作戦
1番機長 伊藤輝記3陸佐(41)
2番機長 前原 敬徳1陸尉(37)
福島第一原子力発電所で自衛隊ヘリが3月17日に実施した空中からの放水作戦で、ヘリの機長らが、緊迫した機内の様子を振り返った。
ヘリ2機は、陸自第一ヘリ団(千葉県木更津市)に所属。17日午前、3号機の使用済み核燃料プールに対し、交互に計4回にわたって海水を投下した。
1番機で作戦を指揮した加藤憲司隊長(39)に最終的な出動命令が下ったのは当日早朝。前日に別のヘリが放水を試みた際には放射線量が高く断念し、この日は、被曝線量を抑えるため、300フィート(約90メートル)の高度を20ノット(時速37キロ)で通過しながら水を投下する作戦を立てた。
機体には放射線を防ぐタングステンのシートと鉛板を敷き詰め、隊員は防護服の上に鉛板が入ったチョッキを着用、体内被曝を防ぐヨウ素剤を服用した。
当時、露出した核燃料に水を掛ければ水蒸気爆発が起きる危険もあった。
「多少のリスクは覚悟していた。いかに正確に飛行するかに集中した」と1番機の伊藤輝紀機長(41)は振り返る。
(2011年5月21日08時01分 読売新聞)
(2011年5月21日08時01分 読売新聞)
【共同通信】
陸自放水ヘリ部隊が状況語る 原発上空「不安よぎった」
福島第1原発3号機に水を投下した陸上自衛隊第1ヘリコプター団の飛行隊長らが20日までに、共同通信などの取材に初めて応じ、当時の状況を語った。
福島第1原発3号機に水を投下した陸上自衛隊第1ヘリコプター団の飛行隊長らが20日までに、共同通信などの取材に初めて応じ、当時の状況を語った。
放射線への恐怖心はなかったとしながらも「原発上空では不安がよぎった」「全員に異常がなくほっとした」との心情も吐露。隊長らの話から“決死の任務”を再現した。
取材に応じたのは、CH47ヘリ2機による水投下を指揮した第104飛行隊隊長の加藤憲司2佐(39)、ヘリの機長を務めた伊藤輝紀3佐(41)、前原敬徳1尉(37)ら。
3号機の使用済み燃料プール冷却のため、3月17日午前、4回にわたり計約30トンの水を投下した。
第104飛行隊に「命令」が出たのは放水当日の早朝。加藤隊長は隊員らに「何か不具合があれば無線で連絡をくれ。しっかりやろう」と伝え、自らもヘリの1番機に乗り込んだ。健康診断を済ませた隊員は、ヨウ素剤を服用して搭乗。
1番機の伊藤機長は「恐怖はなかったが、防護マスクに防護衣、鉛のスーツも着て動きづらく、しっかり放水できるのか不安はあった」。
ヘリ2機が霞目駐屯地(仙台市)を離陸したのは午前8時56分。約80キロ南の3号機は折れ曲がった建屋の鉄骨をさらけ出していたが、2番機の前原機長は「建屋から煙が見えても動揺はなかった」。
ヘリ2機は高さ100メートル弱、時速約37キロで3号機に近づく。整備員がヘリ底部のハッチに取り付けたアクリル板越しに水の投下位置を確認する。9時48分。「放水用意―。放水」。伊藤機長の指示で別の整備員がボタンを押し、3号機に向けて水を浴びせた。
前原機長は「達成感でいっぱいだが、あまり思い返したくない。原発上空で実際に(水を)まくところまで行くと、少し不安がよぎった」と語った。
午前10時に放水4回を終え、除染後にヘリ2機が霞目駐屯地に戻ったのは午後2時9分。加藤隊長は「全員に異常がなかったのを確認して初めてほっとした」と振り返った。
2011/05/21 00:37 【共同通信】
イスラエルのスパイ、露の軍事技術協力情報に関心
【ロシアの声】2011年5月20日18:29
イスラエルのロシア駐在武官バディム・レイダーマン空軍大佐は、ロシアと一連のアラブ諸国および独立国家共同体(CIS)諸国との軍事技術協力と支援に関する情報入手を試みていた。ロシア連邦保安庁が20日、伝えた。
保安庁のデータによると、レイダーマン空軍大佐は、ロシアの一連の国家機関から軍事技術関連の機密情報を入手しようと試みていた。
空軍大佐は、「ペルソナ・ノン・グラータ(好ましからざる人物)」の通告を受け、5月14日にロシアから出国した。
イスラエルのロシア駐在武官バディム・レイダーマン空軍大佐は、ロシアと一連のアラブ諸国および独立国家共同体(CIS)諸国との軍事技術協力と支援に関する情報入手を試みていた。ロシア連邦保安庁が20日、伝えた。
保安庁のデータによると、レイダーマン空軍大佐は、ロシアの一連の国家機関から軍事技術関連の機密情報を入手しようと試みていた。
空軍大佐は、「ペルソナ・ノン・グラータ(好ましからざる人物)」の通告を受け、5月14日にロシアから出国した。
パキスタン:中国製戦闘機を購入 追加で50機、軍事関係を強化
米国 外交政策
米国⇔×パキスタン CIAが無人機で多数誤爆殺害
⇔×イスラエル 1967年以前の国境へ要求
