2011年5月17日火曜日

【レバノン】 首都ベイルート

約180万人が居住

住民
キリスト教徒(マロン派ギリシャ正教アルメニア正教アルメニアカトリックローマ・カトリック、プロテスタント)、

イスラム教徒(スンナ派シーア派)、さらにはドゥルーズ派

ベイルートのユダヤ人の大部分は、1975年に戦争が始まった際米に移住し、現在はニューヨーク市のブルックリン地区に住む者が目立っている。

ベイルートは、レバノン内戦の間に分裂し、イスラム教徒地区の西部と、キリスト教徒地区の東部に分割された。

歴史
18世紀
元々ベイルートは、フェニキア人によって、Beroth、つまり泉の街と名付けられた。
ベイルートは、長きにわたって東地中海の交易の中心地であり続けた。

中世のほとんどは、アラブ最大の交易の中心地としての地位をアッコに譲っていたが、18世紀になると、ベイルートは、ダマスカスの支援を得て、アッコによる交易の独占を打破することに成功し、瞬く間にアッコに代わってこの地域の取引の中心地となった。

この結果、ベイルートは非常に国際色豊かな都市になり、ヨーロッパやアメリカ合衆国とも緊密な関係を持ち、欧米の宣教師の布教活動の中心地にもなっていった。

彼らは市民を改宗させるという意味では大きな成功を収めることはなかったが、彼らによって様々な教育機関・制度が構築されることになった。その一つの例がアメリカの宣教師が設立したシリア・プロテスタント大学であり、同校は、その後ベイルート・アメリカン大学になった。

19世紀
19世紀になると、ベイルートは、アラビア人の知的活動の中心にもなり始めた。ベイルートは、レバノン山付近で産出する絹の輸出によって繁栄した。交易品の多くはフランスの船によってマルセイユに運ばれ、この地域におけるフランスの影響力が、速かに他のヨーロッパ列強の影響力をしのぐようになった。
ベイルートは、中東のパリとも呼ばれた。

20世紀
第一次世界大戦に引き続きオスマン朝が崩壊すると、ベイルートとレバノン全域はフランスに与えられた。

キリスト教国のフランス統治の下では少数派のキリスト教徒が非常に優遇されたため、ベイルートでは宗教間の緊張が高まることになった。

第二次世界大戦後、レバノンは独立を与えられ、ベイルートはその首都となった。

その後ベイルートは、中東における交通の要所であり、商業と金融、観光の主要な中心地となり中東のパリと呼ばれるほど華やかで美しい街として発展、さらにアラブ世界の知的首都でもあり続けたが、それも1975年にレバノンで凄惨な内戦が勃発するまでであった。

内戦のほとんどの期間、ベイルートは、イスラム教徒の西部(ベイルートの大部分)とキリスト教徒の東部に分割された。

かつて商業や文化活動の軌跡をとどめていた市街地は、無人地帯になった。ベイルートの上流階級や知識人の多くが他国に逃れた。

この内戦終結後、レバノンの人々はベイルートを再建しつつあり、観光、文化、知的活動も徐々に回復し、商業やファッション、報道も盛んになりつつあるが、観光や大衆文化の中心はカイロイスタンブールなどの都市に、金融、交通の中心はドバイにその地位が移り、課題は大きい。

21世紀
2006年のイスラエル軍によるレバノン侵攻により街南部が空爆された。

2009年現在は、治安も安定し街自体の再建も進んでいるものの、イメージ悪化による観光客の減少が街に影を落としている。

0 件のコメント: