(NEWSポストセブン - 05月17日 16:14)
ポール・マッカートニー(68)が5月4日、アメリカ人女性のナンシー・シェベルさん(51)との婚約を発表した。
1998年に乳がんで死去したリンダ・マッカートニー、約47億円という巨額の慰謝料を払って別れた地雷撲滅運動家で元モデルのヘザー・ミルズに続いて3番目の妻となる。
「ナンシーは、ニューヨーク社交界の超有名人。父親は、運送会社『ニューイングランド・モーター・フレイト』の経営者で、同社の資産は約7億5000万ドル(600億円)
本人も、父親の会社の副社長を務め、ニューヨーク都市交通局の役員でもあるため収入はかなりある。
プリナップ(婚前契約)、どうやらポールは今度もプリナップを考えていないらしいしね」
※週刊ポスト2011年5月27日号
2011年5月17日火曜日
「裏切られた」「放送しないで」フジ「アイドルすかんぴん」演出に出演者が続々苦言
(日刊サイゾー - 05月17日 08:10)
ドキュメンタリー番組『ザ・ノンフィクション』(フジテレビ系)で、女性アイドルの生き方に迫った「アイドルすかんぴん」が5月15日に放送された。
華やかな芸能界の裏で、経済的に困窮しながらもなんとか日の目を見ようともがく3人のアイドルに密着。
番組はネット上でも大きな評判を呼んだ。
「お金がないから紙食べたことがあります」と語った"イラドル"●山下若菜は、所属事務所が休業状態となってしまったため、マネジャーが新会社を設立。水着イメージDVDの現場では、想定外に布地の面積が少ない水着を用意され、戸惑いながら撮影に挑んだ山下だったが、完成した映像を自らチェックし、家族が見ることを想像しながらも、しぶしぶGOサインを出す姿を映し出した。
また、芸能プロダクション・シャイニングウィル所属の●久長あや那にも密着。
アイドルを目指して新潟から上京する前夜、父親から「変な男にだまされないように。いつでも戻ってこい」と泣かれた彼女。アイドルユニット・AeLL.(グラドル・●篠崎愛が中心メンバー)結成に向けてダンスレッスンに励むが、久長はうまく踊れず、ついには女優に転向しようと、無断で別の事務所のオーディションを受け、合格。現在の事務所の社長に移籍したいという旨を伝えるが、説得され、結局事務所に残留することに。
だが、やはり踊れず、結果、AeLL.には参加できなくなった。
一方、グラドルからAV女優となり、パニック障害で休業していた●愛葉るびの再起も公開。
主演映画が決まるも、現場で監督から脚本になかった脱ぎのシーンを要求され、葛藤する姿に迫った。
それぞれの道で苦悩する女性たちの姿が圧倒的なリアリティーをもって映し出されていた。だが、この番組自体の詳細な内容は、本人たちには告知されないまま放送されたものだったようだ。
放送後、愛葉は自身のブログで次のように明かした。
「一年以上も普通の映画、オーディション、オカルトの現場、打ち上げ、病気と闘ってたこと、あれだけ沢山撮って使うのは結局アダルト、脱ぎ、それがメインか...。大事な友達が何人も時間作ってインタビューしてくれて脱ぎ関係の部分だけの編集...結局やっぱそうなんだ。信用して欲しいって言われたから全部任せて信用してた。
脱いでるメインなら受けなかった。
真実なんて伝わらない。悔しい。それより何より裏切られたことが辛い。
悲しい、やっぱそういう目で見て取材してたんだなって」
同じく久長も放送内容がショックだったようで、無理を言って両親や友人にも協力を依頼したことを明かし、「正直、放送しないで欲しかったなと思ってます」と明かしている。
アイドルという職業の残酷さに迫った番組だったが、その裏ではさらなる悲劇が起きていたようだ。