【ニューデリー杉尾直哉】AP通信によると、パキスタンのギラニ首相は20日までの中国訪問中、中国製多用途戦闘機JF17(中国名、FC1梟竜(きょうりゅう))を新たに50機購入することで合意した。
国際テロ組織アルカイダのビンラディン容疑者殺害などを巡り、米国とパキスタンの関係が悪化する中、パキスタンが中国との軍事関係強化を印象付けた格好だ。
パキスタン空軍当局者が明らかにした。
納入時期や購入額などは不明だが、発注済みの150機に50機上乗せする合意とみられる。
JF17は、中国とパキスタンが共同開発し、パキスタンでは14機がすでに配備されている。1機当たり約1500万ドル(約12億円)で、「同等の性能」とされる米戦闘機F16の3分の1の価格だ。
毎日新聞 2011年5月21日 東京朝刊
【NewsBrief】中国、戦闘機50機をパキスタンに追加供給へ
2011年 5月 20日 16:33 JST
【北京】パキスタン空軍のスポークスマンによると、中国は「JF-17」戦闘機50機をパキスタンに追加供給することに合意した。同国は「既に得ているものに加え、50機の供給を受ける」という。
Associated Press
ギラニ首相(左)と温家宝首相(19日、北京の人民大会堂)
JF17は両国が共同開発した。パキスタンが受け取ることになっている最初の50機をパキスタンで組み立てている最中だ。同スポークスマンによると、今回の合意はパキスタンのギラニ首相による4日間の中国訪問中にまとまった。同首相は温家宝首相とも会談し、20日に訪問を終える。
米国では、パキスタンが国際テロ組織アルカイダの指導者だったウサマ・ビンラディン容疑者の潜伏を手助けしていた可能性があるとして、同国への援助を見直すべきだとの意見が出ている。
今回の中国訪問は、ビンラディン容疑者殺害よりもはるか前に決まっていたものではあるが、今回の合意は、米国がパキスタンへの援助を縮小した場合に、その空白を中国がこうした形で埋める可能性があることを示している。
中国はパキスタンへの最大の武器輸出国で、3番目の貿易相手国。
米国はパキスタンへの米戦闘機「F-16」の引き渡しを何度も延期している。
また引き渡してもインドに対して使わないように念を押してきた。米国は対中国のアジアへの勢力拡大とのバランスを考慮してインドとの戦略的パートナーシップを開拓しているためだ。
米国⇔×パキスタン CIAが無人機で多数誤爆殺害
⇔×イスラエル 1967年以前の国境へ要求
【ニューデリー杉尾直哉】AP通信によると、パキスタンのギラニ首相は20日までの中国訪問中、中国製多用途戦闘機JF17(中国名、FC1梟竜(きょうりゅう))を新たに50機購入することで合意した。
国際テロ組織アルカイダのビンラディン容疑者殺害などを巡り、米国とパキスタンの関係が悪化する中、パキスタンが中国との軍事関係強化を印象付けた格好だ。
パキスタン空軍当局者が明らかにした。
納入時期や購入額などは不明だが、発注済みの150機に50機上乗せする合意とみられる。
JF17は、中国とパキスタンが共同開発し、パキスタンでは14機がすでに配備されている。1機当たり約1500万ドル(約12億円)で、「同等の性能」とされる米戦闘機F16の3分の1の価格だ。
毎日新聞 2011年5月21日 東京朝刊
【NewsBrief】中国、戦闘機50機をパキスタンに追加供給へ
2011年 5月 20日 16:33 JST
【北京】パキスタン空軍のスポークスマンによると、中国は「JF-17」戦闘機50機をパキスタンに追加供給することに合意した。同国は「既に得ているものに加え、50機の供給を受ける」という。
Associated Press
ギラニ首相(左)と温家宝首相(19日、北京の人民大会堂)
JF17は両国が共同開発した。パキスタンが受け取ることになっている最初の50機をパキスタンで組み立てている最中だ。同スポークスマンによると、今回の合意はパキスタンのギラニ首相による4日間の中国訪問中にまとまった。同首相は温家宝首相とも会談し、20日に訪問を終える。
米国では、パキスタンが国際テロ組織アルカイダの指導者だったウサマ・ビンラディン容疑者の潜伏を手助けしていた可能性があるとして、同国への援助を見直すべきだとの意見が出ている。
今回の中国訪問は、ビンラディン容疑者殺害よりもはるか前に決まっていたものではあるが、今回の合意は、米国がパキスタンへの援助を縮小した場合に、その空白を中国がこうした形で埋める可能性があることを示している。
中国はパキスタンへの最大の武器輸出国で、3番目の貿易相手国。
米国はパキスタンへの米戦闘機「F-16」の引き渡しを何度も延期している。
また引き渡してもインドに対して使わないように念を押してきた。米国は対中国のアジアへの勢力拡大とのバランスを考慮してインドとの戦略的パートナーシップを開拓しているためだ。
米大統領がイスラエルに撤退要求 狙いは?
