2011年5月29日日曜日

【日本赤軍】 丸岡 修(享年60歳)/八王子医療刑務所

1949年10月 - 2011年5月29日 日本赤軍の元メンバー。

清水谷高校卒業後、大阪浪共闘ベ平連で市民活動家として活動。

日本赤軍
1973年 ドバイ日航機ハイジャック事件、(22歳)

1973年7月20日テルアビブ空港乱射事件に対する関与等で国際指名手配を受け逃亡していた日本赤軍丸岡修ら5人の「被占領地の息子たち」と自称するパレスチナ解放人民戦線(PFLP)と日本赤軍の混成部隊が、爆弾などの武器を持ちフランスパリアムステルダムアンカレジ経由東京羽田)行きの日本航空404便(ボーイング747-246B型機、機体記号JA8109)をハイジャックし、アラブ首長国連邦ドバイ国際空港へ着陸させた。

▼日本航空404便(B747-246B型機)

        パリ 離陸
7月20-22日 ドバイ(UAE)
       サウジアラビア政府 領空侵犯時は爆破命令
7月22日 ダマスカス国際空港 燃料補給 シリア
       イスラエル政府   領空侵犯時は爆破命令
       ベンガジ市(シリア)ベニア空港

ベンガジへ
ドバイには3日間駐機し、その間に犯人グループから、40億円の身代金の支払いと逮捕されていた日本赤軍メンバー2名の釈放を要求する旨の脅迫状が日本航空の東京支店に届いた。これらを受けてドバイ首長の弟であるモハメッド・ラシッド国防大臣(当時。現在のドバイ首長)や佐藤孝行運輸政務次官らが犯人グループとの交渉に当たったが解決出来ず、その後ドバイ国際空港を離陸し、シリアダマスカス国際空港で燃料の補給を行い、リビアベンガジにあるベニナ空港に着陸させた。

爆破
その後犯人グループは、乗員乗客145人の人質を解放後、同機を爆破しリビア当局に投降した。なお、この際に女性メンバー1人が死亡した。犯人グループは投降後、ムアンマル・アル=カッザーフィー大佐率いるリビア政府の黙認(積極的な援助)の元、リビアの友好国経由で国外逃亡した。

撃墜指令
2004年に公開されたイギリス外務省の当時の機密文書によって、この事件の発生時に、ハイジャック機が領空の近辺を通過したイスラエルサウジアラビアの両政府が、当該機が両国の石油関連施設や市街地に突入する行動を取った場合、乗客乗員もろとも撃墜する方針であったことが明らかになった。

1977年ダッカ日航機ハイジャック事件(27歳)に主導的立場で関与

1987年11月21日東京警察に偽造パスポートを所持していたため逮捕(38歳)

丸岡が翌年に迫ったソウルオリンピックを妨害工作するためにソウル行きを計画していたことが明らかになる。

ドバイ・ダッカの両ハイジャック事件に対するハイジャック防止法違反と、偽造旅券で帰国したとする旅券法違反の罪に問われ、

1993年12月、無期懲役判決を受けた。(44歳)
1997年4月に控訴を、2000年3月に上告をそれぞれ棄却されて無期懲役が確定。当初は宮城刑務所で服役した。

2002年1月27日、『読売新聞』の記事「若王子さん事件 日本赤軍の影」において「三井物産マニラ支店長誘拐事件の際に犯人側に渡された身代金と丸岡の所持していた紙幣の番号が一致した」などと報じられた。

丸岡は名誉毀損で民事訴訟に起こし、2007年1月19日に東京地裁は三代川三千代裁判長は証拠不十分として読売新聞社に105万円の賠償支払いを命じた。

2007年6月28日、控訴審の東京高裁で吉戒修一裁判長は一審判決を破棄し、新聞記事を真実と認め、丸岡の名誉毀損による請求を退けた。

クアラルンプール事件で実行犯として関与したと疑われていたが、クアラルンプール事件では起訴はされていない。

2004年(54歳)には拡張型心筋症と診断され車椅子生活を送っていた。投薬治療を受けていたが、刑務所内には医師が常駐しておらず十分な治療がうけられなかったという。発作で失神することもあり、丸岡は4回も刑の執行停止を申し立てたがいずれも却下されていた。
2010年6月30日、刑の執行停止が認められず精神的苦痛を受けたとして、国を相手取り約1100万円の損害賠償と刑の執行停止をもとめ東京地裁に提訴。