「久長は移籍を試み、所属する事務所・シャイニングウィルの社長に叱咤されて事務所に残りました。移籍は『ご法度中のご法度で芸能界を追放されかねない』と番組で紹介されていますが、実はこの事務所は移籍が多い。
同社の別セクション・シャイニングイブ所属の●新実菜々子は、別の事務所所属だったのが、『事務所ルール違反』を理由に09年3月に解雇。そのわずか3カ月後に現在の事務所に移籍しており、ルール違反は移籍だったとされています。
同じく同社の篠崎も別事務所から移籍で加入。
また、4月30日に、同社の●時東ぁみが円満移籍で事務所を出ることを発表しています」(ある週刊誌記者)
アイドルの内幕に迫るうちに、不本意な番組の編集なども含め、芸能界のさまざまな問題を浮き彫りにすることとなった同番組。
遺恨の残る部分もありながらも、注目を集めることとなった3人。この状況下で、彼女たちがどのようにチャンスに変えていくのか注目だ。
(文=蛹カルヲ)
ドキュメンタリー番組『ザ・ノンフィクション』(フジテレビ系)で、女性アイドルの生き方に迫った「アイドルすかんぴん」が5月15日に放送された。
華やかな芸能界の裏で、経済的に困窮しながらもなんとか日の目を見ようともがく3人のアイドルに密着。
番組はネット上でも大きな評判を呼んだ。
「お金がないから紙食べたことがあります」と語った"イラドル"●山下若菜は、所属事務所が休業状態となってしまったため、マネジャーが新会社を設立。水着イメージDVDの現場では、想定外に布地の面積が少ない水着を用意され、戸惑いながら撮影に挑んだ山下だったが、完成した映像を自らチェックし、家族が見ることを想像しながらも、しぶしぶGOサインを出す姿を映し出した。
また、芸能プロダクション・シャイニングウィル所属の●久長あや那にも密着。
アイドルを目指して新潟から上京する前夜、父親から「変な男にだまされないように。いつでも戻ってこい」と泣かれた彼女。アイドルユニット・AeLL.(グラドル・●篠崎愛が中心メンバー)結成に向けてダンスレッスンに励むが、久長はうまく踊れず、ついには女優に転向しようと、無断で別の事務所のオーディションを受け、合格。現在の事務所の社長に移籍したいという旨を伝えるが、説得され、結局事務所に残留することに。
だが、やはり踊れず、結果、AeLL.には参加できなくなった。
一方、グラドルからAV女優となり、パニック障害で休業していた●愛葉るびの再起も公開。
主演映画が決まるも、現場で監督から脚本になかった脱ぎのシーンを要求され、葛藤する姿に迫った。
それぞれの道で苦悩する女性たちの姿が圧倒的なリアリティーをもって映し出されていた。だが、この番組自体の詳細な内容は、本人たちには告知されないまま放送されたものだったようだ。
放送後、愛葉は自身のブログで次のように明かした。
「一年以上も普通の映画、オーディション、オカルトの現場、打ち上げ、病気と闘ってたこと、あれだけ沢山撮って使うのは結局アダルト、脱ぎ、それがメインか...。大事な友達が何人も時間作ってインタビューしてくれて脱ぎ関係の部分だけの編集...結局やっぱそうなんだ。信用して欲しいって言われたから全部任せて信用してた。
脱いでるメインなら受けなかった。
真実なんて伝わらない。悔しい。それより何より裏切られたことが辛い。
悲しい、やっぱそういう目で見て取材してたんだなって」
同じく久長も放送内容がショックだったようで、無理を言って両親や友人にも協力を依頼したことを明かし、「正直、放送しないで欲しかったなと思ってます」と明かしている。
アイドルという職業の残酷さに迫った番組だったが、その裏ではさらなる悲劇が起きていたようだ。
「久長は移籍を試み、所属する事務所・シャイニングウィルの社長に叱咤されて事務所に残りました。移籍は『ご法度中のご法度で芸能界を追放されかねない』と番組で紹介されていますが、実はこの事務所は移籍が多い。