(日テレNEWS24 - 05月21日 03:05)
オバマ米大統領は19日、中東の民主化などを受けて新たな中東政策について演説し、イスラエルに入植地からの撤退を求めるなど譲歩を迫った。
オバマ大統領はなぜ今、イスラエルに譲歩を求めたのか。
ワシントン支局・赤堀有一記者が解説する。
中東の“民主化ドミノ”により、アメリカ、イスラエルと良好な関係を保ってきたエジプトでは、ムバラク大統領ら指導者が失脚したり、指導力を弱めたりしている。
中東の状況が以前と変わったため、アメリカはイスラエルに対し、強気一辺倒では周りの国々からますます反発が強まるだけだと諭した形。
国際テロ組織「アルカイダ」のウサマ・ビンラディン容疑者の殺害作戦が済んだことも影響している。
ビンラディン容疑者殺害は、過激派だけでなく、イスラム世界でアメリカに対する不満を強める結果となった。
イスラエルにも譲歩を迫ることで、この不満を少しでもそらしたい狙いもありそうだ。
オバマ大統領は中東和平を最優先課題に掲げてきた。
この演説を機に、イスラエルとパレスチナの両者を交渉のテーブルにつかせたい思惑があるが、両者とも今回の演説に反発していて、見通しは悲観的だ。
オバマ米大統領は19日、中東の民主化などを受けて新たな中東政策について演説し、イスラエルに入植地からの撤退を求めるなど譲歩を迫った。
オバマ大統領はなぜ今、イスラエルに譲歩を求めたのか。
ワシントン支局・赤堀有一記者が解説する。
中東の“民主化ドミノ”により、アメリカ、イスラエルと良好な関係を保ってきたエジプトでは、ムバラク大統領ら指導者が失脚したり、指導力を弱めたりしている。
中東の状況が以前と変わったため、アメリカはイスラエルに対し、強気一辺倒では周りの国々からますます反発が強まるだけだと諭した形。
国際テロ組織「アルカイダ」のウサマ・ビンラディン容疑者の殺害作戦が済んだことも影響している。
ビンラディン容疑者殺害は、過激派だけでなく、イスラム世界でアメリカに対する不満を強める結果となった。
イスラエルにも譲歩を迫ることで、この不満を少しでもそらしたい狙いもありそうだ。
オバマ大統領は中東和平を最優先課題に掲げてきた。
この演説を機に、イスラエルとパレスチナの両者を交渉のテーブルにつかせたい思惑があるが、両者とも今回の演説に反発していて、見通しは悲観的だ。
2011年5月20日金曜日
歴史振り返る:日本海軍青島占拠の裏側
発信時間: 2011-05-20 11:12:35 チャイナネット
多くの日本企業と日本人移住者達がいた青島は、長い間日本軍にとって戦略目標の重点的存在だった。
1937年「七七事変(盧溝橋事件)」勃発。7月11日、日本海軍中央部は機密第242号令を発布、青島における海軍の用兵方針を確定し、「青島での事態悪化に備えた兵力」を配備し始めた。更にその同日、日本の陸軍と海軍は「やむをえない場合は青島、上海付近で日本人移住者達を保護する」とし、それを「陸海軍が必要な兵力を以って共同で行う」ことで合意した。
1937年「七七事変(盧溝橋事件)」勃発。7月11日、日本海軍中央部は機密第242号令を発布、青島における海軍の用兵方針を確定し、「青島での事態悪化に備えた兵力」を配備し始めた。更にその同日、日本の陸軍と海軍は「やむをえない場合は青島、上海付近で日本人移住者達を保護する」とし、それを「陸海軍が必要な兵力を以って共同で行う」ことで合意した。
8月13日、日中戦争勃発。翌日、日本軍は直ちに青島への出兵を決定し、いわゆる「現地保護」政策を実行、陸海軍は連携して青島における日本の利益「保護」に当たった。しかし、上海の戦況が日本軍の戦略構想をはるかに超えるものであったため、海上で待機していた青島攻撃部隊も上海への増援を余儀なくされ、日本は外交的手段を通じて、日本人を避難させ、一時的に青島から撤兵することで青島当局と合意した。
海軍の青島への単独突入
日本軍は、上海、南京の戦局が一段落すると、今度は青島への攻撃を計画。しかし、青島地上戦の責任者である陸軍司令部が「陸海軍提携方針の下、華北地方所属部隊の青島西方への攻撃を待って、海軍とともにこれを占領すべし」との考えを固持したため、先延ばしされていた。日本海軍司令部と現地第四艦隊は、情勢から判断すれば、現在青島における中国兵力は少なく、海軍は単独でこれを処理できるため、これ以上作戦開始を遅らせるべきではないと考えていた。そして、陸海軍の意見は平行線のまま、日本第四艦隊豊田副武司令官により、海軍単独での青島突入が提議される。
12月23日、日本陸軍が黄河を渡り、青島への攻撃態勢を整える中、海軍は歩みを速め、海上勢力の優勢を利用し素早く青島入りし、先に占拠を遂げた。陸海軍は、青島侵略の過程で互いに先を争う結果となった。
1938年1月7日、日本大本営海軍部は、「中国方面艦隊」長官に対し、「現任務を遂行するため、時期を見て青島を占拠すべし」という大海令を発した。これにより、日本第四艦隊は攻撃日を1月10日に決めた。
