2011年10月16日日曜日

【大阪の20世紀】(26)軽三輪ミゼット “街のヘリコプター”高度成長期を快走


修理された軽三輪ミゼット。デビュー半世紀、なお現役で使われている=2007年、大阪府八尾市


【産経関西】2011.10.15 10:00 [westピックアップ]

【大阪の20世紀】
(26)軽三輪ミゼット “街のヘリコプター”高度成長期を快走

修理された軽三輪ミゼット。デビュー半世紀、なお現役で使われている=2007年、大阪府八尾市
■産経新聞アーカイブ(2000年02月27日 大阪府下版に掲載)

大卒初任給の10倍…格安

 昭和三十二年八月。高度経済成長期を迎え、活気づき出した日本のあちこちの街角で、小気味良いエンジン音を響かせる小型自動車が行き交い始めた。

 自動車といっても現在のものとはかなり違う。前のタイヤが一つしかない三輪タイプで一人乗り。ハンドルはバイクと同じバー型。運転席にはドアもなく、まるでバイクにほろをかぶせたような形だった。

 ダイハツ工業(本社・池田市)が売り出した軽三輪自動車「ミゼット」。全長二・五四メートル、幅一・二〇メートル、回転半径二・一メートル。キック式エンジンは総排気量二四九ccで、最高出力八馬力、最高速度六〇キロ。陸上輸送の主役だった貨物列車に代わって、トラック輸送が台頭し始めた時代。輸送力アップのため、他社の小型三輪トラックが次々と大型化する中で、ミゼットは異色の存在だった。

 しかし、街の商売人たちは注目した。インフラ整備が進まず、入り組んだ路地の多い当時の大都市で大型車は不要。ミゼットの抜群の機動性は魅力的だったのだ。

 十九万八千円という発売価格も評判になった。大卒の初任給が一万数千円という時代背景を考えるとやや割高にも思えるが、当時の小型三輪に比べると半値。しかも維持費が安くついた。

軽免許で乗れる手軽さも手伝って、従業員が数人という零細企業は競い合ってミゼットを買い求めた。八百屋や酒屋、クリーニング屋…。注文があった商品を荷台に載せたミゼットは各家庭を回った。農村部でも農作業や出荷のためにミゼットはあぜ道や山道を走り回った。

 発売直後は月五百台だった生産台数は一年後には千台に、ピーク時の三十五年には月八千五百台に達した。

 安全性や利便性を追求してさまざまな改良も加えられた。三十四年にはバーハンドルが丸形ハンドルに替わり、運転席にドアもついた。排気量や最大積載量もアップし、スタイリングもマイナーチェンジされたが、基本コンセプトは変わらなかった。

 「ミゼット」は軽三輪の代名詞となった。「街のヘリコプター」とも呼ばれ、ミゼットを乗り回す大阪の商売人たちは「浪速の名車」と胸を張った。

 

人気の秘密


 佐々十郎「三百キロの荷物を運んで六〇キロで走れる」

 大村崑「ミゼット!」

 佐々「世界の車」

 大村「ミゼット!」

 佐々「日本の車」

 大村「ミゼット!」

 佐々「お父さんの車」

 大村「ミゼット!」

 佐々「ミゼットばっかり言いやがって」(大村にパンチを繰り出す)

 大村(パンチをかわして)「ミゼット!。言うたった…」

 昭和三十三年四月末の日曜日午後六時半。白黒テレビが映し出す人気コメディアンの大村崑=当時(二七)=と佐々十郎(一九三〇-一九八六年)の軽妙なコントに、夕食時のお茶の間で大きな笑いがわいた。

大阪のOTV(現在の朝日放送)が放映した人情喜劇「やりくりアパート」の本編直前の約三十秒間。スポンサーのダイハツ工業が流したミゼットの生CMだった。

 効果は絶大だった。五〇%近い驚異的な視聴率も手伝い、ミゼットの名前は全国に広まった。子どもたちは小学校でこのコントの物まねをし、大村が最後に言う決めゼリフ「言うたった…」は流行語になった。

