(R25 - 06月30日 11:10)
アサヒサイクルが発売している自転車「アヴァントゥリガ」シリーズのネーミングセンスが、あまりにも格好よすぎるということで、ネット上で話題となっている。
ネット住民たちの注目を浴びているのは、黒いボディーが特徴の自転車「アヴァントゥリガ」シリーズで、「アヴァントゥリガ・ジャベリン」「アヴァントゥリガ・サイス」「アヴァントゥリガ・レイピア」などの名前がつけられている。
また、それぞれに「無限の可能性を秘める黒から生まれた、漆黒の長槍(ジャベリン)」「すべてを呑み込む黒の威力を宿した、ひと振りで世界を変える死神の鎌(サイス)」などといったキャッチコピーがつけられており、その過剰な格好よさが“中二病すぎる”ということで、発売から2年以上たっているものの、最近突如2ちゃんねるなどで話題となっているのだ。
中二病とは、中学二年生くらいの思春期の男子が、格好いい横文字、不良っぽい物、洋楽などに憧れるさまを表す言葉だ。
「アヴァントゥリガ」シリーズのような、ちょっと難しい横文字などはまさに中二病の象徴なわけだが、ネット上ではそんな中二病的なネーミングにしばしば注目が集まることがある。
たとえば、プロレス技。2ちゃんねるのニュース速報板では過去に「プロレス技のネーミングセンスは邪気眼を超えている」というスレッドが立てられ、そのネーミングセンスについて語られている。スレッドでは、 「シャイニングウィザードって意味わかんないよね 魔法使いが光ってどうする」 「ジャパニーズオーシャンサイクロンホールドとか 本当に意味がわからない」 「ブルージャスティスとかサンダーデスキックとかの悪口はやめろ」 などと、格好よすぎる技の名前にツッコミを入れつつも、次々とプロレス技の名前を取り上げ、楽しそうに議論していた。
ほかには、旧日本軍の戦闘機の名前が話題となることも。
ニュース速報VIP板に立てられた「旧日本軍の戦闘機の名前考えた奴って厨二病だったの?」というスレッドを見ると、「紫電とか烈風」「屠龍も捨てがたい」「零戦や百式司令部偵察機みたいな名前が好き」などと、漢字を使った中二病的ネーミングについて語られている。
スレッド全体の雰囲気を見る限りでは、これらのネーミングを素直に格好いいと認める意見が多かった。
少々恥ずかしいものと思われがちな中二病的ネーミングだが、楽しそうにネタにされているところを見ると、なんだかんだいってネット住民たちは中二病的なものにひかれてしまうのかもしれない。 (R25編集部)
2011年6月30日木曜日
中国共産党、創建90年で自民招待 民主は呼ばず
【産経】2011.6.29 22:56
自民党の棚橋泰文国際局長を団長とする同党国会議員代表団は29日、中国を訪問し、北京の人民大会堂で王家瑞共産党中央対外連絡部長と会談した。
国営新華社通信によると、両氏は自民党と中国共産党の政党交流の仕組みを強化し、相互理解を深めていく認識で一致した。
自民党によると、7月1日に中国共産党創建90年を迎えるのを機に日本の政党の代表として中国側から招待された。自民党の代表団が政党交流で中国を訪問するのは約3年ぶり。
中国側は与党の民主党は招待していない。混乱を極める日本政局をにらんで野党の自民党とのパイプの強化を図る狙いがありそうだ。(共同)
▽棚橋泰文
1963年2月11日(48歳)
出生地岐阜県大垣市
出身東京大学
前国家公務員(通商産業省)弁護士
岐阜2区当選回数5回
自民党の棚橋泰文国際局長を団長とする同党国会議員代表団は29日、中国を訪問し、北京の人民大会堂で王家瑞共産党中央対外連絡部長と会談した。
国営新華社通信によると、両氏は自民党と中国共産党の政党交流の仕組みを強化し、相互理解を深めていく認識で一致した。
自民党によると、7月1日に中国共産党創建90年を迎えるのを機に日本の政党の代表として中国側から招待された。自民党の代表団が政党交流で中国を訪問するのは約3年ぶり。
中国側は与党の民主党は招待していない。混乱を極める日本政局をにらんで野党の自民党とのパイプの強化を図る狙いがありそうだ。(共同)
▽棚橋泰文
1963年2月11日(48歳)
出生地岐阜県大垣市
出身東京大学
前国家公務員(通商産業省)弁護士
岐阜2区当選回数5回
【菅直人】 お食事会 6月28・29日
6月28日(火)
【菅日誌】28日
2011.6.29 03:23
【午後】
8時23分、官邸発。
31分、東京・赤坂の日本料理店「球磨川」着。
細野氏、民主党の原発事故影響対策プロジェクトチームの座長・荒井聡前国家戦略担当相らと食事。
48分、福山氏が加わった。
10時57分、同所発。
11時6分、公邸着。
29日
2011.6.30 03:03
【午前】
11時57分、官邸発。
59分、東京・永田町のザ・キャピトルホテル東急着。
同ホテル内の中国料理店「星ケ岡」で枝野幸男官房長官、蓮舫首相補佐官と食事。
【午後】
1時1分、同所発。
3分、官邸着、執務室。
7時13分、官邸発。
21分、東京・赤坂のすし店「赤坂 石」着。秘書官らと会食。寺田氏同席。
9時7分、同所発。
16分、東京・六本木の焼き肉店「大同苑」着。
国家戦略室スタッフと食事。阿久津氏、加藤公一民主党衆院議員同席。
10時9分、同所発。
16分、東京・六本木の六本木ヒルズ内のイタリア料理店「ザ キッチン サルヴァトーレ クオモ六本木」で桜井勝延福島県南相馬市長らと食事。伸子夫人同席。
11時25分、同所発。
38分、公邸着。
▽南相馬市長・桜井勝延(55)
1956年1月4日(
岩手大学農学部
米国タイム誌から、2011年版の「世界で最も影響力のある100人」に選ばれた
経歴
2003年(平成15年)3月4日 - 原町市議会議員。
2006年(平成18年)1月1日 - 南相馬市議会議員。
2010年(平成22年)1月29日 - 南相馬市長。
菅首相:飲食店3軒はしご
2011年6月29日 23時55分 更新:6月30日 0時3分
菅直人首相は29日夜、秘書官らとのすし店での会食を皮切りに、焼き肉店、イタリア料理店と3軒の飲食店をはしごした。すし店は秘書官室スタッフの送別会。焼き肉店は国家戦略室スタッフの会合で、最後に桜井勝延・福島県南相馬市長や伸子夫人と会食した。首相は28日夜も側近の荒井聡前国家戦略担当相らと会食しており、冷ややかな空気に包まれた28日の民主党両院議員総会を乗り切った解放感を、会食で共有したかったようだ。
【菅日誌】28日
2011.6.29 03:23
【午後】
8時23分、官邸発。
31分、東京・赤坂の日本料理店「球磨川」着。
細野氏、民主党の原発事故影響対策プロジェクトチームの座長・荒井聡前国家戦略担当相らと食事。
48分、福山氏が加わった。
10時57分、同所発。
11時6分、公邸着。
29日
2011.6.30 03:03
【午前】
11時57分、官邸発。
59分、東京・永田町のザ・キャピトルホテル東急着。
同ホテル内の中国料理店「星ケ岡」で枝野幸男官房長官、蓮舫首相補佐官と食事。
【午後】
1時1分、同所発。
3分、官邸着、執務室。
7時13分、官邸発。
21分、東京・赤坂のすし店「赤坂 石」着。秘書官らと会食。寺田氏同席。
9時7分、同所発。
16分、東京・六本木の焼き肉店「大同苑」着。
国家戦略室スタッフと食事。阿久津氏、加藤公一民主党衆院議員同席。
10時9分、同所発。
16分、東京・六本木の六本木ヒルズ内のイタリア料理店「ザ キッチン サルヴァトーレ クオモ六本木」で桜井勝延福島県南相馬市長らと食事。伸子夫人同席。
11時25分、同所発。
38分、公邸着。
▽南相馬市長・桜井勝延(55)
1956年1月4日(
岩手大学農学部
米国タイム誌から、2011年版の「世界で最も影響力のある100人」に選ばれた
経歴
2003年(平成15年)3月4日 - 原町市議会議員。
2006年(平成18年)1月1日 - 南相馬市議会議員。
2010年(平成22年)1月29日 - 南相馬市長。
菅首相:飲食店3軒はしご
2011年6月29日 23時55分 更新:6月30日 0時3分
菅直人首相は29日夜、秘書官らとのすし店での会食を皮切りに、焼き肉店、イタリア料理店と3軒の飲食店をはしごした。すし店は秘書官室スタッフの送別会。焼き肉店は国家戦略室スタッフの会合で、最後に桜井勝延・福島県南相馬市長や伸子夫人と会食した。首相は28日夜も側近の荒井聡前国家戦略担当相らと会食しており、冷ややかな空気に包まれた28日の民主党両院議員総会を乗り切った解放感を、会食で共有したかったようだ。
2011年6月29日水曜日
原発対応「スポークスマン」愛の日々 経産省「美人職員」を弄ぶ「西山審議官」
「週刊新潮」6月23日発売号
・原発対応「スポークスマン」愛の日々 経産省「美人職員」を弄ぶ「西山審議官」
バーでキスを迫る? 西山審議官の意外な「不倫疑惑」
J-CASTニュース 6月23日(木)20時13分配信
西山英彦審議官(54)に、意外な「不倫疑惑」が発覚した。しかも、身近な人しか分からないような内容まで暴露されているのだ。
「最初の食事からいきなり手を握ってきた」「デートの回数は2010年11月が6回、12月が10回ほど」…。
■デート回数やバーでの親密ぶりまで
週刊新潮11年6月23日発売号では、こんな「経産省関係者」の証言内容がつづられている。それも、尾行していたかなどするのでなければ分からないほど、記述が詳細にわたっている。
経産省原子力安全・保安院の西山英彦審議官が、不倫相手とされる20代後半ぐらいの経産省「美人職員」と知り合ったのは、記事によると、1年以上前から。この女性が職場の人間関係の悩みを相談に乗ってもらっているうちに、西山氏と深い男女関係になったのだという。女性は独身だが、西山氏が妻子持ちのため、もしこれが事実なら不倫ということになる。
記事では、デート回数などのほか、バーなどでの親密ぶりまで書いている。
「事情通」によると、西山氏はカウンター席で女性の膝に手を乗せたり、キスを迫ったりしていた。さらに、「事情通」は、カラオケ店では、2人が決まってVIPルームに入っていたことまで明かしているのだ。
震災後は、6月17日深夜に久々に女性と会った。そして、ホテルのバーでデートし、帰り道で女性にキスをしたとしている。
西山氏は、新潮の直撃取材に答えており、2人でカラオケ店に行ったことやキスしたことについてはあいまいな答えをしているものの、深い男女関係については否定した。
■「特にあまりコメントすることはありません」
週刊誌報道については、2011年6月23日の原子力安全・保安院会見でも質問が出た。これに対し、西山英彦審議官は、事実関係については、「個人的なことでもあるのでコメントしない」としたものの、報道されたことを謝罪した。「私の至らなさ」として、「深く反省し、身を正して参りたい」と述べたのだ。
西山氏はまた、この問題で海江田万里経産相から厳重な注意を受けたことを明らかにした。そのうえで、「被災者の方のお気持ちなども踏まえて、事故の収束およびそれに関連する情報提供のために職務に当たりたい」と強調した。
西山氏は、東大法学部卒のキャリア官僚で、原発の技術的側面に通じているわけではないようだ。しかし、事故後に、別の審議官2人が次々に交代した後に、異例の抜てきを受けた。その忙しさの中で女性と度々会っていたという情報はないが、今後の待遇に影響が出かねないような事態になった。
西山氏に直接聞くと、「特にあまりコメントすることはありません」とだけ答えた。さらに質問を続けようとすると、「ちょっと忙しいので、これで失礼します」と言って電話を切ってしまった。
・原発対応「スポークスマン」愛の日々 経産省「美人職員」を弄ぶ「西山審議官」
バーでキスを迫る? 西山審議官の意外な「不倫疑惑」
J-CASTニュース 6月23日(木)20時13分配信
西山英彦審議官(54)に、意外な「不倫疑惑」が発覚した。しかも、身近な人しか分からないような内容まで暴露されているのだ。
「最初の食事からいきなり手を握ってきた」「デートの回数は2010年11月が6回、12月が10回ほど」…。
■デート回数やバーでの親密ぶりまで
週刊新潮11年6月23日発売号では、こんな「経産省関係者」の証言内容がつづられている。それも、尾行していたかなどするのでなければ分からないほど、記述が詳細にわたっている。
経産省原子力安全・保安院の西山英彦審議官が、不倫相手とされる20代後半ぐらいの経産省「美人職員」と知り合ったのは、記事によると、1年以上前から。この女性が職場の人間関係の悩みを相談に乗ってもらっているうちに、西山氏と深い男女関係になったのだという。女性は独身だが、西山氏が妻子持ちのため、もしこれが事実なら不倫ということになる。
記事では、デート回数などのほか、バーなどでの親密ぶりまで書いている。
「事情通」によると、西山氏はカウンター席で女性の膝に手を乗せたり、キスを迫ったりしていた。さらに、「事情通」は、カラオケ店では、2人が決まってVIPルームに入っていたことまで明かしているのだ。
震災後は、6月17日深夜に久々に女性と会った。そして、ホテルのバーでデートし、帰り道で女性にキスをしたとしている。
西山氏は、新潮の直撃取材に答えており、2人でカラオケ店に行ったことやキスしたことについてはあいまいな答えをしているものの、深い男女関係については否定した。
■「特にあまりコメントすることはありません」
週刊誌報道については、2011年6月23日の原子力安全・保安院会見でも質問が出た。これに対し、西山英彦審議官は、事実関係については、「個人的なことでもあるのでコメントしない」としたものの、報道されたことを謝罪した。「私の至らなさ」として、「深く反省し、身を正して参りたい」と述べたのだ。
西山氏はまた、この問題で海江田万里経産相から厳重な注意を受けたことを明らかにした。そのうえで、「被災者の方のお気持ちなども踏まえて、事故の収束およびそれに関連する情報提供のために職務に当たりたい」と強調した。
西山氏は、東大法学部卒のキャリア官僚で、原発の技術的側面に通じているわけではないようだ。しかし、事故後に、別の審議官2人が次々に交代した後に、異例の抜てきを受けた。その忙しさの中で女性と度々会っていたという情報はないが、今後の待遇に影響が出かねないような事態になった。
西山氏に直接聞くと、「特にあまりコメントすることはありません」とだけ答えた。さらに質問を続けようとすると、「ちょっと忙しいので、これで失礼します」と言って電話を切ってしまった。
2011年6月26日日曜日
F1ヨーロッパGP 土曜日
2011年6月26日
ポールポジションはもはや当たり前のようにレッドブルのベッテル。何と今季8戦中7度目、しかも2位のチームメイトのウェバーにコンマ4秒の差を付けてと、スピード・キングぶりを見せつける。