青島侵略のため、日軍第四艦隊は航空母艦「龍驤」号、巡洋艦「足柄」号、軽巡洋艦「球磨」号、水上機母艦「能登呂」号、特設水上機母艦「衣笠丸」号等60余りの艦艇を動員した。1月7日、日軍艦隊は一斉に青島方向へと移動。
1月10日7時52分、日軍第一波部隊は抵抗に遭うことなく、陸上戦部隊は13時45分、全員上陸完了。この間、姜哥庄で哨戒任務に当たっていた2隻の軍艦が8時35分に海岸付近の高台を約10分間砲撃した以外には特に大きな戦闘はなかった。15時30分、青島市政府を占領、18時30分には市内掃討完了、青島を全面的に占拠した。
日本陸軍は青島占拠に対する自身の意図があった。陸上部隊の青島占拠が困難な状況に気付くと、海上からも部隊を派遣、1月11日に青島港入りし、華北方面軍の基地を建設した。また、国崎支隊を1月14日に上陸させ、青島付近での警備任務に当たらせた。交通施設が破壊されていたため、山東内地から青島攻撃に向かう陸軍の動きは遅く、1月19日にようやく青島に到着、そして膠済沿線の警備配置が完了した。
華北植民地の中心をめぐる争い
先に上陸した海軍が青島の重要建築物や施設、埠頭等を占領していたため、辺り一面に「海軍管理」の張り紙が張られ、港湾管理部まで設置されていた。
これらの建築物の管理、警備方法について陸海軍の間には激しい摩擦と対立があった。双方とも青島での協議では決着がつかず、1月27日、大本営陸海軍の調整によって、ようやく合意に達した。
しかし、青島の第四艦隊と第二軍間の交渉がなかなか進まず、港務、郵務、電務等について、ようやく合意が得られたのは3月26日のことだった。
この合意により表面的には問題解決となったが、間もなく陸海軍の華北統治の中心を天津とするか、青島とするかで、双方の対立は再び表面化することとなる。
天津と青島はともに華北の要地であり、華北植民地の中心をどこに置くかで、日本軍上層部の意見は2つに分かれていた。
それが、陸軍の主張する「天津中心論」と海軍の主張する「青島中心論」だった。
七七事変(盧溝橋事件)後、天津港は日本が統治する華北地区で唯一爆撃を受けていない港だった。
1938年6月、日本が制定した華北産業開発第一次五年計画では、青島港を中心とする山東資源開発計画は、その重点計画となっていなかった。
しかし、青島出張所の実権を握る海軍部が「青島中心論」を固持し、これをもって華北地区の発言権を奪い取った。青島港の修復や拡張、そして綿糸工場の再建が進むにつれ、青島の経済力や潜在的可能性が突出し、日本は青島の戦略的地位を見直すようになる。大規模な調査を行い、青島を中心とする「山東開発計画」等の戦略を打ち立てた。
1941年末には、しだいに「青島中心論」が「天津中心論」に取って代わり、青島の戦略的地位はより多くの日本軍上層部に認められるようになった。
「中国網日本語版(チャイナネット)」 2011年5月20日
「中国網日本語版(チャイナネット)」 2011年5月20日
指揮官自ら体育館に…常識を気にしない掃海部隊
★桜林美佐「東日本大震災と自衛隊」
2011.05.20
連載:誰かのために
「妊婦さんのご遺体を収容したんです。かわいそうで…」
その若い海上自衛隊隊員は、ショックを隠せず、ずっとそのことを口にしては声を詰まらせた。
ランドセルを背負ったままの子供の遺体を発見して、涙が止まらない隊員もいた。
「ぶんご」艦上には多い時で7柱の遺体が安置された。隊員が手作りで設置した祭壇に線香がたかれ、果物やご飯が供えられる。その後、ヘリコプターで遺体安置所に運ばれるが、ヘリが飛び立つときは、全員が甲板に集まり、敬礼して見送った。
日がたつにつれ、遺体の痛みは激しくなった。隊員たちも震災後、直ちに緊急出港の準備に入り、息つく間もなかった。
行方不明者の捜索は早朝から始まるが、司令部では、その報告書作成などで、深夜までの作業となる。疲労感とともに、生存者を発見できない虚無感で、皆、言葉少なくなっていった。
それでも翌朝には、誰もがテキパキと持ち場の任務をこなしている。
自衛官である責務と誇りが彼らを奮い立たせていたのだ。
被災者への生活支援も、震災発生の日から到着した艦艇により始められていた。
掃海部隊は小型艦艇である特徴を生かし、リアス式海岸の入り組んだ半島や、湾の奥に点在する孤立した集落の被災者支援にあたっていた。
「どなたかいらっしゃいませんか-」
陸に上がり、メガホンで呼びかけているのは爆発物を処理する海のエリート、EOD(水中処分員)だった。
陸上からの行方不明者捜索も行っていたのだ。被災者に出会うと、御用聞きもした。 掃海部隊では同じ艇が毎回、同じ島を支援し、なるべく人生経験豊富なベテランが行くようにしていた。
いつも違う人が来ると、島の人も同じ説明を何度もすることになるし、若い者より話しやすいだろうという配慮だった。
「大変ですが、頑張ってください」
支援物資の入った段ボールに若い隊員はメッセージを書いて託した。
そして、自分たちが買って持っていたお菓子を集め、子供たち向けにポリ袋に小分けにした。 「外よりも寒いな…」
福本掃海隊群司令は、避難所の体育館に入った。
足を踏み入れなければ分からない空気と温度。それを感じたかったのだ。
