2011年12月25日日曜日

北新体制:金正恩氏の後見役、張成沢氏の素顔





【朝鮮日報】2011/12/24 13:00
 北新体制:金正恩氏の後見役、張成沢氏の素顔

「側近とのパーティーで、酔った金正日が理由は分からないが、張成沢のほおを殴った。他の側近ならば『自分は終わりだ』と感じ、足が震えるはずだ。しかし、張成沢は私の方を見て笑った。度胸があり、カリスマもある」

 韓国に亡命した故ファン・ジャンヨプ元朝鮮労働党書記は「北朝鮮で金正日のほかに自分の名前で人を使う唯一の人物が張成沢だ」と語っていた。


■二度の粛清と復活

 金正日総書記の妹、金敬姫労働党軽工業部長の夫である張成沢氏は、自分の側近を固めようとして、金総書記に2回も「粛清」された経験を持つ。金総書記の義理のおいに当たる李韓永氏(1997年に暗殺)の自伝などによれば、張氏は1978年、東平壌外交招待所で週1回、自分の側近たちとパーティーを開いていたことから、保衛部に摘発された。報告を受けた金総書記は「お前(張氏)はなぜ私のまねをするのか」と責め、張氏を降仙製鋼所の作業班長へと追放した。張氏はそこで2年間の「革命化教育」を受けた。当時、張氏を救ったのは、金総書記の妻で、長男・金正男(キム・ジョンナム)氏の母に当たる成恵琳氏だ。成氏は80年2月16日、金総書記の誕生日に張氏を強引に呼び、金総書記の前に立たせ、「張成沢を許してほしい」と頼んだという。


 張氏が金総書記の信頼を取り戻したのは、1989年の平壌世界青年学生祝典の前後だ。当時、平壌再建設事業を担当していた張氏は、全国から資材と人材を集め、期限内に工事を終えた。金総書記は「努力英雄」として張氏を称賛し、三大革命小組部長(1989年)、党組織指導部第1副部長(1995年)などに抜てきした。当時、張氏の長兄、張成禹次帥(2009年死去)は、平壌防衛部隊の第3軍団長に昇進し、次兄の張成吉中将(06年死去)中将は、戦車軍団政治委員として活動するなど、張氏3兄弟は順調に出世した。


 しかし、張氏は2004年初め、側近の豪華な結婚式に出席したことが問題になり、派閥形成の疑いで再び失脚した。当時の労働党で「張成沢人脈」とされた幹部も全て左遷された。張氏は70年代末とは異なり、地方には追放されなかったが、全ての職位を​​失った。2年間の公の場から姿を消した張氏は06年、党第1副部長として復帰したのに続き、07年末には党行政部長に昇進し、司法・公安機関を統括した。治安政策研究所のユ・ドンリョル先任研究官は「金総書記が張氏をけん制しながらも、右腕として使ったのは、同じ母親を持つ妹の金敬姫の夫だからではないか。金総書記は晩年を迎えるほど、親戚のほか、金日成主席の側近の子孫に当たる革命第2世代を重用する傾向を見せた」と分析した。

■ナンバー2か、権力奪取か

 金総書記は生前、派閥の形成を全く許さなかった。しかし、張氏には二度も警告しながらも、「金正恩氏の後見役」を任せた。対北朝鮮消息筋は「義弟である張氏の能力を知っていたため、妹の金敬姫氏とともに若い後継者を守ってほしいという意味だ」と分析した。

 しかし、張氏が金総書記の遺志を最後まで貫くかどうかは分からないとの見方も少なくない。国防委員会副委員長兼党行政部長として、公安機関を掌握しているため、反対派の監視と支持勢力の拡大にも有利な地位にある。

 張氏は軍の将軍だった2人の兄の威光を背景として、李英浩総参謀長、金永春人民武力部長ら軍の実力者らにも近い。02年には経済視察団の一員として、ソウルを訪れたこともあるほか、中国にも人脈があるとされる。張氏は改革開放に積極的だとの見方もある。こうした理由から、「(張氏が)首陽大君になることにあり得る」(情報当局者)という分析も聞かれる。首陽大君は15世紀に朝鮮王朝の第6代国王・端宗から王位を奪い、自ら王位に就いた。2001年まで13年間、金総書記の料理人を務めた藤本健二氏は「2000年ごろ張氏の役職が組織指導部第1副部長から(平の)副部長へと降格されたことがあったが、誰も張氏を『副部長』と呼ぶことができず、『部長』と呼んでいたほど威勢があった」と話した。


 張氏の性格についての評価は分かれる。張氏と一緒に労働党内で働いたことある脱北者は「ユーモアのセンスに優れ、ソフトなほうだ。相手の気持ちに合わせるスタイルだ」と語った。しかし、ある幹部出身の脱北者は「冷たい」と証言した。張氏のライバルだった李済剛組織指導部第1副部長は昨年5月末、張氏が国防委員会副委員長に昇進する数日前に疑わしい交通事故で死亡した。


