2011年8月29日月曜日

松下政経塾に学ぶ「人間磨き」

松下政経塾に学ぶ「人間磨き」
議員連合「せんたく」の共同代表に就く〜日本を洗濯する
2008年4月7日
(野田佳彦 衆議院議員)

約260年間続いた徳川幕府の末期は、たった4隻の黒船で右往左往するほど機能不全に陥っていました。そして、政治、経済、社会など、すべての面にゆがみが生じていました。それらを一掃し、新しい国家建設を目指して一群の若者たちが立ち上がりました。

その先頭に立った坂本龍馬が姉に送った手紙に、「日本を洗濯致し申し候」という言葉があることを知ったのは、約10年ほど前です。2期目を目指した衆院選で105票差で敗れ、浪人している最中でした。明治維新とはまさに、命を懸けて国を救おうとした若者たちの純粋な利他の精神が、日本という国の丸洗いを可能にした大事業だったのです。

翻って現在の日本も、幕末同様、国のさまざまなシステムが機能不全に陥り、国の仕組みを根本から変える必要に迫られていると、当時思いました。今もその思いは変わりません。再びいきづまった国をジャブジャブと丸洗いすべきときが来たのです。
「いま一度日本を洗濯致し申し候」、これこそが日本再生のコンセプトだと強く思いました。しかし、今日、「そうろう文」では分かりにくい。懸命に考え抜いた結果、「ニッポンまる洗い」というスローガンを編み出しました。2000年の総選挙では、日本列島をぞうきんでふいているポスターをつくり、8本柱の選挙公約は、新「船中八策」と呼びました。おかげで、国政復帰を果たすことができました。以来、「ニッポンまる洗い」を唱え続けています。

「生活者が主役」の政治を目指す

本年1月、「地域・生活者起点で日本を洗濯(選択)する国民連合」(略称・せんたく)という新しい運動組織が立ち上がりました。北川正恭早稲田大教授(前三重県知事)、佐々木毅前東大総長、茂木友三郎キッコーマン会長などと共に政治改革・分権改革に取り組んできた「新しい日本をつくる国民会議」(21世紀臨調)を母体とするものです。
今日の日本社会の閉塞を直視し、戦後の「お任せ民主主義」「霞ヶ関・官僚主導」を打ち破り、生活者が主役となって、これまでの日本人の「生きかた」「暮らしかた」「働きかた」を根本から問い直す組織です。「地域・生活者起点の日本変革運動」(平成の民権運動)を目指しています。首長、地方議員、学者、経済界や労働界などから多くの皆さんが参加しています。

この「せんたく」の動きに呼応して、超党派の国会議員による「せんたく」議員連合が、3月3日に発足しました。私は、自民党の河村建夫衆院議員とともに、共同代表を務めることになりました。「まる洗い派」を自認してきたので、ご要請があったときにお断りできませんでした。図らずもというか、謀られたというか…。現時点において、与野党合わせて約120人の衆参国会議員が入会しています。

「せんたく」が重視する5つのテーマ

当面は、5つの分科会を設置して、次の総選挙に向けて日本を立て直すための議論をおこしていく方針です。

第1分科会「マニフェスト」 政策本位の政治を実現し国民の「選択」を実りあるものとするため、国民各層と政党政治家が双方向の議論を行い、政策論議を活性化させ、「マニフェスト政治」の進化・発展を目指します。最終的には、「本当に国民に示されるべき政策の選択肢とは何か」を明確にし、来る総選挙を歴史的な「政権選択選挙」にしたいと考えています。

第2分科会「地域主権」

 「中央から地方へ」という方向性については、コンセンサスが醸成されています。いま必要なことは、地域社会や住民自治の視点からこれからの日本社会のあり方や分権改革のあり方について具体的に検討を行うことです。現職の知事・市区町村長、地方議会関係者らと地に足のついた議論を深めていくつもりです。

第3分科会「国会改革」 

2大政党が衆参両院をそれぞれが支配する「ねじれ国会」という事態に、立ちすくんでいるだけでは国民の期待に応えられません。「大連立」のようなウルトラCに一足飛びに走るのではなく、ねじれを奇貨として国会を真に言論の府として機能させるための改革を検討します。

第4分科会「霞ヶ関改革・政治主導」

 省庁による積み上げ式意思決定の追認機関と化している内閣の姿を改革し、内閣を国民意思に支えられた政治の側に取り戻すことを目指します。そして、政治主導の下で諸々の改革を縦横に進めることができるようにするための方策を検討します。