手がつけられないといってもいいだろう、それほど今のベッテルは絶好調に見える。このままでは1992年のマンセルとウイリアムズの再来となるかもしれない…
この年、マンセルは開幕から5連勝を挙げ、更に第8戦フランスGPから第10戦のドイツGPまで、3連勝を重ね、第11戦のハンガリーGPでタイトルを決めた。結果的には16戦中14回のポールポジション、更にポール・トゥ・ウィンで年間9勝と凄まじい記録を打ち立てた。そしてこの時にドライブしていたFW14Bこそが現在のレッドブルレーシングのデザイナーであるエイドリアン・ニューウェイの作品でもあった。
空力の天才、空力の申し子などと比喩されるが、革新的なシェイプやデザイン、テクノロジーを進んで採用し、非力なマシンでトップチームと互角に戦えうるマシンを生み出してきた。
2006年にマクラーレンからレッドブルへ移籍をし、「RB2」をデビューさせ、現在の最速マシン「RB7」へと進化を遂げさせたのは彼の力だ。
昨年初タイトルを穫ったベッテルも、契約更新にはチームに対しニューウェイとチームの契約継続を条件にしていたほどだ。
現在のレギュレーションではエンジンの開発競争は押さえられ、エンジン・パワー以外の要素で相手チームに差を付けるにはマシンの空力バランスがどれだけ重要かということの証明でもある。空力的に優れたマシンと速いドライバー、その意味においては現在のレッドブルのパッケージは最強と言えるだろう。
そして今回の予選結果からも判るが、勢力図としてはレッドブルを先頭にマクラーレン、フェラーリ、メルセデスの4強(あるいは3強+1)が中心になってレースは展開されていて、それ以外のチームにとって優勝は現実的ではないだろう。
そう思うとやはりBクラスといえるザウバーの非力なマシンでポイントをキッチリと稼いでいる、小林可夢偉の存在がより一層、輝いて見えてくるのだが…しかしこのコースでの昨年の快走ぶりは忘れ難いが、現実的に予選の段階までを見る限りでは、厳しいとしかいいようがない。ただ、レースとなれば何が起きても不思議ではないのも事実だ。実際に前戦のカナダGPのようなこともあり得ない訳ではないのだが、最終的に1ポイントでも加算できれば最高のリザルトと言えるが、そこは可夢偉に期待を寄せる僕らとしては、「何か」を期待せずにはいられない。
ポールポジションはもはや当たり前のようにレッドブルのベッテル。何と今季8戦中7度目、しかも2位のチームメイトのウェバーにコンマ4秒の差を付けてと、スピード・キングぶりを見せつける。
手がつけられないといってもいいだろう、それほど今のベッテルは絶好調に見える。このままでは1992年のマンセルとウイリアムズの再来となるかもしれない…
この年、マンセルは開幕から5連勝を挙げ、更に第8戦フランスGPから第10戦のドイツGPまで、3連勝を重ね、第11戦のハンガリーGPでタイトルを決めた。結果的には16戦中14回のポールポジション、更にポール・トゥ・ウィンで年間9勝と凄まじい記録を打ち立てた。そしてこの時にドライブしていたFW14Bこそが現在のレッドブルレーシングのデザイナーであるエイドリアン・ニューウェイの作品でもあった。
空力の天才、空力の申し子などと比喩されるが、革新的なシェイプやデザイン、テクノロジーを進んで採用し、非力なマシンでトップチームと互角に戦えうるマシンを生み出してきた。
2006年にマクラーレンからレッドブルへ移籍をし、「RB2」をデビューさせ、現在の最速マシン「RB7」へと進化を遂げさせたのは彼の力だ。
昨年初タイトルを穫ったベッテルも、契約更新にはチームに対しニューウェイとチームの契約継続を条件にしていたほどだ。
現在のレギュレーションではエンジンの開発競争は押さえられ、エンジン・パワー以外の要素で相手チームに差を付けるにはマシンの空力バランスがどれだけ重要かということの証明でもある。空力的に優れたマシンと速いドライバー、その意味においては現在のレッドブルのパッケージは最強と言えるだろう。
そして今回の予選結果からも判るが、勢力図としてはレッドブルを先頭にマクラーレン、フェラーリ、メルセデスの4強(あるいは3強+1)が中心になってレースは展開されていて、それ以外のチームにとって優勝は現実的ではないだろう。
そう思うとやはりBクラスといえるザウバーの非力なマシンでポイントをキッチリと稼いでいる、小林可夢偉の存在がより一層、輝いて見えてくるのだが…しかしこのコースでの昨年の快走ぶりは忘れ難いが、現実的に予選の段階までを見る限りでは、厳しいとしかいいようがない。ただ、レースとなれば何が起きても不思議ではないのも事実だ。実際に前戦のカナダGPのようなこともあり得ない訳ではないのだが、最終的に1ポイントでも加算できれば最高のリザルトと言えるが、そこは可夢偉に期待を寄せる僕らとしては、「何か」を期待せずにはいられない。
【ヒゲの隊長・佐藤正久議員が語る】「自衛隊はスーパーマンじゃない」被災地で活躍する自衛隊員の知られざる苦労
【ヒゲの隊長・佐藤正久議員が語る】
「自衛隊はスーパーマンじゃない」被災地で活躍する自衛隊員の知られざる苦労
(日刊サイゾー - 06月26日 08:30)
『ありがとう自衛隊 ~ヒゲの隊長が綴る日本再興奮闘記~』(ワニブックスPLUS新書)
参議院議員・佐藤正久
――今回の震災における自衛隊の活動で、一番印象に残っているものはどのようなものですか?
「行方不明者の捜索ですね。この任務は、生存率が大きく下がる最初の72時間が勝負と言われます。震災発生当初はガソリンも供給できず、水や食料も届かないという状況の中で自衛隊が活躍をしました。自衛隊は自己完結性を持った組織のため、食事も風呂もガソリンもすべて自ら賄うことができ、備蓄もある。ただ、今回の震災では被災地域が広範囲に渡り、当初は自衛隊でも物資が足りませんでした。ご遺体を発見してもそれを運ぶ担架すら不足しており、ご遺体を背中に背負って運んだり、ゴム長などもないので、カッパを上から着ただけの状態で海水の中に入っていったりしていました。瓦礫で傷んでしまったご遺体の中には手足がなかったり顔がつぶれていたり、とくに津波では服が脱げてしまうため、裸のご遺体もたくさんありました。そのため、泥だらけになったご遺体を洗ったりすることもあったんです。とても厳しい状況でしたが、そういったご遺体の回収作業ができるのは自衛隊しかいないわけですから、やるしかないんです」
――自衛隊の災害派遣部隊の活動というのは、まず行方不明者の捜索から始まるんですか?
「はい。最初は人命救助、捜索ですね。その際、ご遺体も見つかるわけですから、一番優先順位が高い。同時に後方部隊は食事や水の支援を行います。今回は東北地方に住んでいる500人以上の隊員に出動命令が出ましたが、自分の家族と連絡も取れないまま現地へ向かい、行方不明者の捜索、あるいは孤立者の救出といった任務にあたった隊員も数多くいました。実際に家族が亡くなったり、家が流された隊員もいます。でも、自衛隊員は自分の身内よりも一人でも多くの被災者を救い出し、少しでも早くご遺体を家族の元に戻す、という使命感を持っているんです」
――自衛隊では行方不明者の捜索や瓦礫撤去など、災害派遣のための特殊な訓練もされているのでしょうか?
「あくまで国防のための訓練であり、災害用の特別な訓練をしているわけではありません。訓練には精神面、肉体面、スキル面の3つがあります。まず、精神面は日ごろから鍛えておかないと、いざ任務にあたる時に心が折れてしまいますよね。今回、若い隊員の中にはご遺体を見たことがなかった者も多く、本当につらい状況だったと思います。さらに雪や雨が降る中、かん水しているところに入り捜索活動を行い、戦闘服は2着しかないので次の日もまた濡れた服を着ていかなければならない。食事も被災者の前で食べるわけにはいかないので、場合によってはご遺体を運んだ車の中で食べなければなりません。精神的な強さというのは、現状よりももっとつらい訓練の中で培っておかなけえれば絶対に耐えられるものではありません。
肉体的な強さについてもそうです。例えば30~50キロの重い荷物を背負いながら、100キロの道のりを歩くという訓練があります。実際の戦場では体力温存のため、そのような長距離を歩くことはありません。しかし、日ごろから訓練を行っていれば、いざという時に無理が利くようになるんです。
スキル面もすべて応用です。日ごろから組織として動くという訓練をしておくことによって現場でバラバラにならず、指揮官の命令一つでどのようにでも動ける。自衛隊というのは人数が十分ではないので、駐屯地ごとにそれぞれ専門部隊が分かれています。任務があると、それぞれの駐屯地から必要な隊員をつまみ出してプロジェクトチームをつくるんです。"ミッション・オリエンティッド"とよく言いますが、日ごろからそういう訓練をしておかないと、現場現場のニーズに対応できないんです」
――スキルといえば、今回は原子力災害派遣も行われましたが、原子力についても専門的な知識が必要とされると思います。そういった訓練もされているのでしょうか?
「一部の部隊はそういう知識を持っていますが、ほとんどの隊員は持っていません。ですから、今回も専門的な教育を受けた隊員がみんなに教育をしながら活動を行っています。自衛隊員と言っても、大多数の人は放射能や原子力のことまでは分かりませんから。ただやること自体は日ごろの国防の応用です。ヘリから原子炉への散水や、放射能除染もそうです」
――すべての訓練が応用として現場で生かされているんですね。しかし、そんな自衛隊員でも、精神的にまいってしまうこともあるともあるんじゃないですか?
先日、仙台に行ったときに、自衛隊員の人が「もうつらい」と漏らしていたという話を聞いたんですが。 「今までにないような経験をしていますからね。たとえば、ご遺体にまつわる話ですが、ご遺族の方から探してほしいと頼まれて沼地などにボートや、あるいは胸まで沼に浸かりながら自衛隊員が捜索します。ご遺族はその様子を周りで見ているわけです。ようやく見つかったときに、ご遺体が想像していない状態であっても、自衛隊員はご遺族との対面に立ち会うわけですよね。あるところでは、行方不明だった3歳の男の子のご遺体が自衛隊の捜索で見つかったんですが、ご遺体の状態は直視できるものではなかった。そのご遺体を遺体袋に入れて引き渡すときに、お母さんが『よかったね、自衛隊の人たちが助けてくれたよ。今度生まれ変わって大きくなったら自衛隊に入れてもらおうね』と泣きながら語りかけたそうです。自衛隊員たちはみんなで線香をあげて合掌し、見送ったりするわけですが、そういう場面に何度も立ち会わなければならない。自衛隊員たちにも家族がいるわけですから、やはりつらいものがあります」
――本書では災害現場での口内炎や便秘といった、自衛隊員の身体的な苦労も語られていますが、他にも病気などに罹ることはあるのでしょうか?
「自衛隊は大"痔"主と言われています。野外で用を足す場合が多いので、痔になりやすいんです。それと、水虫も多いですね。瓦礫を踏み抜かないようなブーツを履いているので足がやすいんです」
――佐藤議員も自衛官の時代はそういった悩みを抱えていたんですか?
「私は痔は大丈夫だったんですが、水虫は今でもダメですね(笑)。あんな水浸しのところを歩くんだから、直るはずがないですよ」
――自衛隊に対する特別手当が。わずか1,620円ということにも驚かされました。 「そこは言っても仕方がないことですが......。ただ、自衛隊員が一番求めているものは名誉と誇りです。被災者からの感謝の気持ちや、『生まれ変わったら自衛官になりたい』という言葉、それに天皇陛下からの頂いた感謝のお言葉......。自分の身を犠牲にしてでも国のためにというのが自衛隊員の精神的な軸になっています。その見返りはお金ではなく、名誉と誇りなんです」
――震災から3カ月が経過しました。今後、自衛隊はどのような活動を行っていくのでしょうか?
「災害派遣の現場では、行方不明者の捜索は一段落するでしょう。しかし、仮設住宅ができるまでは引き続き生活支援、つまり水と食事の支援が求められます。また、いまだに続く福島第一原発事故でもモニタリングや除染などの活動が続いていきます。現場から離れたところでは、今回の災害派遣を踏まえた教訓づくりが行われます。今回の教訓事項を洗い出し、次に反映させる。首都直下型地震や東海、東南海地震などが発生した場合に備え、準備を進めていきます」
――復旧活動を通して、あらためて自衛隊の活躍がクローズアップされています。この状況をどのようにご覧になりますか?
「震災の直後から多くの方々を救出し、ご遺体の捜索にあたるなど大活躍する自衛隊の姿は誇らしく感じています。しかし一方で、自衛隊に対して間違ったイメージを持っている人も多くなっていると思いますね。自衛隊を『災害派遣部隊』と見ている人や、災害派遣専用の部隊として強化すべきじゃないかという議論も出てきています」 ――「自衛隊の本来の活動」とはどのようなものでしょう? 「自衛隊の任務には国際貢献や災害派遣もありますが、あくまでも『国防』が中心の軸です。その応用で国際貢献や災害派遣などが可能になるわけで、そちらが中心になってしまったら間違いなく"弱い"自衛隊になってしまうでしょうね」
――最後に、現地で活躍する自衛隊員にメッセージはありますか?
「参加されている隊員の方々の汗と想いが被災者の希望になり、安心の糧になります。だから最後まで力と汗を振り絞って活動していただきたいですね」 (取材・文=萩原雄太[かもめマシーン])
「自衛隊はスーパーマンじゃない」被災地で活躍する自衛隊員の知られざる苦労
(日刊サイゾー - 06月26日 08:30)
『ありがとう自衛隊 ~ヒゲの隊長が綴る日本再興奮闘記~』(ワニブックスPLUS新書)
参議院議員・佐藤正久
――今回の震災における自衛隊の活動で、一番印象に残っているものはどのようなものですか?
「行方不明者の捜索ですね。この任務は、生存率が大きく下がる最初の72時間が勝負と言われます。震災発生当初はガソリンも供給できず、水や食料も届かないという状況の中で自衛隊が活躍をしました。自衛隊は自己完結性を持った組織のため、食事も風呂もガソリンもすべて自ら賄うことができ、備蓄もある。ただ、今回の震災では被災地域が広範囲に渡り、当初は自衛隊でも物資が足りませんでした。ご遺体を発見してもそれを運ぶ担架すら不足しており、ご遺体を背中に背負って運んだり、ゴム長などもないので、カッパを上から着ただけの状態で海水の中に入っていったりしていました。瓦礫で傷んでしまったご遺体の中には手足がなかったり顔がつぶれていたり、とくに津波では服が脱げてしまうため、裸のご遺体もたくさんありました。そのため、泥だらけになったご遺体を洗ったりすることもあったんです。とても厳しい状況でしたが、そういったご遺体の回収作業ができるのは自衛隊しかいないわけですから、やるしかないんです」
――自衛隊の災害派遣部隊の活動というのは、まず行方不明者の捜索から始まるんですか?