2011年5月29日、服役中の八王子医療刑務所内にて心臓病により60歳で死去。

その他
日本赤軍メンバーの岡本公三によると、テルアビブ空港乱射事件は当初の計画では丸岡を含めた4人でおこなう予定であったが、丸岡が別行動を取ったために3人で襲撃したと供述している。



1977年9月28日(当時27歳)

に、フランスパリシャルル・ド・ゴール国際空港東京国際空港(羽田)行きの南回りヨーロッパ線日本航空機472便(ダグラスDC-8-62型、JA8033、高橋重男機長以下乗員14名、乗客137名、犯人グループ5名)が、経由地のインドムンバイ空港を離陸直後、拳銃手榴弾等で武装した日本赤軍グループ5名によりハイジャックされた。
同機はカルカッタ方面に一旦向かった後、進路を変更してバングラデシュダッカ国際空港に強行着陸し、犯人グループは人質の身代金としてアメリカドルで600万ドル(当時の為替レート〈1USドル≒約266円〉で約16億円)と、日本で服役及び勾留中の9名(奥平純三城崎勉大道寺あや子浴田由紀子泉水博仁平映植垣康博知念功大村寿雄)の釈放と日本赤軍への参加を要求し、これが拒否された場合、または回答が無い場合は人質を順次殺害すると警告した。この時、犯人グループから、「アメリカ人の人質を先に殺害する」という条件が付けられ、この「条件」の影響を受けて、その後の日本政府の対応にアメリカへの外交的配慮があったとする見方もある。
その後、ハイジャック機は燃料消費を抑えるためにエンジンを停止し、直ちに機内のエアコンが停止したために機内の気温が45度以上に上昇し、機内では倒れる者が続出した。しかし、たまたま乗り合わせた日本航空の嘱託医師の穂刈正臣が手当てを行なったほか、高橋機長が空港関係者にエアコンを作動させるための補助動力車と水を要求し、これが受け入れられたために事なきを得た[1]

超法規的措置
日本国政府は10月1日福田赳夫首相(当時)が「一人の生命は地球より重い」と述べて、身代金600万ドルの支払い及び、超法規的措置として獄中メンバーなどの引き渡しを決断。釈放要求された9人の内、植垣康博は「日本に残って連合赤軍問題を考えなければならない」、知念功は「一切の沖縄解放の闘いは沖縄を拠点に沖縄人自身が闘うべきものであり、日本赤軍とは政治的、思想的な一致点がない」、大村寿雄は「政治革命を目指す赤軍とはイデオロギーが異なる」と3人が釈放および日本赤軍への参加を拒否した。
日本政府は議論の過程で釈放要求リストに載っていた獄中者組合2人については「思想犯ではなく刑事犯」である理由から2人の釈放拒否の方針を持ってハイジャック犯と交渉した。しかし、ハイジャック犯は拒否し、日本政府が折れ2人も釈放対象となった。
日本政府は同日朝に、運輸政務次官石井一を派遣団長とし、日本航空の朝田静夫社長ら同社の役員や運輸省幹部を中心としたハイジャック対策の政府特使と、身代金と釈放に応じたメンバーなど6人を日本航空特別機(ダグラスDC-8-62型 JA8031)でダッカへ輸送した[2]
日本政府が過激派による獄中メンバーの釈放要求に応じたのは1975年のクアラルンプール事件以来2回目となった。なお、検事総長神谷尚男法務大臣福田一は、この様な「超法規的措置」の施行に対して強硬に反発した。福田一は施行が決定された後に「引責辞任」した。

軍事クーデター
バングラデシュ軍部中枢を含む政府首脳がこの事件の対応に追われている隙間を縫って、10月2日の早朝に軍事クーデターが発生した[2]。その後戒厳令が発令され、最終的に反乱軍は鎮圧されたものの、ダッカ国際空港近辺でも戦闘があり政府軍の士官が11名が死亡するなど現地は緊迫したが、当時報道規制により詳細は分からなかった。
終結
10月2日に人質との交換が行われ、乗員乗客のうち118名が解放された。その後10月3日に、高橋機長とデッドヘッドで乗り合わせていた澤田隆介機長の機転で更なる人質の解放に成功した後[2]、残りの人質を乗せたままハイジャック機は離陸、クウェートシリアダマスカスを経て人質17名を解放、アルジェリアのダル・エル・ペイダ空港に着陸し、同国当局の管理下に置かれた。日本赤軍がアルジェリアを選んだのはアルジェリアがハイジャック防止条約を結んでなかったためである。この時点で残りの乗客乗員も全員解放され、事件は終結した。

