2011年12月7日水曜日

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2011年12月07日(水)22時53分に記録

南スーダン軍、民兵組織からの脱却の困難

2011年12月07日 15:51
南スーダン軍、民兵組織からの脱却の困難

【12月7日 AFP】南スーダンの首都ジュバ郊外。軍の司令部にあと200メートルのところまで近づくと、バイクタクシーの運転手は首を振り、それ以上、進むことを拒んだ。

 ジュバの街角は昼間はタクシーの客引きでにぎわうが、夜は閑散としている。治安部隊とすれ違うのを恐れているからだと運転手は言った。

 スーダンの反政府勢力として、南スーダンの独立をゲリラ戦で勝ち取ったスーダン人民解放軍(SPLA)の本部内に漂う緊張感と、兵士たちの疑い深いまなざしは、その重々しい壁の外側にいる市民の不信感に劣らなかった。

 「SPLAは21年間も内戦を戦ってきた。われわれの軍は南スーダンの人びとの革命と解放の使命を負っている」と軍の報道官フィリップ・オージェは述べた。

 元ゲリラ戦闘員の社会復帰、軍近代化の障壁に

 今、南スーダン政府が注力しているのは、巨大な軍の専門化だ。そして内戦の間、ゲリラ戦闘員だった大勢の男性、女性、子どもたちを、雇用機会のほとんど用意されていない社会に復帰させることだ。

「SPLAは、南スーダン正規軍に変わる」。名称変更は徐々にゲリラ兵士を減らし、平和を維持していく長く困難な過程の最初の一歩でしかないとオージェ報道官は強調する。

軍情報部のマック・ポール副長官も「われわれは近代化を進めようとしているが、問題は元ゲリラ戦闘員たちの(社会への)再統合だ」と言う。

 2005年の包括和平合意以来、スーダンと南スーダンは法的には和平状態にあるが、両国は資源が豊富な国境の州を拠点とする互いの反政府勢力に、互いが資金提供していると非難の応酬を続けている上、脆弱な経済がいっそう安定を失っているため、新たな戦闘が勃発しかねない状況だ。

 南スーダンのサルバ・キール大統領は8月、南スーダン政府と戦闘をしている勢力に対し、武装解除を条件に恩赦を申し出たが、これはSPLAの反乱組を軍に引き返させたばかりか、平時予算の1.4倍にまで軍事費を膨れ上がらせた。

 野党「スーダン民主改革のための人民解放運動」のラム・アコル党首は、ゼロからの新国家建設に絶対的に必要とされているのは資金で、「平和の恩恵」を見出さなければ人びとは蜂起するだろうと言う。しかし、コスティ・ンガイ財務相は「治安関連の支出が異様に多いように見えるかもしれないが、ことは生死に関わる」と説明する。

 国連の「スーダン共和国における武装解除・動員解除・社会復帰計画」の下、軍の再編と軍事費削減の一貫として、南スーダン政府は兵士8万人と警官など治安要員7万人の解除を計画している。しかし、実際には軍に再び吸収される元反政府勢力と、解除される兵士の数が変わらない状況で、真の平和が訪れるまでDDRは効果がないという批判も聞こえている。SPLA特殊部隊の元訓練官リチャード・ランズ氏は、3~5年で軍の再編が完了するという国際社会の予想は楽観的すぎると警告する。

 スーダンとの国境に位置するユニティ州は、埋蔵石油が豊富であると同時に、南スーダン政府に対する反政府勢力が最も活発な地域で、駐屯する南スーダン軍の規模は拡大している。ある少将はこの基地の中庭で製粉作業をしていた男たちを指しながら、10月に80人が死亡した攻撃があった後、入隊した兵士たちだと話した。「こっちで掃除をしているのは、降伏した者たちだ」。物資と銃をもらえるという約束につられた農民たちだという。

 この少将もまた、南スーダンに対する反政府勢力を裏で支えているのはスーダン政府だという南側の主張を繰り返し、南の離反者を北が利用し続ける限り、南スーダン軍も離反者を取り込むことを止めないだろうと語った。(

