2012年8月23日木曜日

【追悼】山本美香さんインタビュー

【日経ウーマン】2012年8月22日

【追悼】山本美香さんインタビュー
戦地に生きる女性の思いを伝え続けたジャーナリスト人生

2012年8月20日、取材中のシリアで銃撃を受け死亡した山本美香さん。日経ウーマンは、2003年にインタビュー取材をするとともに、2004年にはその年に最も活躍した女性を表彰する「ウーマン・オブ・ザ・イヤー」のキャリアクリエイト部門に山本さんを選出していました。今回は、日経ウーマン2003年8月号から山本さんのインタビュー記事を掲載します。

危険を冒しても伝えたい思いを持つ人がいる。
それを受け取ったら伝える責任があるんです
 イラク戦争の中、バグダッド市のホテルへの米軍の砲撃で、ロイターの記者が死ぬという衝撃的な事件があった。その時に、手を血だらけにしながら、倒れた記者を助けようとしていた女性を覚えているだろうか? それが、空爆の第一波をバグダッドからリポートした山本美香さんだ。

「戦争取材は経験していても、進行形で人が死んでいくのを見るのは初めて。血だらけで泣いている私に、後から来た人が『防弾チョッキを着なさい』と言ってくれて、初めて『そんなに危険だったんだ』と気付きました。部屋に飛び込んだ時点から、取材者ではなく当事者になっちゃったんですね。あの時は衝撃があった瞬間、カメラを持って部屋を飛び出していた。よく思い出すと、ふと、『あ、カメラ回さなきゃ』って思った瞬間もあるんですよ。片手で助けながら、片手で撮りたいという、2つの心があって。でも結局カメラは投げていましたね。後から自分の映像を見て、『あんな声を出していたんだ』と思った。とにかく、『どういうことなの、この事態は』って怒りまくっていたんです。それは被害にあった人たちが見せる、ぶつけどころのない怒りと一緒なんです」

 ウガンダ、コソボ、アフガン、アチェと戦地取材のベテラン佐藤和孝さんと一緒に活動してきたが、「身の危険を一番感じた」のが今回のバグダッド取材だという。

「ホテルにいても建物の揺れがすごい。水もいつ出るのかわからない。情報省に監視されているので、こんな中で市民はどうしているのか、知りたいけれど自由に取材に出ることができないんです。目を盗んで、隙間から盗み撮りしたり、フラストレーションのたまる取材でしたね。カメラを当局に没収されたこともあった。髪を振り乱して騒ぎながら、あのテープは諦めてこっちのテープは入れ替えて持ち帰ろうって陰でやっている。手が震えてうまくいかないもんです(笑)。向こうも『女が泣いてるよ』ってちょっと同情してくれますけど」

 戦場では女性であることの危険はどうしても付いて回る。自分の意識はどうであれ、相手は女性は女性として見る。だが、得なことも多い。イスラム女性の素顔を見るチャンスもたくさんあるからだ。

ビデオカメラとの出合いが人生を変えた
 大学時代はバイトに明け暮れる普通の大学生で、将来戦場を駆け回るなんて想像もしていなかった。「やりたいことが見つからなかったんです。父が新聞記者だったので、その影響もあるのかな。子供の頃、姉は新聞記者と結婚したいと言って、私は新聞記者になりたいと言ったそうなんです」

 漠然とマスコミに憧れてCS朝日ニュースターに入社。そこで自分が本当にやりたいことが見つかればいいと思っていたが、積極的に動くほうではなかった。

「雲仙にビデオを持って取材に行った時も『新人だし、ちょっと行ってみるか』って言われて。当時ビデオ取材はまだ新しい手法で、三脚を立てて一人でリポートをしていると何やってるんだという目で見られました。でも、一人で取材、撮影、編集、出演までやる手法が自分の感覚に合ったんだと思っています。小柄で力もないので、ハンディタイプのビデオカメラが普及したタイミングもよかった。そのきっかけがなかったら今こうしていないと思う」

 その後、会社を辞めてアジアプレスに所属し、ディレクターの仕事をするうちに「現場に出たい」という気持ちが高まってきた。

「佐藤さんという師匠に付いて96年の12月に、日本女性では初めてタリバンを取材し、女性たちの素顔を映像にとらえました。彼女たちに『放映時には顔を隠したほうがいいですか』と聞いたら、『隠したら意味がない』と言われて。規制が厳しくて、当局に取材を受けたことがばれたら彼女たちは、大変なことになるはずなのに。その勇気に感動しました。世界には、危険を冒しても伝えたい思いを持っている人たちがいて、私はその言葉を聞いてしまった。すごく責任重大ですよね。マスメディアにのせて表に出さなきゃいけないと思いました。振り返ってみると目標を立ててきたわけじゃないんですが、自分で道を選んでいる。私を戦場へと向かわせるのは、その選択の積み重ねだと思うんです」

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