第5分科会「地球環境」 

地球温暖化など環境問題はこれ以上放置することのできないぎりぎりの段階を迎えています。7月の北海道・洞爺湖サミットの主要議題でもあります。国、地域、企業、国民それぞれが一体何をなすべきなのか、衆知を集めて検討します。
今こそ、日本をジャブジャブと洗濯するための先頭に立つ決意です。

松下政経塾に学ぶ「人間磨き」

松下政経塾に学ぶ「人間磨き」
怠ることなく続ける駅頭演説、「10年続けることは偉大なり…」
2008年3月31日 (衆議院議員 野田佳彦)

初めて駅前でマイクを握ったのは、1986年10月1日でした。場所はJR津田沼駅北口のコンコース。友人がつくってくれた手書きのノボリを1本立てて、ハンドマイクを持つスタイルでした。緊張してガチガチでした。第一声を発した瞬間、「ああ、一歩踏み出してしまった。もう後戻りはできない」と思いました。

以来、ウィークデイは毎朝続けています。月曜日は津田沼、火曜日は船橋、水木金曜日は船橋市内の各駅をローテーションで回ります。時間帯は6時〜9時または6時半〜8時半。今年で22年目に入りました。

幸之助氏の言葉、「ワシなら駅前で皿回しをするわ」

きっかけは松下幸之助塾長の言葉でした。松下政経塾に在塾中、知名度のない新人が選挙に勝つにはどうしたらいいかと質問したとき、塾長は明快に答えました。「ワシなら駅前で皿回しでも何でもやるわ」と。

1987年4月の県議選に無所属で初挑戦しようとしたとき、塾長のこの言葉を思い出しました。「地盤、看板、カバンなし。されど正義あり、良き友あり」がスローガンだった私にとって、駅前に立ち続けるしか方法はないと。「県政を新鮮な目で見つめ直そう」という主旨の下、「船橋新鮮組」を名乗り、本当に新選組の羽織を着て立ちました。その姿は、大道芸人みたいだったでしょう。

活動を始めたばかりのころ、道行く人々の反応は極めて冷淡でした。通勤・通学で急いでいるので、誰も立ち止まって聴いてはくれません。一瞬目を向けてくれたとしても、一瞥(いちべつ)を投げるだけでした。「取り返しのつかないことを始めてしまったな」と後悔しながらも、ただひたすらに駅前で訴え続けました。雨の日も雪の日も。孤立無援の近藤勇の如く。

一か八かの賭け、13時間のマラソン辻説法

厳寒の季節を迎えると反応が出てきました。携帯用カイロやのど飴をプレゼントしてくれる人が現れ始めました。少しずつ手応えを感じながら、選挙直前に大博打に出ました。これまたJR津田沼駅で、7時から22時まで、1人で13時間訴え続けるという「マラソン辻説法」に挑んだのです。私がマイクを握っている傍らに、「8時間経過、あと5時間」という表示を出し、イベント化しました。
夜になると帰宅途中の人々の足が止まり、私の周りに人だかりができてきました。「教育はどう思う」「下水道はどうするんだ」といった質問も飛んできました。最終場面では、数百人規模の屋外市民集会の様相を呈してきました。箱物に人を動員する力がなかった私のイチかバチかの賭けは、大成功に終わりました。

ねり歩き辻説法で、体重が10kg減

1987年に県議選に初挑戦したときには、街宣車を買うおカネがなくて、朝から晩までハンドマイクをかついで喋り続ける「ねり歩き辻説法」に挑んだこともありました。これは荒業でした。歩きながら話し続けると、相当に体力が消耗します。選挙期間中に10キロも体重が減りました。足はまさに棒のよう。ウグイス嬢の力を借りることもなく、1人で訴え続けるのですから声も涸れます。でも、一度つぶれた喉が復活したときこそ、ジョン・レノンのビロードのような声になるのです。

ちょっとした上り坂でも息が切れる苦しい活動でしたが、思わぬ効果もありました。街宣車が入れないような路地裏の裏まで、きめ細かな辻説法が可能になりました。公園のすべり台のてっぺんに登って、団地の1棟1棟にバズーカ砲のようにスピーカーを向けて訴えもしました。

また、日常的に街宣活動を継続してきたお陰で、衆院本会議においても原稿なしで質疑に立てるようになりました。審議を遅延させる目的で「フィリバスター」という長時間演説を行うことがあります。一度私に、13時間くらいやらせてほしいものです。

