2011年7月10日日曜日

バラク・フセイン・オバマ・ジュニア

Barack Hussein Obama, Jr.

1961年8月4日  187cm

1961年8月4日に、ハワイ州ホノルルにある病院[7]で生まれる。実父のバラク・オバマ・シニア1936年 - 1982年)はケニアニャンゴマ・コゲロ出身(生まれはニャンザ州ラチュオニョ県Kanyadhiang村[6])のルオ族

母親はカンザス州ウィチタ出身[7][8][9]の白人、アン・ダナム[10]である。父のオバマ・シニアは奨学金を受給していた外国人留学生であった[11][12]。2人はハワイ大学ロシア語の授業で知り合い、1961年2月2日に周囲の反対を押し切って結婚[13]、アンは妊娠しており、半年後にオバマ・ジュニアを出産する。
父オバマ・シニアはムスリム(イスラム教徒)であり、イスラム教の戒律(イスラム法)では「ムスリムの子は自動的にムスリムになる」とされており、イスラム法が適用される国では現在でも脱教は死刑とされているが、オバマ自身は現在プロテスタントキリスト教徒[14]キリスト合同教会[15][16]である。オバマは自伝で、「父はムスリムだったが殆ど無宗教に近かった」と述べている。
またオバマは自身の幼年期を、「僕の父は、僕の周りの人たちとは全然違う人に見えた。父は真っ黒で、母はミルクのように白く、そのことが、心の中ではわずかに抵抗があった」と回想している[17]。彼は自身のヤングアダルト闘争を、「自身の混血という立場についての社会的認識の調和のため」と表現した[18]
両親は1963年に別居し、1964年に離婚した[12]。父は1965年にケニアへ帰国し、政府のエコノミストとなる。彼はハワイ大学からハーバード大学を出て将来を嘱望されていた。オバマの両親は結婚歴が複数回あるため、彼は後述の異母妹が1人、異母兄弟が8人[19]いる(うち、4人死没)。オバマ・シニアは1971年に息子と再会し、1982年に自動車事故が原因で亡くなった(46歳)[20]
なおオバマは1967年に母親とともに初来日し、東京に滞在したほか、神奈川県鎌倉市鎌倉大仏殿高徳院を訪問し、抹茶アイスクリームを食べたと語っている[21][22]
[編集] インドネシアへ
オバマ・シニアと離婚後に人類学者となった母は、その後ハワイ大学で知り合ったインドネシア人の留学生でのちに地質学者となったロロ・ストロ(Lolo Soetoro1987年没)と再婚する。
1967年に、ストロの母国であるインドネシアにて、軍事指導者のスハルトによる軍事クーデター9月30日事件)が勃発すると、留学していた全てのインドネシア人が国に呼び戻されたことで、一家はジャカルタに移住した[23]。オバマ・ジュニアは6歳から10歳までジャカルタの公立のメンテン第1小学校に通った[24]1970年には、母と継父のあいだに異父妹のマヤ・ストロが誕生する。
[編集] ハワイへの帰還

プナホウ・スクールの旧校舎
1971年、オバマ・ジュニアは母方の祖父母であるスタンリー・ダナム1992年没)とマデリン・ダナム2008年没)夫妻と暮らすためにホノルルへ戻り、地元の有名私立小中高一貫のプレパラトリー・スク-ルであるプナホウ・スクールに転入し、1979年に卒業するまで5年生教育を受けた[25]。在学中はバスケットボール部に所属し、高校時代に、飲酒、喫煙、大麻コカインを使用したと自伝で告白している。
なお1972年に、母のアンがストロと一時的に別居し、実家があるハワイのホノルルへ帰国、1977年まで滞在する。同年、母はオバマ・ジュニアをハワイの両親に預け、人類学者としてフィールドワーカーの仕事をするためにインドネシアに移住し、1994年まで現地に滞在した。このあいだに、1980年にアンと継父のストロとの離婚が成立した。母のアンはハワイに戻り、1995年卵巣癌で亡くなった[26]。以上のように、青年時代のオバマはハワイにおいて白人の母親と母方の祖父母(ともに白人)によって育てられた。
[編集] 大学時代
1979年に同高校を卒業後、カリフォルニア州ロサンゼルスの私立オクシデンタル単科大学に入学する[27]。2年後、ニューヨーク州コロンビア大学に編入し、政治学、とくに国際関係論を専攻する[28]
1983年に同大学を卒業後、ニューヨークで出版社NPO「ビジネスインターナショナル」社(Business International Corporation)に1年間勤務[29][30]し、その後はニューヨーク パブリック・インタレスト・リサーチグループ(New York Public Interest Research Group)で働いた[31][32]。ニューヨークでの4年間のあと、オバマはイリノイ州シカゴに転居した。オバマは1985年6月から1988年5月まで、教会が主導する地域振興事業(DCP)の管理者として務めた[31][33]。オバマは同地域の事業所の人員を1名から13名に増員させ、年間予算を当初の7万ドルから40万ドルに拡大させるなどの業績を残した。職業訓練事業の支援、大学予備校の教師の事業、オルトゲルトガーデン(en:Altgeld Gardens, Chicago)の設立と居住者の権限の確立に一役買った[34]
1988年にケニアとヨーロッパを旅行し、ケニア滞在中に実父の親類と初めて対面している。同年秋にハーバード・ロー・スクールに入学する。初年の暮れに「ハーバード・ロー・レビュー」の編集長[35]に、2年目にはプレジデント・オブ・ジャーナルの編集長に選ばれた[36]
1991年、法務博士(Juris Doctor。日本の法務博士(専門職)に相当)の学位を取得、同ロースクールをmagna cum laudeで修了[37]シカゴ大学の法学フェローとなる。

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