2012年8月21日火曜日

【アレッポ】 山本美香(45)ジャーナリスト死亡


【画像】2012年7月、NHKの番組に出演した山本美香さん



シリア反体制武装組織「自由シリア軍」副司令;クルディ 英国防省などが支援


山本美香(45)ジャーナリスト

内縁の夫;佐藤和孝(56)1956年生まれ。北海道生まれ


父;孝治(こうじ)(77)元朝日新聞記者
母;和子(74)

1967年 山梨県都留市生まれ 三人姉妹の「次女」
1990年 都留文科大学文学部英文学科卒業
    CS「朝日ニュースター」に入社

1991年 長崎県雲仙「普賢岳」取材が、ジャーナリストへの強い転機へとなる

1995年1月17日午前5時46分52秒「阪神・淡路」大震災

     取材現場に行けず、CS「朝日ニュースター」を退社

1995年、アジアプレス・インターナショナルに所属。(フリーとなる)

1996年 ジャパンプレス記者。アフガニスタン、イラク両戦争を取材

2001年9月11日午前8時45分(現地時間) 米国同時多発テロ

2003年8月号「日経ウーマン」取材掲載

      優れた国際報道に贈られるボーン・上田賞特別賞を受賞


2003年10月より「NNNきょうの出来事」キャスターを務める
 04年3月に降板。以降も紛争地からテレビリポートを続けていた。

2008年春から、早稲田大学大学院年2〜3回、ジャーナリスト志望の学生向けの「ジャーナリズムの使命」の講師を務める

2011年3月11日午後2時46分 東日本大震災


2012年
 5月16日 早稲田大学大学院・最後の講義「戦争とメディア」では、受講した政治経済学部の学生約150人全員が感想文を提出した。山本さんは約1週間後、講義中に寄せられた質問に答える形で「講義後のメッセージ」を学生に配った。

 山本さんは「報道で戦争は止められるのか?」という質問を一番に挙げ、「そういう願いがあるからこそ続けられる」と記した。


7月 NHKの番組に出演

8月15日(水) トルコ南部キリスへ到着。取材、2週間の予定

  18日(土) 姉妹にメール(姉妹に宛てた、最後のメールとなる)

8月19日(日)日本テレビ放送網「バンキシャ」内で、佐藤和孝が撮ったアレッポ市内の様子を放送。市内には政府軍の戦車から砲撃される様子や上空には攻撃ヘリが飛んでいた。この時も、佐藤の100メートル先に戦車から射ち込んでいた様子が放送される(撮影日は不明)

佐藤と山本は、キリス周辺(トルコ)で英語とアラビア語、トルコ語の3カ国語ができる通訳を探していたが見つからなかった。


8月20日(月)
朝 宿泊しているキリス(トルコ南部)のホテル従業員に「シリアに向かう」とあいさつし、アラブメディアで働くトルコ人の記者とカメラマンの計4人でアレッポ市内に向う。荷物は残したままで、夕までにキリスに戻ってテレビ中継車を使う予約をしていた

午前9時、車でキリスの検問所を通過

夕方になっても4人が戻らず、現地の通信社記者のもとに「山本さんがスナイパーに首を撃たれた」「トルコ人2人はシリア政府側に拘束された」との情報が寄せられ、ホテル内は沈痛な雰囲気に包まれた。

当時、佐藤と山本さんはシリア北部アレッポ市スレイマンハラビ地区で離反兵士団体「自由シリア軍」と行動を共にしていて、突然、「シャビーハ」と呼ばれる政府系民兵(約10~15名程度)と遭遇(距離20~30メートル)し約1時間に及ぶ銃撃戦に巻き込まれた。佐藤の後方約3メートルにいた山本さんはドラム缶の陰に隠れたが首を撃たれ、他にトルコ人記者も死亡した。

自由シリア軍によって遺体はアレッポ北郊の町アザズを通り、約65キロ離れたトルコ南部キリス県の検問所を通過してキリスに到着。医療施設内で横たわる遺体の脇で、ジャパンプレスを主宰する佐藤和孝が確認。在トルコ大使館職員へ告げる

日本テレビとの契約で内戦下のシリアを取材中だった。


8月22日(水)
午前11時40分 成田国際空港 発→イスタンブール
         飛行時間 約12時間05分
        姉;品川留美さん(47)
        妹;山本香栄さん(42)
        香栄さんの息子(17)

 イスタンブールで「美香」さんと対面し、帰国予定



【日経ウーマン】2012年8月22日
http://wol.nikkeibp.co.jp/article/trend/20120822/132641/?ref=top-shin&rt=nocnt