同社の別セクション・シャイニングイブ所属の●新実菜々子は、別の事務所所属だったのが、『事務所ルール違反』を理由に09年3月に解雇。そのわずか3カ月後に現在の事務所に移籍しており、ルール違反は移籍だったとされています。
同じく同社の篠崎も別事務所から移籍で加入。
また、4月30日に、同社の●時東ぁみが円満移籍で事務所を出ることを発表しています」(ある週刊誌記者)
アイドルの内幕に迫るうちに、不本意な番組の編集なども含め、芸能界のさまざまな問題を浮き彫りにすることとなった同番組。
遺恨の残る部分もありながらも、注目を集めることとなった3人。この状況下で、彼女たちがどのようにチャンスに変えていくのか注目だ。
(文=蛹カルヲ)
【レバノン】 首都ベイルート
約180万人が居住
住民
キリスト教徒(マロン派、ギリシャ正教、アルメニア正教 、アルメニアカトリック 、ローマ・カトリック、プロテスタント)、
イスラム教徒(スンナ派、シーア派)、さらにはドゥルーズ派
ベイルートのユダヤ人の大部分は、1975年に戦争が始まった際米国に移住し、現在はニューヨーク市のブルックリン地区に住む者が目立っている。
ベイルートは、レバノン内戦の間に分裂し、イスラム教徒地区の西部と、キリスト教徒地区の東部に分割された。
歴史
18世紀
元々ベイルートは、フェニキア人によって、Beroth、つまり泉の街と名付けられた。
ベイルートは、長きにわたって東地中海の交易の中心地であり続けた。
中世のほとんどは、アラブ最大の交易の中心地としての地位をアッコに譲っていたが、18世紀になると、ベイルートは、ダマスカスの支援を得て、アッコによる交易の独占を打破することに成功し、瞬く間にアッコに代わってこの地域の取引の中心地となった。
この結果、ベイルートは非常に国際色豊かな都市になり、ヨーロッパやアメリカ合衆国とも緊密な関係を持ち、欧米の宣教師の布教活動の中心地にもなっていった。
彼らは市民を改宗させるという意味では大きな成功を収めることはなかったが、彼らによって様々な教育機関・制度が構築されることになった。その一つの例がアメリカの宣教師が設立したシリア・プロテスタント大学であり、同校は、その後ベイルート・アメリカン大学になった。
19世紀
19世紀になると、ベイルートは、アラビア人の知的活動の中心にもなり始めた。ベイルートは、レバノン山付近で産出する絹の輸出によって繁栄した。交易品の多くはフランスの船によってマルセイユに運ばれ、この地域におけるフランスの影響力が、速かに他のヨーロッパ列強の影響力をしのぐようになった。
ベイルートは、中東のパリとも呼ばれた。
20世紀
第一次世界大戦に引き続きオスマン朝が崩壊すると、ベイルートとレバノン全域はフランスに与えられた。
キリスト教国のフランス統治の下では少数派のキリスト教徒が非常に優遇されたため、ベイルートでは宗教間の緊張が高まることになった。
第二次世界大戦後、レバノンは独立を与えられ、ベイルートはその首都となった。
その後ベイルートは、中東における交通の要所であり、商業と金融、観光の主要な中心地となり中東のパリと呼ばれるほど華やかで美しい街として発展、さらにアラブ世界の知的首都でもあり続けたが、それも1975年にレバノンで凄惨な内戦が勃発するまでであった。
内戦のほとんどの期間、ベイルートは、イスラム教徒の西部(ベイルートの大部分)とキリスト教徒の東部に分割された。
かつて商業や文化活動の軌跡をとどめていた市街地は、無人地帯になった。ベイルートの上流階級や知識人の多くが他国に逃れた。
この内戦終結後、レバノンの人々はベイルートを再建しつつあり、観光、文化、知的活動も徐々に回復し、商業やファッション、報道も盛んになりつつあるが、観光や大衆文化の中心はカイロ、イスタンブールなどの都市に、金融、交通の中心はドバイにその地位が移り、課題は大きい。