「はい。最初は人命救助、捜索ですね。その際、ご遺体も見つかるわけですから、一番優先順位が高い。同時に後方部隊は食事や水の支援を行います。今回は東北地方に住んでいる500人以上の隊員に出動命令が出ましたが、自分の家族と連絡も取れないまま現地へ向かい、行方不明者の捜索、あるいは孤立者の救出といった任務にあたった隊員も数多くいました。実際に家族が亡くなったり、家が流された隊員もいます。でも、自衛隊員は自分の身内よりも一人でも多くの被災者を救い出し、少しでも早くご遺体を家族の元に戻す、という使命感を持っているんです」
――自衛隊では行方不明者の捜索や瓦礫撤去など、災害派遣のための特殊な訓練もされているのでしょうか?
「あくまで国防のための訓練であり、災害用の特別な訓練をしているわけではありません。訓練には精神面、肉体面、スキル面の3つがあります。まず、精神面は日ごろから鍛えておかないと、いざ任務にあたる時に心が折れてしまいますよね。今回、若い隊員の中にはご遺体を見たことがなかった者も多く、本当につらい状況だったと思います。さらに雪や雨が降る中、かん水しているところに入り捜索活動を行い、戦闘服は2着しかないので次の日もまた濡れた服を着ていかなければならない。食事も被災者の前で食べるわけにはいかないので、場合によってはご遺体を運んだ車の中で食べなければなりません。精神的な強さというのは、現状よりももっとつらい訓練の中で培っておかなけえれば絶対に耐えられるものではありません。
肉体的な強さについてもそうです。例えば30~50キロの重い荷物を背負いながら、100キロの道のりを歩くという訓練があります。実際の戦場では体力温存のため、そのような長距離を歩くことはありません。しかし、日ごろから訓練を行っていれば、いざという時に無理が利くようになるんです。
スキル面もすべて応用です。日ごろから組織として動くという訓練をしておくことによって現場でバラバラにならず、指揮官の命令一つでどのようにでも動ける。自衛隊というのは人数が十分ではないので、駐屯地ごとにそれぞれ専門部隊が分かれています。任務があると、それぞれの駐屯地から必要な隊員をつまみ出してプロジェクトチームをつくるんです。"ミッション・オリエンティッド"とよく言いますが、日ごろからそういう訓練をしておかないと、現場現場のニーズに対応できないんです」
――スキルといえば、今回は原子力災害派遣も行われましたが、原子力についても専門的な知識が必要とされると思います。そういった訓練もされているのでしょうか?
「一部の部隊はそういう知識を持っていますが、ほとんどの隊員は持っていません。ですから、今回も専門的な教育を受けた隊員がみんなに教育をしながら活動を行っています。自衛隊員と言っても、大多数の人は放射能や原子力のことまでは分かりませんから。ただやること自体は日ごろの国防の応用です。ヘリから原子炉への散水や、放射能除染もそうです」
――すべての訓練が応用として現場で生かされているんですね。しかし、そんな自衛隊員でも、精神的にまいってしまうこともあるともあるんじゃないですか?
先日、仙台に行ったときに、自衛隊員の人が「もうつらい」と漏らしていたという話を聞いたんですが。 「今までにないような経験をしていますからね。たとえば、ご遺体にまつわる話ですが、ご遺族の方から探してほしいと頼まれて沼地などにボートや、あるいは胸まで沼に浸かりながら自衛隊員が捜索します。ご遺族はその様子を周りで見ているわけです。ようやく見つかったときに、ご遺体が想像していない状態であっても、自衛隊員はご遺族との対面に立ち会うわけですよね。あるところでは、行方不明だった3歳の男の子のご遺体が自衛隊の捜索で見つかったんですが、ご遺体の状態は直視できるものではなかった。そのご遺体を遺体袋に入れて引き渡すときに、お母さんが『よかったね、自衛隊の人たちが助けてくれたよ。今度生まれ変わって大きくなったら自衛隊に入れてもらおうね』と泣きながら語りかけたそうです。自衛隊員たちはみんなで線香をあげて合掌し、見送ったりするわけですが、そういう場面に何度も立ち会わなければならない。自衛隊員たちにも家族がいるわけですから、やはりつらいものがあります」
――本書では災害現場での口内炎や便秘といった、自衛隊員の身体的な苦労も語られていますが、他にも病気などに罹ることはあるのでしょうか?
「自衛隊は大"痔"主と言われています。野外で用を足す場合が多いので、痔になりやすいんです。それと、水虫も多いですね。瓦礫を踏み抜かないようなブーツを履いているので足がやすいんです」
――佐藤議員も自衛官の時代はそういった悩みを抱えていたんですか?
「私は痔は大丈夫だったんですが、水虫は今でもダメですね(笑)。あんな水浸しのところを歩くんだから、直るはずがないですよ」
――自衛隊に対する特別手当が。わずか1,620円ということにも驚かされました。 「そこは言っても仕方がないことですが......。ただ、自衛隊員が一番求めているものは名誉と誇りです。被災者からの感謝の気持ちや、『生まれ変わったら自衛官になりたい』という言葉、それに天皇陛下からの頂いた感謝のお言葉......。自分の身を犠牲にしてでも国のためにというのが自衛隊員の精神的な軸になっています。その見返りはお金ではなく、名誉と誇りなんです」
――震災から3カ月が経過しました。今後、自衛隊はどのような活動を行っていくのでしょうか?
「災害派遣の現場では、行方不明者の捜索は一段落するでしょう。しかし、仮設住宅ができるまでは引き続き生活支援、つまり水と食事の支援が求められます。また、いまだに続く福島第一原発事故でもモニタリングや除染などの活動が続いていきます。現場から離れたところでは、今回の災害派遣を踏まえた教訓づくりが行われます。今回の教訓事項を洗い出し、次に反映させる。首都直下型地震や東海、東南海地震などが発生した場合に備え、準備を進めていきます」
――復旧活動を通して、あらためて自衛隊の活躍がクローズアップされています。この状況をどのようにご覧になりますか?
「震災の直後から多くの方々を救出し、ご遺体の捜索にあたるなど大活躍する自衛隊の姿は誇らしく感じています。しかし一方で、自衛隊に対して間違ったイメージを持っている人も多くなっていると思いますね。自衛隊を『災害派遣部隊』と見ている人や、災害派遣専用の部隊として強化すべきじゃないかという議論も出てきています」 ――「自衛隊の本来の活動」とはどのようなものでしょう? 「自衛隊の任務には国際貢献や災害派遣もありますが、あくまでも『国防』が中心の軸です。その応用で国際貢献や災害派遣などが可能になるわけで、そちらが中心になってしまったら間違いなく"弱い"自衛隊になってしまうでしょうね」
――最後に、現地で活躍する自衛隊員にメッセージはありますか?
「参加されている隊員の方々の汗と想いが被災者の希望になり、安心の糧になります。だから最後まで力と汗を振り絞って活動していただきたいですね」 (取材・文=萩原雄太[かもめマシーン])
2011年6月25日土曜日
2011年6月24日金曜日
アンダルシア州(Andalucía)
アンダルシア州(Andalucía)
州都は、セビリア。自治州政府はフンタ・デ・アンダルシーア(Junta de Andalucía)。
気候は典型的な地中海性気候で、夏はまばゆい太陽が輝き暑い。雨はあまり降らない。
歴史
グアダルキビール川の河口にあった都市タルテッソスは、紀元前1000年にまでさかのぼる。この都市は強大なタルテッソス文明を築き、聖書では「タルシシュ(Tarshish)」の名前で知られている。紀元前2世紀、古代ローマに支配され、属州ヒスパニア・バエティカが置かれた。
5世紀になると一時期ゲルマン系のヴァンダル族がこの地を支配し、「Vandalicia(ヴァンダル人の国)」が「アンダルシア」の語源となった[2]。
西ゴート王国による支配のあと、711年にウマイヤ朝に征服され、アラビア語でアル・アンダルスと呼ばれるようになった。後ウマイヤ朝が都を置いたコルドバは、西方イスラムの経済文化の中心地として繁栄した。アンダルシアの文化は、8世紀にわたるイスラム支配の影響を色濃く残している。
13世紀にはレコンキスタによってキリスト教諸国による征服が進み、グラナダを都とするナスル朝だけが最後のイスラム王朝として200年間生き残った。1492年にはグラナダが陥落し、スペイン王国に統一された。
16世紀から17世紀にかけて、セビリアはアメリカ州にあるスペインの植民地への出発地となったため、現在アメリカに住むスペイン語話者は、標準的なスペイン語であるカスティーリャ語ではなく、アンダルシア方言を話す人が多い。
アンダルシアは先史時代からローマ時代、イスラム時代を通じてイベリア半島の先進地域であった。しかし、レコンキスタの過程で大土地所有制が広がり、新大陸との貿易で繁栄したセビリアを除き、スペインでも貧しい地方の一つとなった。20世紀の自治州成立後は、観光業の発展とともに、政府やEUからの援助金、高速鉄道AVEの開業、セビリア万博の開催などによりてこ入れが図られている[2]。
観光と世界遺産
アンダルシア州にはイスラム支配期の文化を伝える史跡が数多く残り、観光名所となっている。グラナダのアルハンブラ宮殿、コルドバのメスキータやメディナ・アサーラ、セビリャの黄金の塔やヒラルダの塔などがある。
マラガ県の地中海沿岸コスタ・デル・ソルは一大リゾート地となっており、イギリスやドイツなどヨーロッパ北部から多くの観光客を集めている。
アンダルシア州でユネスコの世界遺産に登録されている物件には次のものがある。
コルドバ歴史地区
グラナダのアルハンブラ、ヘネラリーフェ、アルバイシン
セビリア大聖堂、アルカサル、インディアス古文書館
ドニャーナ国立公園
ウベダとバエサのルネサンス建築
州都は、セビリア。自治州政府はフンタ・デ・アンダルシーア(Junta de Andalucía)。
気候は典型的な地中海性気候で、夏はまばゆい太陽が輝き暑い。雨はあまり降らない。
歴史
グアダルキビール川の河口にあった都市タルテッソスは、紀元前1000年にまでさかのぼる。この都市は強大なタルテッソス文明を築き、聖書では「タルシシュ(Tarshish)」の名前で知られている。紀元前2世紀、古代ローマに支配され、属州ヒスパニア・バエティカが置かれた。
5世紀になると一時期ゲルマン系のヴァンダル族がこの地を支配し、「Vandalicia(ヴァンダル人の国)」が「アンダルシア」の語源となった[2]。
西ゴート王国による支配のあと、711年にウマイヤ朝に征服され、アラビア語でアル・アンダルスと呼ばれるようになった。後ウマイヤ朝が都を置いたコルドバは、西方イスラムの経済文化の中心地として繁栄した。アンダルシアの文化は、8世紀にわたるイスラム支配の影響を色濃く残している。
13世紀にはレコンキスタによってキリスト教諸国による征服が進み、グラナダを都とするナスル朝だけが最後のイスラム王朝として200年間生き残った。1492年にはグラナダが陥落し、スペイン王国に統一された。
16世紀から17世紀にかけて、セビリアはアメリカ州にあるスペインの植民地への出発地となったため、現在アメリカに住むスペイン語話者は、標準的なスペイン語であるカスティーリャ語ではなく、アンダルシア方言を話す人が多い。
アンダルシアは先史時代からローマ時代、イスラム時代を通じてイベリア半島の先進地域であった。しかし、レコンキスタの過程で大土地所有制が広がり、新大陸との貿易で繁栄したセビリアを除き、スペインでも貧しい地方の一つとなった。20世紀の自治州成立後は、観光業の発展とともに、政府やEUからの援助金、高速鉄道AVEの開業、セビリア万博の開催などによりてこ入れが図られている[2]。
観光と世界遺産
アンダルシア州にはイスラム支配期の文化を伝える史跡が数多く残り、観光名所となっている。グラナダのアルハンブラ宮殿、コルドバのメスキータやメディナ・アサーラ、セビリャの黄金の塔やヒラルダの塔などがある。
マラガ県の地中海沿岸コスタ・デル・ソルは一大リゾート地となっており、イギリスやドイツなどヨーロッパ北部から多くの観光客を集めている。
アンダルシア州でユネスコの世界遺産に登録されている物件には次のものがある。
コルドバ歴史地区
グラナダのアルハンブラ、ヘネラリーフェ、アルバイシン
セビリア大聖堂、アルカサル、インディアス古文書館
ドニャーナ国立公園
ウベダとバエサのルネサンス建築
アマルフィ (Amalfi)
イタリア共和国カンパニア州のコムーネ(都市)。人口5,353人(2009年1月現在)。
ソレント半島の南東、サレルノ湾に面するアマルフィ海岸の中心地
周囲を断崖絶壁の海岸に囲まれ、小湾の奥に位置する小規模な浜に作られた港から、断崖上に向かって形成されている街である。アマルフィ海岸は、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。
歴史
「アマルフィ公国」も参照
その起源は古代ローマ時代にまで遡る。海洋に面し、かつ複雑な地形に囲まれており、外敵の侵入を撃退するのに適していた。
839年、ナポリ公国から独立を宣言してアマルフィ公国となり、イスラーム勢力との抗争のなかで、徐々に勢力を拡大させていった。
872年にはサン・サルヴァトーレ島を守っていたイスラーム軍を海戦で撃破、この功績で東ローマ帝国からカプリ島を譲渡された。
ただし、イスラーム勢力と対立しただけでなく、商業上の利益から同盟を結ぶこともみられた。アマルフィは、その後も公国の首都、貿易の拠点として発展し、一時はピサやヴェネツィアやジェノヴァと地中海の覇権を争い、黒海にも商業活動を広げた。例えば、現ウクライナの都市セヴァストポリに、アマルフィの港の跡が残されている。
アマルフィの人々は、航海に関する法典である「アマルフィ海法」を作成した。
これが様々な海洋に関する法典の雛形となり、17世紀まで影響を持った。
また、中国からイスラーム世界に伝わった製紙法がシチリア島経由でもたらされ、13世紀には製紙産業が勃興していた。
アマルフィの最盛期は11世紀に達成され、その後急速に衰退した。
1131年にはノルマン人による征服、1135年、1137年はピサによる略奪、そして1343年での嵐によって都市の大部分が破壊された。
観光
狭い土地を有効活用するため、アーチの上に家を建て、上へ上へと建て増したため、断崖にへばりつくように建物が密集している。外敵の侵入を妨げる為もあって階段で出来た路地が複雑に入り組んでいる。