【追悼】山本美香さんインタビュー
戦地に生きる女性の思いを伝え続けたジャーナリスト人生

2012年8月20日、取材中のシリアで銃撃を受け死亡した山本美香さん。日経ウーマンは、2003年にインタビュー取材をするとともに、2004年にはその年に最も活躍した女性を表彰する「ウーマン・オブ・ザ・イヤー」のキャリアクリエイト部門に山本さんを選出していました。

今回は、日経ウーマン2003年8月号から山本さんのインタビュー記事を掲載します。

危険を冒しても伝えたい思いを持つ人がいる。
それを受け取ったら伝える責任があるんです

 イラク戦争の中、バグダッド市のホテルへの米軍の砲撃で、ロイターの記者が死ぬという衝撃的な事件があった。その時に、手を血だらけにしながら、倒れた記者を助けようとしていた女性を覚えているだろうか? それが、空爆の第一波をバグダッドからリポートした山本美香さんだ。

「戦争取材は経験していても、進行形で人が死んでいくのを見るのは初めて。血だらけで泣いている私に、後から来た人が『防弾チョッキを着なさい』と言ってくれて、初めて『そんなに危険だったんだ』と気付きました。部屋に飛び込んだ時点から、取材者ではなく当事者になっちゃったんですね。あの時は衝撃があった瞬間、カメラを持って部屋を飛び出していた。よく思い出すと、ふと、『あ、カメラ回さなきゃ』って思った瞬間もあるんですよ。片手で助けながら、片手で撮りたいという、2つの心があって。でも結局カメラは投げていましたね。後から自分の映像を見て、『あんな声を出していたんだ』と思った。とにかく、『どういうことなの、この事態は』って怒りまくっていたんです。それは被害にあった人たちが見せる、ぶつけどころのない怒りと一緒なんです」

 ウガンダ、コソボ、アフガン、アチェと戦地取材のベテラン佐藤和孝さんと一緒に活動してきたが、「身の危険を一番感じた」のが今回のバグダッド取材だという。

「ホテルにいても建物の揺れがすごい。水もいつ出るのかわからない。情報省に監視されているので、こんな中で市民はどうしているのか、知りたいけれど自由に取材に出ることができないんです。目を盗んで、隙間から盗み撮りしたり、フラストレーションのたまる取材でしたね。カメラを当局に没収されたこともあった。髪を振り乱して騒ぎながら、あのテープは諦めてこっちのテープは入れ替えて持ち帰ろうって陰でやっている。手が震えてうまくいかないもんです(笑)。向こうも『女が泣いてるよ』ってちょっと同情してくれますけど」

 戦場では女性であることの危険はどうしても付いて回る。自分の意識はどうであれ、相手は女性は女性として見る。だが、得なことも多い。イスラム女性の素顔を見るチャンスもたくさんあるからだ。

ビデオカメラとの出合いが人生を変えた
 大学時代はバイトに明け暮れる普通の大学生で、将来戦場を駆け回るなんて想像もしていなかった。「やりたいことが見つからなかったんです。父が新聞記者だったので、その影響もあるのかな。子供の頃、姉は新聞記者と結婚したいと言って、私は新聞記者になりたいと言ったそうなんです」

 漠然とマスコミに憧れてCS朝日ニュースターに入社。そこで自分が本当にやりたいことが見つかればいいと思っていたが、積極的に動くほうではなかった。

「雲仙にビデオを持って取材に行った時も『新人だし、ちょっと行ってみるか』って言われて。当時ビデオ取材はまだ新しい手法で、三脚を立てて一人でリポートをしていると何やってるんだという目で見られました。でも、一人で取材、撮影、編集、出演までやる手法が自分の感覚に合ったんだと思っています。小柄で力もないので、ハンディタイプのビデオカメラが普及したタイミングもよかった。そのきっかけがなかったら今こうしていないと思う」

 その後、会社を辞めてアジアプレスに所属し、ディレクターの仕事をするうちに「現場に出たい」という気持ちが高まってきた。

「佐藤さんという師匠に付いて96年の12月に、日本女性では初めてタリバンを取材し、女性たちの素顔を映像にとらえました。彼女たちに『放映時には顔を隠したほうがいいですか』と聞いたら、『隠したら意味がない』と言われて。規制が厳しくて、当局に取材を受けたことがばれたら彼女たちは、大変なことになるはずなのに。その勇気に感動しました。世界には、危険を冒しても伝えたい思いを持っている人たちがいて、私はその言葉を聞いてしまった。すごく責任重大ですよね。マスメディアにのせて表に出さなきゃいけないと思いました。振り返ってみると目標を立ててきたわけじゃないんですが、自分で道を選んでいる。私を戦場へと向かわせるのは、その選択の積み重ねだと思うんです」

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