2011年8月29日月曜日

野田佳彦

満蒙開拓義勇軍に応募して九州まで移動したところで終戦

1950年昭和25年)8月13日 警察予備隊の人員募集開始

10月12日までに74,158名が管区警察学校に入校

1954年(昭和29年)7月1日 陸上自衛隊に改編



実父(81) 元陸上自衛官

1930年 富山県出身。6人兄弟の末っ子
警察予備隊へ入隊

            習志野駐屯地 母親と出逢い結婚
昭和32年5月20日 佳彦 誕生
昭和36年1月09日 剛彦  誕生

1984年 54歳の定年退官


野田佳彦 千葉県会議員 2期
       衆議院議員  5期

実弟 野田剛彦(50)は現職の船橋市議 (当選4期)
昭和36年1月9日誕生
昭和48年 船橋市立薬円台小学校卒業
昭和51年 船橋市立二宮中学校卒業
昭和54年 県立船橋東高等学校卒業
昭和59年 法政大学卒業
昭和59年 千葉信用金庫入社
昭和62年 野田佳彦千葉県議会議員の私設秘書
平成05年 野田佳彦衆議院議員の公設第一秘書
平成11年 船橋市議会議員選挙に初当選
平成23年 4期目当選

【日経BP】
http://www.nikkeibp.co.jp/style/biz/matsushita/080317_1st/
松下政経塾に学ぶ「人間磨き」
3歳半のときから「政治」を意識した
2008年3月17日

(衆議院議員 野田佳彦)
父は富山県出身。農家の6人兄弟の末っ子として生まれました。自衛隊の前身である警察予備隊に入隊し、定年で退官するまで自衛官としての人生を歩みました。習志野駐屯地勤務の折に、母と出会い、結婚。母も農家の11人兄弟の末っ子でした。
この2人の間の長男として生まれたのが、私です。係累に政治家は誰もいません。そのような私が、初めて政治を意識したのは、3歳半のときでした。当時、日本社会党委員長だった浅沼稲次郎さんが、右翼の少年に刺されて亡くなるという事件が発生したのでした。テレビでニュースを見ていたときに、「政治家って大変ね」と、母がつぶやいたことを今も覚えています。保育園に通っていたときには、ジョン・F・ケネディ暗殺が起きました。「内外とも政治家は命懸けの仕事なのだ」と、幼児期には固く信じていました。
ところが、もの心がつくに従い、命懸けというよりも、己の損得、欲得で政治は動いているのではないかと、疑い始めました。千葉県では金権風土を象徴するようなスキャンダルが相次ぎ、中央でもロッキード事件などが起こりました。
ジャーナリスト志望が、偶然から松下政経塾入り
このような時代背景の中で、私は早大政経学部政治学科に入学しました。「田中金脈」問題を追及した立花隆さんのように、ペンで政治をただすジャーナリストになりたい、これが学生時代の私の「寸志」でした。卒業年次になり、大手のマスコミに就職しようと活動していたころ、「政治を正さなければ日本はよくならない」という松下政経塾の第1期生募集広告がたまたま目に入りました。2世や3世が幅をきかせている政界に、金もコネもない若者が挑戦するための登竜門かもしれないと思い、「ふと」応募してしまったことが、私の人生を大きく変えることになりました。
今でも、松下幸之助塾長との最終面接を鮮烈に覚えています。笑顔でお迎えいただきましたが、目は笑っていませんでした。むしろ、射抜くような怖い目つきでした。耳はとても大きくて、ピンと立っていました。しかも、こちら側に向いている。とても機能的に見えました。
「キミの身内に政治家はおるか?」「まったくいません」「そりゃ、エエな。ところでキミの家は金持ちか?」「どちらかというと貧乏です」「なお、エエな」
何が良かったのか、いまだにさっぱり分かりません。
が、こうして、政経塾で5年間、あるべき政治の姿を学ぶことになりました。