アマルフィの代表的な建造物として、アラブ=シチリア様式の大聖堂がある。
11世紀に建造が始まり、雄大な正面(ファサード)、1066年にコンスタンティノープルで作られた青銅製の扉、そして13世紀の美しい「天国の回廊(Chiostro del Paradiso)」など、特徴的な多くの追加工事が継続して行われた。
特産品はリモンチェッロと手漉き紙。リモンチェッロの原料にはこの地方特産のレモンが用いられる。今でもアマルフィの急斜面にはところどころレモン畑がある。手漉き紙はイタリア半島で最初に製紙法が伝わった場所であり、紙漉きに必要な清流が存在したことから発達した。
ソレント半島の南東、サレルノ湾に面するアマルフィ海岸の中心地
周囲を断崖絶壁の海岸に囲まれ、小湾の奥に位置する小規模な浜に作られた港から、断崖上に向かって形成されている街である。アマルフィ海岸は、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。
歴史
「アマルフィ公国」も参照
その起源は古代ローマ時代にまで遡る。海洋に面し、かつ複雑な地形に囲まれており、外敵の侵入を撃退するのに適していた。
839年、ナポリ公国から独立を宣言してアマルフィ公国となり、イスラーム勢力との抗争のなかで、徐々に勢力を拡大させていった。
872年にはサン・サルヴァトーレ島を守っていたイスラーム軍を海戦で撃破、この功績で東ローマ帝国からカプリ島を譲渡された。
ただし、イスラーム勢力と対立しただけでなく、商業上の利益から同盟を結ぶこともみられた。アマルフィは、その後も公国の首都、貿易の拠点として発展し、一時はピサやヴェネツィアやジェノヴァと地中海の覇権を争い、黒海にも商業活動を広げた。例えば、現ウクライナの都市セヴァストポリに、アマルフィの港の跡が残されている。
アマルフィの人々は、航海に関する法典である「アマルフィ海法」を作成した。
これが様々な海洋に関する法典の雛形となり、17世紀まで影響を持った。
また、中国からイスラーム世界に伝わった製紙法がシチリア島経由でもたらされ、13世紀には製紙産業が勃興していた。
アマルフィの最盛期は11世紀に達成され、その後急速に衰退した。
1131年にはノルマン人による征服、1135年、1137年はピサによる略奪、そして1343年での嵐によって都市の大部分が破壊された。
観光
狭い土地を有効活用するため、アーチの上に家を建て、上へ上へと建て増したため、断崖にへばりつくように建物が密集している。外敵の侵入を妨げる為もあって階段で出来た路地が複雑に入り組んでいる。
アマルフィの代表的な建造物として、アラブ=シチリア様式の大聖堂がある。
11世紀に建造が始まり、雄大な正面(ファサード)、1066年にコンスタンティノープルで作られた青銅製の扉、そして13世紀の美しい「天国の回廊(Chiostro del Paradiso)」など、特徴的な多くの追加工事が継続して行われた。
特産品はリモンチェッロと手漉き紙。リモンチェッロの原料にはこの地方特産のレモンが用いられる。今でもアマルフィの急斜面にはところどころレモン畑がある。手漉き紙はイタリア半島で最初に製紙法が伝わった場所であり、紙漉きに必要な清流が存在したことから発達した。
中国共産党政権はどこまで腐敗しているか(7)―官僚の「愛人囲み」で見る
中国共産党政権はどこまで腐敗しているか(7)―官僚の「愛人囲み」で見る
【コラム】 2011/06/24(金) 08:16
中国ではかなり昔から、「男人有銭就変壊、女人変壊就有銭」という諺が流行っている。その意味は、男性はカネがあれば悪い男になるが、女性は悪い女になればカネがあるといったところだ。いずれもカネと男女関係との関連性を皮肉っている表現である。
この諺は近年、その信ぴょう性が新たな事実に裏付けられている。というのは、腐敗汚職に手を染めた官僚はほとんど「愛人」問題を抱える。贅沢に愛人を囲う費用を捻出するため、賄賂や公金に手をつけることが背景にあるが、逆に「愛人」に逆襲され、政治生命や自分の命を葬られてしまう官僚も多くいた。腐敗汚職の摘発が愛人からの告発が多いということから「金の切れ目は縁の切れ目」ということだろうか。誠に恐ろしい現実である。
2010年2月、新華通信社傘下の「瞭望新聞週刊」は、「最近の政府高官の失脚は、大部分が“生活腐敗”であり、高官の私生活がすでに中国政府の汚職撲滅の重要な監視対象の一つになった」などを趣旨とする論説を発表、中国新聞社が24日、これをウェブサイトに転載し配信した。
それによれば、中国は建国以来、正しい「生活スタイル」が高官に求められる基本素養だった、と指摘。「しかし、ここ数年、多くの政府高官は“政治的成績を求めて英雄を語る”ようになっており、私生活面では有効な監督機能が失われ、一部高官は愛人を囲う、重婚、女遊び、芸者遊びなどなど自堕落な生活に陥っている」とした。
また、中国政府系メディアによると、調査・処分を受けた「腐敗幹部」の95%に「愛人」がいる(『人民論壇』2010年8月23日付)。なぜ「95%」か。一説によると、残りの5%は女性幹部ではないかとされ、男性の貪官には100%愛人がいたということになる。
ある弁護士が関与した20人あまりの腐敗案件では愛人を囲っていないケースはなかったという。官僚のなかには、公然と愛人を宴会や公共の場所に同行させる者もいる。
20数人の愛人を一同に集めた宴会を開いていたケース、140人余もの愛人をMBA(経営学修士号)の知識を使った方法で“管理”していた腐敗官僚もいたとインターネットでは指摘されている。
関係筋によると、2006年上海市大型汚職事件の渦中の人物、前市共産党委員会書記・陳良宇にも複数の愛人がいたとされるほか、北京市の前副市長・劉志華、前国家統計局長・邱暁華も愛人がいた。
劉志華の「悲劇」は2006年に発生したもの。
劉はオリンピックがらみで多くの建設計画があった北京市のインフラ整備の責任者で、地位を利用して工事の発注に絡み600万元もの巨額のカネを不正に受け取った。劉には多くの愛人がおり、うち一人は建設会社の法定代表人だった。この建設会社が国家テニスセンターや、ホッケーやアーチェリーの会場建設の工事を受注したことも、劉の地位を利用したものだったとされている。これらの不祥事が明るみに出たのは、愛人が政府当局に送った1本のビデオテープが発端だったという。
その後の調べで、劉が北京市郊外に豪華な別荘を建てていたことも分かった。全部でなんと150部屋あり、内部の装飾などは高級ホテル並みの豪華なものだったという。劉は愛人の一人を「支配人」にして、別荘の切り盛りを任せていた。
劉の「恥部」を暴露したあの1本のビデオテープでは、劉が愛人の一人に「サービス」をさせる様子が約60分にわたり記録されていた。愛人は約束の「報酬」がもらえないことで腹を立て、密かに撮影したテープを当局に送りつけたという。
2006年6月、劉は生活上の堕落などで共産党員の資格を剥奪、公職を解任された。同年12月、劉は汚職で逮捕され、09年1月に死刑、執行猶予2年の判決を受けた。
官僚が不正に集めたカネで愛人を囲み、愛人の欲求を十分に満たせなかったことで愛人に裏切られてしまう。このようなパターンはすでに一般化しており、劉の前にもあったし、その後も数多く発生している。
日本でもごく稀なケースだが女性問題のスキャンダルによって短期間で辞職した首相がいたが、中国では日本のようにマスコミの力が強くなく、内部告発で発覚するようである。
ここで言っている内部告発とは、愛人からの告発もあれば、正妻(場合によって子女)からの告発もある。
江蘇省徐州市泉山区の元共産党委員会書記・董峰は多くの愛人がいたことから、「一夫多妻書記」などと呼ばれていた。しかし、この「一夫多妻書記」は08年11月28日に収賄の容疑で徐州市中級人民法院(地裁)から起訴された。
董には5人の愛人がおり、うち少なくとも2人との間には子をもうけていたとされる。董には、本人と愛人の名義で282万元の賄賂を受け取っていた疑いが持たれている。また、地位を利用してマンション3軒を不正に安く購入した疑いもあるという。董の愛人問題と収賄が発覚したのは、妻の告発だった。
共産党・政府の幹部に対する「反腐敗運動」を推進している中国鉱業大学の王培栄副教授が董妻の協力者となり08年7月、個人ブログに「全国で最も荒淫無恥な区委員会書記、全国で最も猛々しい暗黒勢力」などと題する記事の連載を始めた。同ブログでは、董が長年にわたり妻と愛人一人と同居させ、「3人が同ベッドを使うことを強要し続けた」などとして私生活も暴露した。
愛人を家に連れ込み、妻に同ベッドの使用を強要することでもっと痛い目に遭わされた男もいた。
2009年7月28日付「広州日報」によると、広東省東莞市第一法院(地裁)は27日、「夫の局部をはさみで切断し、障害が残る傷を負わせた」として37歳の女性に懲役10年の有罪判決を言い渡した。
夫は08年12月、「好きな女性ができた。彼女は結婚にこだわっていない。この家で一緒に住みたいと言っている」と妻に告げた。言い争いになったが、夫は強引に愛人を家に連れてきた。中国の家庭では、夫婦がダブルベッドを使うことが一般的だが、夫は愛人も同じベッドを使わせた。妻がいる場で、性行為をすることもしばしばだったという。
たまりかねた妻はたびたび離婚を申し出たが、夫は受けつけず妻に暴力をふるった。26日午前、妻は雑貨店ではさみを購入し、夜になり熟睡していた夫の局部を一気に切り落とした。大量の血を見て恐くなり、姉の家に逃げた。逃げる際、夫の局部は家の前の池に投げ捨てた。妻は翌日、警察に逮捕された。夫の命は助かったが、法医学鑑定で5級の障害が残ると判断された。
同記事を転載したインターネットメディア環球網のコメント欄では「死亡事故を起こしても懲役3年。判決は重すぎる」、「夫はけだものだ。当然の報い」、「男は罰せられないのか。有罪に決まっている」など、女性に同情する書き込みが多い。
このように愛人を囲むのは時には大きな代償を払う。官僚その人物をほんとうに愛する人もいるかもしれないが、たいてい官僚の権力や立場、金銭を目当てで近付くほうが多い。ある識者が指摘するように、愛人を囲んでしまうと、まるで暴れる馬の背中に乗ってしまった同然だ。馬の勢いに任せるか、馬の背中から落ちて大けがを被るか、選択肢は非常に限られている。そしていずれその先に破滅の運命が待っている。
官僚の愛人囲みと破滅との因果関係についてインターネットメディア南方報網の論説は次のように分析している。
まず、官僚は政府機関などに勤めて、「不正をしようと思えばできる」地位になるまでには少なくとも10年、または20年かかることが多い。すでに、かなりの年齢になっている。その時、若い女性が近づいてくれば、つい、「男としての自信」が蘇り、青春が戻ってきたような気分になるという。
一方、そのような男性に個人的に接近する女には、なんらかの「下心」があると考えてよい。双方がそれぞれの「欲望」により、あっという間に結びつくことになる。
腐敗汚職が発覚する官僚の多くは、年齢から言っても既婚者であることが一般的だ。若い愛人は経済面での欲望をむき出しにし始め、断ると怒る。せっかく手に入れた女を手放すのは、感情的にも難しい。妻以外の女性と関係を持ったことで、相手の女の出方によっては、汚職に手を染めなくとも、地位を失う可能性が高い。結局は、官僚が犯罪者に一転する(南方報網2010年1月28日付)。
事実、近年、愛人にせがまれてどんどん腐敗汚職の闇に飲まれていき、最終的に逮捕、懲役など処罰を受ける身になるようなケースは数多く報道されている。
2010年1月27日、広東省広州市中級法院(地裁)では増城市人民代表大会副主任(議会副議長相当)などを務めた邱カ勝被告に対する裁判が行われていた。邱は1950年生まれの59歳。地位を利用して、105万元を不正に入手したとして、収賄の疑いで逮捕された。
一方、自分にかけられた嫌疑について邱は、「もともと、不正などするつもりはなかった。愛人に迫られてやった。手に入れた105万元のうち、98万元はすべて愛人のものになった」と涙ながらに主張した(南方報網2010年1月28日付)。もちろん、愛人のせいとするのはただの言い訳。法廷で泣き叫んでも、女を罵倒しても、結局はすべて自分の責任。邱は懲役7年の判決を受けた。
「欲望横流」の中国。高度経済成長の恩恵に誰よりも浴している官僚たちはこれほどまでに人間の本能をむき出しにして政治や社会を汚す姿はまことに醜い。(執筆者:王文亮 金城学院大学教授 編集担当:サーチナ・メディア事業部)
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・中国共産党政権はどこまで腐敗しているか(3)―末端幹部の暴挙で見る(2011/04/07)
・中国共産党政権はどこまで腐敗しているか(2)―裁判の判決の結果で見る(2011/02/16)
・中国共産党政権はどこまで腐敗しているか(1)―一連の数字で見る(2011/02/11)
【コラム】 2011/06/24(金) 08:16
中国ではかなり昔から、「男人有銭就変壊、女人変壊就有銭」という諺が流行っている。その意味は、男性はカネがあれば悪い男になるが、女性は悪い女になればカネがあるといったところだ。いずれもカネと男女関係との関連性を皮肉っている表現である。
この諺は近年、その信ぴょう性が新たな事実に裏付けられている。というのは、腐敗汚職に手を染めた官僚はほとんど「愛人」問題を抱える。贅沢に愛人を囲う費用を捻出するため、賄賂や公金に手をつけることが背景にあるが、逆に「愛人」に逆襲され、政治生命や自分の命を葬られてしまう官僚も多くいた。腐敗汚職の摘発が愛人からの告発が多いということから「金の切れ目は縁の切れ目」ということだろうか。誠に恐ろしい現実である。
2010年2月、新華通信社傘下の「瞭望新聞週刊」は、「最近の政府高官の失脚は、大部分が“生活腐敗”であり、高官の私生活がすでに中国政府の汚職撲滅の重要な監視対象の一つになった」などを趣旨とする論説を発表、中国新聞社が24日、これをウェブサイトに転載し配信した。
それによれば、中国は建国以来、正しい「生活スタイル」が高官に求められる基本素養だった、と指摘。「しかし、ここ数年、多くの政府高官は“政治的成績を求めて英雄を語る”ようになっており、私生活面では有効な監督機能が失われ、一部高官は愛人を囲う、重婚、女遊び、芸者遊びなどなど自堕落な生活に陥っている」とした。