事件の影響
事件解決に多大な協力を受けた上に、11名の死者を出した軍事クーデターのきっかけを作ったことを受け、事件解決後に日本政府はバングラデシュに謝礼と謝罪の意味を含めて特派使節を送ることとなった。しかし、バングラデシュ政府は日本政府に対し(高尚な思想から)なんら補償や見返り等を求めなかった。
また、この事件における日本の対応は、一部諸外国から「(日本から諸外国への電化製品や自動車などの輸出が急増していたことを受けて)日本はテロまで輸出するのか」などと非難を受けたといわれる。
ただし、当時は欧米各国においても、テロリストの要求を受け入れて、身柄拘束中のテロリストを釈放することが通常であり(例、PFLP旅客機同時ハイジャック事件ハーグ事件ルフトハンザ航空615便事件などを参照)、日本政府のみがテロに対して弱腰であったわけではない。そのため当時世界各国では、この様な事件に対処する為に対テロ特殊部隊の創設が進められつつある所だった。
このテロリストの要求を受け入れる流れが変わるきっかけとなったのが、ダッカ事件と同じ年に起こったルフトハンザ航空181便ハイジャック事件である。西ドイツ政府は、ミュンヘンオリンピック事件を機に創設された特殊部隊GSG-9を航空機内に突入させ、犯人グループを制圧し、人質を救出した。
同年、日本政府はGSG-9の成功例を参考に、ハイジャック事件に対処する特殊部隊警視庁大阪府警察に創設した。また、アメリカ合衆国もGSG-9の突入作戦を教訓として、陸軍デルタフォースを設立した。
日本警察の特殊部隊は、創設当初、特科中隊もしくは零中隊などと呼ばれており、部隊の存在自体が長期間、非公開とされていたが、1995年に発生した全日空857便ハイジャック事件に出動し、犯人を逮捕、人質を救出したことで世間に知られるようになった。その後、これらの特殊部隊は部隊を増設し、装備を強化した上で、SAT(Special Assault Teamの略称)と呼ばれるようになった。
なおこの事件を報道するニュースをきっかけに、福岡県結核療養所に入院していた患者が「人質がどうなってしまうのか」で同室の患者と口論となり、ナイフで刺殺してしまったという事件も起こっている。

後日談
[編集] 「モガディシオ事件」
詳細は「ルフトハンザ航空181便ハイジャック事件」を参照
ダッカ日航機ハイジャック事件から、1ヶ月も経たない1977年10月13日、スペイン領マリョルカ島パルマ・デ・マリョルカフランクフルト行きのルフトハンザ・ドイツ航空615便(ボーイング737型機)が、『黒い九月』を名乗る西ドイツ赤軍(バーダー・マインホフ・グループ)と、PFLPの混成グループにハイジャックされ、ソマリアのモガディシオに着陸させられた。
テロリストは西ドイツ政府に対して、身代金と政治犯釈放を要求したが、10月17日、ミュンヘンオリンピック事件をきっかけに創設された、西ドイツの特殊部隊「国境警備隊第9グループ(GSG-9)」が航空機に突入し、テロリストを制圧、人質全員を救出した。 なお機長1名がテロリストにより射殺され犠牲となったものの他の乗員乗客は無事だった。西ドイツ赤軍は、内容からしてダッカ日航機ハイジャック事件を参考にしたようだが、GSG-9により制圧される結果となった。

ハイジャック機その後
ハイジャックされたDC-8-62型機(JA8033)はその後日本国内へ戻され、ハイジャック犯人による爆弾の爆発実験により一部が破損した機内トイレの修繕や、機内清掃などが施された後に通常運航へと戻され、1984年まで日本航空で使用された後にメキシコアエロメヒコ航空へと売却され、1990年代前半まで運行された。

日本航空クアラルンプール墜落事故
日本航空クアラルンプール墜落事故」を参照
ダッカ事件発生前日、日本航空715便がマレーシアクアラルンプールへ着陸する途中に空港手前のゴム園に墜落する事故を起こしていた。その為、日本航空は事件と事故の対応に追われていた。

釈放要求されたメンバー・実行犯メンバーのその後
釈放された6人メンバーの内、1986年に泉水博、1996年に城崎勉、1997年に浴田由紀子がそれぞれ身柄拘束されている。また実行犯として丸岡修西川純が逮捕され、無期懲役判決を受けている。和光晴生はこの事件では訴追されず、別事件で訴追され無期懲役判決を受けている。
2010年現在も奥平純三大道寺あや子仁平映国際指名手配されている。

ハイジャック犯人グループ
丸岡修 
和光晴生(?) 
佐々木規夫
坂東國男
西川純  

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