2011年5月29日日曜日

【日本赤軍】 丸岡 修(享年60歳)/八王子医療刑務所

1949年10月 - 2011年5月29日 日本赤軍の元メンバー。

清水谷高校卒業後、大阪浪共闘ベ平連で市民活動家として活動。

日本赤軍
1973年 ドバイ日航機ハイジャック事件、(22歳)

1973年7月20日テルアビブ空港乱射事件に対する関与等で国際指名手配を受け逃亡していた日本赤軍丸岡修ら5人の「被占領地の息子たち」と自称するパレスチナ解放人民戦線(PFLP)と日本赤軍の混成部隊が、爆弾などの武器を持ちフランスパリアムステルダムアンカレジ経由東京羽田)行きの日本航空404便(ボーイング747-246B型機、機体記号JA8109)をハイジャックし、アラブ首長国連邦ドバイ国際空港へ着陸させた。

▼日本航空404便(B747-246B型機)

        パリ 離陸
7月20-22日 ドバイ(UAE)
       サウジアラビア政府 領空侵犯時は爆破命令
7月22日 ダマスカス国際空港 燃料補給 シリア
       イスラエル政府   領空侵犯時は爆破命令
       ベンガジ市(シリア)ベニア空港

ベンガジへ
ドバイには3日間駐機し、その間に犯人グループから、40億円の身代金の支払いと逮捕されていた日本赤軍メンバー2名の釈放を要求する旨の脅迫状が日本航空の東京支店に届いた。これらを受けてドバイ首長の弟であるモハメッド・ラシッド国防大臣(当時。現在のドバイ首長)や佐藤孝行運輸政務次官らが犯人グループとの交渉に当たったが解決出来ず、その後ドバイ国際空港を離陸し、シリアダマスカス国際空港で燃料の補給を行い、リビアベンガジにあるベニナ空港に着陸させた。

爆破
その後犯人グループは、乗員乗客145人の人質を解放後、同機を爆破しリビア当局に投降した。なお、この際に女性メンバー1人が死亡した。犯人グループは投降後、ムアンマル・アル=カッザーフィー大佐率いるリビア政府の黙認(積極的な援助)の元、リビアの友好国経由で国外逃亡した。

撃墜指令
2004年に公開されたイギリス外務省の当時の機密文書によって、この事件の発生時に、ハイジャック機が領空の近辺を通過したイスラエルサウジアラビアの両政府が、当該機が両国の石油関連施設や市街地に突入する行動を取った場合、乗客乗員もろとも撃墜する方針であったことが明らかになった。

1977年ダッカ日航機ハイジャック事件(27歳)に主導的立場で関与

1987年11月21日東京警察に偽造パスポートを所持していたため逮捕(38歳)

丸岡が翌年に迫ったソウルオリンピックを妨害工作するためにソウル行きを計画していたことが明らかになる。

ドバイ・ダッカの両ハイジャック事件に対するハイジャック防止法違反と、偽造旅券で帰国したとする旅券法違反の罪に問われ、

1993年12月、無期懲役判決を受けた。(44歳)
1997年4月に控訴を、2000年3月に上告をそれぞれ棄却されて無期懲役が確定。当初は宮城刑務所で服役した。

2002年1月27日、『読売新聞』の記事「若王子さん事件 日本赤軍の影」において「三井物産マニラ支店長誘拐事件の際に犯人側に渡された身代金と丸岡の所持していた紙幣の番号が一致した」などと報じられた。

丸岡は名誉毀損で民事訴訟に起こし、2007年1月19日に東京地裁は三代川三千代裁判長は証拠不十分として読売新聞社に105万円の賠償支払いを命じた。

2007年6月28日、控訴審の東京高裁で吉戒修一裁判長は一審判決を破棄し、新聞記事を真実と認め、丸岡の名誉毀損による請求を退けた。

クアラルンプール事件で実行犯として関与したと疑われていたが、クアラルンプール事件では起訴はされていない。

2004年(54歳)には拡張型心筋症と診断され車椅子生活を送っていた。投薬治療を受けていたが、刑務所内には医師が常駐しておらず十分な治療がうけられなかったという。発作で失神することもあり、丸岡は4回も刑の執行停止を申し立てたがいずれも却下されていた。
2010年6月30日、刑の執行停止が認められず精神的苦痛を受けたとして、国を相手取り約1100万円の損害賠償と刑の執行停止をもとめ東京地裁に提訴。