中国海洋調査船 今季7回目のEEZ侵犯

中国海洋調査船が尖閣諸島付近の通報海域外で確認されたのは、1日に複数回出入りを繰り返したものを除き今回で7回目。

【産経】2011.12.6 16:47
 中国海洋調査船がまたEEZ内に

 6日午前10時10分ごろ、沖縄県の久米島北北東約102キロの排他的経済水域(EEZ)内で、中国海洋調査船「科学1号」が事前通報のない海域でロープとワイヤを海中に垂らして停泊しているのを海上保安庁の航空機が発見した。

 第11管区海上保安本部(那覇市)によると、航空機が無線で警告したところ、調査船は「通報海域内である」と回答。このため、「通報海域外であり、調査は認められない」と再度警告したところ、調査船は午後2時にワイヤを引き上げ、通報海域内に向かって航行を始めたという。

【遼寧省の海事当局】 気を付けなければ他国の領空を侵犯し、深刻な外交摩擦を引き起こしかねない

【香港紙サウスチャイナ・モーニングポスト】2011年11月30日

11月末に、遼寧省の海事当局は無人機を東シナ海の北朝鮮に近い海域まで巡航させることに初めて成功した。

気を付けなければ他国の領空を侵犯し、深刻な外交摩擦を引き起こしかねない。

遼寧省の海事当局は、大連に無人機部門と管制センターを開設。頻繁に無人機を近場の海域や海岸部、島しょに飛ばし、リモートセンシング(遠隔探査)データや高解像度画像の収集を行っている。

これに対し、軍用無人機のプロジェクトに関わった経験を持つ教授は、これは地方政府の決定で人民解放軍とは無関係だと強調。無人機の飛ばし方について、気を付けなければすぐに他国の領空を侵犯し、深刻な外交摩擦を引き起こしかねないと忠告する。

非軍事用の無人機は陸地上空の飛行を厳しく制限されており、海上などで飛ばすしかない。だが、海上飛行で気を付けるべきは、他国のレーダーがこれをとらえた時、空軍の無人機であると判別する可能性が高く、挑発行為とも受け取られかねない。同教授はこうした部門の存在自体が「危なっかしい」との見方を示している。

日本陸軍 四式連絡艇

【西日本新聞】2011年12月6日
 日本陸軍 四式連絡艇

 旧陸軍の特攻艇。隊員たちの記録集「〓の戦史」によると、米軍の上陸が予想される地域に配備、米軍輸送船団を攻撃させる計画で、1944年7月に試作艇が完成した。最初の出撃は45年1月。フィリピン・リンガエン湾で米艦船約10隻を撃沈・撃破したとされる。米軍は「自殺艇」と呼んだ。人間魚雷と呼ばれた「回天」や特攻艇「震洋」は旧海軍の特攻兵器。
    ×      ×
 ※〓はすべて「○」の中に「レ」


ベニヤ製 秘密の特攻艇ありき 8日で日米開戦70年 旧陸軍兵士が証言 「糸島に部隊」「学校に爆雷」
 太平洋戦争の戦端を開いた真珠湾攻撃から8日で70年。年々、戦争体験者が少なくなる中、元兵士の一人が福岡県糸島市にあった秘密の水上特攻隊の詳細を語った。モーターボートに爆雷を積んで米艦船へ突っ込む海上挺進(ていしん)隊。しかし、ボートは薄いベニヤ製で搭載火器もなく、糸島に置かれた隊は学校に爆雷を保管していた。
 
 戦時中、隊の存在は伏せられた。このため、ボートは「四式連絡艇」の「連」の字にちなみ、「〓(マルレ)」と呼び交わされた。元隊員がまとめた記録集などによると、〓は全長5・6メートルで1人乗り。自動車のエンジンを使い、速力は時速23ノット(約43キロ)。船首が艦船に当たると、船尾に積んだ爆雷が落下し、7秒後に爆発する仕掛けになっていた。
 
 〓隊は本土決戦に備え九州にも10戦隊を配置。その一つが糸島市二丈にあった。兵士の主力は、陸軍輸送船の下士官として養成されるはずだった船舶特別幹部候補生。その2期生で、糸島市の特設第52戦隊に配属された勝矢雅治さん(85)=広島市佐伯区=によると、実際は〓の操縦訓練を受けていたという。
 