 大村、佐々はともに大阪・キタの劇場の専属コメディアンとして芸歴を積んできたが、テレビは未知の世界。それだけに本編の芝居を上回るCMの反響に驚きを禁じ得なかった。

 実はこの生CMにまつわる裏話がある。放送スタート当初のCMは、若い女性タレントが幕あいからミゼットに乗ってさっそうと登場し、性能を説明するというものだった。

 ところが、三回目の放送で女性がセリフを忘れて立ち往生。当時はすべて生放送だったため、スタジオは大混乱に陥った。

 「次回からおまえらがネタを考えてCMをやれ」。番組の演出家で大村らの師匠だった花登筐(一九二八-一九八三年)に突然CMの代打を命じられた大村らが慌てて思いついたのが前出のコントだった。

 大村は、番組終了から四十年を経た今も、あの日々の情景を克明に覚えている。「その後、タレントとして人気を得ることができたのも、あのCMのおかげ。女性タレントには気の毒だが、ミゼットとは運命的な出会いを感じる」。

世界の名車


 昭和四十七年、ミゼットは生産中止となった。総生産台数は三十一万七千百五十二台。意外に少ないと思えるかもしれないが、生産開始時点の三十二年の全国の自動車保有台数(二輪車も含む)が百七十七万台だったことを考えれば、驚異的な数字といえる。

 ミゼットの熱烈なファンで、写真集「ミゼット物語」などを出版した写真家、木村信之(五八)は「ミゼットは日本の高度成長に貢献したが、日本が豊かになったことで、もう一つ上のクラスの車を社会が求めるようになった。ミゼットとともに軽三輪の時代は終わった」と語る。

 しかし、ミゼットはその後も海外でしたたかに生き残った。

 ミゼットは海外に一万九千台以上が輸出された。米国では工場内の貨物運搬用や小口配達用に使われたが、ミゼットの機動性に熱いまなざしを注いだのは東南アジアの国々だった。

 都市部の輸送近代化政策を進めていたタイでは「サムロ・タクシー」の愛称で普及。派手な塗装や装飾を凝らして走る姿はバンコクの名物となった。日本での生産中止後も人気は根強く、改良や修理が加えられ、現地メーカーによる類似車の生産も行われた。

 大村崑は数年前、タイを旅行した際、バンコクで偶然、ミゼットのサムロを見かけた。「自分を有名にしてくれた車とこんなところで再会できるなんて」。何ともいえない懐かしさがこみ上げ、涙がとめどもなくあふれた。

ミゼットII


 ダイハツはミゼットの生産中止後、軽四自動車やトラックを中心とした生産体制にシフトした。しかし、四半世紀が経ても、ミゼットは同社関係者にとって忘れがたい存在だった。

 「もう一度ミゼットを」。平成不況の軽自動車ブームの中でその機運は一気に広がった。そうして平成八年四月に登場したのが「ミゼットII」である。

 「ミゼットII」のネーミングは企画段階の仮称に採用され、そのまま正式名称となった。これは新車の製造・販売では極めて珍しい。

 コンセプトには、同社が力を入れる軽自動車のラインアップの充実という狙いもあったが、初代ミゼットが対象としていた軽自動車とバイクの中間の車種(アンダー軽)へのニーズを満たそうという願いも込められていた。

 二十一世紀を目前に控えた今でも、大都市にはまだまだ細い路地が多い。生花店やピザ店などのデリバリーサービス業者には、軽自動車の大型化は必ずしも歓迎されていない。

 初代ミゼットの時代に入社し、ミゼットIIの製品化を担当した元製品企画部主査、八子和男(六〇)=平成十一年五月退職=は「零細企業や商店にターゲットを絞ったことが初代の成功につながった。このコンセプトが潜在需要を発掘したと思う。そのノウハウを現代に生かしたかった」。

安全性や規制上の問題もあり、「三輪」という形式は踏襲できなかったが、小ぶりなボディーに飛び出した丸形ヘッドランプ、一人乗り車内スペースなどは再び評判を呼んだ。

 生産方式もオートメーション化が進んだ現代の自動車工場としては極めて異例だ。池田市の本社工場内の「ミゼット工房」には、ベルトコンベヤーがない。塗装とプレス以外はすべて九人の作業者による手作業。生産ペースは一日二-五台にすぎない。

 これにはわけがあった。初代の生産に携わった技術者は次々に退職の時を迎えている。「手作りの技術を若い世代に継承しなければ」。その職人かたぎの伝承に「楽しみながら作れる車」としてミゼットIIは最適だったのだ。初代ミゼットが開花させた軽三輪の神髄は、今も形を変えながらも脈々と受け継がれているのである。

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