指揮官自らそんなことをするのは、適切ではないかもしれない。
しかし、この部隊に脈々と流れるのは、そんな常識を気にしない大胆なDNAだ。
護衛艦乗りとはまた違う、掃海部隊ならではの流儀だった。
群司令はメガホンを手に取った。
【関連記事】
“海の工兵”EOD、事態は一刻を争うが「まず調査だ」5.19
行方不明者捜索に「EODを集めよう」 海のエリート集団5.18
国防担う掃海部隊 節目の20年「先輩に恩返しを」5.17
原発所長は涙ポロポロ…自衛隊幹部「最後は我々が必ず」5.16
無口なる勇士の活動、世に知られない「努力や功績」5.13
「自分は被曝2世」…1人原発へ「無理はせんけん。させんけん」5.12
「何で、父ちゃんなの?」任務恨まず、士気は旺盛5.11
福島の熾烈な戦い「隊長が最初に突っ込んだんだ、オレたち…5.10
自衛隊員に迫る桜林美佐さん連載「誰かのために」第2部ス…5.6
何ができるかのか…“繊細”な分析は厳しい訓練の賜物5.6
理屈を超越した「勇気」と「決断」強く優しい戦士たち4.18
募る自責の念「もっとキツいことを」「もっとやらねば」4.15
代わりのいない重圧“涙”の全力 陰のヒーロー「業務隊」4.14
奮闘する女性自衛官「ひと時でも心和んでもらうこと」4.13
「諦めるな!1人でも多く救い出そう」4.12
想定外の要望でも「何とか」 後方支援部隊の奔走4.11
「試練は乗り越えるためにある」復旧作業する隊員たち4.8
部屋は他部隊に譲り、食料は住民に 滑走路使えず「できる…4.7
復興へ…全員の心が一つになった「滑走路を1日でも早く」4.6
「危ない!引き返せ」サイレンにかき消される声4.5
「これは訓練ではない」4.4
ハートを届けることも任務4.1
車両の裏に隠れて食事3.31
子供たちの前で涙見せられぬ 寒さと恐怖と不安3.30
自分の事を後に回し「ありがとう」しか出てこない3.30
2011.05.20
連載:誰かのために
「妊婦さんのご遺体を収容したんです。かわいそうで…」
その若い海上自衛隊隊員は、ショックを隠せず、ずっとそのことを口にしては声を詰まらせた。
ランドセルを背負ったままの子供の遺体を発見して、涙が止まらない隊員もいた。
「ぶんご」艦上には多い時で7柱の遺体が安置された。隊員が手作りで設置した祭壇に線香がたかれ、果物やご飯が供えられる。その後、ヘリコプターで遺体安置所に運ばれるが、ヘリが飛び立つときは、全員が甲板に集まり、敬礼して見送った。
日がたつにつれ、遺体の痛みは激しくなった。隊員たちも震災後、直ちに緊急出港の準備に入り、息つく間もなかった。
行方不明者の捜索は早朝から始まるが、司令部では、その報告書作成などで、深夜までの作業となる。疲労感とともに、生存者を発見できない虚無感で、皆、言葉少なくなっていった。
それでも翌朝には、誰もがテキパキと持ち場の任務をこなしている。
自衛官である責務と誇りが彼らを奮い立たせていたのだ。
被災者への生活支援も、震災発生の日から到着した艦艇により始められていた。
掃海部隊は小型艦艇である特徴を生かし、リアス式海岸の入り組んだ半島や、湾の奥に点在する孤立した集落の被災者支援にあたっていた。
「どなたかいらっしゃいませんか-」
陸に上がり、メガホンで呼びかけているのは爆発物を処理する海のエリート、EOD(水中処分員)だった。
陸上からの行方不明者捜索も行っていたのだ。被災者に出会うと、御用聞きもした。 掃海部隊では同じ艇が毎回、同じ島を支援し、なるべく人生経験豊富なベテランが行くようにしていた。
いつも違う人が来ると、島の人も同じ説明を何度もすることになるし、若い者より話しやすいだろうという配慮だった。
「大変ですが、頑張ってください」
支援物資の入った段ボールに若い隊員はメッセージを書いて託した。
そして、自分たちが買って持っていたお菓子を集め、子供たち向けにポリ袋に小分けにした。 「外よりも寒いな…」
福本掃海隊群司令は、避難所の体育館に入った。
足を踏み入れなければ分からない空気と温度。それを感じたかったのだ。
指揮官自らそんなことをするのは、適切ではないかもしれない。
しかし、この部隊に脈々と流れるのは、そんな常識を気にしない大胆なDNAだ。
護衛艦乗りとはまた違う、掃海部隊ならではの流儀だった。
群司令はメガホンを手に取った。
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行方不明者捜索に「EODを集めよう」 海のエリート集団5.18
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何ができるかのか…“繊細”な分析は厳しい訓練の賜物5.6
理屈を超越した「勇気」と「決断」強く優しい戦士たち4.18
募る自責の念「もっとキツいことを」「もっとやらねば」4.15
代わりのいない重圧“涙”の全力 陰のヒーロー「業務隊」4.14
奮闘する女性自衛官「ひと時でも心和んでもらうこと」4.13
「諦めるな!1人でも多く救い出そう」4.12