 同戦隊の隊員の日記によると、終戦間近の1945年7月19日、訓練を終えた勝矢さんたちは、広島から列車で約50艇の〓とともに糸島市二丈深江の駅に到着。8月3日から福吉国民学校の講堂を兵舎として使った。〓は学校から1キロほど離れた海岸の松林に隠したという。
 
 勝矢さんの記憶では、爆雷は長さ約1メートルで筒形。講堂近くの木造倉庫の床にドラム缶を並べるようにして保管した。「夏休みでも子どもは学校で遊んでいたし、教室にいる姿も見た」
 
 結果的に勝矢さんの部隊は出撃することなく終戦。その数日後、爆雷とエンジンは学校の運動場に置き、船体はガソリンをかけて焼いた。ベニヤ板の厚さは1センチほど。誤って桟橋にぶつけると船体に穴が開いた。
 
 勝矢さんたち2期生より約5カ月早く訓練を終えた1期生の多くは、沖縄などで戦い、約1800人のうち1185人が戦死した。いずれも20歳前後の若者たちだった。「戦争をありのまま、語り継いでほしい」。勝矢さんは切に願う。

「坂の上の雲」とボードゲーム 日本海海戦から続く軍事技術としてのゲーム

http://www.nikkei.com/tech/personal/article/g=96958A88889DE1E5E2E7E2EAE1E2E2E4E3E0E0E2E3E3E2E2E2E2E2E2;p=9694E3EAE3E0E0E2E2EBE0E4E2E7

【日経】2011/12/7 7:00
 ゲーム読解(新清士)
「坂の上の雲」とボードゲーム 日本海海戦から続く軍事技術としてのゲーム
ゲームジャーナリスト 新 清士

「坂の上の雲」(原作;司馬遼太郎)に登場する主人公の一人、秋山真之(日露戦争時の海軍参謀)は、米国から日本海軍用にボードゲーム「兵棋演習(ミリタリーシミュレーション、ウオーゲーム)」を持ち帰った人物でもある。

明治30年(1897年)、秋山は米国駐在武官として軍事研究を行っている。その際、キューバを巡って米国とスペインの間で起きた米西戦争を目撃している。そこで、当時はまだ珍しかった艦船を模型で作り、大きな海図の上に配置することで、戦略の状況が簡単に把握できるようにする方法論を学んだ。それを実際の軍事演習用にゲーム化したのが「兵棋演習」で、秋山が米滞在中に最も感銘を受けたものだった。

 ゲームは娯楽であると同時に、軍事技術として進化してきた側面を持つ。

「ギレンの野望」(バンダイナムコゲームス)などに代表される戦略ゲームは、100年あまり前に軍事技術として採用されていたゲーム技術の影響を大きく受けている。


■19世紀には最新の軍事技術だったボードゲーム

 これは元々、プロイセンで18世紀ごろに広まっていた戦争チェス「ケーニヒシュピーゲル」と呼ばれるゲームが発展したもので、海軍の訓練に応用できるようにイギリスで考え出された。歴史上の大海戦を再現するために、小さな木の模型を使用して、艦艇が行動し、運用するための効果的な戦術が考案できる。

ポケットに収納でき、いつでもどこでも、模型を取り出して戦闘を実行し、その結果を批評するできるものだった。素朴なゲームながら戦略を練るのに適しているため、18世紀末に英海軍はこれを利用し、フランス艦隊に対して新しい近接戦闘法を立案、完勝している。

 当時、新興国であった米海軍は、自由な発想で積極的にこの考え方を取り入れていた。

 プロイセンでは実際の戦争でも採用して大きな成果を上げ、ドイツ帝国へと発展する基礎となった。数百個の駒と、それを動かし戦闘の結果を判定する方程式が決められたルール、戦闘の結果を判定するサイコロ、実物の縮尺された地図、そして、審判役によって構成されるこのゲームは、より軍事用の戦略立案としての役割を強めていく。

 日本でも陸軍設立時にドイツから招へいされたクレメンス・メッケルによってこの技術が持ち込まれたが、陸軍には定着しなかった。

 1892年には、一般のゲームとして「ジェーン海戦ゲーム」が英国で販売されている。これは船の装甲などを詳しくルール化しており、砲撃戦になった場合の貫通力が厳密に決められているもので、弾が命中するたびに、当たった場所をランダムに決め、被害が蓄積すると船が沈没するという結果を生み出すものだった。