また、中国政府系メディアによると、調査・処分を受けた「腐敗幹部」の95%に「愛人」がいる(『人民論壇』2010年8月23日付)。なぜ「95%」か。一説によると、残りの5%は女性幹部ではないかとされ、男性の貪官には100%愛人がいたということになる。
ある弁護士が関与した20人あまりの腐敗案件では愛人を囲っていないケースはなかったという。官僚のなかには、公然と愛人を宴会や公共の場所に同行させる者もいる。
20数人の愛人を一同に集めた宴会を開いていたケース、140人余もの愛人をMBA(経営学修士号)の知識を使った方法で“管理”していた腐敗官僚もいたとインターネットでは指摘されている。
関係筋によると、2006年上海市大型汚職事件の渦中の人物、前市共産党委員会書記・陳良宇にも複数の愛人がいたとされるほか、北京市の前副市長・劉志華、前国家統計局長・邱暁華も愛人がいた。
劉志華の「悲劇」は2006年に発生したもの。
劉はオリンピックがらみで多くの建設計画があった北京市のインフラ整備の責任者で、地位を利用して工事の発注に絡み600万元もの巨額のカネを不正に受け取った。劉には多くの愛人がおり、うち一人は建設会社の法定代表人だった。この建設会社が国家テニスセンターや、ホッケーやアーチェリーの会場建設の工事を受注したことも、劉の地位を利用したものだったとされている。これらの不祥事が明るみに出たのは、愛人が政府当局に送った1本のビデオテープが発端だったという。
その後の調べで、劉が北京市郊外に豪華な別荘を建てていたことも分かった。全部でなんと150部屋あり、内部の装飾などは高級ホテル並みの豪華なものだったという。劉は愛人の一人を「支配人」にして、別荘の切り盛りを任せていた。
劉の「恥部」を暴露したあの1本のビデオテープでは、劉が愛人の一人に「サービス」をさせる様子が約60分にわたり記録されていた。愛人は約束の「報酬」がもらえないことで腹を立て、密かに撮影したテープを当局に送りつけたという。
2006年6月、劉は生活上の堕落などで共産党員の資格を剥奪、公職を解任された。同年12月、劉は汚職で逮捕され、09年1月に死刑、執行猶予2年の判決を受けた。
官僚が不正に集めたカネで愛人を囲み、愛人の欲求を十分に満たせなかったことで愛人に裏切られてしまう。このようなパターンはすでに一般化しており、劉の前にもあったし、その後も数多く発生している。
日本でもごく稀なケースだが女性問題のスキャンダルによって短期間で辞職した首相がいたが、中国では日本のようにマスコミの力が強くなく、内部告発で発覚するようである。
ここで言っている内部告発とは、愛人からの告発もあれば、正妻(場合によって子女)からの告発もある。
江蘇省徐州市泉山区の元共産党委員会書記・董峰は多くの愛人がいたことから、「一夫多妻書記」などと呼ばれていた。しかし、この「一夫多妻書記」は08年11月28日に収賄の容疑で徐州市中級人民法院(地裁)から起訴された。
董には5人の愛人がおり、うち少なくとも2人との間には子をもうけていたとされる。董には、本人と愛人の名義で282万元の賄賂を受け取っていた疑いが持たれている。また、地位を利用してマンション3軒を不正に安く購入した疑いもあるという。董の愛人問題と収賄が発覚したのは、妻の告発だった。
共産党・政府の幹部に対する「反腐敗運動」を推進している中国鉱業大学の王培栄副教授が董妻の協力者となり08年7月、個人ブログに「全国で最も荒淫無恥な区委員会書記、全国で最も猛々しい暗黒勢力」などと題する記事の連載を始めた。同ブログでは、董が長年にわたり妻と愛人一人と同居させ、「3人が同ベッドを使うことを強要し続けた」などとして私生活も暴露した。
愛人を家に連れ込み、妻に同ベッドの使用を強要することでもっと痛い目に遭わされた男もいた。
2009年7月28日付「広州日報」によると、広東省東莞市第一法院(地裁)は27日、「夫の局部をはさみで切断し、障害が残る傷を負わせた」として37歳の女性に懲役10年の有罪判決を言い渡した。
夫は08年12月、「好きな女性ができた。彼女は結婚にこだわっていない。この家で一緒に住みたいと言っている」と妻に告げた。言い争いになったが、夫は強引に愛人を家に連れてきた。中国の家庭では、夫婦がダブルベッドを使うことが一般的だが、夫は愛人も同じベッドを使わせた。妻がいる場で、性行為をすることもしばしばだったという。
たまりかねた妻はたびたび離婚を申し出たが、夫は受けつけず妻に暴力をふるった。26日午前、妻は雑貨店ではさみを購入し、夜になり熟睡していた夫の局部を一気に切り落とした。大量の血を見て恐くなり、姉の家に逃げた。逃げる際、夫の局部は家の前の池に投げ捨てた。妻は翌日、警察に逮捕された。夫の命は助かったが、法医学鑑定で5級の障害が残ると判断された。
同記事を転載したインターネットメディア環球網のコメント欄では「死亡事故を起こしても懲役3年。判決は重すぎる」、「夫はけだものだ。当然の報い」、「男は罰せられないのか。有罪に決まっている」など、女性に同情する書き込みが多い。
このように愛人を囲むのは時には大きな代償を払う。官僚その人物をほんとうに愛する人もいるかもしれないが、たいてい官僚の権力や立場、金銭を目当てで近付くほうが多い。ある識者が指摘するように、愛人を囲んでしまうと、まるで暴れる馬の背中に乗ってしまった同然だ。馬の勢いに任せるか、馬の背中から落ちて大けがを被るか、選択肢は非常に限られている。そしていずれその先に破滅の運命が待っている。
官僚の愛人囲みと破滅との因果関係についてインターネットメディア南方報網の論説は次のように分析している。
まず、官僚は政府機関などに勤めて、「不正をしようと思えばできる」地位になるまでには少なくとも10年、または20年かかることが多い。すでに、かなりの年齢になっている。その時、若い女性が近づいてくれば、つい、「男としての自信」が蘇り、青春が戻ってきたような気分になるという。
一方、そのような男性に個人的に接近する女には、なんらかの「下心」があると考えてよい。双方がそれぞれの「欲望」により、あっという間に結びつくことになる。
腐敗汚職が発覚する官僚の多くは、年齢から言っても既婚者であることが一般的だ。若い愛人は経済面での欲望をむき出しにし始め、断ると怒る。せっかく手に入れた女を手放すのは、感情的にも難しい。妻以外の女性と関係を持ったことで、相手の女の出方によっては、汚職に手を染めなくとも、地位を失う可能性が高い。結局は、官僚が犯罪者に一転する(南方報網2010年1月28日付)。
事実、近年、愛人にせがまれてどんどん腐敗汚職の闇に飲まれていき、最終的に逮捕、懲役など処罰を受ける身になるようなケースは数多く報道されている。
2010年1月27日、広東省広州市中級法院(地裁)では増城市人民代表大会副主任(議会副議長相当)などを務めた邱カ勝被告に対する裁判が行われていた。邱は1950年生まれの59歳。地位を利用して、105万元を不正に入手したとして、収賄の疑いで逮捕された。
一方、自分にかけられた嫌疑について邱は、「もともと、不正などするつもりはなかった。愛人に迫られてやった。手に入れた105万元のうち、98万元はすべて愛人のものになった」と涙ながらに主張した(南方報網2010年1月28日付)。もちろん、愛人のせいとするのはただの言い訳。法廷で泣き叫んでも、女を罵倒しても、結局はすべて自分の責任。邱は懲役7年の判決を受けた。
「欲望横流」の中国。高度経済成長の恩恵に誰よりも浴している官僚たちはこれほどまでに人間の本能をむき出しにして政治や社会を汚す姿はまことに醜い。(執筆者:王文亮 金城学院大学教授 編集担当:サーチナ・メディア事業部)
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2011年6月23日木曜日
【2013NHK】 大河ドラマ「八重の桜」
新島 八重(享年86年)
弘化2年11月3日(1845年12月1日) - 昭和7年(1932年)6月14日)
幕末から昭和初期。同志社創立者の新島襄の妻。旧姓は「山本」。
会津藩の砲術師範であった山本権八・さく夫妻の子として誕生
◆戊辰戦争(日本国内戦)
慶応4年=明治元年の干支が「戊辰(つちのえたつ、ぼしん))」から由来
戊辰戦争時には断髪・男装し家芸であった砲術を以て奉仕
会津若松城籠城戦で自らもスペンサー銃を持って奮戦。「幕末のジャンヌ・ダルク」と呼ばれる。
戊辰戦争が始まる前、但馬出石藩出身で藩校日新館の教授をつとめていた川﨑尚之助と結婚
会津若松城籠城戦を前に離婚、一緒に立て籠もったが戦の最中に尚之助は行方不明になった。
明治4年(1871年)、25歳時、京都府顧問となっていた実兄・山本覚馬を頼って上洛する。
翌年、兄の推薦により京都女紅場(後の府立第一高女)の権舎長・教道試補となる。この女紅場に茶道教授として勤務していたのが13代千宗室(円能斎)の母で、これがきっかけで茶道に親しむようになる。
兄の元に出入りしていた新島襄と知り合う。
明治8年(1875年)10月に新島襄と婚約。当時、新島のキリスト教主義の学校建設を阻止しようと町の僧侶・神官たちが連日のように抗議集会を開き、京都府知事・文部省に嘆願書を提出するなどし圧力をかけていた為、京都府は婚約直後、突如女紅場を解雇した。
明治9年(1876年)1月3日に結婚。(30歳)
京都初の日本人同士のキリスト教式の結婚式であった。
女紅場に勤務していたときの経験を生かし、同志社の運営に助言を与えた。欧米流のレディファーストが身に付いていた襄と、男勝りの性格だった八重は似合いの夫婦であったという。夫をかしずかせ、車にも夫より先に乗る姿を見て世間から悪妻と評される[1]。
同志社英学校において戊辰戦争の際、会津藩を攻めた薩摩長州出身学生を冷遇したり、問題を起こした兄嫁を義兄や襄が許しても家から追い出したりと、西洋の感覚を身に着けながらも、武士の誇りと道徳にこだわり、周囲と軋轢を生んだ[1]。
同志社英学校の学生達の演説会に夫婦で出席した際は、当時学生であった徳富蘇峰に演壇より「頭と足は西洋、胴体は日本という鵺のような女性がいる」と強く非難された[1]。これに対し八重は全く動じなかったと伝わっている[1]。しかし夫婦仲はとても良くこの時期夫の襄はアメリカの友人への手紙で「彼女は見た目は決して美しくはありません。ただ、生き方がハンサムなのです。私にはそれで十分です。」と書いている[1]。
明治23年(1890年)、襄は病気のため急逝。襄の臨終の床で徳富蘇峰に過去の非礼を詫びられ、和解した。2人の間に子供はおらず、更にこの時の新島家には襄以外に男子がいなかったため養子を迎えたがこの養子とは疎遠であったという。
さらにその後の同志社を支えた襄の門人たちとも性格的にそりが合わず、同志社とも次第に疎遠になっていったという。
この孤独な状況を支えたのが女紅場時代に知りあった円能斎であり、その後、円能斎直門の茶道家として茶道教授の資格を取得。茶名「新島宗竹」を授かり、以後は京都に女性向けの茶道教室を開いて自活し裏千家流を広めることに貢献した。
日清戦争、日露戦争で篤志看護婦となった。功績により昭和3年(1928年)、昭和天皇の即位大礼の際に銀杯を下賜される。その4年後、寺町丸太町上ルの自邸(現・新島旧邸)にて死去。86歳没。葬儀は「同志社の母」葬として4000人もの参列者があった。墓所は襄の隣、京都市左京区若王子の京都市営墓地内同志社墓地。
逸話
晩年、雨などに濡れている女学生を見ると無言で傘を差し出す姿が見られた。次代を担う女性を大切に思っていた[1]。
夫襄との夫婦仲の良さを物語るエピソードがたくさん残されている。京都新島旧邸にある襄の書斎は襄が亡くなった後、八重が死ぬまでの42年間そのままの状態に置かれていた[1]。
悪妻、鵺、烈婦と評される。
悪妻 - 夫をジョーと呼び捨てにし、車にも夫より先に乗った。これは新島夫妻が互いの尊重の上で、男女が等しく平等であるという姿勢を自ら世に示したものであるが、男尊女卑の明治時代においては世間からは「悪妻」と評された[1]。
鵺 - 同志社英学校の生徒にも新島先生を軽んじていると映り、当時学生の徳富蘇峰に「鵺」と罵倒された[1]。
烈婦 - 勤務していた京都女紅場が経営難に陥った際に、女学校の補助金を増やすよう当時京都府参事であった槇村正直にたびたび直談判し、世間より「烈婦」と評された[1]。
NHK大河ドラマ
弘化2年11月3日(1845年12月1日) - 昭和7年(1932年)6月14日)
幕末から昭和初期。同志社創立者の新島襄の妻。旧姓は「山本」。
会津藩の砲術師範であった山本権八・さく夫妻の子として誕生
◆戊辰戦争(日本国内戦)
慶応4年=明治元年の干支が「戊辰(つちのえたつ、ぼしん))」から由来
戊辰戦争時には断髪・男装し家芸であった砲術を以て奉仕
会津若松城籠城戦で自らもスペンサー銃を持って奮戦。「幕末のジャンヌ・ダルク」と呼ばれる。
戊辰戦争が始まる前、但馬出石藩出身で藩校日新館の教授をつとめていた川﨑尚之助と結婚
会津若松城籠城戦を前に離婚、一緒に立て籠もったが戦の最中に尚之助は行方不明になった。
明治4年(1871年)、25歳時、京都府顧問となっていた実兄・山本覚馬を頼って上洛する。
翌年、兄の推薦により京都女紅場(後の府立第一高女)の権舎長・教道試補となる。この女紅場に茶道教授として勤務していたのが13代千宗室(円能斎)の母で、これがきっかけで茶道に親しむようになる。
兄の元に出入りしていた新島襄と知り合う。
明治8年(1875年)10月に新島襄と婚約。当時、新島のキリスト教主義の学校建設を阻止しようと町の僧侶・神官たちが連日のように抗議集会を開き、京都府知事・文部省に嘆願書を提出するなどし圧力をかけていた為、京都府は婚約直後、突如女紅場を解雇した。
明治9年(1876年)1月3日に結婚。(30歳)
京都初の日本人同士のキリスト教式の結婚式であった。
女紅場に勤務していたときの経験を生かし、同志社の運営に助言を与えた。欧米流のレディファーストが身に付いていた襄と、男勝りの性格だった八重は似合いの夫婦であったという。夫をかしずかせ、車にも夫より先に乗る姿を見て世間から悪妻と評される[1]。
同志社英学校において戊辰戦争の際、会津藩を攻めた薩摩長州出身学生を冷遇したり、問題を起こした兄嫁を義兄や襄が許しても家から追い出したりと、西洋の感覚を身に着けながらも、武士の誇りと道徳にこだわり、周囲と軋轢を生んだ[1]。
