2011年8月11日、
【京華時報】
中国初の空母が、戦力となるまでにはさらに10年は必要だと専門家が指摘している。
空母は標的となりやすく自衛力が低いことから、単独での作戦行動は困難であり、艦上戦闘機の存在も不可欠である。
空母の戦闘力を形成する艦上戦闘機には熟練したパイロットが不可欠であり、欧米の例では訓練期間は最低3年、さらに艦上での訓練が必要となる。
また、戦闘機1機に対し、一般的には1.5人のパイロットを用意する。
戦闘機が40機なら60人ものパイロットを要することになる。
もちろん空母の乗員の訓練も欠かせない。
中国の軍事専門家・尹卓は、フランスが初の空母、シャルル・ド・ゴールを実戦配備させた例を鑑みると、空母が海上航行試験から就役できるようになるまで約10年の期間が必要になるとしている。
中国海軍の艦艇の名称は、駆逐艦とフリゲート艦は大・中都市名から、原子力潜水艦は「長征」+数字、補給艦は湖の名前からとられるなど、一定のパターンがある。
2011年8月12日金曜日
中国が海軍力誇示、空母を試験航行
2011年 8月 12日 14:09 JST
10日付けの新華社論説記事で「中国が空母を求めることは他国に脅威を与えるものではなく、過度な懸念や被害妄想を抱く必要はない。
1840年のアヘン戦争から1949年の中華人民共和国建国まで、中国は海上から470回以上の攻撃と侵略を受けた」と論じた。
1928年に初めて提唱された中国の空母建造計画
1980年に劉華清・海軍司令官(当時)が米空母「キティホーク」を見学したのを契機に一気に勢いづいた。今年1月に亡くなった劉氏は自伝のなかで、「(キティホークの)目を見張る壮大さと近代的な戦闘能力に深い感銘を受けた」と記している。
1985年、退役したオーストラリアの空母をスクラップとして購入
1998年と2000年にも中国企業がロシアの小型空母を1隻ずつ入手。この2隻は現在、遊園地で使われている。
1998年、ある中国企業が当時「ワリャーク」と呼ばれていた空母を2000万ドルで購入したときだ。ギャンブルが盛んなマカオ特別行政区に曳航され、洋上カジノとして使われるとの合意がなされていた。
10日付けの新華社論説記事で「中国が空母を求めることは他国に脅威を与えるものではなく、過度な懸念や被害妄想を抱く必要はない。
1840年のアヘン戦争から1949年の中華人民共和国建国まで、中国は海上から470回以上の攻撃と侵略を受けた」と論じた。
1928年に初めて提唱された中国の空母建造計画
1980年に劉華清・海軍司令官(当時)が米空母「キティホーク」を見学したのを契機に一気に勢いづいた。今年1月に亡くなった劉氏は自伝のなかで、「(キティホークの)目を見張る壮大さと近代的な戦闘能力に深い感銘を受けた」と記している。
1985年、退役したオーストラリアの空母をスクラップとして購入
1998年と2000年にも中国企業がロシアの小型空母を1隻ずつ入手。この2隻は現在、遊園地で使われている。
1998年、ある中国企業が当時「ワリャーク」と呼ばれていた空母を2000万ドルで購入したときだ。ギャンブルが盛んなマカオ特別行政区に曳航され、洋上カジノとして使われるとの合意がなされていた。
真珠湾攻撃した90歳パイロット「米艦に魚雷命中」を述懐
真珠湾攻撃した90歳パイロット「米艦に魚雷命中」を述懐
(NEWSポストセブン - 08月12日 07:10)
太平洋戦争(大東亜戦争)とは何だったのか。
最前線で戦った兵士たちは、あの戦争をどう受け止め、自らの運命をどう捉えていたのか。
ノンフィクション作家・門田隆将氏が、太平洋戦争の生き残りを全国に訪ね歩き、未曾有の悲劇を生々しく再現したのが、『太平洋戦争 最後の証言(第一部 零戦・特攻編)』である。
「九十歳」の兵士たちは、自分たちがなぜ戦場に向かい、何を守ろうとしたのかを後世に伝えようとしていた。時を超えても変わらない使命感と親兄弟を守るという熱い思い──門田氏がレポートする。
* * *
放たれていた魚雷は見事に命中した。凄まじい衝撃音と共に、その瞬間、土色の水柱が噴き上がった。標的を猛スピードで通過した自分たちの尾翼に何かがパチパチと跳ね返っているような気がした。
「……砂か……」
昭和十六年十二月八日、空母・加賀の二番機として、真珠湾でアメリカの太平洋艦隊の旗艦ウエストバージニアに八百キロの魚雷をぶち込んだ前田武は、抑えがたい興奮と使命を果たした満足感に捉われていた。
二〇一一年五月末、私は 都内の落ち着いた住宅街にその前田を訪ねた。当時二十歳だった前田は現在、九十歳。すっかり白くなった頭髪と深く刻まれた皺は年輪を感じさせるが、それでも実年齢より十歳は若く見えるだろう。
「あの時の感覚は忘れられません。私たちは敵の旗艦を攻撃したのですから」
前田は、自分たちの九七式艦上攻撃機がウエストバージニアを雷撃した時のことをそう静かに振り返った。それは、日米の戦端が開かれた瞬間でもある。
運命の日、十二月八日。前田が電信員として乗る加賀二番機が発艦したのは、午前六時過ぎのことだ。それぞれが褌など下着を新しいものに替えた。朝食には、赤飯と尾頭つきの魚が出たことを前田は記憶している。