松下塾長の思い出:日本のこと真剣に考える、物事の過程を大切にする
私たち1期生は、後輩たちと比べると、松下塾長とお会いする機会が圧倒的に多かったようです。今思えば、それこそが何よりの財産と言えるでしょう。
松下塾長が塾の茶室に寝泊まりされるときは、私ども塾生が身の周りのお世話をしました。ある朝、眼をまっ赤にされているので、「どうしたのですか」とお訊ねすると、「日本の将来が心配で眠れんかった」と、さりげなく口にされました。本気で真剣に国の将来を考えておられる姿勢に、強烈な感銘を受けました。
あるとき塾生の1人が、例のホトトギスの故事に倣って塾長の生き方を問いました。信長は「鳴かぬなら殺してしまえ」と言いました。秀吉は「鳴かせてみせよう」と答えました。家康は「鳴くまで待とう」と言いました。塾長ならばどの生き方を選びますかとの質問に、松下塾長は即座にこう答えられました。「鳴かぬならそれもまたよしホトトギス」。この間髪を入れない回答に、鳥肌が立つような感動を覚えました。
ある塾生が、「政治家は当選後に何をやるかが重要であって、選挙はいわばなりふりかまうことなく勝てばいい」と主張しました。このとき、松下塾長はこめかみに青い筋を浮かべて、烈火のごとく怒られました。「当選するために何をやってもいい」という発想はおかしい。選挙のやり方によってその後の政治活動は規定される。だからまず選挙のやり方を変えないといけない。塾長はこのように熱く語りました。
志は「コツコツ」と「プッツン」で実現するもの
世のため人のために役に立とうという気持ちを「志」とするならば、松下塾長の熱い思いに触れ、個性豊かな塾生たちと切磋琢磨した経験が、私の志の原点です。これらの出会いは、「お会いできて良かった」「会わないほうが良かった」程度では済まない、生涯を通じて何らかの回答を迫られる出会いだと思います。
志の実現には、2つのことが重要だと考えています。第1は「コツコツ」。毎日あきらめずに粘り強く活動を継続することです。私が実行している毎朝の駅頭演説活動は22年目に入りました。第2は「プッツン」。無所属で出馬し独自の戦いと言われた最初の県議選。55年体制打破を目指した国政初挑戦。先輩たちの胸を借りた民主党代表選。私は、何回かプッツンしながら、より大きな高い壁に挑んできました。今後も「コツコツ」と「プッツン」を繰り返しながら、志の実現を目指していく決意です。

松下政経塾に学ぶ「人間磨き」
落選中に知った「朝顔が花を咲かす条件」
2008年3月24日
(衆議院議員 野田佳彦)
私の選挙戦績は、千葉県議選で2勝0敗、衆院選で4勝1敗、合計して6勝1敗です。実は、これは表向きの戦歴であり、公職選挙法が適用されない選挙で2回負けています。
公職選挙法が適用されない2度の敗戦
1回目は小学校の児童会長選挙。クラスから推されて渋々立候補しました。運悪くちょうど変声期に入ってしまい、全校生徒を前に素っ頓狂な声で演説して、失笑を買いました。結果は見事な落選。このトラウマがその後政治家を志す原動力になったかも…。
もう一つの敗戦は、2002年の民主党代表選挙。初めて全国を走り回る選挙を経験しました。鳩山由紀夫さん、菅直人さん、横路孝弘さんに挑んだ結果は第3位。当時はまだ当選2回の若手議員。決定的に知名度が不足していました。
2期目の選挙でまさかの逆転負けを喫す
さて、そろそろ私にとって最も辛かった挫折体験に触れなければなりません。それは、1996年10月20日に投開票が行われた衆議院議員選挙です。
既に、私は1993年、日本新党ブームのお陰で衆院初当選を果たしていました。その後、日本新党は新進党に合流しましたので、1996年は新進党現職として2期目に挑む選挙だったのです。当時、千葉4区(船橋市)は自民、共産が公認候補を擁立しました。事前の世論調査では、私は自民候補を2けた以上のポイント差でリードし、当落予測記事ではいつもシロ丸が付いていました。
ところが、選挙直前に異変が起こりました。非自民のもう一人の候補が突然現れたのでした。「そんなの関係ねぇー」で大ブレイクした若手芸人のお父さんでした。私は、足元をすくわれる形になり、にわかに自民候補と大激戦となってしまったのです。