同志社英学校の学生達の演説会に夫婦で出席した際は、当時学生であった徳富蘇峰に演壇より「頭と足は西洋、胴体は日本という鵺のような女性がいる」と強く非難された[1]。これに対し八重は全く動じなかったと伝わっている[1]。しかし夫婦仲はとても良くこの時期夫の襄はアメリカの友人への手紙で「彼女は見た目は決して美しくはありません。ただ、生き方がハンサムなのです。私にはそれで十分です。」と書いている[1]。
明治23年(1890年)、襄は病気のため急逝。襄の臨終の床で徳富蘇峰に過去の非礼を詫びられ、和解した。2人の間に子供はおらず、更にこの時の新島家には襄以外に男子がいなかったため養子を迎えたがこの養子とは疎遠であったという。
さらにその後の同志社を支えた襄の門人たちとも性格的にそりが合わず、同志社とも次第に疎遠になっていったという。
この孤独な状況を支えたのが女紅場時代に知りあった円能斎であり、その後、円能斎直門の茶道家として茶道教授の資格を取得。茶名「新島宗竹」を授かり、以後は京都に女性向けの茶道教室を開いて自活し裏千家流を広めることに貢献した。
日清戦争、日露戦争で篤志看護婦となった。功績により昭和3年(1928年)、昭和天皇の即位大礼の際に銀杯を下賜される。その4年後、寺町丸太町上ルの自邸(現・新島旧邸)にて死去。86歳没。葬儀は「同志社の母」葬として4000人もの参列者があった。墓所は襄の隣、京都市左京区若王子の京都市営墓地内同志社墓地。
逸話
晩年、雨などに濡れている女学生を見ると無言で傘を差し出す姿が見られた。次代を担う女性を大切に思っていた[1]。
夫襄との夫婦仲の良さを物語るエピソードがたくさん残されている。京都新島旧邸にある襄の書斎は襄が亡くなった後、八重が死ぬまでの42年間そのままの状態に置かれていた[1]。
悪妻、鵺、烈婦と評される。
悪妻 - 夫をジョーと呼び捨てにし、車にも夫より先に乗った。これは新島夫妻が互いの尊重の上で、男女が等しく平等であるという姿勢を自ら世に示したものであるが、男尊女卑の明治時代においては世間からは「悪妻」と評された[1]。
鵺 - 同志社英学校の生徒にも新島先生を軽んじていると映り、当時学生の徳富蘇峰に「鵺」と罵倒された[1]。
烈婦 - 勤務していた京都女紅場が経営難に陥った際に、女学校の補助金を増やすよう当時京都府参事であった槇村正直にたびたび直談判し、世間より「烈婦」と評された[1]。
NHK大河ドラマ
2011年6月22日水曜日
【イタすぎるセレブ達】ヒラリー・クリントンの元インターン、弁護士志望からAV女優に。
【イタすぎるセレブ達】
ヒラリー・クリントンの元インターン、弁護士志望からAV女優に。
2011年6月22日 10:00
(ヒラリー・クリントン 元実習生がAV女優に)
スーツに身を包んだオフィスからの、大幅な志望変更だ。
ヒラリー・クリントン国務長官のオフィスで働いていた元インターンが、現在はポルノ女優として働いていることを明らかにした。かつて弁護士を目指していた彼女が、AV女優になるに至ったその経緯とは?「ヒラリー長官が耳にしたら、いい顔はなさらないだろうけど。」
このように語るのはラスベガスのポルノ女優Samantha Kogelmanさん(24)。
サミー・スペードの芸名で活動する彼女は、今週の火曜日、『TMZ』のインタビューで、ヒラリー・クリントン国務長官のオフィスでインターンとして働いていたことを明らかにした。
火曜日の朝、サミーがTwitterへ「すごく面白い朝だわ。TMZの記事を見てね。」と投稿。サミーとヒラリー長官が並んで写っている写真と共に報じられた彼女の告白によれば、サミーがクリントン長官のオフィスでインターンとして働いていたのは2006年の夏だったという。
当時、将来は弁護士となり政界に入ることを目指し、コミュニティーカレッジに通う大学生だった彼女は、晩餐会で現在のヒラリー長官と出会ったことをきっかけに、インターンとしてヒラリー長官のオフィスで働くチャンスを得る。ニューヨークのバッファローにあるヒラリー長官のオフィスでは、さまざまなオフィスワークにあたったとしている。
しかし、人生の進路が大幅に狂ったのはコミュニティーカレッジを出てからのこと。不動産法に携わる弁護士事務所でアシスタントとして働き始めたサミーは、そこで金銭上のトラブルに巻き込まれたそうだ。「そこは腐敗した業界で、私はラスベガスに22歳で家を買うことになった。」と語る彼女は、借金を返すお金に困ったことから、ポルノ女優として働くことに決めたという。
今もヒラリー長官のことを尊敬しているというサミーは、「私の両親は裕福ではない。何かを手に入れるには、学校に通うと同時に、つねに働かなければならない。」とも明かし、大きな貧富の差を抱える米国の見えざる一面についても語った。(TechinsightJapan編集部 クローン中山)
ヒラリー・クリントンの元インターン、弁護士志望からAV女優に。
2011年6月22日 10:00
(ヒラリー・クリントン 元実習生がAV女優に)
スーツに身を包んだオフィスからの、大幅な志望変更だ。
ヒラリー・クリントン国務長官のオフィスで働いていた元インターンが、現在はポルノ女優として働いていることを明らかにした。かつて弁護士を目指していた彼女が、AV女優になるに至ったその経緯とは?「ヒラリー長官が耳にしたら、いい顔はなさらないだろうけど。」
このように語るのはラスベガスのポルノ女優Samantha Kogelmanさん(24)。
サミー・スペードの芸名で活動する彼女は、今週の火曜日、『TMZ』のインタビューで、ヒラリー・クリントン国務長官のオフィスでインターンとして働いていたことを明らかにした。
火曜日の朝、サミーがTwitterへ「すごく面白い朝だわ。TMZの記事を見てね。」と投稿。サミーとヒラリー長官が並んで写っている写真と共に報じられた彼女の告白によれば、サミーがクリントン長官のオフィスでインターンとして働いていたのは2006年の夏だったという。
当時、将来は弁護士となり政界に入ることを目指し、コミュニティーカレッジに通う大学生だった彼女は、晩餐会で現在のヒラリー長官と出会ったことをきっかけに、インターンとしてヒラリー長官のオフィスで働くチャンスを得る。ニューヨークのバッファローにあるヒラリー長官のオフィスでは、さまざまなオフィスワークにあたったとしている。
しかし、人生の進路が大幅に狂ったのはコミュニティーカレッジを出てからのこと。不動産法に携わる弁護士事務所でアシスタントとして働き始めたサミーは、そこで金銭上のトラブルに巻き込まれたそうだ。「そこは腐敗した業界で、私はラスベガスに22歳で家を買うことになった。」と語る彼女は、借金を返すお金に困ったことから、ポルノ女優として働くことに決めたという。
今もヒラリー長官のことを尊敬しているというサミーは、「私の両親は裕福ではない。何かを手に入れるには、学校に通うと同時に、つねに働かなければならない。」とも明かし、大きな貧富の差を抱える米国の見えざる一面についても語った。(TechinsightJapan編集部 クローン中山)
2011年6月21日火曜日
福原のソープランドを17年ぶりに摘発 兵庫県警
2011年06月21日20時04分 提供:産経新聞
売春場所を提供したとして、兵庫県警生活環境課と兵庫署などは21日、売春防止法違反の容疑で、神戸市兵庫区のソープランド「エスプーマ」を捜索、同店経営者で会社役員、吉村公乙容疑者(42)=大阪市天王寺区=ら3人を逮捕した。
県警が神戸市有数の歓楽街・福原地区のソープランドを同法違反で摘発するのは17年ぶりという。
他に逮捕されたのは、従業員の福庭史之(31)=大阪市中央区、東方光一(25)=大阪市東淀川区=の両容疑者。3人は容疑を認めているという。
3人の逮捕容疑は、5月17日午前、同店で女性従業員(26)が神戸市内の男性客(31)に対し売春するのを知りながら、店内の個室を提供したとしている。
県警は4月中旬、私服警察官を客引きしたとして同店従業員(36)を逮捕、同店を捜索していた。
この日は、同店や関連会社事務所など3カ所を家宅捜索し、従業員名簿など計120点を押収。常連客や女性従業員らからも事情を聴くなどしている。
売春場所を提供したとして、兵庫県警生活環境課と兵庫署などは21日、売春防止法違反の容疑で、神戸市兵庫区のソープランド「エスプーマ」を捜索、同店経営者で会社役員、吉村公乙容疑者(42)=大阪市天王寺区=ら3人を逮捕した。
県警が神戸市有数の歓楽街・福原地区のソープランドを同法違反で摘発するのは17年ぶりという。
他に逮捕されたのは、従業員の福庭史之(31)=大阪市中央区、東方光一(25)=大阪市東淀川区=の両容疑者。3人は容疑を認めているという。
3人の逮捕容疑は、5月17日午前、同店で女性従業員(26)が神戸市内の男性客(31)に対し売春するのを知りながら、店内の個室を提供したとしている。
県警は4月中旬、私服警察官を客引きしたとして同店従業員(36)を逮捕、同店を捜索していた。
この日は、同店や関連会社事務所など3カ所を家宅捜索し、従業員名簿など計120点を押収。常連客や女性従業員らからも事情を聴くなどしている。
中国:共産党90周年映画が不評 豪華キャストでも空席
中国各地で大々的に宣伝されている映画「建党偉業」の広告=北京市内の映画館前で、工藤哲撮影
【北京・工藤哲】中国共産党創建90周年の記念日(7月1日)を前に、中国で公開されたばかりの映画「建党偉業」の内容に不満の声が出ている。国民の愛党精神を高めようとする中国当局の狙いに国民は必ずしも同調していないようだ。
映画は、近代化の出発点となった辛亥革命(1911年)から党が創建された21年までの10年間に焦点を当て、孫文や袁世凱、毛沢東などの指導者や庶民の姿を描いている。
アンディ・ラウやワン・リーホンら中華系スター約100人を連ねる豪華キャストでも話題を呼んだ。
中国建国60周年を記念して09年に公開された「建国大業」と同じ韓三平、黄建新の両監督が手がけている。
中国各地の駅やバス停でポスターが掲げられ、テレビでも再三宣伝されるなど、中国当局は普及に躍起だ。
しかし15日の公開直後から空席が目立つ映画館が出る一方、インターネット上では「(俳優が多すぎて)場面の更新が早い」という製作上の不満や「もし(映画に出てくるような)革命精神を学んだなら腐敗した政府にはならなかったはずだ」「現在は(市民の抗議活動を許すほどの)寛容な社会環境は絶対ない」などと現体制への皮肉も書き込まれている。
一方、中国国営新華社通信は19日、先週インターネット上で最も注目を集めたキーワードが「建党偉業」だったと伝え、市民の関心の高さや優れた内容ぶりを引き続き強調している。
毎日新聞 2011年6月20日 22時36分(最終更新 6月20日 23時22分)
【北京・工藤哲】中国共産党創建90周年の記念日(7月1日)を前に、中国で公開されたばかりの映画「建党偉業」の内容に不満の声が出ている。国民の愛党精神を高めようとする中国当局の狙いに国民は必ずしも同調していないようだ。
映画は、近代化の出発点となった辛亥革命(1911年)から党が創建された21年までの10年間に焦点を当て、孫文や袁世凱、毛沢東などの指導者や庶民の姿を描いている。
アンディ・ラウやワン・リーホンら中華系スター約100人を連ねる豪華キャストでも話題を呼んだ。
中国建国60周年を記念して09年に公開された「建国大業」と同じ韓三平、黄建新の両監督が手がけている。
中国各地の駅やバス停でポスターが掲げられ、テレビでも再三宣伝されるなど、中国当局は普及に躍起だ。
しかし15日の公開直後から空席が目立つ映画館が出る一方、インターネット上では「(俳優が多すぎて)場面の更新が早い」という製作上の不満や「もし(映画に出てくるような)革命精神を学んだなら腐敗した政府にはならなかったはずだ」「現在は(市民の抗議活動を許すほどの)寛容な社会環境は絶対ない」などと現体制への皮肉も書き込まれている。
一方、中国国営新華社通信は19日、先週インターネット上で最も注目を集めたキーワードが「建党偉業」だったと伝え、市民の関心の高さや優れた内容ぶりを引き続き強調している。
毎日新聞 2011年6月20日 22時36分(最終更新 6月20日 23時22分)
2011年6月20日月曜日
【環球異見】 南シナ海問題
【産経】
【環球異見】南シナ海問題
2011.6.20 07:55
ストレーツ・タイムズ(シンガポール)
南シナ海の領有権をめぐる中国とフィリピン、ベトナムの対立が激化している。ともに同海域での資源探査活動を中国側に妨害されたフィリピンとベトナムは米海軍との合同軍事演習を予定し、「被害者」を自称する中国は大型巡視船を派遣した。緊張をはらむ海図の中で、米国はどんな“針路”をとるのか。関係国の注目が集まっている。
◇
▼ストレーツ・タイムズ(シンガポール)
「対決の危険性」に言及
シンガポールの英字紙ストレーツ・タイムズは14日付の紙面で1ページを割いて「南シナ海の緊張の高まり」を特集、フィリピン、ベトナム、中国にスポットを当てた記事を並べた。
「マニラは掛け金をつり上げた」という見出しを掲げた記事は、フィリピンにおける中国への対決姿勢の高まりぶりを伝えた。
例えば、「南シナ海」という呼称に代え、「西フィリピン海」を使用するとしたフィリピン政府の方針を、「いつになく自己の主張を打ち出した措置だ」と分析、フィリピンのある知事が、中国の覇権拡大の動きを「むき出しの交戦性」と酷評し、中国製品のボイコットを呼びかけている動きなども取り上げた。
また、緊張の高まりは「米国が地域の紛争にどう対処するのか、ということへの注目度を増大させている」と指摘。「中国と衝突すれば、米国はフィリピンの側につく」というアキノ政権高官の言葉を引用しつつ、1951年に結ばれた「米比相互防衛条約」の存在に言及している。
「ベトナム、けんかの最中の実弾演習」という記事では、演習は「手荒なまねをされることを拒否するという、ベトナムの中国に対するメッセージだ」との有識者の分析を紹介し、演習は両国が「“対決”する危険性」を高め、「中国は(演習に)非常に不当な反撃をするだろう」と、有識者の見方を続けた。
さらに中国国営新華社通信が配信した「中国軍事力増強は作り話」との記事を引いて、中国側の言い分が信じるに足りないものであることを、やはり有識者の言葉でこう指摘した。
「私は、南シナ海における中国の行動を表現するとき、『独断的』という言葉よりも、『攻撃的』という表現を好んで使うようになった。この2つには極めて重要な違いがある」(シンガポール 青木伸行)
◇
▼ウォールストリート・ジャーナル アジア版(米国)
米国の役割、より重要に