当選した翌日も、落選した翌日も、駅頭に立つ

「マラソン」「ねり歩き」など、街頭演説の応用篇を語り出したらきりがありません。やはり、毎朝駅頭に立ち続けることこそ最も重要だと思います。風邪をひいて体調が悪くても、前の晩に飲み過ぎて二日酔いで苦しくても、必ず5時に起きます。そして、6時にはまだ暗くても駅頭に立ちます。

春夏秋冬を文字通り体感できる活動です。何といってもいちばん辛い季節は真冬です。長時間活動していると、体内の血液まで凍るのではないかと思うときすらあります。マイクを握る手もビラを配る手も、ちぎれるような痛みを感じます。しかし、ビラを受け取るためにわざわざポケットから手を出してくださる方がいたときには、「凍る手に差し出す手の温かさ」を感じます。

当選した翌朝はもちろん、落選した翌朝も一睡もしないで駅頭に立ちました。順風のとはもちろん、逆風のときこそ逃げないで説明責任を果たさなければなりません。「駅前留学はNOVA、駅前演説はNODA」と自称しています。かつては300枚しかビラを配れなかった駅で、今では3500枚も配れるようになりました。

中国では、古くから次のような言葉があるそうです。「どんな事でも10年続けることは偉大なり。20年続けば恐るべし。30年にして歴史になる」。この言葉を胸に刻み、これからも立ち続ける決意です。

野田佳彦

満蒙開拓義勇軍に応募して九州まで移動したところで終戦

1950年昭和25年)8月13日 警察予備隊の人員募集開始

10月12日までに74,158名が管区警察学校に入校

1954年(昭和29年)7月1日 陸上自衛隊に改編



実父(81) 元陸上自衛官

1930年 富山県出身。6人兄弟の末っ子
警察予備隊へ入隊

            習志野駐屯地 母親と出逢い結婚
昭和32年5月20日 佳彦 誕生
昭和36年1月09日 剛彦  誕生

1984年 54歳の定年退官


野田佳彦 千葉県会議員 2期
       衆議院議員  5期

実弟 野田剛彦(50)は現職の船橋市議 (当選4期)
昭和36年1月9日誕生
昭和48年 船橋市立薬円台小学校卒業
昭和51年 船橋市立二宮中学校卒業
昭和54年 県立船橋東高等学校卒業
昭和59年 法政大学卒業
昭和59年 千葉信用金庫入社
昭和62年 野田佳彦千葉県議会議員の私設秘書
平成05年 野田佳彦衆議院議員の公設第一秘書
平成11年 船橋市議会議員選挙に初当選
平成23年 4期目当選

【日経BP】
http://www.nikkeibp.co.jp/style/biz/matsushita/080317_1st/
松下政経塾に学ぶ「人間磨き」
3歳半のときから「政治」を意識した
2008年3月17日

(衆議院議員 野田佳彦)
父は富山県出身。農家の6人兄弟の末っ子として生まれました。自衛隊の前身である警察予備隊に入隊し、定年で退官するまで自衛官としての人生を歩みました。習志野駐屯地勤務の折に、母と出会い、結婚。母も農家の11人兄弟の末っ子でした。
この2人の間の長男として生まれたのが、私です。係累に政治家は誰もいません。そのような私が、初めて政治を意識したのは、3歳半のときでした。当時、日本社会党委員長だった浅沼稲次郎さんが、右翼の少年に刺されて亡くなるという事件が発生したのでした。テレビでニュースを見ていたときに、「政治家って大変ね」と、母がつぶやいたことを今も覚えています。保育園に通っていたときには、ジョン・F・ケネディ暗殺が起きました。「内外とも政治家は命懸けの仕事なのだ」と、幼児期には固く信じていました。
ところが、もの心がつくに従い、命懸けというよりも、己の損得、欲得で政治は動いているのではないかと、疑い始めました。千葉県では金権風土を象徴するようなスキャンダルが相次ぎ、中央でもロッキード事件などが起こりました。
ジャーナリスト志望が、偶然から松下政経塾入り
このような時代背景の中で、私は早大政経学部政治学科に入学しました。「田中金脈」問題を追及した立花隆さんのように、ペンで政治をただすジャーナリストになりたい、これが学生時代の私の「寸志」でした。卒業年次になり、大手のマスコミに就職しようと活動していたころ、「政治を正さなければ日本はよくならない」という松下政経塾の第1期生募集広告がたまたま目に入りました。2世や3世が幅をきかせている政界に、金もコネもない若者が挑戦するための登竜門かもしれないと思い、「ふと」応募してしまったことが、私の人生を大きく変えることになりました。
今でも、松下幸之助塾長との最終面接を鮮烈に覚えています。笑顔でお迎えいただきましたが、目は笑っていませんでした。むしろ、射抜くような怖い目つきでした。耳はとても大きくて、ピンと立っていました。しかも、こちら側に向いている。とても機能的に見えました。
「キミの身内に政治家はおるか?」「まったくいません」「そりゃ、エエな。ところでキミの家は金持ちか?」「どちらかというと貧乏です」「なお、エエな」
何が良かったのか、いまだにさっぱり分かりません。
が、こうして、政経塾で5年間、あるべき政治の姿を学ぶことになりました。

