2011年5月20日金曜日

歴史振り返る:日本海軍青島占拠の裏側









発信時間: 2011-05-20 11:12:35 チャイナネット


多くの日本企業と日本人移住者達がいた青島は、長い間日本軍にとって戦略目標の重点的存在だった。
1937年「七七事変(盧溝橋事件)」勃発。7月11日、日本海軍中央部は機密第242号令を発布、青島における海軍の用兵方針を確定し、「青島での事態悪化に備えた兵力」を配備し始めた。更にその同日、日本の陸軍と海軍は「やむをえない場合は青島、上海付近で日本人移住者達を保護する」とし、それを「陸海軍が必要な兵力を以って共同で行う」ことで合意した。


8月13日、日中戦争勃発。翌日、日本軍は直ちに青島への出兵を決定し、いわゆる「現地保護」政策を実行、陸海軍は連携して青島における日本の利益「保護」に当たった。しかし、上海の戦況が日本軍の戦略構想をはるかに超えるものであったため、海上で待機していた青島攻撃部隊も上海への増援を余儀なくされ、日本は外交的手段を通じて、日本人を避難させ、一時的に青島から撤兵することで青島当局と合意した。


海軍の青島への単独突入


日本軍は、上海、南京の戦局が一段落すると、今度は青島への攻撃を計画。しかし、青島地上戦の責任者である陸軍司令部が「陸海軍提携方針の下、華北地方所属部隊の青島西方への攻撃を待って、海軍とともにこれを占領すべし」との考えを固持したため、先延ばしされていた。日本海軍司令部と現地第四艦隊は、情勢から判断すれば、現在青島における中国兵力は少なく、海軍は単独でこれを処理できるため、これ以上作戦開始を遅らせるべきではないと考えていた。そして、陸海軍の意見は平行線のまま、日本第四艦隊豊田副武司令官により、海軍単独での青島突入が提議される。
12月23日、日本陸軍が黄河を渡り、青島への攻撃態勢を整える中、海軍は歩みを速め、海上勢力の優勢を利用し素早く青島入りし、先に占拠を遂げた。陸海軍は、青島侵略の過程で互いに先を争う結果となった。
1938年1月7日、日本大本営海軍部は、「中国方面艦隊」長官に対し、「現任務を遂行するため、時期を見て青島を占拠すべし」という大海令を発した。これにより、日本第四艦隊は攻撃日を1月10日に決めた。


青島侵略のため、日軍第四艦隊は航空母艦「龍驤」号、巡洋艦「足柄」号、軽巡洋艦「球磨」号、水上機母艦「能登呂」号、特設水上機母艦「衣笠丸」号等60余りの艦艇を動員した。1月7日、日軍艦隊は一斉に青島方向へと移動。


1月10日7時52分、日軍第一波部隊は抵抗に遭うことなく、陸上戦部隊は13時45分、全員上陸完了。この間、姜哥庄で哨戒任務に当たっていた2隻の軍艦が8時35分に海岸付近の高台を約10分間砲撃した以外には特に大きな戦闘はなかった。15時30分、青島市政府を占領、18時30分には市内掃討完了、青島を全面的に占拠した。


日本陸軍は青島占拠に対する自身の意図があった。陸上部隊の青島占拠が困難な状況に気付くと、海上からも部隊を派遣、1月11日に青島港入りし、華北方面軍の基地を建設した。また、国崎支隊を1月14日に上陸させ、青島付近での警備任務に当たらせた。交通施設が破壊されていたため、山東内地から青島攻撃に向かう陸軍の動きは遅く、1月19日にようやく青島に到着、そして膠済沿線の警備配置が完了した。


華北植民地の中心をめぐる争い


先に上陸した海軍が青島の重要建築物や施設、埠頭等を占領していたため、辺り一面に「海軍管理」の張り紙が張られ、港湾管理部まで設置されていた。


これらの建築物の管理、警備方法について陸海軍の間には激しい摩擦と対立があった。双方とも青島での協議では決着がつかず、1月27日、大本営陸海軍の調整によって、ようやく合意に達した。


しかし、青島の第四艦隊と第二軍間の交渉がなかなか進まず、港務、郵務、電務等について、ようやく合意が得られたのは3月26日のことだった。


この合意により表面的には問題解決となったが、間もなく陸海軍の華北統治の中心を天津とするか、青島とするかで、双方の対立は再び表面化することとなる。


 天津と青島はともに華北の要地であり、華北植民地の中心をどこに置くかで、日本軍上層部の意見は2つに分かれていた。


 それが、陸軍の主張する「天津中心論」と海軍の主張する「青島中心論」だった。


 七七事変(盧溝橋事件)後、天津港は日本が統治する華北地区で唯一爆撃を受けていない港だった。


 1938年6月、日本が制定した華北産業開発第一次五年計画では、青島港を中心とする山東資源開発計画は、その重点計画となっていなかった。


 しかし、青島出張所の実権を握る海軍部が「青島中心論」を固持し、これをもって華北地区の発言権を奪い取った。青島港の修復や拡張、そして綿糸工場の再建が進むにつれ、青島の経済力や潜在的可能性が突出し、日本は青島の戦略的地位を見直すようになる。大規模な調査を行い、青島を中心とする「山東開発計画」等の戦略を打ち立てた。


 1941年末には、しだいに「青島中心論」が「天津中心論」に取って代わり、青島の戦略的地位はより多くの日本軍上層部に認められるようになった。
「中国網日本語版(チャイナネット)」 2011年5月20日

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