2011年8月18日木曜日

【軍都の風景】 1 2 3











【朝日】

軍都の風景3 大矢野原演習場
2011年08月18日


大矢野原演習場を示しながら、日米共同訓練の状況を語る松本さん=山都町
昭和初期の頃の大矢野原演習場。警備兵の姿も見える=内田さん提供


 共存 過疎地に温度差
  7月下旬、阿蘇・南外輪山のすそ野に広がる陸上自衛隊大矢野原演習場。訓練時には砲弾が飛び交う原野で、放牧牛が夏草をはんでいた。


「爆破訓練があると地響きがする。ヘリの騒音もうるさい」。演習場を望む集落の農家、松本泰尚(62)=山都町金内=はうんざり顔で話す。


 松本は秋から春まで、演習場のカヤをトラクターで刈る。トマト農家の肥料にするためだ。刈り取る面積は演習場の5分の1にあたる約300ヘクタール。原則立ち入り禁止だが、自衛隊と矢部町(現・山都町)が約半世紀前に約束した「入会慣行」で入場を続けている。


  「米軍も自衛隊も後から来た。生活に欠かせない土地は何としても譲れない」


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 江戸時代、細川藩の軍馬調教場だった大矢野原。明治維新後に陸軍が演習場を設けたが、農民の放牧地や採草地だったこともあり、土地を利用する慣行は受け継がれてきた。戦後は米軍に接収された。


論文「大矢野原演習場と農民」の著者、内田敬介(63)=美里町=によると、1950年の朝鮮戦争勃発後、米軍の訓練は激しさを増した。月平均で20日間。戦車や自走砲も使われた。
  草木が枯れて土はむき出しになり、水害も多発。46年~53年の被害額は計1億5千万円に達し、農民たちは作物への被害補償運動に立ち上がったという。
  57年以降、演習場は米軍から陸上自衛隊へ。陸自第8師団(熊本市)の広報によると、昨年度の訓練は計327日間に及んだ。


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 大矢野原が注目されたのは、初めて日米共同訓練が行われた98年。3年前に沖縄で少女暴行事件が起き、地元は屈強な米兵に身構えた。三つの住民団体が反対運動を繰り広げ、子どもはタクシーで登下校した。


 共同訓練は2003年、07年、09年にもあった。大矢野原演習場周辺対策期成会長の渡邉政春(66)=山都町北中島=は「米兵が来るのはやむを得ない。目立ったトラブルはなく、住民の警戒感も和らいでいる」と言う。
  山都町によると、10年度に「場所代」として国から町に渡った補助金や交付金は約3億8千万円。道路や用水路、簡易水道などの整備にあてられた。一方、渡邉の話では、演習場周辺の中島地区に以前は約1千世帯が居住していたが、今は約600。農業の担い手も先細るばかりだ。過疎化の歯止めにと期成会は近く、数百人規模の陸自部隊の常駐を求めて署名活動に乗り出す。
  「大矢野原の歴史は農民運動の歴史でもある。農のエネルギーが低下すると、軍や自衛隊との間で保たれてきたバランスも失われるのではないか」。論文を書いた内田は、将来に不安なまなざしを向けている。(敬称略)
  大矢野原演習場 東西約7キロ、南北約4キロに広がる面積1637ヘクタールの演習場。陸上自衛隊第8師団によると、1883(明治16)年から旧陸軍が演習場として使い、終戦から12年間は駐留米軍が訓練してきた。現在は陸自が射撃や陣地構築など広大な敷地を利用した訓練を行っている。2008年4月には、演習場の境界付近の民家から約10メートル離れた側溝に機関銃の弾頭1発が着弾する事故が起きた。