想定外の要望でも「何とか」 後方支援部隊の奔走4.11
「試練は乗り越えるためにある」復旧作業する隊員たち4.8
部屋は他部隊に譲り、食料は住民に 滑走路使えず「できる…4.7
復興へ…全員の心が一つになった「滑走路を1日でも早く」4.6
「危ない!引き返せ」サイレンにかき消される声4.5
「これは訓練ではない」4.4
ハートを届けることも任務4.1
車両の裏に隠れて食事3.31
子供たちの前で涙見せられぬ 寒さと恐怖と不安3.30
自分の事を後に回し「ありがとう」しか出てこない3.30
まさかの友こそ真の友…トモダチ作戦命名秘話
(読売新聞 - 05月20日 09:27)
「Operation Tomodach」(トモダチ作戦)の命名の経緯が19日、複数の日米関係筋の話でわかった。
名付け親は、退役米空軍軍人で、現在、米太平洋軍司令部(ハワイ)北東アジア政策課日本担当の職員として勤務しているPaul Wilcoxポール・ウィルコックス氏(54)。
日本を全面支援する米政府の方針を受け、作戦にふさわしい名前を司令部内で検討した際、同氏が発案した。
在日米軍基地での勤務経験はないが、仕事を通じた日本の友人が多い同氏は、聖書の教えなどを踏まえ、「A friend in need is a friend indeed まさかの友こそ真の友」という言葉通りに米国が行動することを日本国民に知ってもらうため、「トモダチ」という言葉を思いついたという。
太平洋軍のウィラード司令官が同氏の案の採用を決めた。
「Operation Tomodach」(トモダチ作戦)の命名の経緯が19日、複数の日米関係筋の話でわかった。
名付け親は、退役米空軍軍人で、現在、米太平洋軍司令部(ハワイ)北東アジア政策課日本担当の職員として勤務しているPaul Wilcoxポール・ウィルコックス氏(54)。
日本を全面支援する米政府の方針を受け、作戦にふさわしい名前を司令部内で検討した際、同氏が発案した。
在日米軍基地での勤務経験はないが、仕事を通じた日本の友人が多い同氏は、聖書の教えなどを踏まえ、「A friend in need is a friend indeed まさかの友こそ真の友」という言葉通りに米国が行動することを日本国民に知ってもらうため、「トモダチ」という言葉を思いついたという。
太平洋軍のウィラード司令官が同氏の案の採用を決めた。
「67年に戻る必要ない」イスラエル首相、米大統領案を拒絶
【産経】2011.5.20 09:44
18日、エルサレムで会見するイスラエルのネタニヤフ首相(ロイター)
【カイロ=大内清】イスラエルのネタニヤフ首相は19日、オバマ米大統領が中東政策に関する演説で、将来のパレスチナ国家とイスラエルとの国境線をめぐる交渉は1967年の第3次中東戦争以前の境界線に基づくべきだとの考えを示したことについて、「67年に立ち戻る必要はない」と拒絶する声明を出した。
AP通信などによると、声明でネタニヤフ氏は、ヨルダン川西岸から完全に撤退し67年以前の境界線に戻った場合、「国の安全を守ることができない」などと主張。パレスチナ側が将来の首都に想定する占領地東エルサレムを手放す考えはないことも強調した。
一方、パレスチナ自治政府のアッバス議長は、近くパレスチナ解放機構(PLO)幹部らと会合を開き、オバマ大統領の演説の内容を検討して今後の対応を決めるとしている。
米大統領、イスラエルに譲歩要求 67年境界線尊重を
2011.5.20 09:01 (1/2ページ)
クリックして拡大する
19日、米ワシントンの国務省で中東政策に関する演説を行うオバマ大統領(ロイター)
【ワシントン=犬塚陽介】オバマ米大統領は19日、米国の包括的な中東政策に関して演説し、民主化の波及で中東は「歴史的な機会」を得ていると称賛した。中東和平交渉の再開の必要性にも言及し、将来的なパレスチナ国家の国境線は、イスラエルが占領地を拡大した1967年の第3次中東戦争前の境界線に基づくべきだと強調した。占領地からの撤退につながりかねない内容にイスラエル側は反発している。
米国の大統領が67年以前の境界線に立ち返る必要性に言及したのは初めて。
イスラエルが第3次中東戦争後に占領・併合した地域には東エルサレムやヨルダン川西岸などが含まれており、入植が進んで中東和平交渉の障害の一つとなっている。
イスラエルのネタニヤフ首相は、占領地の返還につながるオバマ大統領の発言はイスラエルを「防衛不能にする」と反発。ネタニヤフ首相は20日、ホワイトハウスでオバマ大統領と会談する。
一方、オバマ大統領はパレスチナ側にも慎重な対応を要求。自治政府のアッバス議長が今年9月の国連総会で、パレスチナ国家の加盟承認を画策する動きを見せたことについて「イスラエルを孤立させる象徴的な行動」と批判した。
イスラエルとの武装闘争を続けるイスラム原理主義勢力ハマスとアッバス議長が率いるファタハの和解合意も疑問視し、「ハマスが恐怖と拒絶の道を主張する限り、パレスチナ指導層が平和と繁栄にたどり着くことはない」と語った。