松下塾長の思い出:日本のこと真剣に考える、物事の過程を大切にする
私たち1期生は、後輩たちと比べると、松下塾長とお会いする機会が圧倒的に多かったようです。今思えば、それこそが何よりの財産と言えるでしょう。
松下塾長が塾の茶室に寝泊まりされるときは、私ども塾生が身の周りのお世話をしました。ある朝、眼をまっ赤にされているので、「どうしたのですか」とお訊ねすると、「日本の将来が心配で眠れんかった」と、さりげなく口にされました。本気で真剣に国の将来を考えておられる姿勢に、強烈な感銘を受けました。
あるとき塾生の1人が、例のホトトギスの故事に倣って塾長の生き方を問いました。信長は「鳴かぬなら殺してしまえ」と言いました。秀吉は「鳴かせてみせよう」と答えました。家康は「鳴くまで待とう」と言いました。塾長ならばどの生き方を選びますかとの質問に、松下塾長は即座にこう答えられました。「鳴かぬならそれもまたよしホトトギス」。この間髪を入れない回答に、鳥肌が立つような感動を覚えました。
ある塾生が、「政治家は当選後に何をやるかが重要であって、選挙はいわばなりふりかまうことなく勝てばいい」と主張しました。このとき、松下塾長はこめかみに青い筋を浮かべて、烈火のごとく怒られました。「当選するために何をやってもいい」という発想はおかしい。選挙のやり方によってその後の政治活動は規定される。だからまず選挙のやり方を変えないといけない。塾長はこのように熱く語りました。
志は「コツコツ」と「プッツン」で実現するもの
世のため人のために役に立とうという気持ちを「志」とするならば、松下塾長の熱い思いに触れ、個性豊かな塾生たちと切磋琢磨した経験が、私の志の原点です。これらの出会いは、「お会いできて良かった」「会わないほうが良かった」程度では済まない、生涯を通じて何らかの回答を迫られる出会いだと思います。
志の実現には、2つのことが重要だと考えています。第1は「コツコツ」。毎日あきらめずに粘り強く活動を継続することです。私が実行している毎朝の駅頭演説活動は22年目に入りました。第2は「プッツン」。無所属で出馬し独自の戦いと言われた最初の県議選。55年体制打破を目指した国政初挑戦。先輩たちの胸を借りた民主党代表選。私は、何回かプッツンしながら、より大きな高い壁に挑んできました。今後も「コツコツ」と「プッツン」を繰り返しながら、志の実現を目指していく決意です。

松下政経塾に学ぶ「人間磨き」
落選中に知った「朝顔が花を咲かす条件」
2008年3月24日
(衆議院議員 野田佳彦)
私の選挙戦績は、千葉県議選で2勝0敗、衆院選で4勝1敗、合計して6勝1敗です。実は、これは表向きの戦歴であり、公職選挙法が適用されない選挙で2回負けています。
公職選挙法が適用されない2度の敗戦
1回目は小学校の児童会長選挙。クラスから推されて渋々立候補しました。運悪くちょうど変声期に入ってしまい、全校生徒を前に素っ頓狂な声で演説して、失笑を買いました。結果は見事な落選。このトラウマがその後政治家を志す原動力になったかも…。
もう一つの敗戦は、2002年の民主党代表選挙。初めて全国を走り回る選挙を経験しました。鳩山由紀夫さん、菅直人さん、横路孝弘さんに挑んだ結果は第3位。当時はまだ当選2回の若手議員。決定的に知名度が不足していました。
2期目の選挙でまさかの逆転負けを喫す
さて、そろそろ私にとって最も辛かった挫折体験に触れなければなりません。それは、1996年10月20日に投開票が行われた衆議院議員選挙です。
既に、私は1993年、日本新党ブームのお陰で衆院初当選を果たしていました。その後、日本新党は新進党に合流しましたので、1996年は新進党現職として2期目に挑む選挙だったのです。当時、千葉4区(船橋市)は自民、共産が公認候補を擁立しました。事前の世論調査では、私は自民候補を2けた以上のポイント差でリードし、当落予測記事ではいつもシロ丸が付いていました。
ところが、選挙直前に異変が起こりました。非自民のもう一人の候補が突然現れたのでした。「そんなの関係ねぇー」で大ブレイクした若手芸人のお父さんでした。私は、足元をすくわれる形になり、にわかに自民候補と大激戦となってしまったのです。

