2011年12月7日水曜日

「坂の上の雲」とボードゲーム 日本海海戦から続く軍事技術としてのゲーム

http://www.nikkei.com/tech/personal/article/g=96958A88889DE1E5E2E7E2EAE1E2E2E4E3E0E0E2E3E3E2E2E2E2E2E2;p=9694E3EAE3E0E0E2E2EBE0E4E2E7

【日経】2011/12/7 7:00
 ゲーム読解(新清士)
「坂の上の雲」とボードゲーム 日本海海戦から続く軍事技術としてのゲーム
ゲームジャーナリスト 新 清士

「坂の上の雲」(原作;司馬遼太郎)に登場する主人公の一人、秋山真之(日露戦争時の海軍参謀)は、米国から日本海軍用にボードゲーム「兵棋演習(ミリタリーシミュレーション、ウオーゲーム)」を持ち帰った人物でもある。

明治30年(1897年)、秋山は米国駐在武官として軍事研究を行っている。その際、キューバを巡って米国とスペインの間で起きた米西戦争を目撃している。そこで、当時はまだ珍しかった艦船を模型で作り、大きな海図の上に配置することで、戦略の状況が簡単に把握できるようにする方法論を学んだ。それを実際の軍事演習用にゲーム化したのが「兵棋演習」で、秋山が米滞在中に最も感銘を受けたものだった。

 ゲームは娯楽であると同時に、軍事技術として進化してきた側面を持つ。

「ギレンの野望」(バンダイナムコゲームス)などに代表される戦略ゲームは、100年あまり前に軍事技術として採用されていたゲーム技術の影響を大きく受けている。


■19世紀には最新の軍事技術だったボードゲーム

 これは元々、プロイセンで18世紀ごろに広まっていた戦争チェス「ケーニヒシュピーゲル」と呼ばれるゲームが発展したもので、海軍の訓練に応用できるようにイギリスで考え出された。歴史上の大海戦を再現するために、小さな木の模型を使用して、艦艇が行動し、運用するための効果的な戦術が考案できる。

ポケットに収納でき、いつでもどこでも、模型を取り出して戦闘を実行し、その結果を批評するできるものだった。素朴なゲームながら戦略を練るのに適しているため、18世紀末に英海軍はこれを利用し、フランス艦隊に対して新しい近接戦闘法を立案、完勝している。

 当時、新興国であった米海軍は、自由な発想で積極的にこの考え方を取り入れていた。

 プロイセンでは実際の戦争でも採用して大きな成果を上げ、ドイツ帝国へと発展する基礎となった。数百個の駒と、それを動かし戦闘の結果を判定する方程式が決められたルール、戦闘の結果を判定するサイコロ、実物の縮尺された地図、そして、審判役によって構成されるこのゲームは、より軍事用の戦略立案としての役割を強めていく。

 日本でも陸軍設立時にドイツから招へいされたクレメンス・メッケルによってこの技術が持ち込まれたが、陸軍には定着しなかった。

 1892年には、一般のゲームとして「ジェーン海戦ゲーム」が英国で販売されている。これは船の装甲などを詳しくルール化しており、砲撃戦になった場合の貫通力が厳密に決められているもので、弾が命中するたびに、当たった場所をランダムに決め、被害が蓄積すると船が沈没するという結果を生み出すものだった。

1898年には、手に入る限りの当時の艦船の砲の威力と装甲をランク付けした「ジェーン海軍年鑑1898」という書籍も発売されている。秋山は米滞在中に、これらの書籍に触れていただろうと思われる。

「ジェーン海軍年鑑」の公式ページ。現在でも継続して更新、販売されている

 「坂の上の雲(2)」(文春文庫)で、わずかにこの兵棋演習について触れられている項がある。練習者は敵味方に分かれて、教官の統制のもとに作戦の演習を行うというもので、秋山はこの兵棋演習を高く評価した。「アメリカにいる時代から本国の軍司令部にこれを採用するべきであると意見書を書いて送ったが、さらに説得してまわった」(P.312)。帰国後の海軍大学校教官時代には積極的に採用を働きかけていたようだ。