民主化デモの弾圧が続くシリア情勢では「アサド大統領には選択肢がある。民主化への移行を主導するか、立ち去るかだ」と暴力の停止と改革の促進を強く迫った。イエメンやバーレーンの指導者にも、民主化を求める勢力との対話に応じるよう求めた。
オバマ大統領は中東に広がる民主化機運を歓迎。言論や集会、信仰の自由、法の下での男女平等や自由で公平な選挙の実施など「普遍的な権利」を支援していくことを表明した。
米軍によるウサマ・ビンラーディン容疑者殺害は国際テロ組織アルカーイダに「大きな打撃を与えた」と強調。ビンラーディン容疑者は「殉教者ではない。憎しみのメッセージを発し、イスラム教信者に武器を取るよう強要した大量殺人者だ」と切り捨てた。
18日、エルサレムで会見するイスラエルのネタニヤフ首相(ロイター)
【カイロ=大内清】イスラエルのネタニヤフ首相は19日、オバマ米大統領が中東政策に関する演説で、将来のパレスチナ国家とイスラエルとの国境線をめぐる交渉は1967年の第3次中東戦争以前の境界線に基づくべきだとの考えを示したことについて、「67年に立ち戻る必要はない」と拒絶する声明を出した。
AP通信などによると、声明でネタニヤフ氏は、ヨルダン川西岸から完全に撤退し67年以前の境界線に戻った場合、「国の安全を守ることができない」などと主張。パレスチナ側が将来の首都に想定する占領地東エルサレムを手放す考えはないことも強調した。
一方、パレスチナ自治政府のアッバス議長は、近くパレスチナ解放機構(PLO)幹部らと会合を開き、オバマ大統領の演説の内容を検討して今後の対応を決めるとしている。
米大統領、イスラエルに譲歩要求 67年境界線尊重を
2011.5.20 09:01 (1/2ページ)
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19日、米ワシントンの国務省で中東政策に関する演説を行うオバマ大統領(ロイター)
【ワシントン=犬塚陽介】オバマ米大統領は19日、米国の包括的な中東政策に関して演説し、民主化の波及で中東は「歴史的な機会」を得ていると称賛した。中東和平交渉の再開の必要性にも言及し、将来的なパレスチナ国家の国境線は、イスラエルが占領地を拡大した1967年の第3次中東戦争前の境界線に基づくべきだと強調した。占領地からの撤退につながりかねない内容にイスラエル側は反発している。
米国の大統領が67年以前の境界線に立ち返る必要性に言及したのは初めて。
イスラエルが第3次中東戦争後に占領・併合した地域には東エルサレムやヨルダン川西岸などが含まれており、入植が進んで中東和平交渉の障害の一つとなっている。
イスラエルのネタニヤフ首相は、占領地の返還につながるオバマ大統領の発言はイスラエルを「防衛不能にする」と反発。ネタニヤフ首相は20日、ホワイトハウスでオバマ大統領と会談する。
一方、オバマ大統領はパレスチナ側にも慎重な対応を要求。自治政府のアッバス議長が今年9月の国連総会で、パレスチナ国家の加盟承認を画策する動きを見せたことについて「イスラエルを孤立させる象徴的な行動」と批判した。
イスラエルとの武装闘争を続けるイスラム原理主義勢力ハマスとアッバス議長が率いるファタハの和解合意も疑問視し、「ハマスが恐怖と拒絶の道を主張する限り、パレスチナ指導層が平和と繁栄にたどり着くことはない」と語った。
民主化デモの弾圧が続くシリア情勢では「アサド大統領には選択肢がある。民主化への移行を主導するか、立ち去るかだ」と暴力の停止と改革の促進を強く迫った。イエメンやバーレーンの指導者にも、民主化を求める勢力との対話に応じるよう求めた。
オバマ大統領は中東に広がる民主化機運を歓迎。言論や集会、信仰の自由、法の下での男女平等や自由で公平な選挙の実施など「普遍的な権利」を支援していくことを表明した。
米軍によるウサマ・ビンラーディン容疑者殺害は国際テロ組織アルカーイダに「大きな打撃を与えた」と強調。ビンラーディン容疑者は「殉教者ではない。憎しみのメッセージを発し、イスラム教信者に武器を取るよう強要した大量殺人者だ」と切り捨てた。
<カンヌ映画祭>トリアー監督を追放 ヒトラー擁護発言で
毎日新聞 5月19日(木)23時33分配信
【カンヌ鈴木隆】第64回カンヌ国際映画祭は19日、ナチスドイツの総統、アドルフ・ヒトラーに共鳴する発言をしたとして、デンマークのラース・フォン・トリアー監督を「好ましからざる人物」として映画祭から追放すると発表した。
フォン・トリアー監督は、コンペティション部門に「メランコリア」を出品。00年には「ダンサー・イン・ザ・ダーク」で最高賞のパルムドールを受賞している。
現地の報道などによると、フォン・トリアー監督は18日の記者会見で「彼(ヒトラー)はいわゆるまともなやつではないが、私は彼の多くを理解する。少し、彼に共鳴するところもある」などと発言。「オーケー、おれはナチだ」と締めくくったという。
その後、謝罪したものの、評議会は「人間性や寛容を掲げる映画祭の理念に反し、受け入れ難い」などと判断した。ただし「メランコリア」はコンペ対象として残るという。 フォン・トリアー監督は同映画祭の常連で、毎回、扇情的で過激な描写で物議をかもす問題作を出品している
