新島 八重(享年86年)
弘化2年11月3日(1845年12月1日) - 昭和7年(1932年)6月14日)
幕末から昭和初期。同志社創立者の新島襄の妻。旧姓は「山本」。
会津藩の砲術師範であった山本権八・さく夫妻の子として誕生
◆戊辰戦争(日本国内戦)
慶応4年=明治元年の干支が「戊辰(つちのえたつ、ぼしん))」から由来
戊辰戦争時には断髪・男装し家芸であった砲術を以て奉仕
会津若松城籠城戦で自らもスペンサー銃を持って奮戦。「幕末のジャンヌ・ダルク」と呼ばれる。
戊辰戦争が始まる前、但馬出石藩出身で藩校日新館の教授をつとめていた川﨑尚之助と結婚
会津若松城籠城戦を前に離婚、一緒に立て籠もったが戦の最中に尚之助は行方不明になった。
明治4年(1871年)、25歳時、京都府顧問となっていた実兄・山本覚馬を頼って上洛する。
翌年、兄の推薦により京都女紅場(後の府立第一高女)の権舎長・教道試補となる。この女紅場に茶道教授として勤務していたのが13代千宗室(円能斎)の母で、これがきっかけで茶道に親しむようになる。
兄の元に出入りしていた新島襄と知り合う。
明治8年(1875年)10月に新島襄と婚約。当時、新島のキリスト教主義の学校建設を阻止しようと町の僧侶・神官たちが連日のように抗議集会を開き、京都府知事・文部省に嘆願書を提出するなどし圧力をかけていた為、京都府は婚約直後、突如女紅場を解雇した。
明治9年(1876年)1月3日に結婚。(30歳)
京都初の日本人同士のキリスト教式の結婚式であった。
女紅場に勤務していたときの経験を生かし、同志社の運営に助言を与えた。欧米流のレディファーストが身に付いていた襄と、男勝りの性格だった八重は似合いの夫婦であったという。夫をかしずかせ、車にも夫より先に乗る姿を見て世間から悪妻と評される[1]。
同志社英学校において戊辰戦争の際、会津藩を攻めた薩摩長州出身学生を冷遇したり、問題を起こした兄嫁を義兄や襄が許しても家から追い出したりと、西洋の感覚を身に着けながらも、武士の誇りと道徳にこだわり、周囲と軋轢を生んだ[1]。
同志社英学校の学生達の演説会に夫婦で出席した際は、当時学生であった徳富蘇峰に演壇より「頭と足は西洋、胴体は日本という鵺のような女性がいる」と強く非難された[1]。これに対し八重は全く動じなかったと伝わっている[1]。しかし夫婦仲はとても良くこの時期夫の襄はアメリカの友人への手紙で「彼女は見た目は決して美しくはありません。ただ、生き方がハンサムなのです。私にはそれで十分です。」と書いている[1]。
明治23年(1890年)、襄は病気のため急逝。襄の臨終の床で徳富蘇峰に過去の非礼を詫びられ、和解した。2人の間に子供はおらず、更にこの時の新島家には襄以外に男子がいなかったため養子を迎えたがこの養子とは疎遠であったという。
さらにその後の同志社を支えた襄の門人たちとも性格的にそりが合わず、同志社とも次第に疎遠になっていったという。
この孤独な状況を支えたのが女紅場時代に知りあった円能斎であり、その後、円能斎直門の茶道家として茶道教授の資格を取得。茶名「新島宗竹」を授かり、以後は京都に女性向けの茶道教室を開いて自活し裏千家流を広めることに貢献した。
日清戦争、日露戦争で篤志看護婦となった。功績により昭和3年(1928年)、昭和天皇の即位大礼の際に銀杯を下賜される。その4年後、寺町丸太町上ルの自邸(現・新島旧邸)にて死去。86歳没。葬儀は「同志社の母」葬として4000人もの参列者があった。墓所は襄の隣、京都市左京区若王子の京都市営墓地内同志社墓地。
逸話
晩年、雨などに濡れている女学生を見ると無言で傘を差し出す姿が見られた。次代を担う女性を大切に思っていた[1]。
夫襄との夫婦仲の良さを物語るエピソードがたくさん残されている。京都新島旧邸にある襄の書斎は襄が亡くなった後、八重が死ぬまでの42年間そのままの状態に置かれていた[1]。
悪妻、鵺、烈婦と評される。
悪妻 - 夫をジョーと呼び捨てにし、車にも夫より先に乗った。これは新島夫妻が互いの尊重の上で、男女が等しく平等であるという姿勢を自ら世に示したものであるが、男尊女卑の明治時代においては世間からは「悪妻」と評された[1]。
鵺 - 同志社英学校の生徒にも新島先生を軽んじていると映り、当時学生の徳富蘇峰に「鵺」と罵倒された[1]。
烈婦 - 勤務していた京都女紅場が経営難に陥った際に、女学校の補助金を増やすよう当時京都府参事であった槇村正直にたびたび直談判し、世間より「烈婦」と評された[1]。
NHK大河ドラマ