21世紀
2006年のイスラエル軍によるレバノン侵攻により街南部が空爆された。
2009年現在は、治安も安定し街自体の再建も進んでいるものの、イメージ悪化による観光客の減少が街に影を落としている。
住民
キリスト教徒(マロン派、ギリシャ正教、アルメニア正教 、アルメニアカトリック 、ローマ・カトリック、プロテスタント)、
イスラム教徒(スンナ派、シーア派)、さらにはドゥルーズ派
ベイルートのユダヤ人の大部分は、1975年に戦争が始まった際米国に移住し、現在はニューヨーク市のブルックリン地区に住む者が目立っている。
ベイルートは、レバノン内戦の間に分裂し、イスラム教徒地区の西部と、キリスト教徒地区の東部に分割された。
歴史
18世紀
元々ベイルートは、フェニキア人によって、Beroth、つまり泉の街と名付けられた。
ベイルートは、長きにわたって東地中海の交易の中心地であり続けた。
中世のほとんどは、アラブ最大の交易の中心地としての地位をアッコに譲っていたが、18世紀になると、ベイルートは、ダマスカスの支援を得て、アッコによる交易の独占を打破することに成功し、瞬く間にアッコに代わってこの地域の取引の中心地となった。
この結果、ベイルートは非常に国際色豊かな都市になり、ヨーロッパやアメリカ合衆国とも緊密な関係を持ち、欧米の宣教師の布教活動の中心地にもなっていった。
彼らは市民を改宗させるという意味では大きな成功を収めることはなかったが、彼らによって様々な教育機関・制度が構築されることになった。その一つの例がアメリカの宣教師が設立したシリア・プロテスタント大学であり、同校は、その後ベイルート・アメリカン大学になった。
19世紀
19世紀になると、ベイルートは、アラビア人の知的活動の中心にもなり始めた。ベイルートは、レバノン山付近で産出する絹の輸出によって繁栄した。交易品の多くはフランスの船によってマルセイユに運ばれ、この地域におけるフランスの影響力が、速かに他のヨーロッパ列強の影響力をしのぐようになった。
ベイルートは、中東のパリとも呼ばれた。
20世紀
第一次世界大戦に引き続きオスマン朝が崩壊すると、ベイルートとレバノン全域はフランスに与えられた。
キリスト教国のフランス統治の下では少数派のキリスト教徒が非常に優遇されたため、ベイルートでは宗教間の緊張が高まることになった。
第二次世界大戦後、レバノンは独立を与えられ、ベイルートはその首都となった。
その後ベイルートは、中東における交通の要所であり、商業と金融、観光の主要な中心地となり中東のパリと呼ばれるほど華やかで美しい街として発展、さらにアラブ世界の知的首都でもあり続けたが、それも1975年にレバノンで凄惨な内戦が勃発するまでであった。
内戦のほとんどの期間、ベイルートは、イスラム教徒の西部(ベイルートの大部分)とキリスト教徒の東部に分割された。
かつて商業や文化活動の軌跡をとどめていた市街地は、無人地帯になった。ベイルートの上流階級や知識人の多くが他国に逃れた。
この内戦終結後、レバノンの人々はベイルートを再建しつつあり、観光、文化、知的活動も徐々に回復し、商業やファッション、報道も盛んになりつつあるが、観光や大衆文化の中心はカイロ、イスタンブールなどの都市に、金融、交通の中心はドバイにその地位が移り、課題は大きい。
21世紀
2006年のイスラエル軍によるレバノン侵攻により街南部が空爆された。
2009年現在は、治安も安定し街自体の再建も進んでいるものの、イメージ悪化による観光客の減少が街に影を落としている。
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