今から、約40年前の日本国のテレビでは「レインボーマン」と云うアニメを実写した番組がテレビ朝日系で放映されていた
行けレインボーマン「レインボーマン」昭和47年10月6日
川内康範 作詞北原じゅん 作曲安永憲自、ヤング・フレッシュ 唄
レインボー セブン
インドの山奥で 修行をしてダイバダッタの 魂宿し空に掛けたる 虹の夢今さら後へは引けないぞだから行くのだ レインボーマンダッシュ ワン ツゥ スリー
人間だれでも みな同じ肌や言葉の 違いを除きゃみんな仲間だ そうなのだそいつを壊す者があるだから行くのだ レインボーマンダッシュ フォー ファイブ シックス
たとえこの身が どうなろうと愛と正義の 命じるままに海も越えよう どこまでも今さら止めてはだめなのだだから行くのだ レインボーマンダッシュ セブン
提婆達多(だいばだった、Skt:Devadatta、デーヴァダッタ、音写:提婆、調婆達、調達、訳:天授、天熱)は、釈迦仏の弟子であったが、後に違背したとされる人である。
名前の由来
諸天は、彼が生まれて、後に三逆罪を犯すことを予知していたが、心に熱悩を生じるような極悪人の姿を示したので、彼を「天熱」と名づけたといわれる。
人物・来歴
釈迦の弟子の一人で釈迦の従兄弟に当たるといわれ、多聞第一で有名な阿難の兄とする説が一般的である。
彼の親族及び身辺はいくつかの説がある。
Mah.II,Mah.Tika.p.86によると、Suppabaddhaの子にして、Bhaddakaccanaの弟とする。Mah.II.22では、釈迦族のSuppabuddaとAmita女との間に生まれ、釈迦の妃Bhaddakaccanaaの弟。Dap.A.III.p44には、Suppabuddaの子でYasodharaaの兄弟とする。
甘露飯(アムリトダーナ)王の子で、阿難の兄とされる。
斛飯(ドロノダーナ)王の子で、阿難の兄。五通を得て驕り、阿闍世(アジャータサットゥ)王を唆して、釈迦仏を殺さんとした。富蘭那迦葉と親交があるという(大智度論)の説。これが一般的に多用されている。
など、多くの説がある。
彼は釈迦族の諸王子たちと共に釈迦仏の弟子となったが、その後は釈迦に「五事の戒律」を提案するも受け入れられなかったので、分派して新しい教団をつくったという。彼が釈迦に提唱した「五事の戒律」は以下の通り。
人里離れた森林に住し、村邑に入れば罪となす。
乞食(托鉢)をして、家人から招待されて家に入れば罪となす。
ボロボロの糞掃衣(ふんぞうえ)を着て、俗人の着物を着れば罪となす。
樹下に座して瞑想すべきで、屋内に入れば罪となす。
魚肉、乳酪、塩を食さず。もし食したら罪となす。
ちなみに、これら提婆達多が提示した五事の戒律が厳しいことや、釈迦仏が入滅の直前に純陀からスーカラマッタヴァという豚肉(あるいは豚が探すトリュフのようなキノコとも)という供養を受けて食した事などから、仏教学においては、初期の釈迦仏教教団の戒律はそれほど厳しいものではなかったという指摘がされている。
また、彼は三逆罪(さんぎゃくざい)を犯したため、生きながら無間地獄に落ちたといわれている。なお彼が犯したとされる三つの逆罪とは以下の通りである。
破和合僧(はわごうそう)、釈迦教団を出て分派活動を行った。
出仏身血(すいぶつしんけつ)、山頂から大石を落として釈迦仏の足の指から出血させた。
殺阿羅漢(さつあらかん)、釈迦仏を殺さんとしていた所を蓮華色比丘尼にとがめられ、彼女を鉄拳で殺した。
しかし近年の仏教学では、提婆達多は釈迦に戒律を厳格に整備して教団の改革を進言したが、拒否されたために釈迦教団から去り独自の教団をつくっただけで、教団を分った以外は史実になく、これはスケープゴートされただけともいわれている[要出典]。
提婆達多派の仏教と位置づけ
七世紀にインドを訪れた玄奘三蔵の『大唐西域記・巻十』には、提婆達多が生きながら地獄に堕していった穴がインドに残っていたこと、またベンガル地方では後期まで提婆達多派の教団が存在しており、三伽藍を要して乳酪を口にせず提婆達多の遺訓を遵奉し、過去七仏の中でも釈迦仏を除いた賢劫の三仏を信奉していた事などが記されている。
また法顕三蔵も五世紀にネパール国境近くで提婆達多派の教団に遭遇したと報告している。
したがって、この記述から推察されるに提婆達多派では釈迦を仏として認めず、多少なりとも対立していた事がうかがえる。
『増一阿含経』には、提婆達多が逆罪を犯した様子が描かれている。しかし増一は、阿含経の中でも最も後期の部派仏教による成立であり、堤婆達多が釈尊に逆心し大罪を犯したとする内容は現在の仏教学においては疑問視されている。
なお同経には、彼の末路が詳細に述べられている。彼は三逆罪を犯した後、自身の爪に毒を塗り釈迦を殺さんとするも、地中から炎の暴風が巻き起こり巻き込まれる。この刹那に提婆達多は悔いて「南無仏」と言おうとしたが焼き尽くされ、地獄の最下層である阿鼻地獄へと堕ちていった。彼は現在、賢劫中は阿鼻地獄に堕しているが、その後四天王に生まれ、幾度か転生を繰り返し天界を次第に昇り、最後に人間界に戻って、釈迦を殺そうとして地獄に堕ちる直前に絶句した所以から「南無」という名の辟支仏(びゃくしぶつ=縁覚)になるといわれる。
また『法華経』提婆達多品第十二では、提婆達多は天王如来となるという未来成仏が説かれている。
これを反逆者、大悪人、ひいては一闡提の成仏と解釈する向きも多い。しかし、あくまでも経典上では釈迦が前世において法華経を教えてくれた師匠こそ提婆達多その人だった、と書かれているだけである。法華経の提婆品には、彼が三逆罪を犯した大悪人とは断言しておらず、また、そのような大悪人も法華経によって成仏するという記述もない(ただし、この提婆達多品第十二が女性や畜生など他の経典では成仏することができないとされている存在の成仏を保証している章であることに注目すれば、成仏できないとされていた悪人の代表として提婆達多を登場させていると考えるのが自然である)。
これについて、渡辺照宏氏は『日本の仏教』(岩波新書)において、法華経(少なくとも提婆達多品第十二)は、正統派の仏教とは別の方面で成長し、後々になってそれが法華経本編に編入されたものである、と推察している。
また涅槃経においても、釈尊が提婆達多を罵辱したこともなければ彼が地獄に堕したこともなく、提婆達多は一闡提ではない、また声聞縁覚でもなく、ただ諸仏のみが知見できる所である、とあり、彼を一闡提と見る傾向を否定し、涅槃経でも法華経の記述内容と同じく提婆達多及び彼以降の部派仏教が微妙な存在だった事がうかがえる。
したがって、仏教の歴史からいえば、釈迦入滅後の根本分裂により多くの部派が分裂し、一切衆生の済度を目標に掲げる大乗仏教が成立すると、長きに渡って反逆者、大悪人などとされてきた提婆達多をどう捉えるかが問題となった。また提婆達多派の存在を認知して、それらの分派した仏教部派をどう包摂するか、などが大乗の観点から大きなテーマとなり、それが経典という形で表されたものであると推察されている。
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