2011年6月19日日曜日

仙谷由人 爆破事件実行犯を無罪にした人脈

NEWSポストセブン - 06月19日 16:10)

 1969年から1971年にかけて都内を中心に爆弾爆破事件が相次いだ。いわゆる「日石・土田邸ピース缶爆破事件」。  

郵便物に偽装された爆弾が土田國保(当時警視庁警務部長、後に警視総監)宅に送られて、夫人が爆死、四男が重傷を負うなどしており、容疑者として18人が逮捕されたが、証拠不十分などで1985年までに全員の無罪が確定している。

 最近出版された本でこの爆破実行犯が名乗り出た。

その過激派の元活動家は「当時は

政治ジャーナリストの角谷浩一は言う。

「この裁判で無罪を勝ち取った弁護団の中心に仙谷由人がいました。またその弁護士事務所に所属していたのが福島みずほ。土田の部下には亀井静香がいた」  



日石・土田爆弾事件 40年目の真相 中島 修(1/2)
6月8日(水)20時49分配信
月刊『創』2011年4月号より●はじめに…………………………編集部 冤罪事件が明らかになるたびに、我々は、警察や検察というものが一般に思われている以上に杜撰で危険な存在だと認識することになる。特に公安警察によるフレームアップ(でっち上げ)事件となると、真相がほとんど闇に葬られてしまうだけに始末が悪い。 そうした事件として、左翼や市民運動家の間でいまだに語り継がれているのが土田・日石・ピース缶事件だ。略して「土・日・P」という。 1971年10月18日、日石本館ビル地下の郵便局で小包が爆発、郵便局員が負傷した。小包の宛先は警察庁長官と新東京国際空港公団総裁。彼らを狙った爆弾であることは明らかだった。続いて12月18日、東京都豊島区雑司が谷の土田国保警視庁警務部長の個人邸で小包が爆発し、夫人が死亡、4男が重傷を負った。 当時、警察は大規模な捜査態勢を敷き、国家の威信にかけても犯人を捕まえようとした。そして72年9月、赤軍派系活動家とされたM氏が別件逮捕。彼の自白により、次々と多くの人間が逮捕されていった。土田・日石事件のほかに1969年に起きたピース缶爆弾事件も彼らの犯行として、総計18人(うち土田・日石事件で11人)が芋づる式に逮捕されたのだった。自白だけで物証が何もないまま起訴されたという意味で、当初から冤罪の疑いが極めて強い事件だった。 被告人らのほとんどが公判で、虚偽の自白をさせられたと無罪を主張。実際に、アリバイが見つかるケースも出て、捜査や供述の矛盾・非合理性が次々と指摘される結果となった。東京地裁は無罪を言い渡したが、検察側が控訴。1985年、高裁が1審の無罪判決を支持したことで、検察が上告を断念。全員の無罪が確定したのだった。この間、ピース缶爆弾事件には、真犯人を名乗る別人が、証人として現われるという一幕もあった。 その後、元被告らは1988年、国家賠償請求訴訟を起こした。しかし、裁判所は、一部を除いて却下。冤罪被害者らの名誉は十分回復されたとは言い難いままとなったのだった。もちろん彼ら元被告が無実だとして、では果たして誰があの爆弾事件を仕掛けたのか。真相は、その後40年を経た今日まで、闇に閉ざされたままだった。 そして、今回、その真相が初めて明らかになった。その詳細については、今回登場いただいた中島修氏の近々発売される著書で明らかにされるが、本誌は一足早く、その内容をお伝えすることにする。◆真実を明らかにして権力者たちに責任を◆―#N前の事件について、なぜいま真相を明らかにしようと考えたのか。まずその経緯を教えてください。【中島】日石・土田事件という戦後史に残る巨大な冤罪事件について、事実をきちんと記録しておく必要があるという思いから、2008年10月、ある程度事情を知っていた人間が集まりました。そうして、事件の実行者に連絡を取り、詳しい話を聞き出したのです。 結論から言うと、この2つの事件を起こしたのはブント戦旗派(日向派)の裏部隊でした。この裏部隊の隊長だった川原(仮名)から直接話を聞いて詳しい事実を知ることができたのです。 もちろん明らかにするにあたっては、刑事、民事での時効・除斥期間などを調べ、実行部隊全員、そして共謀共同正犯とみなされる可能性がある者全員の時効が成立したことを確認しています。また、損害賠償請求権の除斥期間も、同じく過ぎています。実行部隊のメンバーに真相を語ってもらうには、それを待たなければなりませんでした。 真相を明らかにしようと考えた動機は、あれだけの冤罪事件を起こしながら権力の責任は全く果たされていない。