「中国を取り込む動きを続ける一方で、安全保障上の責務を維持し、合理的な行動の基準を支持し続ける以外に米国の選択肢はない」
米シンクタンク、AEI日本部長のマイケル・オースリン氏は14日付米紙ウォールストリート・ジャーナル(アジア版)への寄稿で、東南アジア諸国との緊張を高める中国に対し、米国がとるべき態度をこう定義した。
氏は中国の行動について「中国が思い通りに紛争を解決するため、軍事力の行使にためらいを感じないことを国際社会は懸念すべきだ」と強調。同時に米国もアジア諸国もまだその対処方法は見いだしていないとして、3つの理由から適切な対応の重要性を訴える。
氏がもっとも重視するのは、隣国が「中国の要求に従わざるを得ない」と感じる状況を中国が作り出すことが慣例となれば、アジアの地域政治の性質が大きく変容する恐れがあるという点だ。これは「中国が際限なく他の要求もできる」ようになり、「多国間の協調的な行動パターンに戻すことは困難になる」と分析する。
また、中国が隣国を脅しても許されるなら、北朝鮮のような「破滅的な政権」はつけ上がって同じ行動をとろうとし、地域の不安定化を増進させる。さらに中国の嫌がらせに対してベトナムが見せた反応のように小国が常に脅しに泣き寝入りするとはかぎらない。「威嚇や衝突の可能性は増大するだろう」と氏は懸念を示し、中国の行動はすでにインド・太平洋地域で軍拡競争を引き起こしていると指摘する。
一方で氏は、「米側に立ち、中国と対峙(たいじ)しバランスをとっているとみなされることを望む国はほとんどない」とし、「米国の役割は難しくなると同時に、より重要になる」としている。(宮下日出男)
◇
▼国際先駆導報(中国)
中国はあくまでも被害者
中国国営新華社通信が発行している国際情報紙、国際先駆導報は16日、「ベトナムが南海で頻繁に挑発行為を繰り返す」と題して、最近の南シナ海における中越対立の原因について分析する記事を1面トップで掲載した。ベトナムが同海域で実施する米国との合同軍事演習などを「現状を変えようとする過激な行動」と批判、「中国は自国の権益が他国に奪われることを座視できない」と南シナ海に対する管理強化を主張した。
記事は、南シナ海における一連の対立は、紛争を話し合いで解決することを規定した「南シナ海行動宣言」(2002年)に違反する行為を、ベトナムが一方的に行っていることに原因があり、中国はあくまでも被害者である-と強調した。
そのうえで、問題の処理には「2つの原則がある」とし、「ひとつは第三者が介入しない当事者だけの解決。もうひとつは武力に訴えず、平和的な方法で臨むことだ」と主張した。
このため、米軍と合同演習を実施しようとするベトナムは、2つの原則を無視することになり、中国は対抗措置を取る用意があると述べた。
また、ベトナム国内で最近、反中デモが起きていることについて、同紙は「ハンバーガーを食べ、ヒップホップを聴いて育ったベトナムの若者は、自分の国が20世紀に米国に侵略され、中国に助けられたことを忘れたようだ」と厳しく批判した。
ベトナムが中国の領海内で油井を掘削、毎年数百億ドルの利益を得ているとも主張し、米国を念頭に「今後、地域外の勢力が参入することも考えられ、同海域の情勢はさらに複雑化し、対立が悪化する可能性もある」との専門家の見方を紹介した。(北京 矢板明夫)
【環球異見】南シナ海問題
2011.6.20 07:55
ストレーツ・タイムズ(シンガポール)
南シナ海の領有権をめぐる中国とフィリピン、ベトナムの対立が激化している。ともに同海域での資源探査活動を中国側に妨害されたフィリピンとベトナムは米海軍との合同軍事演習を予定し、「被害者」を自称する中国は大型巡視船を派遣した。緊張をはらむ海図の中で、米国はどんな“針路”をとるのか。関係国の注目が集まっている。
◇
▼ストレーツ・タイムズ(シンガポール)
「対決の危険性」に言及
シンガポールの英字紙ストレーツ・タイムズは14日付の紙面で1ページを割いて「南シナ海の緊張の高まり」を特集、フィリピン、ベトナム、中国にスポットを当てた記事を並べた。
「マニラは掛け金をつり上げた」という見出しを掲げた記事は、フィリピンにおける中国への対決姿勢の高まりぶりを伝えた。
例えば、「南シナ海」という呼称に代え、「西フィリピン海」を使用するとしたフィリピン政府の方針を、「いつになく自己の主張を打ち出した措置だ」と分析、フィリピンのある知事が、中国の覇権拡大の動きを「むき出しの交戦性」と酷評し、中国製品のボイコットを呼びかけている動きなども取り上げた。
また、緊張の高まりは「米国が地域の紛争にどう対処するのか、ということへの注目度を増大させている」と指摘。「中国と衝突すれば、米国はフィリピンの側につく」というアキノ政権高官の言葉を引用しつつ、1951年に結ばれた「米比相互防衛条約」の存在に言及している。
「ベトナム、けんかの最中の実弾演習」という記事では、演習は「手荒なまねをされることを拒否するという、ベトナムの中国に対するメッセージだ」との有識者の分析を紹介し、演習は両国が「“対決”する危険性」を高め、「中国は(演習に)非常に不当な反撃をするだろう」と、有識者の見方を続けた。
さらに中国国営新華社通信が配信した「中国軍事力増強は作り話」との記事を引いて、中国側の言い分が信じるに足りないものであることを、やはり有識者の言葉でこう指摘した。
「私は、南シナ海における中国の行動を表現するとき、『独断的』という言葉よりも、『攻撃的』という表現を好んで使うようになった。この2つには極めて重要な違いがある」(シンガポール 青木伸行)
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▼ウォールストリート・ジャーナル アジア版(米国)
米国の役割、より重要に
「中国を取り込む動きを続ける一方で、安全保障上の責務を維持し、合理的な行動の基準を支持し続ける以外に米国の選択肢はない」
米シンクタンク、AEI日本部長のマイケル・オースリン氏は14日付米紙ウォールストリート・ジャーナル(アジア版)への寄稿で、東南アジア諸国との緊張を高める中国に対し、米国がとるべき態度をこう定義した。
氏は中国の行動について「中国が思い通りに紛争を解決するため、軍事力の行使にためらいを感じないことを国際社会は懸念すべきだ」と強調。同時に米国もアジア諸国もまだその対処方法は見いだしていないとして、3つの理由から適切な対応の重要性を訴える。
氏がもっとも重視するのは、隣国が「中国の要求に従わざるを得ない」と感じる状況を中国が作り出すことが慣例となれば、アジアの地域政治の性質が大きく変容する恐れがあるという点だ。これは「中国が際限なく他の要求もできる」ようになり、「多国間の協調的な行動パターンに戻すことは困難になる」と分析する。
また、中国が隣国を脅しても許されるなら、北朝鮮のような「破滅的な政権」はつけ上がって同じ行動をとろうとし、地域の不安定化を増進させる。さらに中国の嫌がらせに対してベトナムが見せた反応のように小国が常に脅しに泣き寝入りするとはかぎらない。「威嚇や衝突の可能性は増大するだろう」と氏は懸念を示し、中国の行動はすでにインド・太平洋地域で軍拡競争を引き起こしていると指摘する。
一方で氏は、「米側に立ち、中国と対峙(たいじ)しバランスをとっているとみなされることを望む国はほとんどない」とし、「米国の役割は難しくなると同時に、より重要になる」としている。(宮下日出男)
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▼国際先駆導報(中国)
中国はあくまでも被害者
中国国営新華社通信が発行している国際情報紙、国際先駆導報は16日、「ベトナムが南海で頻繁に挑発行為を繰り返す」と題して、最近の南シナ海における中越対立の原因について分析する記事を1面トップで掲載した。ベトナムが同海域で実施する米国との合同軍事演習などを「現状を変えようとする過激な行動」と批判、「中国は自国の権益が他国に奪われることを座視できない」と南シナ海に対する管理強化を主張した。
記事は、南シナ海における一連の対立は、紛争を話し合いで解決することを規定した「南シナ海行動宣言」(2002年)に違反する行為を、ベトナムが一方的に行っていることに原因があり、中国はあくまでも被害者である-と強調した。
そのうえで、問題の処理には「2つの原則がある」とし、「ひとつは第三者が介入しない当事者だけの解決。もうひとつは武力に訴えず、平和的な方法で臨むことだ」と主張した。
このため、米軍と合同演習を実施しようとするベトナムは、2つの原則を無視することになり、中国は対抗措置を取る用意があると述べた。
また、ベトナム国内で最近、反中デモが起きていることについて、同紙は「ハンバーガーを食べ、ヒップホップを聴いて育ったベトナムの若者は、自分の国が20世紀に米国に侵略され、中国に助けられたことを忘れたようだ」と厳しく批判した。
ベトナムが中国の領海内で油井を掘削、毎年数百億ドルの利益を得ているとも主張し、米国を念頭に「今後、地域外の勢力が参入することも考えられ、同海域の情勢はさらに複雑化し、対立が悪化する可能性もある」との専門家の見方を紹介した。(北京 矢板明夫)
2011年6月19日日曜日
仙谷由人 爆破事件実行犯を無罪にした人脈
(NEWSポストセブン - 06月19日 16:10)
1969年から1971年にかけて都内を中心に爆弾爆破事件が相次いだ。いわゆる「日石・土田邸ピース缶爆破事件」。
郵便物に偽装された爆弾が土田國保(当時警視庁警務部長、後に警視総監)宅に送られて、夫人が爆死、四男が重傷を負うなどしており、容疑者として18人が逮捕されたが、証拠不十分などで1985年までに全員の無罪が確定している。
最近出版された本でこの爆破実行犯が名乗り出た。
その過激派の元活動家は「当時は
政治ジャーナリストの角谷浩一は言う。
「この裁判で無罪を勝ち取った弁護団の中心に仙谷由人がいました。またその弁護士事務所に所属していたのが福島みずほ。土田の部下には亀井静香がいた」
日石・土田爆弾事件 40年目の真相 中島 修(1/2)
創 6月8日(水)20時49分配信
月刊『創』2011年4月号より●はじめに…………………………編集部 冤罪事件が明らかになるたびに、我々は、警察や検察というものが一般に思われている以上に杜撰で危険な存在だと認識することになる。特に公安警察によるフレームアップ(でっち上げ)事件となると、真相がほとんど闇に葬られてしまうだけに始末が悪い。 そうした事件として、左翼や市民運動家の間でいまだに語り継がれているのが土田・日石・ピース缶事件だ。略して「土・日・P」という。 1971年10月18日、日石本館ビル地下の郵便局で小包が爆発、郵便局員が負傷した。小包の宛先は警察庁長官と新東京国際空港公団総裁。彼らを狙った爆弾であることは明らかだった。続いて12月18日、東京都豊島区雑司が谷の土田国保警視庁警務部長の個人邸で小包が爆発し、夫人が死亡、4男が重傷を負った。 当時、警察は大規模な捜査態勢を敷き、国家の威信にかけても犯人を捕まえようとした。そして72年9月、赤軍派系活動家とされたM氏が別件逮捕。彼の自白により、次々と多くの人間が逮捕されていった。土田・日石事件のほかに1969年に起きたピース缶爆弾事件も彼らの犯行として、総計18人(うち土田・日石事件で11人)が芋づる式に逮捕されたのだった。自白だけで物証が何もないまま起訴されたという意味で、当初から冤罪の疑いが極めて強い事件だった。 被告人らのほとんどが公判で、虚偽の自白をさせられたと無罪を主張。実際に、アリバイが見つかるケースも出て、捜査や供述の矛盾・非合理性が次々と指摘される結果となった。東京地裁は無罪を言い渡したが、検察側が控訴。1985年、高裁が1審の無罪判決を支持したことで、検察が上告を断念。全員の無罪が確定したのだった。この間、ピース缶爆弾事件には、真犯人を名乗る別人が、証人として現われるという一幕もあった。 その後、元被告らは1988年、国家賠償請求訴訟を起こした。しかし、裁判所は、一部を除いて却下。冤罪被害者らの名誉は十分回復されたとは言い難いままとなったのだった。もちろん彼ら元被告が無実だとして、では果たして誰があの爆弾事件を仕掛けたのか。真相は、その後40年を経た今日まで、闇に閉ざされたままだった。 そして、今回、その真相が初めて明らかになった。その詳細については、今回登場いただいた中島修氏の近々発売される著書で明らかにされるが、本誌は一足早く、その内容をお伝えすることにする。◆真実を明らかにして権力者たちに責任を◆―#N前の事件について、なぜいま真相を明らかにしようと考えたのか。まずその経緯を教えてください。【中島】日石・土田事件という戦後史に残る巨大な冤罪事件について、事実をきちんと記録しておく必要があるという思いから、2008年10月、ある程度事情を知っていた人間が集まりました。そうして、事件の実行者に連絡を取り、詳しい話を聞き出したのです。 結論から言うと、この2つの事件を起こしたのはブント戦旗派(日向派)の裏部隊でした。この裏部隊の隊長だった川原(仮名)から直接話を聞いて詳しい事実を知ることができたのです。 もちろん明らかにするにあたっては、刑事、民事での時効・除斥期間などを調べ、実行部隊全員、そして共謀共同正犯とみなされる可能性がある者全員の時効が成立したことを確認しています。また、損害賠償請求権の除斥期間も、同じく過ぎています。実行部隊のメンバーに真相を語ってもらうには、それを待たなければなりませんでした。 真相を明らかにしようと考えた動機は、あれだけの冤罪事件を起こしながら権力の責任は全く果たされていない。いわば冤罪被害者を灰色無罪にして逃げ切ったわけですが、それならば真実を明らかにして彼らに責任をとってもらおう。それが権力者たちに打撃を与える一番の方法だと考えたからです。――土田・日石事件はどういう経緯で起こされたのですか。【中島】まず、71年10月18日の日石爆弾事件ですが、小包のあて先は、後藤田正晴警察庁長官と新東京国際空港(成田空港)公団の今井栄文総裁のいずれも自宅でした。いわば当時の左翼にとっては最大の敵だった警察と成田空港のトップ2人だったのです。 事件を起こしたのは、ブント戦旗派の裏部隊です。隊長の川原(仮名)ら6人が自由が丘に設けたアジトで爆弾を製造し、変装をした女性メンバー2人が郵便局に持ち込みました。 使われた爆弾は、非常に単純なものでした。いわゆる起爆装置がなく、いきなり火薬本体に点火する、危険な仕組みです。