開票率99%の段階で、私は210票リードしていました。正確に候補者名を書いた票では勝っていたのです。有効か無効か判断を留保していた疑問票の判定作業の結果、まさかの逆転負け。わずか105票差でした。深夜、全国300小選挙区のいちばん最後に結果が確定しました。
私は、二股をかける重複立候補を潔しとせず、退路を断って比例区に名簿登載していませんでした。このため、日本一の惜敗率(99.86%)ながら、落選が決まりました。私よりもはるかに大差で敗れても、ゾンビのように比例復活する議員もいました。
無効と判定された票の中には、「がんばれ野田」「祈必勝・野田佳彦」など思い入れの強いものが数多くあったそうです。でも、これらは他事記載として無効となりました。
本当に負けたような気がしない敗北でした。明け方まで無言でコップ酒をあおりました。親友の鈴木康友君(現浜松市長)が黙ってずっと付き合ってくれました。
でも、午前6時には、いつもと同じようにJR津田沼駅頭に立ちました。すると、普段はポーカーフェイスで通り過ぎる人たちが、明らかにふだんと異なる表情を浮かべていました。落選直後の活動に対する驚き、惜しかったという落胆、応援しなくて申し訳ないという後悔…。近寄って激励してくださる方もいました。視線を合わせられず、うつむいている人、逃げるように遠回りする人、態度も様々でした。朝の駅頭活動を22年も続けていますが、これほど人々の表情が見てとれた経験はありません。
浪人生活、毎月1万円の支援をしてくれる応援団に感謝
こうして、私は3年8カ月も浪人生活を送ることになります。折しも、貸し渋りや貸しはがしが横行していた時期と重なります。私は、事務所として5階建てのビルの3階部分を借りていました。その1階に入っていたレンタルビデオ店がつぶれ、2階のフットマッサージ店が休業し、不景気が足元から忍び寄ってきました。所属していた新進党も解党し、孤立無援となってしまいました。
まさにどん底に陥ったとき、毎月1万円の財政的支援をしてくれる数十人規模の応援団ができました。ご自身たちも楽ではない中小企業の役員の方々でした。私は、機械的に振り込んでいただくのではなく、毎月お伺いして直接頭を下げて現金を頂くようにしました。

105票差の敗北を総括すると、煩悩と同じ108つくらい敗因が浮かびました。でも、なぜ自分がこんな目に遭うのか、心から納得はしていませんでした。そんなある日、目からウロコが落ちるような講演を聴きました。それは朝顔の話でした。
朝顔が夏の朝、可憐な花を咲かせるためにいちばん必要な条件とは何か。普通の人は日光を思い浮かべます。ところが、ある専門家の結論は、朝顔が花咲くための最も大切な条件は、暗い闇と夜の冷たさということでした。このとき、私は、初めて自分の落選と浪人の意味を悟りました。暗闇を知ってこそ、ほのかな灯りや日の光の有難さが分かるのだ。冷たさを味わった人こそ、温もりの有難みが分かるのだと。
浪人中、たくさんの人情の機微に触れることができました。この貴重な体験を財産として、血の通った政治を実現していく決意です。



松下政経塾に学ぶ「人間磨き」バックナンバー一覧
故松下幸之助氏が、日本の将来を担う「志高き」人材を育てようと開設した松下政経塾。卒業生は政治家や実業家として活躍している。彼らは、どんな志を立て、松下氏から何を学び、人間を磨いているのか。

第17回 夕張市に飛び込み地方自治の現場で実践研修~財政破綻の町で道州制を考える (2008/09/19)
第16回 現役塾生が語る「なぜ私は入塾したか」~仕事で感じた矛盾と入塾に至るまで (2008/09/16)
第15回 政治を変えなければ日本は良くならない~松下幸之助氏の目指した「政治」とは? (2008/08/08)
第14回 働くということ (2008/07/29)
第13回 政治とは何か (2008/07/25)
第12回 志を立てる〜松下幸之助塾長との出会い (2008/07/17)
第11回 「マニフェスト改革」の道 (2008/06/02)
第10回 幸之助氏いわく「運と愛嬌があるからあんたを選んだ」 (2008/05/26)
第9回 なぜ政治家を目指したのか (2008/05/19)
第8回 住基ネット不参加の決断〜政治家と行政官のはざま (2008/05/12)
第7回 レジ袋税を提案〜“杉並病”を克服し区民に健康を (2008/04/28)
第6回 政権交代が可能な保守二大政党制を志す (2008/04/21)
第5回 「人物」になる! (2008/04/14)
第4回 議員連合「せんたく」の共同代表に就く〜日本を洗濯する (2008/04/07)
第3回 怠ることなく続ける駅頭演説、「10年続けることは偉大なり…」 (2008/03/31)
第2回 落選中に知った「朝顔が花を咲かす条件」 (2008/03/24)
第1回 3歳半のときから「政治」を意識した (2008/03/17)