最終更新:5月20日(金)0時21分
【カンヌ鈴木隆】第64回カンヌ国際映画祭は19日、ナチスドイツの総統、アドルフ・ヒトラーに共鳴する発言をしたとして、デンマークのラース・フォン・トリアー監督を「好ましからざる人物」として映画祭から追放すると発表した。
フォン・トリアー監督は、コンペティション部門に「メランコリア」を出品。00年には「ダンサー・イン・ザ・ダーク」で最高賞のパルムドールを受賞している。
現地の報道などによると、フォン・トリアー監督は18日の記者会見で「彼(ヒトラー)はいわゆるまともなやつではないが、私は彼の多くを理解する。少し、彼に共鳴するところもある」などと発言。「オーケー、おれはナチだ」と締めくくったという。
その後、謝罪したものの、評議会は「人間性や寛容を掲げる映画祭の理念に反し、受け入れ難い」などと判断した。ただし「メランコリア」はコンペ対象として残るという。 フォン・トリアー監督は同映画祭の常連で、毎回、扇情的で過激な描写で物議をかもす問題作を出品している
最終更新:5月20日(金)0時21分
“ロマンポルノの百恵”日向明子さん死去
(サンケイスポーツ - 05月20日 08:06)
1980年代に「ロマンポルノの百恵ちゃん」と呼ばれ人気を博した女優、日向明子(ひゅうが・あきこ、本名・山辺妙子=やまべ・たえこ)さんが、3月5日に急性骨髄性白血病のため、都内の病院で死去していたことが19日、分かった。56歳だった。
故人の遺志により葬儀は行われなかった。所属事務所のHPによると、「御主人に見守られ、静かに四十九日を迎えることができました」としている。
1955年3月2日、愛媛県生まれ。79年、日活ロマンポルノ映画「白いふくらみ」(白井伸明監督、原作・川上宗薫)でデビュー。愛くるしい笑顔が魅力で、その後も映画やサスペンスドラマなどで活躍した。風景を描くペン画や水彩画はプロ級だった。
1980年代に「ロマンポルノの百恵ちゃん」と呼ばれ人気を博した女優、日向明子(ひゅうが・あきこ、本名・山辺妙子=やまべ・たえこ)さんが、3月5日に急性骨髄性白血病のため、都内の病院で死去していたことが19日、分かった。56歳だった。
故人の遺志により葬儀は行われなかった。所属事務所のHPによると、「御主人に見守られ、静かに四十九日を迎えることができました」としている。
1955年3月2日、愛媛県生まれ。79年、日活ロマンポルノ映画「白いふくらみ」(白井伸明監督、原作・川上宗薫)でデビュー。愛くるしい笑顔が魅力で、その後も映画やサスペンスドラマなどで活躍した。風景を描くペン画や水彩画はプロ級だった。
陸自第4師団 震災派遣の任務終了
〇_第41普通科連隊(別府駐屯地)400人
5月17日 出発 陸路・フェリー
5月19日 別府駐屯地へ到着
5月19日朝 福岡駐屯地(春日市)到着 車輛80輌
陸自第4師団 震災派遣の任務終了
被災地から戻り、出迎えを受ける派遣隊員(春日市の陸自福岡駐屯地で)
春日市に司令部を置く陸上自衛隊第4師団が東日本大震災への災害派遣任務を終了した。同市の福岡駐屯地には19日朝、隊員を乗せた車両約80台が戻った。
同師団は災害発生当日から順次、小倉、久留米など各駐屯地から人員4100人、車両1200台、ヘリコプター4機を被災地に派遣。遺体の捜索やがれき撤去などにあたったほか、約4600トンの水や食事約76万2000食などを提供した。「玄海の湯」「やまねこの湯」と名付けた仮設風呂は7万人が利用した。
震災翌日に同駐屯地を出発し、約2か月間現地で任務を続けた同師団司令部広報室の石井敬二室長は、宮城県気仙沼市内の避難所で地元高校生と同師団の音楽隊が合同で慰問演奏した際、被災者も取材の報道カメラマンも涙を流していた場面が印象に残っているという。
「悲惨な状況で、誰もがショックを受けていた。部隊の能力を発揮して支援できたと思う」と振り返った。
(2011年5月20日 読売新聞)
【大分放送】2011年 5月19日
別府駐屯地の部隊が帰県 [18:01]
宮城県気仙沼市で災害派遣活動にあたっていた陸上自衛隊別府駐屯地の隊員が任務を終えきょう帰ってきました。
陸上自衛隊第41普通科連隊の隊員およそ400人は支援活動を行っていた宮城県をおととい出発し陸路とフェリーできょう別府駐屯地に帰ってきました。
隊員は東日本大震災発生直後の3月12日からおよそ70日間にわたって宮城県気仙沼市で行方不明者の捜索を行いました。また、被災地でのがれきの撤去や炊き出しなどの支援も続けてきました。
おととい現地での任務を終え宮城県を出発する際これまで生活を共にしてきた被災者たちからは温かい拍手で見送られました。
きょうは報告会が行われ現地で活動を行った藤岡登志樹連隊長が隊員をねぎらいました。隊員たちは再び被災地での活動にあたれるよう準備を進めるということです。
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