2011年6月7日火曜日

<北京女人天下>月収75万円の23歳マッサージ師・趙暁瑞

コラム2011/06/07(火) 11:07

暗く仕切られた四畳半ほどの部屋に、清朝皇帝風の豪華な紅色ベッドが据え置かれている。その上に、ゴロンと寝転ぶ「肉塊」。そう、暁瑞にとっては、相手はどれも、大きな「肉塊」でしかない。

一時間から一時間半ほど、まるで粘土を捏ねるように、暁瑞は巧みに「肉塊」を捏ね上げていく。脚の爪先から始めて、踝、膝、腿、腰、背、肩、腕、首、頭へと上がっていく。暁瑞にとっては、まさに琴でも奏でている感覚である。

その間、多くの「肉塊」は鼾をかき、極楽浄土の上を彷徨っている。最後は、肩を揺するように揉んで、「完了!」(終わりました)と掛け声をかける。一丁上がりだ。

暁瑞は、このチェーン店が抱える約1万5000人のマッサージ師の中で、わずか3人だけに与えられた「超特級」の称号の持ち主である。

大方のマッサージ師は、一日に3~4人の相手をするが、暁瑞の場合、10人を下ることはない。午前11時から深夜2時まで、指名の予約がビッシリ入っていて、休む間もなく「肉塊との格闘」が続く。

マッサージの料金は、暁瑞を指名すれば、1時間あたり500元(約6300円)である。うち半額が、暁瑞の取り分だ。このためひと月の収入は、6万元(約75万円)を下らない。平均的北京市民の約2年分の年収に匹敵する額だ。

このマッサージ・チェーン店「優子」は、中国北部を中心に、中国最大の約1000店舗を展開している。

マッサージ師や従業員の大半が、河南省出身者というのが特徴だ。それは、オーナーが河南省出身だからで、多くの中国人の特性として、同郷の者しか信用しないからである。

鄭州郊外の一工員から叩き上げ、わずか15年で、中国北部の各都市に、巨大なマッサージ店網を築き上げた。「優子」という店名は、オーナーがかつて恋をしていた日本人女性の名前から取った。実らぬ恋ではあったが、いまや中国北部では、日本人女性の代名詞となっている。

この会社の本社は鄭州にあるが、本店は約10年前に北京に移した。「北三環」(第三環状線北路)と「北四環」(第四環状線北路)の間、かつてモンゴル人が元代に築いた城壁跡のすぐ隣に、3階建ての「宮殿風店舗」が鎮座する。

1階は北京地区の全支店を統括するオフィスとレストランになっており、2階は「2級」と「1級」のマッサージ師200人ほどが、客にマッサージを行う。3階は、高級なカフェバーとサウナ、浴室、マッサージ室から成っていて、ここに控えるのは「特級」のマッサージ師10人と、「超特級」の3人である。その最上階の一番奥、「皇帝の寝所」と名付けられた一室が、暁瑞の「仕事場」というわけだ。

趙暁瑞は、1988年に、河南省洛陽郊外の貧民地区の長屋で生まれた。父親は、暁瑞が知る限り、目まぐるしく職業を変えていた。近くの小学校の警備員をしていたかと思えば、旅館の宴会場の給仕をやっていたりする。印刷所に出入りし、海賊版の本を売っていた時期もあったし、明らかに盗品と思える中古自転車を転売していた時期もある。だが万事飽きっぽく、怠け者の性格のため、いつまで経っても一家が貧民地区を抜け出すことはなかった。

母親の職業も、長らく不明だった。午前中はたいてい寝ていて、午後の遅い時間や夜になると、派手な口紅をつけて、どこかへ出掛けていった。父親とは、家庭内別居のような状態が永く続き、顔を見合わせては罵り合っていた。暁瑞は母親と一緒に寝ていたが、たいていは放っぽらかしにされた。そんな母親は、暁瑞が小学校を卒業する直前に姿を消し、二度と帰ってこなかった。人民解放軍の軍人と駆け落ちしたという噂が長屋内に広まったが、真相は杳として知れない。

暁瑞はそんな母親とは気が合わなかったが、父親とはもっと合わなかった。母親が使っていた狭い部屋をそのまま使い、中学を卒業すると、村で唯一つの大通りに面した、床屋の掃除婦となった。日給は一日1元(約12.5円)だった。

 なぜ床屋に「就職」したかと言えば、近所で一番、輝いて見えたからである。昼間は普通の床屋だったが、日が暮れると、原色のネオンを灯し、鄙びた通りに一片のアクセントを添えていた。