軍都の風景1 陸軍第六師団
2011年08月16日
早道さんの右腕には今も銃で撃たれた傷痕が残る。手術や治療を続けてきたが、完治はしない=熊本市帯山3丁目
地図を指し示しながらブーゲンビル島での戦闘を語る高木さん=熊本市新町4丁目
  飢え極限 戦意二の次
  撃ちたくない、と思いながら機関銃で3人を射殺した。
  1945年、豪州北東のソロモン海に浮かぶブーゲンビル島。粘りつく密林の熱気のなか、陸軍第六師団の野砲兵、早道友記(91)=熊本市帯山3丁目=は仲間と偵察に出ていた。突然、眼前に現れた豪州兵3人。互いに顔を見合わせ、金縛りのようになった。
  ひざ丈ほどの草むらに伏せた。豪州兵がマシンガンを放つ。早道ははやる手つきで機関銃の安全装置をはずし、撃ち返した。
  倒れ込んだ迷彩服姿の3人の顔はまだ、あどけなかった。「近すぎると逆に撃てない。言葉が通じるのなら『やめよう』と言いたかった」
  ■   □
  65年出版の「熊本兵団戦史」(熊本日日新聞社、全3巻)によると、37年7月に起きた盧溝橋事件の後、第六師団は中国各地を転戦した。42年12月には南方への移動が命じられ、約2万5千人が輸送船12隻で上海を出港。早道もその一人だった。
  途中、早道の船は敵の潜水艦の攻撃で沈められた。仲間の船に助けられ、出港から約1カ月後、ブーゲンビルに上陸。弾薬や食糧が不足し、兵士は飢餓やマラリアに苦しめられた。
  43年4月、連合艦隊司令長官・山本五十六の搭乗機が、この島で米戦闘機に撃墜された。土木作業をしていた早道は、黒煙を上げながら落ちる機影を目撃。海軍の現場処理の後、機体のもとへ。一部を斧(おの)ではぎ取り鍋をこしらえ、野ネズミを煮て食った。
  終戦直前、銃撃戦で右ひじの下を砕かれた。軍医は腕の付け根からの切断を勧めたが、拒んだ。傷口のウジを自分でほじり出し、包帯を巻いた。骨はつながったが、60年以上たっても腕はゆがんだままだ。
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  早道と同様に極限状態を生き抜いた高木正男(92)=熊本市新町4丁目=は、帰還兵や遺族ら約100人を束ねる「県ブーゲンビル島会」の会長。事務局長の早道と二人三脚で、戦友たちの鎮魂を祈る。
  高木は当時、野砲兵連隊の中隊長。味方が手を焼く豪州軍の戦車を不良品の山砲を操って撃破し、小銃で航空機に命中させたこともある。だが、高木は「とにかく腹が減っていた。敵対心もない。戦いは作業のようだった」と振り返る。
  イモの葉っぱ、ヤシの木の芯、セミ……。何でも口に入れた。襲った米兵が持っていたサンドイッチも口に押し込んだ。父に「死んでこい」と言われて出征したが、餓死はご免だった。
  劣勢が続き、多くの兵士が戦意を失って密林をさまよった。終戦時、隊に戻った際に「敵前逃亡」と責められ、銃殺刑にされた者もいたが、遺族には「戦死」と伝えられた。
  高木らは昨年10月、ブーゲンビルから収容された戦友の遺骨が眠る熊本市の小峰墓地で慰霊祭を開いた。骨と皮だけになって死んだ無念を思い、握り飯を霊前に供えた。
  あの戦争への思いは、と尋ねると、高木は険しい表情を崩さずに言った。
  「生き延びるために食糧を探し、戦い、また食糧を探す。祖国や家族のことも考えられなくなる。いま振り返っても特別な感慨はありません」(敬称略)
  陸軍第六師団 1888(明治21)年、熊本鎮台を改編して発足。歩兵や騎兵、工兵、野砲兵などの部隊で編成され、主に南九州出身者が配属された。日清、日露など主要な戦争に派兵され、中国戦線では1937年の南京攻略戦に加わった。最終的な師団の兵力は2万~2万5千人。太平洋戦争末期のブーゲンビル島攻防戦では、物量に勝る米・豪州軍に苦戦を強いられ、終戦を迎えた。
  鎮台や第六師団が置かれた熊本は、近代以降の歴史を陸軍とともに歩んだ。今も陸上自衛隊の総監部や師団司令部がある防衛の拠点だ。戦後66年。「軍都」の足跡をたどり、光と影を考える。(この連載は岩崎生之助が担当します)



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