野田氏こんな人

衆院千葉4区(船橋市)選出の野田佳彦財務相

県立船橋高校出身。在学中は柔道部に所属していた。早稲田大学在学中に、当時の新自由クラブでボランティアをし、卒業後、松下政経塾に入塾。県議を2期務め、現在、衆院議員5期目。

 高校時代に柔道部で野田氏とともに汗を流した大学教授の神馬征峰さん(53)は、高校時代の野田氏を「目立つ性格ではなかったが、柔道では寝技が得意で、粘り強いタイプ。集中したらとことんやる人」と振り返る。

 野田氏が県議、衆院議員の当選後も、駅頭で何時間も演説する姿を見続け、成長を感じたという。

 政治家としての岐路を迎えたことについて、「彼は戦国武将に例えるなら、徳川家康。待って待って、チャンスをつかもうとする。トップになるならば、周りの人材をいかに生かすかが問われるだろう」と話した。

 同じ柔道部の先輩で、元教諭の向井広志さん(61)は、野田氏が県議に初当選した1987年頃、県教委体育課に勤務。あいさつに来た野田氏は深々と頭を下げたといい、「県職員が県議に頭を下げてあいさつされることはほとんどない。律義な人」と評する。
 向井さんは野田氏が高校在学中に柔道を指導した。きつい練習でも少しも休まず、ひとつの技を繰り返しやるなど、黙々と打ち込んでいた姿が印象に残っているという。「政治家になった時の志を忘れず、黙々と国のために頑張ってほしい」とエールを送る。
 同校卒業後に親しくなったというのは民間放送会社に勤務する川口哲生さん(53)。野田氏が県議選への立候補を考えていた頃、「女性にどうアピールしたらいいか」などと相談を受けた。「カタブツ」というイメージの野田氏に「自分を動物に例えてマスコットキャラクターを作ったら」とアドバイスしたという。あまり接点がなかったにもかかわらず、自分の弱点を補うために、昔の仲間をたどり意見を求めようという積極性に驚いたという。マスコットキャラクターは実現しなかったが「欠点と思っていたカタブツのイメージも、逆に実直、まじめという人物像でぶれずにやってきたことが支持されているのだと思う。人気よりも実力。首尾一貫した姿勢は、国政を託すのにふさわしい」と話している。
(2011年8月28日 読売新聞)

【松下政経熟】 民主党28名

現職政治家
衆議院議員
自由民主党
逢沢一郎 - 1期生(岡山県第1区選出、1990年代半ば初鹿明博を私設秘書に雇用)
高市早苗 - 5期生(比例近畿ブロック選出)
河井克行 - 6期生(比例中国ブロック選出)
秋葉賢也 - 9期生(比例東北ブロック選出)
松野博一 - 9期生(比例南関東ブロック選出)
小野寺五典 - 11期生(宮城県第6区選出)



民主党
野田佳彦 - 1期生(千葉県第4区選出)



打越明司 - 2期生(比例九州ブロック選出)
松原仁 - 2期生(東京都第3区選出)



笹木竜三 - 3期生(比例北陸信越ブロック選出)
樽床伸二 - 3期生(大阪府第12区選出)



原口一博 - 4期生(佐賀県第1区選出)
三谷光男 - 4期生(広島県第5区選出)



武正公一 - 5期生(埼玉県第1区選出)
吉田治 - 6期生(大阪府第4区選出)
神風英男 - 7期生(埼玉県第4区選出)
谷田川元 - 7期生(千葉県第10区選出)
山井和則 - 7期生(京都府第6区選出)



勝又恒一郎 - 8期生(比例南関東ブロック選出)
玄葉光一郎 - 8期生(福島県第3区選出)
前原誠司 - 8期生(京都府第2区選出)



市村浩一郎 - 9期生(兵庫県第6区選出)
井戸正枝 - 9期生(兵庫県第1区選出)
本多平直 - 9期生(埼玉県第12区選出)