開票率99%の段階で、私は210票リードしていました。正確に候補者名を書いた票では勝っていたのです。有効か無効か判断を留保していた疑問票の判定作業の結果、まさかの逆転負け。わずか105票差でした。深夜、全国300小選挙区のいちばん最後に結果が確定しました。
私は、二股をかける重複立候補を潔しとせず、退路を断って比例区に名簿登載していませんでした。このため、日本一の惜敗率(99.86%)ながら、落選が決まりました。私よりもはるかに大差で敗れても、ゾンビのように比例復活する議員もいました。
無効と判定された票の中には、「がんばれ野田」「祈必勝・野田佳彦」など思い入れの強いものが数多くあったそうです。でも、これらは他事記載として無効となりました。
本当に負けたような気がしない敗北でした。明け方まで無言でコップ酒をあおりました。親友の鈴木康友君(現浜松市長)が黙ってずっと付き合ってくれました。
でも、午前6時には、いつもと同じようにJR津田沼駅頭に立ちました。すると、普段はポーカーフェイスで通り過ぎる人たちが、明らかにふだんと異なる表情を浮かべていました。落選直後の活動に対する驚き、惜しかったという落胆、応援しなくて申し訳ないという後悔…。近寄って激励してくださる方もいました。視線を合わせられず、うつむいている人、逃げるように遠回りする人、態度も様々でした。朝の駅頭活動を22年も続けていますが、これほど人々の表情が見てとれた経験はありません。
浪人生活、毎月1万円の支援をしてくれる応援団に感謝
こうして、私は3年8カ月も浪人生活を送ることになります。折しも、貸し渋りや貸しはがしが横行していた時期と重なります。私は、事務所として5階建てのビルの3階部分を借りていました。その1階に入っていたレンタルビデオ店がつぶれ、2階のフットマッサージ店が休業し、不景気が足元から忍び寄ってきました。所属していた新進党も解党し、孤立無援となってしまいました。
まさにどん底に陥ったとき、毎月1万円の財政的支援をしてくれる数十人規模の応援団ができました。ご自身たちも楽ではない中小企業の役員の方々でした。私は、機械的に振り込んでいただくのではなく、毎月お伺いして直接頭を下げて現金を頂くようにしました。

105票差の敗北を総括すると、煩悩と同じ108つくらい敗因が浮かびました。でも、なぜ自分がこんな目に遭うのか、心から納得はしていませんでした。そんなある日、目からウロコが落ちるような講演を聴きました。それは朝顔の話でした。
朝顔が夏の朝、可憐な花を咲かせるためにいちばん必要な条件とは何か。普通の人は日光を思い浮かべます。ところが、ある専門家の結論は、朝顔が花咲くための最も大切な条件は、暗い闇と夜の冷たさということでした。このとき、私は、初めて自分の落選と浪人の意味を悟りました。暗闇を知ってこそ、ほのかな灯りや日の光の有難さが分かるのだ。冷たさを味わった人こそ、温もりの有難みが分かるのだと。
浪人中、たくさんの人情の機微に触れることができました。この貴重な体験を財産として、血の通った政治を実現していく決意です。



松下政経塾に学ぶ「人間磨き」バックナンバー一覧
故松下幸之助氏が、日本の将来を担う「志高き」人材を育てようと開設した松下政経塾。卒業生は政治家や実業家として活躍している。彼らは、どんな志を立て、松下氏から何を学び、人間を磨いているのか。

第17回 夕張市に飛び込み地方自治の現場で実践研修~財政破綻の町で道州制を考える (2008/09/19)
第16回 現役塾生が語る「なぜ私は入塾したか」~仕事で感じた矛盾と入塾に至るまで (2008/09/16)
第15回 政治を変えなければ日本は良くならない~松下幸之助氏の目指した「政治」とは? (2008/08/08)
第14回 働くということ (2008/07/29)
第13回 政治とは何か (2008/07/25)
第12回 志を立てる〜松下幸之助塾長との出会い (2008/07/17)
第11回 「マニフェスト改革」の道 (2008/06/02)
第10回 幸之助氏いわく「運と愛嬌があるからあんたを選んだ」 (2008/05/26)
第9回 なぜ政治家を目指したのか (2008/05/19)
第8回 住基ネット不参加の決断〜政治家と行政官のはざま (2008/05/12)
第7回 レジ袋税を提案〜“杉並病”を克服し区民に健康を (2008/04/28)
第6回 政権交代が可能な保守二大政党制を志す (2008/04/21)
第5回 「人物」になる! (2008/04/14)
第4回 議員連合「せんたく」の共同代表に就く〜日本を洗濯する (2008/04/07)
第3回 怠ることなく続ける駅頭演説、「10年続けることは偉大なり…」 (2008/03/31)
第2回 落選中に知った「朝顔が花を咲かす条件」 (2008/03/24)
第1回 3歳半のときから「政治」を意識した (2008/03/17)

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