2011年12月9日金曜日

【ホノルル総領事館】 海軍少尉・吉川猛夫

【SAPIO】2011年12月28日号

 真珠湾攻撃は突然始まったわけではない。現地でも密かに準備が進められていた。

ある日、吉川猛夫は軍令部第三部第五課長の山口文次郎大佐に呼ばれ、ホノルル総領事館員になり滞在するようにと言われた。

1941年3月27日(現地時間)、ホノルル総領事館に吉川は「森村正(28)外務省の一等書記生」として着任した。

彼は毎日のように下町に出かけて酒を飲み、現地の女性とドライブやピクニックに出かけるなど、派手な生活を送った。吉川は、真珠湾に在泊している船の種類や数、停泊地やその動きなどを逐一報告するように指示されていた。

下町で酒を飲むのは水兵から情報を得るため、女性とドライブやピクニックに出かけるのは真珠湾周辺の状況を自分の目で確かめるためだった。

 毎日のように真珠湾を観察するうち、毎週日曜日に最も多くの艦艇が在泊していることや(真珠湾攻撃は現地時間で12月7日の日曜日に行なわれた)、空母は1週間ぐらい演習で港を留守にするとか、南方水域で演習が行なわれているらしいことなど(日本の攻撃部隊は太平洋の北方水域を航行していた)、米艦隊の”習性〟がおぼろげに判ってきた。

 吉川は真珠湾を見張るためにうってつけの場所を見つけた。アレワ高地にある日本料亭「春潮楼」である。2階座敷から東南方向に真珠湾と隣接するヒッカム飛行場を望むことができ、客が景色を楽しむための観光用の望遠鏡も備えられていた。

 吉川は春潮楼に入りびたり、彼女たちと馬鹿騒ぎをした後、深夜から明け方までまんじりともせず、真珠湾の様子をうかがうことしばしばだった。

 収集した情報は喜多長雄総領事の名で東京に暗号にして打電し、その情報の多くは当時の日本軍において大いに役立つものであった。最後の打電は1941年12月6日の第254番電で、太平洋戦争開戦の6時間前に東京に届いた。

開戦後は他の総領事館員とともに軟禁状態となった後アリゾナの収容所へ入れられたが、正体が発覚することもなく、1942年8月15日に日米の交換船を使用し、喜多総領事をはじめとする他の総領事館員とともに無事日本へ帰国した。

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