 「兵棋を動かすにあたって、重責を帯びてそれぞれが艦隊司令官、参謀長、艦長のつもりになって真剣に運用し、それをくりかえし鍛錬することによって、いかなるときでも自信と沈着さとをうしなわぬという第二の天性をつくりだすことができる」(同)

 ピーター・P・バーラ「無血戦争」(ホビージャパン)では、「1904年の日露戦争における日本軍の成功は、いくぶんかは、日本の将校がウオーゲームによって、『学んだ教訓』のおかげであると考えられた」(P.62)と国際的な評価を得たことが触れられている。

 サイコロを使った当時のボードゲームが、最先端の軍事技術だったことがよくわかる話だ。

■太平洋戦争では都合のよい利用方法が失敗を生む

 その後、海軍では英国の方法論を取り入れて「図上演習」と名前を変え、ウオーゲームの考え方が太平洋戦争まで伝統として引き継がれることになる。しかし、同時に「日本的なゆがみ」も加わっていった。

 有名なものは、真珠湾攻撃の華々しい成功後、1942年2月以降に行われた連合艦隊旗艦である戦艦大和の広い後甲板を利用して行われた兵棋演習だ。軍司令部時代に兵棋演習の経験を持っていた松田千秋艦長は、士官を集め戦術訓練を行わせた。特に5月1日から4日間にわたって行われたミッドウェー攻略を想定したゲームでは、連合艦隊が想定していた太平洋全体を包括する全作戦が含まれていた。

 ところが、この実施方法には致命的な問題があった。柳田邦男「零戦燃ゆ(1)」(文春文庫)によると、この演習は楽観気分のなか「味方空母の損害見こみは、まるでお手盛りだった」(P.304)とされている。

「サイコロ方式で確率を求めたところ、被撃沈を逃れられない9発命中という値が出た。ところが、宇垣審判長(少将)は『命中弾は3発とする』と審判を下したのだった。3発なら何とか生き残るからだった。それでも、『(空母)加賀』の沈没は避けられないことがわかり、それは修正されなかったが、驚くべきことに沈んだはずの『加賀』が次のフィジー、ニューカレドニア作戦に参加させられたのである。戦争がこんなうまいぐあいにいくなら、絶対に負けることがない」(同)

艦隊で強引にミッドウェー島に攻撃させる作戦が、大きな問題となり非難を受けた。「味方の航空機部隊が攻撃している間に、敵空母部隊に遭遇した場合には、どのような対策を用意しているのか」という疑問が提起されたが「零戦で対処する」といった曖昧な返答しか参謀は出せなかった。しかし結果が圧勝だったため、図上演習の結果は、その後の戦争に、楽観的な見方を上級士官の間に広めることになった。

 ところが、現実のミッドウェー海戦では楽観的な甘い見方が災いして、敗北の一因に変わる。

 この演習は3日間という短い時間の制約下で実施せざるを得なかったこともあるが、審判役がゲームに介入し、一方に有利に関わることの危険性も示唆している。実際には、審判役の士官は、戦闘と推移を正確に理解していたという。しかし、宇垣審判長の圧力によって、数回のサイコロの目を無視し、結果を変更してしまうことによって、事実を変えてしまった。ゲームが失敗したのではなく、ゲームから学べる課題や問題点を無視したことで、失敗を引き起こしたのだ。

■検証された図上演習でも難しさが確認される

 1985年には、ミッドウェー海戦が妥当であったかどうかを検証するために、当時の日本海海軍が利用していたものをベースとした「図上演習」を、防衛大学教授の野村実氏、作家の半藤一利氏、ボードゲームデザイナーの鈴木銀一郎氏など14名によってプレーされた結果が「太平洋戦争のif」(中公文庫)に収録されている。