【朝鮮日報】2011/12/24 15:02
北新体制:張成沢氏の側近、「社労青の4人組」とは

崔竜海・党書記…崔玄・元人民武力部長の息子、金正恩氏と共に人民軍大将に
文京徳・平壌市党責任書記…政治局の最年少候補委員、張成沢氏と共に来韓も
李英洙・党勤労団体部長…32歳で社労青のトップに、張成沢氏と共に失脚・復権を経験
池在竜・駐中北朝鮮大使…労働党員より200万人も多い社労青で成長


社労青の4人組
 北朝鮮の張成沢労働党行政部長は、1982年に朝鮮労働党青少年事業部の副部長となり、中央の舞台に登場した。現在「張成沢派」に分類される人脈の中には、80―90年代に張成沢氏が朝鮮労働党の青年事業に携わっていたころから近い関係にある顔ぶれが多い。これらの人物は昨年9月、朝鮮労働党代表者会で金正恩氏が金正日総書記の後継者に内定し公の場に登場した際、同じタイミングで一斉に躍進した。


 昨年、金正恩氏と共に人民軍大将の称号を受け、党書記・党中央軍事委員に昇格した崔竜海氏や、政治局の最年少候補委員(54)にして平壌市党責任書記を務める文京徳氏、李英洙党勤労団体部長、池在竜駐中北朝鮮大使などは、80年代に張成沢氏が管轄していた社会主義労働青年同盟(社労青)の出身だ。これらの人物は「社労青の4人組」と呼ばれる。社労青は朝鮮労働党の青年組織で、組織員数は労働党の党員(最大300万人)よりも多い500万人と推定されている。


 崔竜海書記は、崔玄元人民武力部長(1907―82)の息子で、86年に社労青中央委員長を務めた。文京徳書記はかつて社労青副委員長を務め、04年に張成沢氏が「分派助長」の嫌疑で失脚した際、ほかの社労青出身者と共に地方に左遷された。しかし、「ボス」の張成沢氏が07年に党行政部長に昇進すると、09年に行政部副部長のポストに電撃的に登用された。また、文京徳氏は02年10月、張成沢氏に随行して経済視察団の一員として韓国を訪れた際、常に張成沢氏の傍らに付き添い、指示事項を忠実に履行する姿を見せた。李英洙部長は、78年に32歳という若さで社労青のトップの座に就き、86年に崔竜海書記に委員長職を譲るまで、8年にわたり在職した。その後04年に張成沢氏が失脚した時、地方に追いやられたが、張成沢氏が復権した06年、党行政部の副部長として復帰を果たした。


 池在竜・駐中北朝鮮大使も、社労青で成長した。高官出身のある脱北者は「金養建党統一戦線部長や金永日党国際部長も、70年代に張成沢氏が党国際部で勤務していたころ、一緒に働いていた」と話した。

日本でプロレス界の大物として認められた力道山(本名:金信洛)の娘婿、朴明哲体育相は、張成沢氏の古くからの側近だ。朴明哲氏は04年、張成沢氏と共に表舞台から姿を消したが、昨年6月に体育相に起用された。朴明哲氏の父、パク・チョンホは、金日成国家主席(かつては首相)から韓国にスパイとして派遣されたが逮捕され、59年に死刑になった。こうした理由から、金日成主席は朴明哲氏を重用したという。また朴明哲氏は02年の釜山アジア大会の時、朝鮮体育指導委員長として北朝鮮選手団を率い、韓国を訪れた。北朝鮮に詳しい消息筋は「昨年9月の党代表者会より3カ月早く朴明哲氏が復帰した時、“張成沢ライン”の完全復活を予想した」と語った。朴明哲氏は、体育相への登用に先立ち、09年に国防委員会参事として復帰した。


 張成沢氏の軍部での人脈はまだ明確になっていないが、北朝鮮軍の次帥と中将を務めた2人の兄のおかげで「軍部でも、張成沢氏と親交のある人物は少なくないだろう」(対北消息筋)という分析が多い。特に張成沢氏は、08年8月に金正日総書記が脳血管疾患で倒れて以降、非常事態に陥った政局を収拾する過程で、朝鮮労働党だけでなく軍にも自分の側近を多数配置したとの見方が出ている。また、金正恩体制の「新軍部」の中心人物として浮上した李英鎬総参謀長も、張成沢氏と親しい間柄にあるという話も聞かれる。

 これに対し、白承周国防研究院安保戦略研究センター長は「軍部内に(は)、張成沢氏に反対するグループがある。張成沢氏によって排除されたと推定される李済剛組織指導部第1副部長(2010年に不審な交通事故により死亡と親しかった軍関係者らが、“反張成沢グループ”とみられる」と語った。

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