稲富修二 - 17期生(福岡県第2区選出)
城井崇 - 19期生(福岡県第10区選出)
森岡洋一郎 - 20期生(埼玉県第13区選出)
松本大輔 - 22期生(広島県第2区選出)
橘秀徳 - 23期生(神奈川県第13区選出)
三日月大造 - 23期生(滋賀県第3区選出)
神山洋介 - 23期生(神奈川県第17区選出)
小山展弘 - 27期生(静岡県第3区選出。退塾生・塾員ではない)
小原舞 - 28期生(比例近畿ブロック選出。退塾生・塾員ではない)



参議院議員
自由民主党
渡辺猛之 - 13期生(岐阜県選挙区選出、自民党ぎふ政経塾初代塾長代行)
宇都隆史 - 28期生(比例区選出)
熊谷大 - 28期生(宮城県選挙区選出)
中西祐介 - 28期生(徳島県選挙区選出)



民主党
長浜博行 - 2期生(千葉県選挙区選出)
徳永久志 - 8期生(滋賀県選挙区選出)
福山哲郎 - 11期生(京都府選挙区選出)

【松下政経熟】 民主党 28人

松下政経塾出身の議員

前原誠司
野田佳彦
玄葉光一郎
原口一博
福山哲郎
など衆参合わせて28人を輩出している(自民党議員を合わせると、政経塾OBは総勢38人)。


 前原はマル暴献金以外にも秘書給与上納疑惑など政治資金問題は枚挙に暇がないし、野田も前原と同じ企業グループからの献金が問題化するな

玄葉も地元の談合事件で指名停止を受けたゼネコンから限度額を超える200万円の献金(パーティ券購入)を受け、政治資金収支報告書に記載していなかった

 横浜市長時代に合コンで名を馳せた中田宏氏や、愛人報道で世間を賑わせた山田宏・元杉並区長など、政経塾出身者には艶福家も多い。

※週刊ポスト2011年9月9日号

【福井県】 若狭 初の県総合防災訓練


 〇_多用途支援艦「ひうち」ASM-4301(満排1400トン)

【朝日】
若狭 初の県総合防災訓練
2011年08月29日

訓練中に毛布と棒を使った簡易担架の作り方を、三方消防署員が住民に指導した=若狭町小川
海岸近くの自宅から標高約9メートルの集会所へ。避難訓練に参加した住民たち=若狭町小川
集落に取り残された住民を救助する海上自衛隊の訓練=若狭町沖

 若狭町で28日に実施された県の総合防災訓練。県や同町、海上自衛隊、海上保安庁など80機関からの約1千人に加え、町民の3割近い約4400人が参加する大規模な訓練だった。東日本大震災を受け、初めて取り組んだ津波の避難訓練には、沿岸の町内7地区から約300人が参加した。

 「津波警報が発令されました。津波が来る恐れが非常に高いので、高台に避難してください」

 午前8時半、沿岸部の同町小川の集落で、屋外に設置されたスピーカーを通じて警報の発令を知らせる連絡が流れた。直後、民家から一斉に住民たちが出て、高台への避難を始めた。

 自分がいる高さを意識してもらおうと、県は「標高2メートル」「標高4メートル」と記した表示板を路地に設置。小さな子どもがいる家族連れや手押し車の高齢者らは表示板を横目に、避難所に指定された標高約9メートルの集会所を目指して歩いた。

 訓練では消防署員らが消防車から住民に避難を呼びかけたり、警察官がけが人を担架などを使って高台まで運んだりもした。

 今回は秋田県沖でマグニチュード7・7の地震が発生。県沿岸部に津波警報が発令され、見直しが進められる県防災計画の最大想定津波(2・5メートル)と同じ高さの津波が到達した――との想定。

 海上自衛隊と海上保安庁は海中を漂流している人を救助し、ヘリで搬送する訓練に取り組んだ。さらに、地震と津波で孤立した住民約10人を海上自衛隊の作業艇で救助する訓練もした。

 漁業で民宿を営む安原正年さん(61)は孫で小学校1年の好誠君(6)の手を引いて集会所に向かった。「東日本大震災があったので初めて訓練に参加した。もし津波が来ても、この高さだったら大丈夫」と話していた。(高橋孝二)


【福井新聞】
津波想定し住民高台へ避難、救助 県防災訓練5400人参加
(2011年8月28日午後8時20分)