2011年5月29日、服役中の八王子医療刑務所内にて心臓病により60歳で死去。

その他
日本赤軍メンバーの岡本公三によると、テルアビブ空港乱射事件は当初の計画では丸岡を含めた4人でおこなう予定であったが、丸岡が別行動を取ったために3人で襲撃したと供述している。



1977年9月28日(当時27歳)

に、フランスパリシャルル・ド・ゴール国際空港東京国際空港(羽田)行きの南回りヨーロッパ線日本航空機472便(ダグラスDC-8-62型、JA8033、高橋重男機長以下乗員14名、乗客137名、犯人グループ5名)が、経由地のインドムンバイ空港を離陸直後、拳銃手榴弾等で武装した日本赤軍グループ5名によりハイジャックされた。
同機はカルカッタ方面に一旦向かった後、進路を変更してバングラデシュダッカ国際空港に強行着陸し、犯人グループは人質の身代金としてアメリカドルで600万ドル(当時の為替レート〈1USドル≒約266円〉で約16億円)と、日本で服役及び勾留中の9名(奥平純三城崎勉大道寺あや子浴田由紀子泉水博仁平映植垣康博知念功大村寿雄)の釈放と日本赤軍への参加を要求し、これが拒否された場合、または回答が無い場合は人質を順次殺害すると警告した。この時、犯人グループから、「アメリカ人の人質を先に殺害する」という条件が付けられ、この「条件」の影響を受けて、その後の日本政府の対応にアメリカへの外交的配慮があったとする見方もある。
その後、ハイジャック機は燃料消費を抑えるためにエンジンを停止し、直ちに機内のエアコンが停止したために機内の気温が45度以上に上昇し、機内では倒れる者が続出した。しかし、たまたま乗り合わせた日本航空の嘱託医師の穂刈正臣が手当てを行なったほか、高橋機長が空港関係者にエアコンを作動させるための補助動力車と水を要求し、これが受け入れられたために事なきを得た[1]

超法規的措置
日本国政府は10月1日福田赳夫首相(当時)が「一人の生命は地球より重い」と述べて、身代金600万ドルの支払い及び、超法規的措置として獄中メンバーなどの引き渡しを決断。釈放要求された9人の内、植垣康博は「日本に残って連合赤軍問題を考えなければならない」、知念功は「一切の沖縄解放の闘いは沖縄を拠点に沖縄人自身が闘うべきものであり、日本赤軍とは政治的、思想的な一致点がない」、大村寿雄は「政治革命を目指す赤軍とはイデオロギーが異なる」と3人が釈放および日本赤軍への参加を拒否した。
日本政府は議論の過程で釈放要求リストに載っていた獄中者組合2人については「思想犯ではなく刑事犯」である理由から2人の釈放拒否の方針を持ってハイジャック犯と交渉した。しかし、ハイジャック犯は拒否し、日本政府が折れ2人も釈放対象となった。
日本政府は同日朝に、運輸政務次官石井一を派遣団長とし、日本航空の朝田静夫社長ら同社の役員や運輸省幹部を中心としたハイジャック対策の政府特使と、身代金と釈放に応じたメンバーなど6人を日本航空特別機(ダグラスDC-8-62型 JA8031)でダッカへ輸送した[2]
日本政府が過激派による獄中メンバーの釈放要求に応じたのは1975年のクアラルンプール事件以来2回目となった。なお、検事総長神谷尚男法務大臣福田一は、この様な「超法規的措置」の施行に対して強硬に反発した。福田一は施行が決定された後に「引責辞任」した。