いわば冤罪被害者を灰色無罪にして逃げ切ったわけですが、それならば真実を明らかにして彼らに責任をとってもらおう。それが権力者たちに打撃を与える一番の方法だと考えたからです。――土田・日石事件はどういう経緯で起こされたのですか。【中島】まず、71年10月18日の日石爆弾事件ですが、小包のあて先は、後藤田正晴警察庁長官と新東京国際空港(成田空港)公団の今井栄文総裁のいずれも自宅でした。いわば当時の左翼にとっては最大の敵だった警察と成田空港のトップ2人だったのです。 事件を起こしたのは、ブント戦旗派の裏部隊です。隊長の川原(仮名)ら6人が自由が丘に設けたアジトで爆弾を製造し、変装をした女性メンバー2人が郵便局に持ち込みました。 使われた爆弾は、非常に単純なものでした。いわゆる起爆装置がなく、いきなり火薬本体に点火する、危険な仕組みです。火薬も裏部隊の隊員がゴルフ場から盗んだ除草剤をすりつぶし、パウダーシュガーと混ぜて作った手製です。それをアルミの弁当箱に詰め、その中にガスコンロ用の点火ヒーターを埋め込み、あり合わせの箱に入れて、手製のスイッチと電池をつないだという、非常に原始的な構造です。 スイッチは、2枚の小さなアルミ片を重ね、その間に絶縁体としてメジャー(巻き尺)を切り取った小片をはさんだだけの構造でした。小包を開けるために、外側をしばった荷づくりヒモを取り去ると、絶縁体が抜け、アルミ片同士が接触し、通電する仕組みでした。 郵便局で爆発が起きた原因は、郵便局員が小包本体を両手で支えて持つのではなくて、荷づくりヒモを持ち小包をぶら下げたため、ヒモが引っぱられ、点火してしまったためだと思います。それも、2つあった小包のうち片方は爆発しましたが、片方は燃えただけでした。おそらく接触不良だったのでしょう。このような単純な構造があだとなって、爆弾は送り先だった2人に届かず、無関係な郵便局員が負傷するという失敗に終わりました。◆爆弾を運んだ女性が眼鏡を忘れる大失態◆【中島】失敗はそれだけではありませんでした。爆弾を運搬した女性メンバー2人が現場近くの洗面所で変装をした際に、その様子を近くの理容室従業員に目撃されたうえ、そのうち1人が眼鏡を置き忘れるという大失態をしました。彼女はそのせいで、後日、警察に尾行・追跡されることになりました。 警察が事件後すぐに発表した2人のモンタージュ写真はかなりの出来映えで、特に片方は知っている人が見れば、一目でそれと分かるほどでした。その女性メンバーは、逮捕への重圧などから精神的に不安定になり、後々川原隊長の指示で海外へ脱出することになりました。 こうして日石爆弾事件は失敗に終わりましたが、裏部隊は事件後も爆弾の改良を重ねながら、新たな計画を押し進めていきました。 そうして2カ月後の12月18日、東京都豊島区雑司ヶ谷の土田国保警視庁警務部長(後の警視総監)の自宅に小包爆弾を郵送したのです。 今回の爆弾は、手製火薬や基本的な構造は前回と同様ですが、手製の雷管を改良し、弁当箱を大型にして火薬の量を増やしたほか、箱の外側に針金をぐるぐる、ほぼすき間なく巻きつけ、ガムテープで厳重に封をしました。密封性を高め、爆発の威力を上げることと、爆発時に針金が粉々に飛び散って、破壊力を増すための工夫でした。 また、スイッチ部分には、日石爆弾事件の失敗を踏まえて、市販のマイクロスイッチを使用することにしました。ふたを開ければ、マイクロスイッチのバネ板レバーが持ち上がって通電する仕組みでした。爆弾は、お歳暮を偽装するため、カステラの化粧箱に入れました。 爆弾は日石事件とは違う女性メンバーが、1人で神田南神保町郵便局に持って行きました。この郵便局を選んだ理由は、ここが送り主として名前を借用した防衛庁の久保卓也防衛局長(土田警務部長とは旧内務省で同期)の自宅から近いからでした。 この爆弾は途中で爆発したりせずに、土田邸まで配達されましたが、本人が不在の時に夫人が小包を開いてしまうという予想外の事態となり、本人は無傷で、夫人を死亡させ、4男を負傷させてしまいました。実行グループにとって最悪の結果で、当時の私たちの考えでも、この結果は論外でした。実行グループの川原隊長は「おれたちが甘かったと、心底思った」と話しています。 戦旗派リーダーの日向(荒)もこの事態は想定していなかったようで、この土田爆弾事件以降、しばらくして裏部隊の活動を停止させ、そのまま72年6月に解散、メンバーも関西など各地へ分散させました。