1898年には、手に入る限りの当時の艦船の砲の威力と装甲をランク付けした「ジェーン海軍年鑑1898」という書籍も発売されている。秋山は米滞在中に、これらの書籍に触れていただろうと思われる。

「ジェーン海軍年鑑」の公式ページ。現在でも継続して更新、販売されている

 「坂の上の雲(2)」(文春文庫)で、わずかにこの兵棋演習について触れられている項がある。練習者は敵味方に分かれて、教官の統制のもとに作戦の演習を行うというもので、秋山はこの兵棋演習を高く評価した。「アメリカにいる時代から本国の軍司令部にこれを採用するべきであると意見書を書いて送ったが、さらに説得してまわった」(P.312)。帰国後の海軍大学校教官時代には積極的に採用を働きかけていたようだ。

 「兵棋を動かすにあたって、重責を帯びてそれぞれが艦隊司令官、参謀長、艦長のつもりになって真剣に運用し、それをくりかえし鍛錬することによって、いかなるときでも自信と沈着さとをうしなわぬという第二の天性をつくりだすことができる」(同)

 ピーター・P・バーラ「無血戦争」(ホビージャパン)では、「1904年の日露戦争における日本軍の成功は、いくぶんかは、日本の将校がウオーゲームによって、『学んだ教訓』のおかげであると考えられた」(P.62)と国際的な評価を得たことが触れられている。

 サイコロを使った当時のボードゲームが、最先端の軍事技術だったことがよくわかる話だ。

■太平洋戦争では都合のよい利用方法が失敗を生む

 その後、海軍では英国の方法論を取り入れて「図上演習」と名前を変え、ウオーゲームの考え方が太平洋戦争まで伝統として引き継がれることになる。しかし、同時に「日本的なゆがみ」も加わっていった。

 有名なものは、真珠湾攻撃の華々しい成功後、1942年2月以降に行われた連合艦隊旗艦である戦艦大和の広い後甲板を利用して行われた兵棋演習だ。軍司令部時代に兵棋演習の経験を持っていた松田千秋艦長は、士官を集め戦術訓練を行わせた。特に5月1日から4日間にわたって行われたミッドウェー攻略を想定したゲームでは、連合艦隊が想定していた太平洋全体を包括する全作戦が含まれていた。

 ところが、この実施方法には致命的な問題があった。柳田邦男「零戦燃ゆ(1)」(文春文庫)によると、この演習は楽観気分のなか「味方空母の損害見こみは、まるでお手盛りだった」(P.304)とされている。

「サイコロ方式で確率を求めたところ、被撃沈を逃れられない9発命中という値が出た。ところが、宇垣審判長(少将)は『命中弾は3発とする』と審判を下したのだった。3発なら何とか生き残るからだった。それでも、『(空母)加賀』の沈没は避けられないことがわかり、それは修正されなかったが、驚くべきことに沈んだはずの『加賀』が次のフィジー、ニューカレドニア作戦に参加させられたのである。戦争がこんなうまいぐあいにいくなら、絶対に負けることがない」(同)

艦隊で強引にミッドウェー島に攻撃させる作戦が、大きな問題となり非難を受けた。「味方の航空機部隊が攻撃している間に、敵空母部隊に遭遇した場合には、どのような対策を用意しているのか」という疑問が提起されたが「零戦で対処する」といった曖昧な返答しか参謀は出せなかった。しかし結果が圧勝だったため、図上演習の結果は、その後の戦争に、楽観的な見方を上級士官の間に広めることになった。

 ところが、現実のミッドウェー海戦では楽観的な甘い見方が災いして、敗北の一因に変わる。

 この演習は3日間という短い時間の制約下で実施せざるを得なかったこともあるが、審判役がゲームに介入し、一方に有利に関わることの危険性も示唆している。実際には、審判役の士官は、戦闘と推移を正確に理解していたという。しかし、宇垣審判長の圧力によって、数回のサイコロの目を無視し、結果を変更してしまうことによって、事実を変えてしまった。ゲームが失敗したのではなく、ゲームから学べる課題や問題点を無視したことで、失敗を引き起こしたのだ。