軍事クーデター
バングラデシュ軍部中枢を含む政府首脳がこの事件の対応に追われている隙間を縫って、10月2日の早朝に軍事クーデターが発生した[2]。その後戒厳令が発令され、最終的に反乱軍は鎮圧されたものの、ダッカ国際空港近辺でも戦闘があり政府軍の士官が11名が死亡するなど現地は緊迫したが、当時報道規制により詳細は分からなかった。
終結
10月2日に人質との交換が行われ、乗員乗客のうち118名が解放された。その後10月3日に、高橋機長とデッドヘッドで乗り合わせていた澤田隆介機長の機転で更なる人質の解放に成功した後[2]、残りの人質を乗せたままハイジャック機は離陸、クウェートシリアダマスカスを経て人質17名を解放、アルジェリアのダル・エル・ペイダ空港に着陸し、同国当局の管理下に置かれた。日本赤軍がアルジェリアを選んだのはアルジェリアがハイジャック防止条約を結んでなかったためである。この時点で残りの乗客乗員も全員解放され、事件は終結した。

事件の影響
事件解決に多大な協力を受けた上に、11名の死者を出した軍事クーデターのきっかけを作ったことを受け、事件解決後に日本政府はバングラデシュに謝礼と謝罪の意味を含めて特派使節を送ることとなった。しかし、バングラデシュ政府は日本政府に対し(高尚な思想から)なんら補償や見返り等を求めなかった。
また、この事件における日本の対応は、一部諸外国から「(日本から諸外国への電化製品や自動車などの輸出が急増していたことを受けて)日本はテロまで輸出するのか」などと非難を受けたといわれる。
ただし、当時は欧米各国においても、テロリストの要求を受け入れて、身柄拘束中のテロリストを釈放することが通常であり(例、PFLP旅客機同時ハイジャック事件ハーグ事件ルフトハンザ航空615便事件などを参照)、日本政府のみがテロに対して弱腰であったわけではない。そのため当時世界各国では、この様な事件に対処する為に対テロ特殊部隊の創設が進められつつある所だった。
このテロリストの要求を受け入れる流れが変わるきっかけとなったのが、ダッカ事件と同じ年に起こったルフトハンザ航空181便ハイジャック事件である。西ドイツ政府は、ミュンヘンオリンピック事件を機に創設された特殊部隊GSG-9を航空機内に突入させ、犯人グループを制圧し、人質を救出した。
同年、日本政府はGSG-9の成功例を参考に、ハイジャック事件に対処する特殊部隊警視庁大阪府警察に創設した。また、アメリカ合衆国もGSG-9の突入作戦を教訓として、陸軍デルタフォースを設立した。
日本警察の特殊部隊は、創設当初、特科中隊もしくは零中隊などと呼ばれており、部隊の存在自体が長期間、非公開とされていたが、1995年に発生した全日空857便ハイジャック事件に出動し、犯人を逮捕、人質を救出したことで世間に知られるようになった。その後、これらの特殊部隊は部隊を増設し、装備を強化した上で、SAT(Special Assault Teamの略称)と呼ばれるようになった。
なおこの事件を報道するニュースをきっかけに、福岡県結核療養所に入院していた患者が「人質がどうなってしまうのか」で同室の患者と口論となり、ナイフで刺殺してしまったという事件も起こっている。

後日談
[編集] 「モガディシオ事件」
詳細は「ルフトハンザ航空181便ハイジャック事件」を参照
ダッカ日航機ハイジャック事件から、1ヶ月も経たない1977年10月13日、スペイン領マリョルカ島パルマ・デ・マリョルカフランクフルト行きのルフトハンザ・ドイツ航空615便(ボーイング737型機)が、『黒い九月』を名乗る西ドイツ赤軍(バーダー・マインホフ・グループ)と、PFLPの混成グループにハイジャックされ、ソマリアのモガディシオに着陸させられた。
テロリストは西ドイツ政府に対して、身代金と政治犯釈放を要求したが、10月17日、ミュンヘンオリンピック事件をきっかけに創設された、西ドイツの特殊部隊「国境警備隊第9グループ(GSG-9)」が航空機に突入し、テロリストを制圧、人質全員を救出した。 なお機長1名がテロリストにより射殺され犠牲となったものの他の乗員乗客は無事だった。西ドイツ赤軍は、内容からしてダッカ日航機ハイジャック事件を参考にしたようだが、GSG-9により制圧される結果となった。