 太平洋戦争時の艦隊同士の戦いは、航空部隊で空母をたたくために、位置を探す哨戒機を広大な海に飛ばし続ける索敵戦が続く(哨戒戦は日本海海戦でも変わらない)。日本側は、四方八方に飛行機を飛ばし続けるが、結局、最後まで主要空母を発見できなかった。ミッドウェー島の攻略作戦を進めている最中に、逆に米軍に場所を探知されてしまう。

 そのため、航空機が出払っている中で、空母は一方的に攻撃される結果になってしまう。何とか残った航空戦力で発見できた米空母を大破するが、ミッドウェー攻略は断念せざる得ず、撤退した。14時間にわたる戦闘の結果は、引き分けとされた。

 当時の日本海軍のように、物量として大きく米海軍にまさっていながらも、勝利できなかったのだ。

 史実の米海軍の勝利は「運」による面が大きかったとしながらも、連合艦隊司令長官役を引き受けた半藤氏は「ミッドウェー島と敵空母という二重の目的を追うのがいかに危険であるのか、実感としてわかった。また戦闘が激しくなると、将兵の生命などということにも無感覚になっていく。指揮官は沈着、冷静でなければならないと自らをいましめたが、これも苦しい戦いになってくると難しく、そのつらさは十分に味わったような気がする」(P.190)と所感を述べている。仮想のゲームであっても、史実の難しさが確認された結果になっている。

戦史家の大木毅氏は「戦争は錯誤の連続であり、より少なくミスを犯すものが勝者となる、という。しかし、この聞きあきたかに思える格言を実感することは難しい。図上演習は、このわかりにくいファクターを理解する重要な手段であると確信した」(P.191)とも書いている。

■第二次大戦後はコンピューター利用に置き換えられる

 これらのウオーゲームの考え方は、第二次世界大戦後、米国では海軍大学に引き継がれ、コンピューターを利用して発展させた訓練用のシミュレーション環境の開発が続けられる。

 一方で、1960年代になると、手軽なボードゲームとしてデザインされ「ウオーゲーム」というジャンルとして、一般の愛好家にも遊ばれるようになる。「レッドオクトーバーを追え!」(文春文庫)のトム・クランシーは小説の執筆にあたって、リアリティーを検証するために、何度も何百個の駒を利用するボードゲームをプレーして、その結果を反映させたことで有名だ。

 1980年代になると、パソコンの登場によって、ゲームを進める上での複雑な計算ルールをコンピューターが支援するようになり、単体のゲームへと発達する。日本でも一般ユーザー向けに「信長の野望」(コーエーテクモホールディングス、1983年)というような形で家庭用ゲームとして登場し、定着していった。

米軍の現在のコンピュータを使ったシミュレーションゲームを使った訓練環境の様子(韓国ゲーム会議での米CATSIMULATORSの講演より)

 日本では、軍事向けのウオーゲームによる訓練は、戦後完全に途絶えた。1980年代後半に米国の技術が自衛隊に導入されることで、やっと考え方が再採用されるようになってきたが、世界の趨勢(すうせい)の中では遅れている部類に入る。

 日本海海戦は、それまで艦船がばらばらに撃ちあいをするだけだった海戦を、秋山真之という作戦家を通じて艦隊が作戦原理を持って争うものへと変えた。その戦略を練り上げる背景には、ゲームの存在があり、それはその後も、太平洋戦争にも影響を与え、現在の防衛技術にも影響を与え続けている。


新清士(しん・きよし)
 1970年生まれ。慶應義塾大学商学部及び環境情報学部卒。ゲーム会社で営業、企画職を経験後、ゲーム産業を中心としたジャーナリストに。国際ゲーム開発者協会日本(IGDA日本)副代表、立命館大学映像学部非常勤講師、日本デジタルゲーム学会(digrajapan)理事なども務める。

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