2011年12月7日水曜日

日本陸軍 四式連絡艇

【西日本新聞】2011年12月6日
 日本陸軍 四式連絡艇

 旧陸軍の特攻艇。隊員たちの記録集「〓の戦史」によると、米軍の上陸が予想される地域に配備、米軍輸送船団を攻撃させる計画で、1944年7月に試作艇が完成した。最初の出撃は45年1月。フィリピン・リンガエン湾で米艦船約10隻を撃沈・撃破したとされる。米軍は「自殺艇」と呼んだ。人間魚雷と呼ばれた「回天」や特攻艇「震洋」は旧海軍の特攻兵器。
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 ※〓はすべて「○」の中に「レ」


ベニヤ製 秘密の特攻艇ありき 8日で日米開戦70年 旧陸軍兵士が証言 「糸島に部隊」「学校に爆雷」
 太平洋戦争の戦端を開いた真珠湾攻撃から8日で70年。年々、戦争体験者が少なくなる中、元兵士の一人が福岡県糸島市にあった秘密の水上特攻隊の詳細を語った。モーターボートに爆雷を積んで米艦船へ突っ込む海上挺進(ていしん)隊。しかし、ボートは薄いベニヤ製で搭載火器もなく、糸島に置かれた隊は学校に爆雷を保管していた。
 
 戦時中、隊の存在は伏せられた。このため、ボートは「四式連絡艇」の「連」の字にちなみ、「〓(マルレ)」と呼び交わされた。元隊員がまとめた記録集などによると、〓は全長5・6メートルで1人乗り。自動車のエンジンを使い、速力は時速23ノット(約43キロ)。船首が艦船に当たると、船尾に積んだ爆雷が落下し、7秒後に爆発する仕掛けになっていた。
 
 〓隊は本土決戦に備え九州にも10戦隊を配置。その一つが糸島市二丈にあった。兵士の主力は、陸軍輸送船の下士官として養成されるはずだった船舶特別幹部候補生。その2期生で、糸島市の特設第52戦隊に配属された勝矢雅治さん(85)=広島市佐伯区=によると、実際は〓の操縦訓練を受けていたという。
 
 同戦隊の隊員の日記によると、終戦間近の1945年7月19日、訓練を終えた勝矢さんたちは、広島から列車で約50艇の〓とともに糸島市二丈深江の駅に到着。8月3日から福吉国民学校の講堂を兵舎として使った。〓は学校から1キロほど離れた海岸の松林に隠したという。
 
 勝矢さんの記憶では、爆雷は長さ約1メートルで筒形。講堂近くの木造倉庫の床にドラム缶を並べるようにして保管した。「夏休みでも子どもは学校で遊んでいたし、教室にいる姿も見た」
 
 結果的に勝矢さんの部隊は出撃することなく終戦。その数日後、爆雷とエンジンは学校の運動場に置き、船体はガソリンをかけて焼いた。ベニヤ板の厚さは1センチほど。誤って桟橋にぶつけると船体に穴が開いた。
 
 勝矢さんたち2期生より約5カ月早く訓練を終えた1期生の多くは、沖縄などで戦い、約1800人のうち1185人が戦死した。いずれも20歳前後の若者たちだった。「戦争をありのまま、語り継いでほしい」。勝矢さんは切に願う。

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