1951年〈昭和26年〉5月17日 60歳
衆議院議員(7期)、内閣府特命担当大臣(防災担当)。
福岡市出身。部落解放の父と呼ばれた松本治一郎の養孫。
実家は養祖父の代からのゼネコン・松本組。自身も顧問を務める。
福岡市立馬出小学校から福岡市立福岡中学校、福岡県立福岡高等学校を経て中央大学法学部政治学科卒業。1980年、父松本英一(参議院議員)の秘書となる。
政界にて
1990年の第39回衆議院議員総選挙に日本社会党から出馬して初当選し、以後7回連続当選。1996年、社民党を離党して旧民主党結党に参加。
部落解放同盟副委員長であり、人権擁護法案の推進派である。日韓議員連盟常任幹事。国鉄労働組合のJR採用差別闘争に連帯している[1]。
2011年7月3日、復興担当相就任後に初めて被災地入りし、岩手県を訪問した際に、達増拓也知事との会談で「おれ、九州の人間だから、東北の何市がどこの県とか、わからんのよ」や「知恵を出したところは助けるけれど、知恵を出さないところは助けない」[19]。などと発言。
さらに午後から訪問した宮城県庁では、数分遅れで応接室に入ってきた村井嘉浩知事に対して「お客さんが来る時は、自分が入ってから呼べ。しっかりやれよ」、「長幼の序がわかっている自衛隊ならそんなことやるぞ」と発言した。また漁業の集約や民間への開放など、村井知事が打ち出していた独自の計画案に対しては「県でコンセンサスをとれよ。そうしないと、我々は何もしないぞ」と発言。さらに会談の最後には「今の最後の言葉はオフレコです。みなさん、いいですか、『絶対書いたらその社はもう終わり』だから」などと発言し、[20]、周りにいた職員や取材陣が緊張した表情で沈黙する様子と共に東北放送の「TBCニュース」[21]、TBS News-i[22]で放送された。
これら一連の発言は被災地の市区町村からも「あの態度はない」と批判の声があがっている[23]。
宮城県知事との会談動画
批判
この節の文章は、2011年4月3日付「週刊現代・永田町ディープスロート」講談社ならびに2011年7月4日付スポニチ Sponichi Annexが出典です。より信頼性の高い出典を元にした推敲が必要です。
2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震ならびに福島第一原子力発電所事故に際しては、防災担当相を拝命しているにもかかわらず「官邸に引きこもって閣議後の定例会見すら開かない。
取材対応も記者との立ち話程度で、原発のことを聞くと『私は担当じゃないから』と逃げる。何をやってるのかさっぱり分からない」(匿名の全国紙政治部記者)[24]「ボンボン育ちで、修羅場をとても仕切れない。地震発生時にはパニックに陥り、以来、会見もできない」(匿名の全国紙編集幹部)[24]「官邸の危機管理センターに詰めていた松本氏がまったくの役立たずで、自衛隊の初動が遅れた」(匿名の全国紙政治部デスク)[24]などと批判されている。「震災が発生した3月11日から数日間、被災地救援や物資輸送が滞り、その後の活動に多大な悪影響を及ぼしたが、松本氏はその"元凶"と目されている」(匿名の「週刊現代」記者)[24]ともいわれる。「防災担当相として松本がやるべき仕事はほとんど仙谷由人が行っており、松本は単なるお飾りと化している」(匿名の官邸スタッフ)との指摘もある[24]。この点に関連して、松本龍自身は7月3日の岩手県知事との会談で「私はボーッとしていたけど、みんなでやってくれた」[25]と述べている。
家族
養祖父:松本治一郎(政治家・実業家)
父:松本英一(政治家・実業家)
弟:松本優三(実業家)
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