「なんというか、まったく腹が据わっちゃった感じだったね。敵艦隊の本拠地へ行って、まして標的が敵の旗艦ですからね。俺たち最精鋭が行くんだ、という誇りも心の中にあったと思う。赤城と加賀は魚雷を十二本ずつ計二十四本、蒼龍と飛龍は八本ずつ計十六本、あわせて四十本の魚雷を持っていた。この四十本をすべて敵にぶち込むのがわれわれ艦攻隊の仕事でした」
前田はその時の心情をそう振り返った。
前田がその目でウエストバージニアを視界に捉えたのは、現地時間の朝八時のことである。無数の曳光弾が機体の左右を通過していた。敵からの攻撃である。
ガンッ! 次の瞬間、バケツを叩いたような音と衝撃が前田たちを包んだ。敵弾が命中したに違いない。だが、機体に異常は感じなかった。前田たちは敵の機銃による必死の反撃をものともせず、海面すれすれをまっすぐ標的に向かった。
魚雷は発射された。前田たちの祈りをこめた魚雷は標的に向かって進んでいく。
急上昇した機体がウエストバージニアの艦橋の前を通過した瞬間、魚雷は命中した。前田が「命中!」と、声を発した。それまで無言だった機内に、「うぉー」という声が挙がった。
凄まじい破裂音と衝撃が機体を襲った。振り返った前田の視界に土色をした水柱が強烈な勢いで噴き上がるのが見えた。その時、尾翼にパチパチと何かが当たっているのを感じた。
砂だった。水深が浅いため、魚雷は海底の土や砂を巻き上げながら爆発していたのである。敵の旗艦は七発もの魚雷を浴びてそのまま沈み、着底した。
※週刊ポスト2011年8月19・26日号
(NEWSポストセブン - 08月12日 07:10)
太平洋戦争(大東亜戦争)とは何だったのか。
最前線で戦った兵士たちは、あの戦争をどう受け止め、自らの運命をどう捉えていたのか。
ノンフィクション作家・門田隆将氏が、太平洋戦争の生き残りを全国に訪ね歩き、未曾有の悲劇を生々しく再現したのが、『太平洋戦争 最後の証言(第一部 零戦・特攻編)』である。
「九十歳」の兵士たちは、自分たちがなぜ戦場に向かい、何を守ろうとしたのかを後世に伝えようとしていた。時を超えても変わらない使命感と親兄弟を守るという熱い思い──門田氏がレポートする。
* * *
放たれていた魚雷は見事に命中した。凄まじい衝撃音と共に、その瞬間、土色の水柱が噴き上がった。標的を猛スピードで通過した自分たちの尾翼に何かがパチパチと跳ね返っているような気がした。
「……砂か……」
昭和十六年十二月八日、空母・加賀の二番機として、真珠湾でアメリカの太平洋艦隊の旗艦ウエストバージニアに八百キロの魚雷をぶち込んだ前田武は、抑えがたい興奮と使命を果たした満足感に捉われていた。
二〇一一年五月末、私は 都内の落ち着いた住宅街にその前田を訪ねた。当時二十歳だった前田は現在、九十歳。すっかり白くなった頭髪と深く刻まれた皺は年輪を感じさせるが、それでも実年齢より十歳は若く見えるだろう。
「あの時の感覚は忘れられません。私たちは敵の旗艦を攻撃したのですから」
前田は、自分たちの九七式艦上攻撃機がウエストバージニアを雷撃した時のことをそう静かに振り返った。それは、日米の戦端が開かれた瞬間でもある。
運命の日、十二月八日。前田が電信員として乗る加賀二番機が発艦したのは、午前六時過ぎのことだ。それぞれが褌など下着を新しいものに替えた。朝食には、赤飯と尾頭つきの魚が出たことを前田は記憶している。
「なんというか、まったく腹が据わっちゃった感じだったね。敵艦隊の本拠地へ行って、まして標的が敵の旗艦ですからね。俺たち最精鋭が行くんだ、という誇りも心の中にあったと思う。赤城と加賀は魚雷を十二本ずつ計二十四本、蒼龍と飛龍は八本ずつ計十六本、あわせて四十本の魚雷を持っていた。この四十本をすべて敵にぶち込むのがわれわれ艦攻隊の仕事でした」
前田はその時の心情をそう振り返った。
前田がその目でウエストバージニアを視界に捉えたのは、現地時間の朝八時のことである。無数の曳光弾が機体の左右を通過していた。敵からの攻撃である。
ガンッ! 次の瞬間、バケツを叩いたような音と衝撃が前田たちを包んだ。敵弾が命中したに違いない。だが、機体に異常は感じなかった。前田たちは敵の機銃による必死の反撃をものともせず、海面すれすれをまっすぐ標的に向かった。
魚雷は発射された。前田たちの祈りをこめた魚雷は標的に向かって進んでいく。
急上昇した機体がウエストバージニアの艦橋の前を通過した瞬間、魚雷は命中した。前田が「命中!」と、声を発した。それまで無言だった機内に、「うぉー」という声が挙がった。
凄まじい破裂音と衝撃が機体を襲った。振り返った前田の視界に土色をした水柱が強烈な勢いで噴き上がるのが見えた。その時、尾翼にパチパチと何かが当たっているのを感じた。
砂だった。水深が浅いため、魚雷は海底の土や砂を巻き上げながら爆発していたのである。敵の旗艦は七発もの魚雷を浴びてそのまま沈み、着底した。
※週刊ポスト2011年8月19・26日号
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