ハイジャック機その後
ハイジャックされたDC-8-62型機(JA8033)はその後日本国内へ戻され、ハイジャック犯人による爆弾の爆発実験により一部が破損した機内トイレの修繕や、機内清掃などが施された後に通常運航へと戻され、1984年まで日本航空で使用された後にメキシコアエロメヒコ航空へと売却され、1990年代前半まで運行された。

日本航空クアラルンプール墜落事故
日本航空クアラルンプール墜落事故」を参照
ダッカ事件発生前日、日本航空715便がマレーシアクアラルンプールへ着陸する途中に空港手前のゴム園に墜落する事故を起こしていた。その為、日本航空は事件と事故の対応に追われていた。

釈放要求されたメンバー・実行犯メンバーのその後
釈放された6人メンバーの内、1986年に泉水博、1996年に城崎勉、1997年に浴田由紀子がそれぞれ身柄拘束されている。また実行犯として丸岡修西川純が逮捕され、無期懲役判決を受けている。和光晴生はこの事件では訴追されず、別事件で訴追され無期懲役判決を受けている。
2010年現在も奥平純三大道寺あや子仁平映国際指名手配されている。

ハイジャック犯人グループ
丸岡修 
和光晴生(?) 
佐々木規夫
坂東國男
西川純  

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元自衛官俳優・今井雅之が被災地でヘドロかき出し 「国会議員全員がやるべき」と苦言も

シネマトゥデイ - 05月29日 08:00)

 今井雅之(50)
1980年4月陸上自衛隊一般曹候補学生
    12月今津駐屯地第3戦車大隊
1981年9月退職。 1年6ヶ月間

今井雅之が、東日本大震災の被災地・宮城県仙台市でヘドロのかき出しなどのボランティア活動を行い、被災地の現状や感じたことを率直に語った。

 父・兄共に自衛官という家系の今井。今井自身も元自衛官で災害派遣の経験もある。

東日本大震災の2日後に被災地へ派遣された兄や自衛隊時代の後輩たちが危険な任務にあたっていることを聞き、「芸能人としてではなく、いち人間として、日本人としてできることは何か」を自問したという今井。日本という国を愛する心が、自身の付き人や俳優仲間に声を掛け被災地へ足を運び、車での寝泊りを覚悟して支援活動をするきっかけとなった。

 知人を通して被災地の情報を得た今井は、4月に2回に分けて活動を行った。

作業日数は実に6日間。特に人手が行き届いていない地区での活動を希望したが、知人から「仙台市内」を指定され驚いたという。

「人手に困っているところといえば、『仙台市』という大きな街ではなく、もっと交通の便が悪いようなところを想像していた。一人で作業せざるを得ないお年寄りを手伝うことを希望したのだが……」と語る今井。

しかし実際に作業を行った仙台市若林地区に到着すると「360度、地平線まで、どこを見渡しても茶色く、がれきの山だった」と目の当たりにした光景にがくぜんとしたという。「こんなところにまで津波がきていたとは」とテレビなどで映像は目にしていたが、今井が作業した現場の近くで、34キロ先に住んでいた方の遺体が見つかるなど、厳しい実情を改めて感じた。

 悪臭を放つヘドロのかき出しは想像を絶する重労働だ。「とにかくにおいがきつい。きっと有害な物質も含まれていると思うけど、何時間もすくっては出し、すくっては出しの作業を繰り返していると腰に負担もかかる」と今井は経験した者にしかわからない作業の過酷さを明かす。そして「国会議員全員が視察ではなくヘドロのかき出しをやるべき」と苦言を呈した。

一方で、2回目の活動で一緒になった、若者やマレーシアの留学生が黙々と作業している姿を見て、「日本人だけでなく、同じアジア人として海外の方までもが一つになっていると感じ、温かい気持ちになった」。そんな今井に今、被災地に必要なものを聞いてみると「心のケア」だという。