◆もし逮捕されれば組織は壊滅していたかも◆――戦旗派はどうして爆弾闘争を始めたのですか。【中島】60年代後半の全共闘運動は69年の東大安田講堂事件を頂点に、制圧されていくのですが、赤軍派を始め一部の党派は殺傷力の大きい武器を持つことで、限界を突破しようという動きに出て爆弾闘争へとエスカレートしました。 戦旗派リーダーの日向も、そういう方向をめざしたのです。彼は左翼内で「右派」と呼ばれたのをひどく嫌っていたため、自分たちが先鋭的だ、より革命的だと証明するために、過激な活動を起こす必要があると考えたのだと思います。一方でこれらの活動は、組織を守るために、裏でこっそりと行われました。だから戦旗派も「裏部隊」を作り、事件を起こしたのです。こうした裏部隊の存在を知っているのは、限られたメンバーだけで、部隊の具体的な活動内容を知っていたのはほんの数人に限定されていました。 戦旗派の場合、もともと組織内の分派闘争に備えて結成された部隊を再編して、裏部隊を作りました。71年6月に葛飾区新宿にある交番を火炎ビンで全焼させた事件を皮切りに、警察などの権力側を狙った闘争を起こし始めます。そして、71年10月に日石爆弾事件、12月に土田爆弾事件を起こすことになったのです。 後に赤軍派など爆弾闘争を行った党派は権力によって壊滅させられるのですが、爆弾闘争を行いながら生き残ったのは中核派と戦旗派だけでした。中核派は組織力があったためですが、戦旗派は幸運にも日石・土田事件で権力の標的とならなかったためだと思います。もしこの爆弾闘争が戦旗派の行動だと権力が知っていたら、戦旗派は壊滅させられていたかもしれません。――警察の捜査は及ばなかったのですか。【中島】2つの事件について当初、戦旗派がノーマークだったことが大きいと思います。71年12月18日、土田事件の当日、戦旗派の主力部隊は京都にいて、しかも、メンバーを京都府警に大量に逮捕されていました。ほかにも、警視庁公安部から、軍事路線には反対だと思われていたことや、組織内部で内輪もめをしていたことなどもあって、そこまで重大な事件を起こす余裕はない、と見なされていたのだと思います。 ただ、あわや発覚、という事態は何度もありました。爆弾闘争の準備で、アジトで火薬を作っていたとき、根をつめる作業に疲れたメンバーがタバコの灰を誤って火薬の上に落としたことがありました。換気扇が回っていたために、その白煙がものすごい勢いで室外にまで流れ出てしまいました。マンション中が大騒ぎになり、管理人も飛んできたのですが、応対に出た女性メンバーが、緊張と不安をおし隠しながら、笑顔でわびてうまくごまかし通せたのです。火薬が爆発して火事にならなかったことも、そして、管理人が警察や消防に連絡しなかったことも、運が良かったとしか言いようがありません。 但し、一時は警察も戦旗派を疑ったと思える節もあります。一つは、72年5月13日の5・13神田武装遊撃戦の直後でした。戦旗派指導部のアジトに家宅捜索があり、そのとき押収された極秘文書の中に、戦旗派と日石・土田爆弾事件の関係を類推できる記述があったのです。この結果、メンバーの多くに尾行・監視が付きました。 疑って見れば、日石爆弾事件の直前71年10月13日に、戦旗派が機関誌で発表した「非公然軍事戦闘の推進に関する我々の見解」という論文に、犯行予告とも言える文章が紛れ込ませてあることもわかったはずです。「権力と階級の先端攻防における突破を、敵の予期しない場所を、あるいは敵の弱点を、非公然軍事闘争として攻撃することを通し、党としての闘いを党の軍として実現する…」。これは、裏部隊の川原隊長が、指導部をせっついて書かせ、差し替えで載せた論文で、彼ら裏部隊の人間にとっては、日石爆弾事件の予告文でした。◆実は運搬役女性の近くまで迫っていた警察の捜査◆【中島】現場に残された眼鏡から女性メンバーの一人が浮かび上がってからは、警察は明らかに、戦旗派も追い始めていたはずです。冤罪で逮捕されたグループと両にらみだったのでしょうが、戦旗派メンバーも逮捕寸前にまで迫っていたはずです。 我々が肝を冷やしたのは、72年12月14日の新聞を見た時でした。「女物眼鏡を追及/西新橋・郵便局爆破の遺留品/土田邸事件に手掛り」と報道されていたからです。警察は遺留品を地道に捜査し、この時点で置き去りになっていた眼鏡と、日石爆破事件、土田爆破事件の2つの事件を正しく結びつけていたのです。 