■検証された図上演習でも難しさが確認される

 1985年には、ミッドウェー海戦が妥当であったかどうかを検証するために、当時の日本海海軍が利用していたものをベースとした「図上演習」を、防衛大学教授の野村実氏、作家の半藤一利氏、ボードゲームデザイナーの鈴木銀一郎氏など14名によってプレーされた結果が「太平洋戦争のif」(中公文庫)に収録されている。

 太平洋戦争時の艦隊同士の戦いは、航空部隊で空母をたたくために、位置を探す哨戒機を広大な海に飛ばし続ける索敵戦が続く(哨戒戦は日本海海戦でも変わらない)。日本側は、四方八方に飛行機を飛ばし続けるが、結局、最後まで主要空母を発見できなかった。ミッドウェー島の攻略作戦を進めている最中に、逆に米軍に場所を探知されてしまう。

 そのため、航空機が出払っている中で、空母は一方的に攻撃される結果になってしまう。何とか残った航空戦力で発見できた米空母を大破するが、ミッドウェー攻略は断念せざる得ず、撤退した。14時間にわたる戦闘の結果は、引き分けとされた。

 当時の日本海軍のように、物量として大きく米海軍にまさっていながらも、勝利できなかったのだ。

 史実の米海軍の勝利は「運」による面が大きかったとしながらも、連合艦隊司令長官役を引き受けた半藤氏は「ミッドウェー島と敵空母という二重の目的を追うのがいかに危険であるのか、実感としてわかった。また戦闘が激しくなると、将兵の生命などということにも無感覚になっていく。指揮官は沈着、冷静でなければならないと自らをいましめたが、これも苦しい戦いになってくると難しく、そのつらさは十分に味わったような気がする」(P.190)と所感を述べている。仮想のゲームであっても、史実の難しさが確認された結果になっている。

戦史家の大木毅氏は「戦争は錯誤の連続であり、より少なくミスを犯すものが勝者となる、という。しかし、この聞きあきたかに思える格言を実感することは難しい。図上演習は、このわかりにくいファクターを理解する重要な手段であると確信した」(P.191)とも書いている。

■第二次大戦後はコンピューター利用に置き換えられる

 これらのウオーゲームの考え方は、第二次世界大戦後、米国では海軍大学に引き継がれ、コンピューターを利用して発展させた訓練用のシミュレーション環境の開発が続けられる。

 一方で、1960年代になると、手軽なボードゲームとしてデザインされ「ウオーゲーム」というジャンルとして、一般の愛好家にも遊ばれるようになる。「レッドオクトーバーを追え!」(文春文庫)のトム・クランシーは小説の執筆にあたって、リアリティーを検証するために、何度も何百個の駒を利用するボードゲームをプレーして、その結果を反映させたことで有名だ。

 1980年代になると、パソコンの登場によって、ゲームを進める上での複雑な計算ルールをコンピューターが支援するようになり、単体のゲームへと発達する。日本でも一般ユーザー向けに「信長の野望」(コーエーテクモホールディングス、1983年)というような形で家庭用ゲームとして登場し、定着していった。

米軍の現在のコンピュータを使ったシミュレーションゲームを使った訓練環境の様子(韓国ゲーム会議での米CATSIMULATORSの講演より)

 日本では、軍事向けのウオーゲームによる訓練は、戦後完全に途絶えた。1980年代後半に米国の技術が自衛隊に導入されることで、やっと考え方が再採用されるようになってきたが、世界の趨勢(すうせい)の中では遅れている部類に入る。

 日本海海戦は、それまで艦船がばらばらに撃ちあいをするだけだった海戦を、秋山真之という作戦家を通じて艦隊が作戦原理を持って争うものへと変えた。その戦略を練り上げる背景には、ゲームの存在があり、それはその後も、太平洋戦争にも影響を与え、現在の防衛技術にも影響を与え続けている。


新清士(しん・きよし)
 1970年生まれ。慶應義塾大学商学部及び環境情報学部卒。ゲーム会社で営業、企画職を経験後、ゲーム産業を中心としたジャーナリストに。国際ゲーム開発者協会日本(IGDA日本)副代表、立命館大学映像学部非常勤講師、日本デジタルゲーム学会(digrajapan)理事なども務める。