海上自衛隊の多用途支援艦「ひうち」の作業船で漁港から避難する住民たち=28日午前11時10分ごろ、若狭町小川
集団災害救出訓練で、バスから負傷者を助け出しトリアージを行う救助隊員や看護師ら=若狭町麻生野

 東日本大震災を踏まえた福井県の本年度総合防災訓練が28日、若狭町麻生野と小川の2会場を中心に行われた。大震災で多数の犠牲者を出した津波の対応に力を入れた点が特徴で、沿岸全7区の住民が高台の避難所までスムーズに移動できるか確認。海上自衛隊や敦賀海上保安部は津波でさらわれた人の救助や、道路が寸断され孤立した集落の住民を船で移送する手順を点検した。 

県と若狭町が主催した。沿岸7区を含め町内全92区の住民と、警察や消防、医療・交通関係団体など80機関の計約5400人が参加した。 津波の想定は、スマトラ沖地震を受け実施した2006年度以来5年ぶりで、初めて住民の避難訓練を盛り込んだ。秋田県沖を震源とするマグニチュード(M)7・7の地震が発生、高さ2・5メートルの津波が到達した―との想定。 同町小川の会場では午前8時半過ぎから、屋外スピーカーで津波警報の発令を知らされた住民が、足早に標高9メートルにある集落センターへ移動。随所に設置された標高を知らせる看板を見て、想定外の大津波にも備えた。

 海上では、海上自衛隊が多用途支援艦「ひうち」を出し、小型の作業船で漁港から住民を搬送する訓練を実施。敦賀海上保安部はヘリや巡視船で海上漂流者を救助した。 また内陸部の同町麻生野の会場でも、三方断層を震源とするM7・2の直下型地震が発生した―との想定で、けが人のトリアージなどについて、関係機関が連携を確認した。 県の総合防災訓練は毎年9月1日の防災の日に合わせ行っている。これとは別に、原発事故を想定した原子力防災訓練も国の防災指針の見直しを踏まえ今後実施される。

【読売】
「若狭に2.5メートル津波」初訓練 県や町 標高示す標識 避難路に置く

訓練で海上自衛隊の船で救出される住民(若狭町の小川漁港で)

津波を想定して高台に向けて避難する高齢者ら(若狭町小川で)

 県の総合防災訓練が28日、若狭町で行われた。東日本大震災を踏まえ、地震で高さ2・5メートルの津波が若狭湾に押し寄せたとの設定で、沿岸部の7集落の住民が高台に逃げた。津波を想定した本格的な住民の避難訓練は初という。
 訓練には県、若狭町、自衛隊など80機関の関係者や住民ら約5400人が参加。集落内の高さを意識することで、津波から身を守ってもらおうと、標高を記した標識をあちこちに置いた。

 常神半島の小川地区(53世帯)では午前8時半過ぎ、避難を呼びかける放送が流れ、住民約100人が標高9メートルの高台にある集落センターまで避難。民家の玄関に、逃げ遅れた人がいないことを示す白い手ぬぐいがかけられた。逃げ遅れた住民10人を海上自衛隊の多用途支援艦「ひうち」の作業艇で、海側から救出する訓練もあった。
 同地区の漁師松本喜太郎さん(82)によると、小川地区の東側にあった久留見という集落が江戸時代、大津波で全滅したとの伝承が残っている。訓練に参加した主婦(44)は「地区内には年寄りが多いので逃げる間がない。10メートルを超す津波が来たら、どうしたらいいのか」と不安そうに話していた。

 松本真人区長(52)は「若狭も三陸地方とよく似た(リアス式海岸の)地形で、津波が来れば多くの犠牲者が出る。訓練のようにスムーズに避難できるかどうか」と心配していた。
(2011年8月29日 読売新聞)

【民主党】 代表 野田桂彦


【代表選挙】
演説;8月29日(月)
午前11時07分~23分30秒 前原誠司(49) 16分30秒
午前11時25分~40分    馬淵澄夫(51)  15分02秒
午前11時41分~47分    海江田万里(62) 16分
午前11時57分~       野田桂彦(54)

投票数予想
海江田万里 140
野田      80
前原      60
鹿野     40
馬渕     30

【朝日】
民主党代表選は29日、東京都内で開く両院議員総会で投開票され、同日午後に新代表が選出される。

海江田万里経済産業相(62)
野田佳彦財務相(54)
前原誠司前外相(49)
鹿野道彦農林水産相(69)
馬淵澄夫前国土交通相(51)

小沢グループ(約120人)
鳩山由紀夫前首相のグループ(約30人)

旧社会党グループの赤松広隆元農水相ら同グループの一部の支持を集めて115~120人を固めた。