現地の方とのやりとりで自身が原作・脚本・演出などを手掛け、神風特攻隊を題材とした舞台「THE WINDS OF GOD ~零のかなたへ~」を「ぜひ仙台でやってほしい」との言葉が、もともと予定していた本舞台の仙台公演を自粛せずに実施しようと今井の背中を押した。

 今井自ら100人以上に取材して作り上げた「THE WINDS OF GOD ~零のかなたへ~」。売れないコンビ芸人が、タイムスリップして神風特攻隊の隊員と入れ替わるというファンタジックな設定で、「生きる喜び」を描いた作品だ。今井は過酷な状況下にある被災地の方について「これだけの震災に見舞われても譲り合う気持ち、規律を守る姿勢を見て、日本人は何て素晴らしい民族なんだろうと本当に思った」と胸中を明かし、自身が舞台で描くテーマと重ね合わせて「自分のやってきたことは間違いではなかった」と熱く語る。23年前に初演してから、さまざまな批判も受けてきたが、「一番訴えたいのは、電気もつくし、おなかがすいても食べ物に困らない現代の平和に感謝すること。本当にありがたいと思って生きていかなくてはいけない」と力を込めて今井は訴える。「自粛」と「萎縮」は違うとし、落ち込んでいるときほど明るいニュースが東北を活気づけると今井は信じている。「まだまだ困っている方がたくさんいます。特攻隊で家族を失った方もそうですが、今回の震災で家族を失った方の気持ちを100パーセント理解できるわけではないけれど、『生きる喜び』『生かされている喜び』を感じてもらえると思う」と最後は役者だからこそできる支援「心のケア」へ思いを膨らませた。(編集部・小松芙未)
舞台「THE WINDS OF GOD ~零のかなたへ~」2011 JAPAN TOURは11月5日から12月11日まで仙台を含む9か所、17公演を予定。詳細はオフィシャルサイトで確認できる。

【エジプト】 【海外事件簿】

http://sankei.jp.msn.com/world/news/110529/mds11052907000002-n1.htm

【海外事件簿】
宗教対立の引き金 改宗女性の「家庭の事情」とは
2011.5.29 07:00

9日、カイロの国営放送局の前で、キリストの肖像を手にコプト教徒襲撃事件に抗議するコプト教徒ら(AP)

 ムバラク前大統領の退陣後のエジプトで、急進的なイスラム教徒と、人口の約1割を占めるとされるキリスト教の一派コプト教徒との衝突が相次いでいる。

5月上旬に首都カイロの貧民街インババ地区で起きたコプト教会襲撃事件では、イスラム教に改宗したとされるコプト女性が教会に幽閉されているとの噂が引き金となり12人の死者を出す惨事に発展した。事件後、女性はテレビの電話インタビューに応じるなどして「改宗」にまつわる事情を語り始めたが、果たして彼女の言葉はどこまでが真実なのか。(カイロ 大内清)

家庭の事情

 「夫が暴力を振るうので逃げ出したのです。しかし家族に連れ戻され、教会の施設に閉じ込められていました」

 エジプトのかつての過激派「イスラム集団」系ウェブサイトに掲載された動画で、一人の女性が語り始めた。

 女性の名はアビール・タラアト・ファクリーさん。イスラム教の預言者ムハンマドの時代への回帰を目指す急進的な「サラフィー主義者」らが、インババの教会に「幽閉」されていたところを「救出」したとしている女性だ。