この記事や、83年に発行された『フレームアップ 土田・日石・ピース缶事件の真相』(高沢皓司編・新泉社)掲載の被疑者手記によると、この眼鏡が広島県のある時計店で売却されたことを、警察はつかんでいました。 販売店が分かれば、度数などのデータから購入者も分かります。こうして、眼鏡を現場に置き忘れた女性メンバーが捜査線上に浮かびあがりました。彼女は裏部隊の解散後、すでに活動を中止して、広島の実家に帰っていましたが、警察の尾行・監視が付きました。 新聞報道を受けて、リーダーの日向は慌てました。眼鏡を置き忘れた女性メンバーは事実上、組織を離脱していて、自分の力が及ぶ範囲にいなかったからです。活動を続ける意欲を無くして組織を離脱した人間に、完全黙秘(完黙)は期待できません。もし彼女が動揺し、緊張と不安に耐えきれず、自首でもしたら、えらいことになります。逮捕されれば、かつての裏部隊メンバーは、たちまち一網打尽になってしまうと考えたでしょう。それで、新聞報道後直ちに彼女のもとに使いを派遣して、「眼鏡だけでは証拠とは言えない。尾行に気づかないふりをしてしらばっくれろ。いざという時は組織が支援する」と伝えたのです。 このように、真犯人に限りなく近づいていた警察でしたが、73年3月13日に、冤罪で逮捕された人物が「自供」すると、捜査は彼を主犯とするストーリーに一気に流れこんだようです。翌日に彼と共犯とされた3人を再逮捕し、槙野勇警視総監が記者会見で「解決宣言」をして、戦旗派への捜査を打ち切ってしまったようです。戦旗派メンバーに付いていた尾行や監視は、この時期にぴたっと止みました。 戦旗派に疑いの目が向くより前の段階で、本人そっくりのモンタージュを作成された女性メンバーを国外に脱出させていたことや、土田爆破事件で爆弾を郵便局に運んだ別の女性メンバーに逮捕歴が無く、監視が付いたころには裏の活動をやめて、表の活動に従事していたことなどが戦旗派にとって有利に働いたと思います。結局、現場で押収された眼鏡が、法廷に証拠として提出されることはなかったようです。◆3月14日警視総監会見で引き返せない状況に◆――中島さんから見て、一連の捜査や裁判の問題点はどこにあったのですか。【中島】物証もないのに、無実の人たちを逮捕し、「自白」に追い込んだことが一番大きな問題です。自白はもちろん警察・検察の嘘ですから、それを根拠にした捜査・裁判がその後、どんどんおかしな方向へ向かったのは当然です。 私たちが見ると、検察の主張には明らかにおかしい点があります。たとえば裁判の冒頭陳述で検察は、土田事件の爆弾について、「右小包爆弾は外箱の木箱の中にアルマイト製の深大角弁当箱を配し、この中に塩素酸ナトリウム・砂糖が混合して充填され、その中央部に硝化綿と手製雷管が埋め込まれ…」と説明しています。しかし、裏部隊が作った爆弾には硝化綿は、そもそも使用されていませんでした。ですから、爆発現場で採取された残余物の中には、硝化綿の燃えかすが、存在していたはずはありません。 にもかかわらず検察の陳述が硝化綿に言及する理由は、日石・土田冤罪事件の被害者の一人の供述調書に、アパートで、土田爆弾用の硝化綿を製造したという「自白」があるからです。どういった経緯でこのような自白が出てきたのかはわかりませんが、本来ないはずの物質が登場してくることは、警察・検察が恣意的に供述を作り上げた証拠ではないでしょうか。 警察・検察は起訴を強行しただけではなく、アリバイや証言の食い違いなど、裁判中に表れてきた数々の矛盾を抱えながら、最長10年近くも彼らを勾留し続けました。物証が何ひとつないにもかかわらず引き返せなかった最大の理由は、73年3月14日、槙野勇警視総監が発表した「解決宣言」を取り消せなかったからでしょう。警察のメンツが彼らを縛ったのです。 裁判資料によると、日石・土田爆弾事件の捜査には、公安・刑事合同捜査本部の本部長である三井脩・警視庁公安部長(後の警察庁長官)をトップに、幹部3人、専従捜査員55人、さらに裏づけ捜査要員として41人の合計100人があたっていました。検察の主任は親崎定雄という検事でしたが、その指導をしたのは後に検事総長になる伊藤栄樹東京地検次席検事でした。つまり、後の警察トップと検察トップとが、冤罪の張本人なのです。 実際にどのような判断がなされたのか、捜査の内実は私たちにはわかりませんが、今回の真相公表により、捜査や裁判の問題点が再検証され、なぜ権力がこんな冤罪事件を生み出してしまったのか、という理由が明らかになることを期待します。(中島氏のつづった手記『40年目の真実――日石・土田爆弾事件』は創出版から発売中である)

