2011年5月22日日曜日

【萌える日本史講座】 国境の孤島「対馬」の謎に迫る

 〇_中国
 随 581-
 唐 618-907

 〇_朝鮮半島
 北部 高句麗 前37-668
 中部 新羅      356-  935
 南部 百済     346-660

 〇_日本国
 平城京 元明天皇 710
 長岡京 桓武天皇 784

 ※日本国は、遣隋使や遣唐使のように、随・唐時代は、中国とは交流が盛んだった。元時代になって疎遠になる



【萌える日本史講座】国境の孤島「対馬」の謎に迫る
2011.5.21 18:00

島の奥深くまで入り込んだリアス式海岸。一見するとダム湖のようにも=長崎県対馬市

 「壱岐・対馬」-。まるできょうだいのように、ひとくくりにしてしまいがちな玄界灘に浮かぶ2つの島。どちらも長崎県に属し、朝鮮半島と日本を結ぶ玄関口として古代から栄えた海洋王国だった。

 しかし、島のおもむきは全く異なる。

 のどかな田園風景が広がる壱岐に対し、対馬は海岸からすぐ急峻(きゅうしゅん)な山並みが迫り、リアス式海岸がうねるように島を取り巻く。島の北端からは韓国の山々がかすかに望める一方、航空自衛隊がレーダー監視を行うなど、国境の島ならではの緊張感も漂う。魏志倭人伝の舞台でもある対馬を訪ねた。(小畑三秋)

「土地山険」

 島巡りに車を走らせると、いきなり急カーブの連続だった。山中を縫うように走る国道からは、細長い湖のような水面が見え隠れする。「ダム湖かな」とよく見ると、海。リアス式海岸が島の奥まで入り込んでいた。水平線は全く見えない。

 「(朝鮮半島から)始めて一海を渡ること千余里、対馬国にいたる。居するところ絶島にして、方四百余里ばかり。土地山険にして深林多く、道路は禽鹿(きんろく)の径(けい)(獣道)のごとし」

 1800年前の倭国(日本)について記した中国の歴史書、魏志倭人伝の一節だ。「絶島」という表現が、神秘性を増幅させる。

本土を圧倒

 国境の島であることは、島内の遺跡からもうかがえる。
 なかでも、考古学者を一様に圧倒させるのが、弥生時代を代表する青銅器、銅矛(どうほこ)の数。朝鮮半島から伝わり、本来は突き刺すための武器だったが、対馬で発見された銅矛の大半は、刃の部分が平らで、巨大なヘラのようになっている。九州北部で誕生した日本独自のもので、「広形銅矛」と呼ばれる。長さ80~90センチ、重さは2キロ。とても戦場で武器として振り回すことはできない。

 この広形銅矛が、島内だけで国内最多の130本以上見つかっており、その数は九州北部をはるかにしのぐ。
 権力者の副葬品として確認されているのはわずか5本程度で、大半は墓以外の何の変哲もない場所に埋められている。現在でも、道路工事中に突然発見されることがあるという。
 対馬市豊玉町郷土館では、数十本もの広形銅矛が展示されている。どっしりとした重量感でケース内に横たわる姿はまさに圧巻。神々への畏怖(いふ)さえ感じさせる。
大量埋納の謎
 福岡から140キロも離れた対馬になぜ、これほど大量の広形銅矛が存在するのか-。
 そのヒントはやはり、魏志倭人伝に隠されていた。「船に乗って南北に市糴(してき=交易)す」。朝鮮半島や倭国との間で盛んに交易していたことを記す。
 この記述から、広形銅矛は航海の安全のためという説が浮かび上がる。当時の航海は手こぎボートのような小舟で、ただでさえ潮の流れが激しい対馬海峡を渡るのは命がけ。そのため、航海に出るときは銅矛を神々に捧げて祭祀(さいし)を行い、その後は再び地中に埋めたという。
 ある研究者は「銅矛は霊力が強く、普段は力を封じこめるため地中に埋め、祭祀を行うときだけ掘り出して使ったのではないか」と推測する。

国境の守護神

 一方、大量に埋められた広形銅矛がいずれも九州製であることから、「国境の守り」という説も有力だ。
 対馬からわずか50キロ北方は韓国の釜山。晴れ渡った早朝には対馬の北端から韓国の山並みが見え、夜には釜山の街明かりが浮かび上がる。
 謎を秘めた広形銅矛は、倭国の国境にあたる対馬に埋められ、その霊力によって朝鮮半島からの侵入を防ごうとした-。大量の広形銅矛は、それだけ半島勢力が脅威だったことをうかがわせる。
 島内には戦前ごろまで、一風変わった風習が残っていた。「塞(さえ)の神祭り」。刀の形をしたものを集落の端のほこらにまつり、外から邪悪なものが集落に入ってこないようにしたという。もしかすると、広形銅矛の名残かもしれない。
朝鮮半島との綱引き
 対馬にはいつごろから人々が暮らし始めたのだろう。この謎については、遺跡発掘が解明の糸口を与えてくれる。
 縄文時代前期の約8千年前の地層からは、北部九州系の土器が出土している。ということは、この時期に九州から縄文人が丸木舟などに乗ってやってきたことになる。
 それから1千年後、今度は朝鮮半島系の土器が出現。このころになって朝鮮半島の人々が渡ってきたようだ。
 縄文時代中期(4500年前)以降は、北部九州の土器がまとまって見つかるようになり、佐賀県産の黒曜石も出土。発掘調査からみる限り、対馬は7千年前までは九州と朝鮮半島とで綱引き状態にあったのが、4500年前ごろからは明らかに九州の文化圏に入った。

国境紛争

 対馬中部の浅茅湾を望む斜面を上ると、びっしりと積み上げられた石垣が突然姿を現す。あまりにも整然と積まれているため、せいぜい数百年前のものかと思いきや、1300年以上前の667年に築かれた砦(とりで)「金田城」の石垣だった。

 663年、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)(のちの天智天皇)らは、同盟国・百済(朝鮮半島南部)再興を期して、唐・新羅連合軍と戦ったが惨敗。この白村江(はくすきのえ)の戦いの4年後、朝鮮半島との最前線・対馬に国土防衛の要として築かれたのが、金田城だった。

 東国などから防人(さきもり)として兵士を集め、対馬だけでなく壱岐、筑紫(福岡)にも配備。金田城には頂上部にのろしを設け、敵軍接近など異変があれば煙によって島内の別の場所に伝達し、壱岐を経て福岡までリレーで結んだという。

 金田城跡の石垣は高さ10メートルほどあるが、多くが当時のままで残っている。石垣の総延長は2キロ以上。現在は観光ルートになっており、頂上まで50分ほどかかる。昭和57年に対馬で唯一の国特別史跡になり、平成5年度からは発掘調査が行われ、掘っ立て柱建物跡や柵列跡などを発見。14年度からは石垣の修復や周辺整備に取りかかり、休憩所や解説板が設けられている。

 当時の都・飛鳥(奈良県)からはるか600キロも離れた孤島に積み上げられた石垣。1300年以上崩れずに残る石一つ一つには、国家を守ろうとした飛鳥時代の指導者たちの気構えが込められていた。

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