 話の内容を総合すると、中部アシュートのコプト教徒の家庭に生まれ育ったアビールさんは、同じコプト教徒の男性と結婚し、一女をもうけた。

 しかし、結婚後しばらくすると夫は彼女に暴力を振るったり暴言を吐いたりし始めた上、子供が望んでいた男児ではなかったことから家にも寄りつかなくなった。

 こうした生活に耐えきれなくなったアビールさんは子供を連れて実家に戻り、その後、イスラム教徒の男性ヤシーン・サーベトさんと恋仲となって家出、改宗を決意したという。

ここでポイントとなるのが、コプト教の夫婦は離婚が認められていないことだ。

アビールさんらは、2人が結ばれるためには、アビールさんが改宗することで婚姻関係を無効にするしかない-と考えたとみられる。

 アビールさんはその後、家族によって連れ戻され、「インババの教会施設に閉じ込められた」。そして今年5月の事件当日、サーベトさんに電話をかけて居場所を知らせ、サーベトさんからその情報を得たサラフィー主義者らによって助け出されたのだという。
 本来ならば「家庭内の不和」で片づけられるはずの問題が、宗教が絡み、噂が独り歩きを始めることで暴動にまで発展する-。ここにエジプトの抱える病巣がある。
棒読み 
 事件後、いくつかのテレビ番組に電話出演したアビールさんとされる女性は、判で押したように同じ言葉で、事件にいたる経緯を説明した。

 だが、それを聞いても、いくつもの疑問が浮かぶ。

 あるテレビ番組の司会者が、「幽閉されているのにどうやってサーベトさんに電話がかけられたのか?」と聞くと、アビールさんは「とにかくかけたの!」と怒ってインタビューを打ち切ってしまった。

 イスラム集団系サイトに掲載されたアビールさんとされる女性の映像では、女性がしきりに横目で何かを読んでいるような仕草をみせながら事件のあらましを説明している。あるエジプト人ジャーナリストは「台本があってそれを棒読みしている感じ」だと指摘する。

そもそも事件当夜、インババの教会施設にアビールさんはいたのか?

 エジプトの治安当局は事件直後、「インババにアビールなる女性はいなかった」とする声明を発表し、事件につながる噂を流布したなどとして恋人のサーベトさんを拘束。その後、アビールさん自身も拘束を受け、現在はカイロの女性刑務所で拘留中だ。事件前後の正確な事実関係は、まだはっきりしていない。

宗教対立が先鋭化 

 噂が原因で大規模な衝突につながった例はほかにもある。

カイロのコプト教徒が多く住む地区で3月、13人が死亡した暴動では、近隣地区に「イスラム教徒の女性がコプトに拉致された」とのデマが広がり、これに怒った多くのイスラム教徒の若者が暴動に参加した。

 この事件で経営する工場が破壊されたコプト教徒の男性は「イスラム教の女性を拉致するなんてあり得ない。けど、コプトをエジプトから排除しようという連中からすれば、噂が本当かどうかは関係ないんだ」と怒りをぶちまけた。

 「噂に踊らされていては、宗教対立を煽ろうとする一部のサラフィー主義者の思うつぼなのに…」。前出のジャーナリストはこう嘆き、イスラム教徒とコプト教徒の対立がさらに先鋭化しかねない現状に警告を発している。

【笠原健の信州読解】

【笠原健の信州読解】
石油を絶たれた70年前の日本は、日米開戦に踏み切るか懊悩していた
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110529/stt11052907000000-n1.htm
2011.5.29 07:00

 東京電力福島第1原子力発電所の事故はいまだに収束が見通せないどころか、発表が二転三転するなど政府の統治能力に疑問符が突きつけられている。

 今の政治家にこの国を守る決意は本当にあるのか。

 実は70年前の日本もこの命題を突きつけられていた。国の命綱といってもいい、石油を確保するため日米開戦に踏み切るのか。開戦するとしたら、そのタイミングはいつなのか。

 どんよりと曇った梅雨空と同じように日本の政府、そして軍の首脳の心は一様に暗かったに違いない。

■「我慢すれば、朝鮮と台湾は残る」

 「君は本当にやったほうがいいと思っているのかね。いいかい、ここでやけっぱちで事を構えたら、満州はもちろんのこと、朝鮮も台湾もなくしちゃうことになるんだよ。この際ひとつ我慢をすれば、満州は駄目だが、朝鮮と台湾はうまくいけば残るよ」

 この一節は、作家で東京都副知事を務めている猪瀬直樹氏の「空気と戦争」(文春新書)からの引用で、70年前のちょうど今頃、東京の三宅坂から赤坂見附までを歩いている2人の陸軍将校の間でかわされた会話だ。

 以下、「空気と戦争」をもとにしながら、当時の日本の雰囲気を探ろう。

 70年前の昭和16(1941)年6月、日米関係は日本の中国進出をめぐり極度に緊張していた。事態打開をはかるために日本政府は対米交渉に乗り出していたが、その道は容易に見つからない。