多様化するテロ インドネシア 毒物混入、「本爆弾」水際で阻止

【産経】

多様化するテロ インドネシア 毒物混入、「本爆弾」水際で阻止
2011.6.19 12:00

インドネシア・ジャワ島中部のスコハルジョ県で今年5月、夜明け前の奇襲作戦の後、テロ容疑者の自宅周辺を警備する警察官ら。テロとの戦いはインドネシアでも続いている(AP)

 
インドネシアでは人知れず、テロリストと治安当局との攻防が繰り広げられている。テロが企てられては、その多くを治安当局が水際で防いでいるのだ。両者の攻防を追うと、テロの動向と手法のトレンドがみえてくる。

 最新のトレンドは、有毒のシアン化物を使った「毒物テロ」である。

 この毒物テロを企てたテロリスト7人が10日、首都ジャカルタで逮捕された。7人は食料や、ミネラル・ウオーターのペットボトルに、注射器などでシアン化物を混入。それを警察署の食堂や、警察の寮に持ち込むことを計画していた。

 治安当局は4日間にわたる「作戦」の末、容疑者を一網打尽にし事なきを得た。だが、「毒物テロ」という手法に、テロリストが初めて手を染めたことに対する危機感は強い。

 治安当局幹部は「テロ攻撃の新しい形態だ。毒物を用いたテロはいつでも、いかなる場所でも起こりうる」と警戒する。つまり「爆発物よりも発見が難しい」ことが最大の難点であり、テロリストが毒物テロを画策した最大の理由もそこにあると、治安当局はみている。

7人の背景などは、つまびらかではないが「新しいテログループであり、他の組織には属していない」という。

 イスラム系テロ組織ジェマ・イスラミア(JI)といった、老舗的なテロ組織の力が、治安当局の「掃討作戦」によって低下する中で、小規模グループの「新しい細胞」が台頭していることは、すでに指摘されているところだ。

 彼らこそが、インドネシアにおいてはこれまでになかった新しい手法を、実行に移している主体である。

 毒物テロが発覚する以前の目新しい手法としては、例えば、本をくりぬき、その中に爆弾を仕掛けた「本爆弾」があった。この爆弾は3月、ジャカルタの警察関係者、イスラム穏健団体の本部などに送りつけられ、このときは4人の負傷者を出している。

 ここ数カ月で治安当局はテロリスト数十人を逮捕、今月拘束された、バリ島爆弾テロ(2002年)の容疑者も含まれている。

 こうした攻防は、「テロの多様化」という質的な変化に直面している。(シンガポール 青木伸行)

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6月19日 (日)

東日本大震災が発生して、101日目