 この店の「営業内容」は、掃除婦になって初めて知った。暁瑞は朝9時の開店前に床屋へ行き、日中は、店員が切り落とした髪を掃き、その合い間に、裏手でタオル類の洗濯と整理を行う。夕刻になって客がいなければ、1元の駄賃をもらって帰る。

 暁瑞と入れ違うように、夕刻になると「マッサージ師」と呼ばれる若い女性たちが、ドヤドヤと入店してくる。彼女たちは派手な口紅を付け、肌を露出させたケバケバしい服装をしていて、店で暁瑞と挨拶を交わすことはなかった。

 暁瑞は、中学生の時から、深刻な容姿コンプレックスを持っていた。貌から足元に至るまで、自分のすべてが醜いと感じていた。貌は浅黒く、サルのようだった。骨格はごっつくて豚のようだし、脚は凹脚で、熊の肢のように太かった。

 だから夕方になると、華やかな女性たちに引け目を感じて、そそくさと帰っていた。だが、勤め出して半年ほど経った頃、腹の出た店長が、「深夜まで勤務すれば一日2元やるぞ」というので、夜まで延長して掃除係をやることにした。

 夜の仕事場は、1階ではなく2階だった。

 客は1階の床屋椅子に座り、5~6人いる女性の中から、お気に入りのコを指名する。そして、手を繋いでいそいそと2階へ上がっていく。2階は仕切られた狭い個室が4部屋あって、それぞれの部屋の中には、汚らしいベッドが一台置いてあるだけだ。2階の「喘ぎ声」が止んで、客と「マッサージ師」が降りてくると、暁瑞は2階へ上がり、部屋を片付ける。その繰り返しだった。

 2階の部屋はオンボロだったため、ドアにカギさえ付いていなかった。そのため、何度か部屋の中を盗み見してしまったことがある。女が寝台に仰臥し、男たちは恍惚の表情で身体を揺すっていた。暁瑞は自分の容姿にとんと自信がなかったので、あそこまで男体を酔わせる「マッサージ師」が羨ましく思えた。

 暁瑞が18歳になった年に、洛陽にマッサージ師の養成学校ができたという話を聞いて、居ても立ってもいられなくなった。ある時、初めて休みをもらって、バスを乗り継いで洛陽まで出掛けていった。かつて13の王朝の都だったというだけあって、洛陽の街は雄大だった。そこここに咲き誇る牡丹の花も美しく、夢を見ているようだった。

「優子マッサージ研修センター」という看板をようやく見つけ、中へ入って行くと、受付の女性が、懇切丁寧に説明してくれた。研修は半年コースであること、研修費は他の専門学校よりかなり割安なこと、優秀な卒業生は北京の直営店で就職できることなどである。これまで3年間コツコツと貯めた金をはたけば、学費はギリギリ何とかなった。そこで暁瑞は早速、来月からの研修を申し込んだ。家へ戻る途中で床屋へ寄り、中年太りの店長に、暇を告げた。

 半年間の研修は、いま思い出しても、まるで軍隊に入隊したかのような辛い日々だった。日課は、朝9時から腕立て伏せ100回、続いて指立て伏せ100回。その後、サンドバッグを使って、ひたすら揉む練習を、一時間半行う。

 午後は人体のツボの暗記。人骨模型を前にして、頭から爪先まで、通天、天柱、大椎、大木予、附分、肺兪、心兪、肝兪、脾兪、腎兪、上骨寥、秩辺、会陽、承扶、委陽、委中、合陽、承筋、承山、飛揚、崑崙、人ト参、申脈、至陰……と、覚えていく。人体とは、ツボの集積なのだ。その後、講師の男性を客に見立てたマッサージの実践を、2時間以上にわたって行う。

 毎日が、この単調なコースの繰り返しだった。100人以上いた「同期生」は、一週間で半分以下に減った。1カ月経つと20人以下になり、前の月のグループと合併された。

 研修期間中、暁瑞は毎晩深夜バスの席に腰掛け、饅頭のように膨れ上がった両手を眺めては、一人悦に入った。講師の男性たちは、研修生たちを汚い言葉で罵ったが、暁瑞は誉められこそすれ、一度も叱られたことがなかった。自分は確かに、他人よりはこの分野で才能があるようだった。何よりマッサージをしていると、自分の肉体コンプレックスを忘れられるのが嬉しかった。

 半年間の研修が終わった時、暁瑞は最優秀賞を授与された。学費は返納され、北京の本店での勤務を命じられた。

「優子」の社員やマッサージ師など20名ほどで連れ立って、北京西駅に降り立った。北京西駅は、洛陽駅よりも数倍大きく、目が眩むほどだった。そのままバスに揺られて巨大な首都を北上し、「優子本店」に辿り着いた。