米国が日本への石油輸出を全面禁止

 昭和15(1940)年7月に輸出許可品目に石油及び石油製品を追加していたアメリカは翌昭和16(1941)年6月21日に「石油製品輸出許可制」の完全実施に踏み切る。アメリカが対日石油輸出の全面禁止を発表したのは8月1日だが、猪瀬氏によると6月21日以後、日本は一滴の石油も入手できなくなった。

 旧陸軍は石炭を液化して石油にする人造石油の開発に着手していたが、それも思うようにはかどっていない。このままでは間違いなくじり貧になる。陸軍省で燃料問題を担当していた2人の将校が陸軍大臣の東條英機中将と大臣室で面会し、陸軍の燃料需給の見通しを説明して、窮状を訴える。6月22日にはヒトラー率いるドイツとスターリンのソ連との間で戦争が始まっていた。

 猪瀬氏は東條英機に面会した陸軍中尉で、昭和60(1985)年に回想録「油断の幻影-一技術将校の見た日米開戦の内幕」を出版した当時の技術将校、高橋健夫氏に面会して取材を進めた。

「こうなったら、アメリカとの衝突覚悟で南方に武力で進出するしかないのか?」。陸軍大臣室にいた3人の脳裏にこんな思いが浮かんだとしても不思議ではない。

石油確保のため蘭印に進出

 オランダが植民地支配していたインドネシア(オランダ領インドネシア=蘭印)からは石油が産出されていて、アメリカからの輸入が駄目ならば、力ずくで打って出るしかない、というのがほぼ常識になっていた。

 大臣室を出た高橋氏は、仕事のことで相談に乗ってもらうことが多かった10歳ほど年長の原田菅雄少佐と帰路、歩きながらなぜ上層部は石油を確保するために軍事行動を起こさないのか、グズグズしていると時機を失ってしまうのではないか、と尋ねる。
 
 冒頭に掲げた言葉は、原田少佐が疑問をぶつけてきた高橋氏に対して投げ返した答えだ。高橋氏が軍人精神を忘れてしまっているといわれるのでは、と切り返すと原田少佐は「だから危ないんだよ。そういう雰囲気が、ますます危ない方向へ国を引っ張っていくんだ」と高橋氏を諭す。

「結局戦争、そして敗けるんだよ」

 原田少佐はこう続ける。「大政治家というものは、正しいと自分で信じた場合、国民など黙らしてもその方向へ引っ張っていくものなんだ。その代わり、自分も永遠に黙らされることを覚悟の上でね」と、昔は、身命を賭(と)して国難に当たる政治家がいたが、今はもういないと慨嘆する。

 そして「結局、戦争することになるさ。そして敗けるんだよ」と、アメリカとの戦いに突入したあげく、日本は敗北するとの見通しを披露する。

 中国大陸からの撤兵、満州からの撤退は絶対にまかりならぬという国内の強硬論に突き上げられたままでは日米交渉の妥結は絶対に無理。

 日清戦争に勝利した後、遼東半島を清国に返還するようにロシア、ドイツ、フランスから三国干渉を受けた際、臥薪嘗胆したように、米国や英国から中国大陸の利権を放棄するよう強要されても、歯を食いしばって耐え続ければ、やがて活路を見いだすことはできる、というのが原田少佐の見立てだ。

中国大陸から撤退していたら…

 だが、中国大陸からの撤兵や満州からの撤退を切り出した途端、軍部の強硬派の標的や右翼のテロの対象になりかねない。すでに昭和7年には5・15事件が、昭和11年には2・26事件が起きるなど時代は殺伐としていた。

 国の針路を誤らぬように正論を唱え続け、政策を実行に移すには命がけで臨む必要があった。

 原田少佐の言葉通りに、命がけで事に当たろうという政治家は当時の日本にはいなかった。日本がアメリカとの戦争に踏み切るのは、高橋氏と原田少佐の会話が交わされた日から約半年後の12月8日だ。(長野支局長 笠原健)