【笠原健の信州読解】
石油を絶たれた70年前の日本は、日米開戦に踏み切るか懊悩していた
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110529/stt11052907000000-n1.htm
2011.5.29 07:00
東京電力福島第1原子力発電所の事故はいまだに収束が見通せないどころか、発表が二転三転するなど政府の統治能力に疑問符が突きつけられている。
今の政治家にこの国を守る決意は本当にあるのか。
実は70年前の日本もこの命題を突きつけられていた。国の命綱といってもいい、石油を確保するため日米開戦に踏み切るのか。開戦するとしたら、そのタイミングはいつなのか。
どんよりと曇った梅雨空と同じように日本の政府、そして軍の首脳の心は一様に暗かったに違いない。
■「我慢すれば、朝鮮と台湾は残る」
「君は本当にやったほうがいいと思っているのかね。いいかい、ここでやけっぱちで事を構えたら、満州はもちろんのこと、朝鮮も台湾もなくしちゃうことになるんだよ。この際ひとつ我慢をすれば、満州は駄目だが、朝鮮と台湾はうまくいけば残るよ」
この一節は、作家で東京都副知事を務めている猪瀬直樹氏の「空気と戦争」(文春新書)からの引用で、70年前のちょうど今頃、東京の三宅坂から赤坂見附までを歩いている2人の陸軍将校の間でかわされた会話だ。
以下、「空気と戦争」をもとにしながら、当時の日本の雰囲気を探ろう。
70年前の昭和16(1941)年6月、日米関係は日本の中国進出をめぐり極度に緊張していた。事態打開をはかるために日本政府は対米交渉に乗り出していたが、その道は容易に見つからない。
米国が日本への石油輸出を全面禁止
昭和15(1940)年7月に輸出許可品目に石油及び石油製品を追加していたアメリカは翌昭和16(1941)年6月21日に「石油製品輸出許可制」の完全実施に踏み切る。アメリカが対日石油輸出の全面禁止を発表したのは8月1日だが、猪瀬氏によると6月21日以後、日本は一滴の石油も入手できなくなった。
旧陸軍は石炭を液化して石油にする人造石油の開発に着手していたが、それも思うようにはかどっていない。このままでは間違いなくじり貧になる。陸軍省で燃料問題を担当していた2人の将校が陸軍大臣の東條英機中将と大臣室で面会し、陸軍の燃料需給の見通しを説明して、窮状を訴える。6月22日にはヒトラー率いるドイツとスターリンのソ連との間で戦争が始まっていた。
猪瀬氏は東條英機に面会した陸軍中尉で、昭和60(1985)年に回想録「油断の幻影-一技術将校の見た日米開戦の内幕」を出版した当時の技術将校、高橋健夫氏に面会して取材を進めた。
「こうなったら、アメリカとの衝突覚悟で南方に武力で進出するしかないのか?」。陸軍大臣室にいた3人の脳裏にこんな思いが浮かんだとしても不思議ではない。
石油確保のため蘭印に進出
オランダが植民地支配していたインドネシア(オランダ領インドネシア=蘭印)からは石油が産出されていて、アメリカからの輸入が駄目ならば、力ずくで打って出るしかない、というのがほぼ常識になっていた。
大臣室を出た高橋氏は、仕事のことで相談に乗ってもらうことが多かった10歳ほど年長の原田菅雄少佐と帰路、歩きながらなぜ上層部は石油を確保するために軍事行動を起こさないのか、グズグズしていると時機を失ってしまうのではないか、と尋ねる。
冒頭に掲げた言葉は、原田少佐が疑問をぶつけてきた高橋氏に対して投げ返した答えだ。高橋氏が軍人精神を忘れてしまっているといわれるのでは、と切り返すと原田少佐は「だから危ないんだよ。そういう雰囲気が、ますます危ない方向へ国を引っ張っていくんだ」と高橋氏を諭す。
「結局戦争、そして敗けるんだよ」
原田少佐はこう続ける。「大政治家というものは、正しいと自分で信じた場合、国民など黙らしてもその方向へ引っ張っていくものなんだ。その代わり、自分も永遠に黙らされることを覚悟の上でね」と、昔は、身命を賭(と)して国難に当たる政治家がいたが、今はもういないと慨嘆する。
そして「結局、戦争することになるさ。そして敗けるんだよ」と、アメリカとの戦いに突入したあげく、日本は敗北するとの見通しを披露する。
中国大陸からの撤兵、満州からの撤退は絶対にまかりならぬという国内の強硬論に突き上げられたままでは日米交渉の妥結は絶対に無理。
日清戦争に勝利した後、遼東半島を清国に返還するようにロシア、ドイツ、フランスから三国干渉を受けた際、臥薪嘗胆したように、米国や英国から中国大陸の利権を放棄するよう強要されても、歯を食いしばって耐え続ければ、やがて活路を見いだすことはできる、というのが原田少佐の見立てだ。
中国大陸から撤退していたら…
だが、中国大陸からの撤兵や満州からの撤退を切り出した途端、軍部の強硬派の標的や右翼のテロの対象になりかねない。すでに昭和7年には5・15事件が、昭和11年には2・26事件が起きるなど時代は殺伐としていた。
国の針路を誤らぬように正論を唱え続け、政策を実行に移すには命がけで臨む必要があった。
原田少佐の言葉通りに、命がけで事に当たろうという政治家は当時の日本にはいなかった。日本がアメリカとの戦争に踏み切るのは、高橋氏と原田少佐の会話が交わされた日から約半年後の12月8日だ。(長野支局長 笠原健)
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