 暁瑞は、「158番」という番号札を渡され、それが店での呼び名になった。店の裏手の寮は8人部屋で、二段ベッドが4つ詰め込まれただけの狭い部屋だった。

 毎朝10時半過ぎに店に行き、「2級マッサージ師」の制服に着替え、「158番」の名札を付けて、控え室で待つ。フロア・マネージャーに「158番!」と呼ばれると、1時間ほど客にマッサージを施し、終わるとまた、控え室に戻る。その繰り返しで、深夜1時になって客がいなければ、寮に帰ってよい。休日は月に二日間だけだった。

 入って3カ月もすると、自分への指名が付き始めた。半年後には、「1級マッサージ師」に昇格された。さらに一年後には、「特級マッサージ師」に格上げになり、3階へ異動した。まさに、同僚たちが羨む異例のスピード出世だった。

 だが暁瑞は、別に特別なことをしているつもりはなく、「自分流」は最初だけだった。まず客をうつ伏せにして、脚の爪先から頭のてっぺんまで、両の掌を広げて静かに触ってみるのだ。それだけで、客の身体が、暁瑞の10本の指に鋭敏に「訴えかけ」を行ってくる。そこでその「声」に誠実に、1時間かけて揉んでいくだけのことだった。客から身体の具合を聞かれれば、ありのままに話したし、特に緊急を要する客に対しては、「一刻も早く胃の精密検査をしてください」などと忠言をした。

 特級マッサージ師になると、給料が倍増するだけでなく、制服も高級になり、寮では個室が与えられ、控え室も見違えるように清潔だった。社員食堂での食事も「残飯」ではなく、一般客が注文するものを自由に注文して構わなかった。

 2階から3階に異動して、一番ホッとしたのは、煩わしい人間関係が減ったことだった。内向的な性格の暁瑞は、2階の控え室の大部屋にいる時が、一番居心地が悪かった。皆、河南省の同郷者なので、通常の中国の「職場」より和気藹々としているのだが、暁瑞は一年経っても、一人の友達もできなかった。寮の8人部屋でも、7対1という状態だったし、2週に一度の休日には、独りでブラブラと北京の街を歩くだけだった。言ってみれば暁瑞にとって、客にマッサージを施している刹那だけが、存分に自己表現できる「聖域」だったのだ。

 3階に来て、初めて友達ができた。

 それは、50歳になるオカマの「三助」だった。彼は、男性の大浴場が「仕事場」で、客の垢を擦っては、一人当たり15元(約190円)の報酬を得ていた。店内では誰もがこの男をバカにしていたが、暁瑞は不思議と気が合った。この男はある時、毎日垢擦りをしながら、さりげなく男性客の急所を触っては興奮していると、暁瑞に告白した。暁瑞は、自分は男の身体を揉んでも興奮はしないが、幸福な気分になると返した。雲南省の少数民族の出身というこの男は、帰京した春節明けに、暁瑞にルビーのネックレスをプレゼントした。それは、暁瑞が生まれて初めて人からもらった贈り物だった。

「優子」へ入って、瞬く間に3年が過ぎた。暁瑞の人気は高まる一方で、毎月の指名の数でトップに立ったこの春、全店を通じて3人目の「超特級マッサージ師」に昇格した。他の二人は開店以来、10数年勤めているベテランで、わすか3年での「超特級」昇格は前代未聞だった。だが規定に従い、指名数トップの暁瑞に、一番奥の「皇帝の寝所」があてがわれた。

「皇帝の寝所」でマッサージを受けるのは、北京の富裕層や、香港、台湾から出張で来た経営者などだ。そんな上客たちから暁瑞は何度か、給料に糸目はつけないから、自分専用のマッサージ師になってほしいと頼まれたことがある。そのたびに逡巡したが、結局は未だに「優子」に身を置いている。

 他の同僚たちは、寄ると男の話をしているが、暁瑞は彼氏が欲しいと思ったこともない。この薄暗い「皇帝の寝所」があれば十分だ。

 人間の身体は、十人十色どころか、千人千色だとつくづく思う。新しい身体に触れるたびに、新たな発見がある。相手がどんな金持ちだろうが、地位のある人間だろうが、この1時間だけは自分が独占し、自由自在に揉みほぐし、開発し、昇天させる。これに勝る快楽があるだろうか?
(執筆者:近藤大介・前明治大学講師(東アジア共同体論)、北京在住)

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