火薬も裏部隊の隊員がゴルフ場から盗んだ除草剤をすりつぶし、パウダーシュガーと混ぜて作った手製です。それをアルミの弁当箱に詰め、その中にガスコンロ用の点火ヒーターを埋め込み、あり合わせの箱に入れて、手製のスイッチと電池をつないだという、非常に原始的な構造です。 スイッチは、2枚の小さなアルミ片を重ね、その間に絶縁体としてメジャー(巻き尺)を切り取った小片をはさんだだけの構造でした。小包を開けるために、外側をしばった荷づくりヒモを取り去ると、絶縁体が抜け、アルミ片同士が接触し、通電する仕組みでした。 郵便局で爆発が起きた原因は、郵便局員が小包本体を両手で支えて持つのではなくて、荷づくりヒモを持ち小包をぶら下げたため、ヒモが引っぱられ、点火してしまったためだと思います。それも、2つあった小包のうち片方は爆発しましたが、片方は燃えただけでした。おそらく接触不良だったのでしょう。このような単純な構造があだとなって、爆弾は送り先だった2人に届かず、無関係な郵便局員が負傷するという失敗に終わりました。◆爆弾を運んだ女性が眼鏡を忘れる大失態◆【中島】失敗はそれだけではありませんでした。爆弾を運搬した女性メンバー2人が現場近くの洗面所で変装をした際に、その様子を近くの理容室従業員に目撃されたうえ、そのうち1人が眼鏡を置き忘れるという大失態をしました。彼女はそのせいで、後日、警察に尾行・追跡されることになりました。 警察が事件後すぐに発表した2人のモンタージュ写真はかなりの出来映えで、特に片方は知っている人が見れば、一目でそれと分かるほどでした。その女性メンバーは、逮捕への重圧などから精神的に不安定になり、後々川原隊長の指示で海外へ脱出することになりました。 こうして日石爆弾事件は失敗に終わりましたが、裏部隊は事件後も爆弾の改良を重ねながら、新たな計画を押し進めていきました。 そうして2カ月後の12月18日、東京都豊島区雑司ヶ谷の土田国保警視庁警務部長(後の警視総監)の自宅に小包爆弾を郵送したのです。 今回の爆弾は、手製火薬や基本的な構造は前回と同様ですが、手製の雷管を改良し、弁当箱を大型にして火薬の量を増やしたほか、箱の外側に針金をぐるぐる、ほぼすき間なく巻きつけ、ガムテープで厳重に封をしました。密封性を高め、爆発の威力を上げることと、爆発時に針金が粉々に飛び散って、破壊力を増すための工夫でした。 また、スイッチ部分には、日石爆弾事件の失敗を踏まえて、市販のマイクロスイッチを使用することにしました。ふたを開ければ、マイクロスイッチのバネ板レバーが持ち上がって通電する仕組みでした。爆弾は、お歳暮を偽装するため、カステラの化粧箱に入れました。 爆弾は日石事件とは違う女性メンバーが、1人で神田南神保町郵便局に持って行きました。この郵便局を選んだ理由は、ここが送り主として名前を借用した防衛庁の久保卓也防衛局長(土田警務部長とは旧内務省で同期)の自宅から近いからでした。 この爆弾は途中で爆発したりせずに、土田邸まで配達されましたが、本人が不在の時に夫人が小包を開いてしまうという予想外の事態となり、本人は無傷で、夫人を死亡させ、4男を負傷させてしまいました。実行グループにとって最悪の結果で、当時の私たちの考えでも、この結果は論外でした。実行グループの川原隊長は「おれたちが甘かったと、心底思った」と話しています。 戦旗派リーダーの日向(荒)もこの事態は想定していなかったようで、この土田爆弾事件以降、しばらくして裏部隊の活動を停止させ、そのまま72年6月に解散、メンバーも関西など各地へ分散させました。
◆もし逮捕されれば組織は壊滅していたかも◆――戦旗派はどうして爆弾闘争を始めたのですか。【中島】60年代後半の全共闘運動は69年の東大安田講堂事件を頂点に、制圧されていくのですが、赤軍派を始め一部の党派は殺傷力の大きい武器を持つことで、限界を突破しようという動きに出て爆弾闘争へとエスカレートしました。 戦旗派リーダーの日向も、そういう方向をめざしたのです。彼は左翼内で「右派」と呼ばれたのをひどく嫌っていたため、自分たちが先鋭的だ、より革命的だと証明するために、過激な活動を起こす必要があると考えたのだと思います。一方でこれらの活動は、組織を守るために、裏でこっそりと行われました。だから戦旗派も「裏部隊」を作り、事件を起こしたのです。こうした裏部隊の存在を知っているのは、限られたメンバーだけで、部隊の具体的な活動内容を知っていたのはほんの数人に限定されていました。 戦旗派の場合、もともと組織内の分派闘争に備えて結成された部隊を再編して、裏部隊を作りました。71年6月に葛飾区新宿にある交番を火炎ビンで全焼させた事件を皮切りに、警察などの権力側を狙った闘争を起こし始めます。そして、71年10月に日石爆弾事件、12月に土田爆弾事件を起こすことになったのです。 後に赤軍派など爆弾闘争を行った党派は権力によって壊滅させられるのですが、爆弾闘争を行いながら生き残ったのは中核派と戦旗派だけでした。中核派は組織力があったためですが、戦旗派は幸運にも日石・土田事件で権力の標的とならなかったためだと思います。もしこの爆弾闘争が戦旗派の行動だと権力が知っていたら、戦旗派は壊滅させられていたかもしれません。――警察の捜査は及ばなかったのですか。【中島】2つの事件について当初、戦旗派がノーマークだったことが大きいと思います。71年12月18日、土田事件の当日、戦旗派の主力部隊は京都にいて、しかも、メンバーを京都府警に大量に逮捕されていました。ほかにも、警視庁公安部から、軍事路線には反対だと思われていたことや、組織内部で内輪もめをしていたことなどもあって、そこまで重大な事件を起こす余裕はない、と見なされていたのだと思います。 ただ、あわや発覚、という事態は何度もありました。爆弾闘争の準備で、アジトで火薬を作っていたとき、根をつめる作業に疲れたメンバーがタバコの灰を誤って火薬の上に落としたことがありました。換気扇が回っていたために、その白煙がものすごい勢いで室外にまで流れ出てしまいました。マンション中が大騒ぎになり、管理人も飛んできたのですが、応対に出た女性メンバーが、緊張と不安をおし隠しながら、笑顔でわびてうまくごまかし通せたのです。火薬が爆発して火事にならなかったことも、そして、管理人が警察や消防に連絡しなかったことも、運が良かったとしか言いようがありません。 但し、一時は警察も戦旗派を疑ったと思える節もあります。一つは、72年5月13日の5・13神田武装遊撃戦の直後でした。戦旗派指導部のアジトに家宅捜索があり、そのとき押収された極秘文書の中に、戦旗派と日石・土田爆弾事件の関係を類推できる記述があったのです。この結果、メンバーの多くに尾行・監視が付きました。 疑って見れば、日石爆弾事件の直前71年10月13日に、戦旗派が機関誌で発表した「非公然軍事戦闘の推進に関する我々の見解」という論文に、犯行予告とも言える文章が紛れ込ませてあることもわかったはずです。「権力と階級の先端攻防における突破を、敵の予期しない場所を、あるいは敵の弱点を、非公然軍事闘争として攻撃することを通し、党としての闘いを党の軍として実現する…」。これは、裏部隊の川原隊長が、指導部をせっついて書かせ、差し替えで載せた論文で、彼ら裏部隊の人間にとっては、日石爆弾事件の予告文でした。◆実は運搬役女性の近くまで迫っていた警察の捜査◆【中島】現場に残された眼鏡から女性メンバーの一人が浮かび上がってからは、警察は明らかに、戦旗派も追い始めていたはずです。冤罪で逮捕されたグループと両にらみだったのでしょうが、戦旗派メンバーも逮捕寸前にまで迫っていたはずです。 我々が肝を冷やしたのは、72年12月14日の新聞を見た時でした。「女物眼鏡を追及/西新橋・郵便局爆破の遺留品/土田邸事件に手掛り」と報道されていたからです。警察は遺留品を地道に捜査し、この時点で置き去りになっていた眼鏡と、日石爆破事件、土田爆破事件の2つの事件を正しく結びつけていたのです。 この記事や、83年に発行された『フレームアップ 土田・日石・ピース缶事件の真相』(高沢皓司編・新泉社)掲載の被疑者手記によると、この眼鏡が広島県のある時計店で売却されたことを、警察はつかんでいました。 販売店が分かれば、度数などのデータから購入者も分かります。こうして、眼鏡を現場に置き忘れた女性メンバーが捜査線上に浮かびあがりました。彼女は裏部隊の解散後、すでに活動を中止して、広島の実家に帰っていましたが、警察の尾行・監視が付きました。 新聞報道を受けて、リーダーの日向は慌てました。眼鏡を置き忘れた女性メンバーは事実上、組織を離脱していて、自分の力が及ぶ範囲にいなかったからです。活動を続ける意欲を無くして組織を離脱した人間に、完全黙秘(完黙)は期待できません。もし彼女が動揺し、緊張と不安に耐えきれず、自首でもしたら、えらいことになります。逮捕されれば、かつての裏部隊メンバーは、たちまち一網打尽になってしまうと考えたでしょう。それで、新聞報道後直ちに彼女のもとに使いを派遣して、「眼鏡だけでは証拠とは言えない。尾行に気づかないふりをしてしらばっくれろ。いざという時は組織が支援する」と伝えたのです。 このように、真犯人に限りなく近づいていた警察でしたが、73年3月13日に、冤罪で逮捕された人物が「自供」すると、捜査は彼を主犯とするストーリーに一気に流れこんだようです。翌日に彼と共犯とされた3人を再逮捕し、槙野勇警視総監が記者会見で「解決宣言」をして、戦旗派への捜査を打ち切ってしまったようです。戦旗派メンバーに付いていた尾行や監視は、この時期にぴたっと止みました。 戦旗派に疑いの目が向くより前の段階で、本人そっくりのモンタージュを作成された女性メンバーを国外に脱出させていたことや、土田爆破事件で爆弾を郵便局に運んだ別の女性メンバーに逮捕歴が無く、監視が付いたころには裏の活動をやめて、表の活動に従事していたことなどが戦旗派にとって有利に働いたと思います。結局、現場で押収された眼鏡が、法廷に証拠として提出されることはなかったようです。◆3月14日警視総監会見で引き返せない状況に◆――中島さんから見て、一連の捜査や裁判の問題点はどこにあったのですか。【中島】物証もないのに、無実の人たちを逮捕し、「自白」に追い込んだことが一番大きな問題です。自白はもちろん警察・検察の嘘ですから、それを根拠にした捜査・裁判がその後、どんどんおかしな方向へ向かったのは当然です。 私たちが見ると、検察の主張には明らかにおかしい点があります。たとえば裁判の冒頭陳述で検察は、土田事件の爆弾について、「右小包爆弾は外箱の木箱の中にアルマイト製の深大角弁当箱を配し、この中に塩素酸ナトリウム・砂糖が混合して充填され、その中央部に硝化綿と手製雷管が埋め込まれ…」と説明しています。しかし、裏部隊が作った爆弾には硝化綿は、そもそも使用されていませんでした。ですから、爆発現場で採取された残余物の中には、硝化綿の燃えかすが、存在していたはずはありません。 にもかかわらず検察の陳述が硝化綿に言及する理由は、日石・土田冤罪事件の被害者の一人の供述調書に、アパートで、土田爆弾用の硝化綿を製造したという「自白」があるからです。どういった経緯でこのような自白が出てきたのかはわかりませんが、本来ないはずの物質が登場してくることは、警察・検察が恣意的に供述を作り上げた証拠ではないでしょうか。 警察・検察は起訴を強行しただけではなく、アリバイや証言の食い違いなど、裁判中に表れてきた数々の矛盾を抱えながら、最長10年近くも彼らを勾留し続けました。物証が何ひとつないにもかかわらず引き返せなかった最大の理由は、73年3月14日、槙野勇警視総監が発表した「解決宣言」を取り消せなかったからでしょう。警察のメンツが彼らを縛ったのです。 裁判資料によると、日石・土田爆弾事件の捜査には、公安・刑事合同捜査本部の本部長である三井脩・警視庁公安部長(後の警察庁長官)をトップに、幹部3人、専従捜査員55人、さらに裏づけ捜査要員として41人の合計100人があたっていました。検察の主任は親崎定雄という検事でしたが、その指導をしたのは後に検事総長になる伊藤栄樹東京地検次席検事でした。つまり、後の警察トップと検察トップとが、冤罪の張本人なのです。 実際にどのような判断がなされたのか、捜査の内実は私たちにはわかりませんが、今回の真相公表により、捜査や裁判の問題点が再検証され、なぜ権力がこんな冤罪事件を生み出してしまったのか、という理由が明らかになることを期待します。(中島氏のつづった手記『40年目の真実――日石・土田爆弾事件』は創出版から発売中である)
1969年から1971年にかけて都内を中心に爆弾爆破事件が相次いだ。いわゆる「日石・土田邸ピース缶爆破事件」。
郵便物に偽装された爆弾が土田國保(当時警視庁警務部長、後に警視総監)宅に送られて、夫人が爆死、四男が重傷を負うなどしており、容疑者として18人が逮捕されたが、証拠不十分などで1985年までに全員の無罪が確定している。
最近出版された本でこの爆破実行犯が名乗り出た。
その過激派の元活動家は「当時は
政治ジャーナリストの角谷浩一は言う。
「この裁判で無罪を勝ち取った弁護団の中心に仙谷由人がいました。またその弁護士事務所に所属していたのが福島みずほ。土田の部下には亀井静香がいた」
日石・土田爆弾事件 40年目の真相 中島 修(1/2)
創 6月8日(水)20時49分配信
月刊『創』2011年4月号より●はじめに…………………………編集部 冤罪事件が明らかになるたびに、我々は、警察や検察というものが一般に思われている以上に杜撰で危険な存在だと認識することになる。特に公安警察によるフレームアップ(でっち上げ)事件となると、真相がほとんど闇に葬られてしまうだけに始末が悪い。 そうした事件として、左翼や市民運動家の間でいまだに語り継がれているのが土田・日石・ピース缶事件だ。略して「土・日・P」という。 1971年10月18日、日石本館ビル地下の郵便局で小包が爆発、郵便局員が負傷した。小包の宛先は警察庁長官と新東京国際空港公団総裁。彼らを狙った爆弾であることは明らかだった。続いて12月18日、東京都豊島区雑司が谷の土田国保警視庁警務部長の個人邸で小包が爆発し、夫人が死亡、4男が重傷を負った。 当時、警察は大規模な捜査態勢を敷き、国家の威信にかけても犯人を捕まえようとした。そして72年9月、赤軍派系活動家とされたM氏が別件逮捕。彼の自白により、次々と多くの人間が逮捕されていった。土田・日石事件のほかに1969年に起きたピース缶爆弾事件も彼らの犯行として、総計18人(うち土田・日石事件で11人)が芋づる式に逮捕されたのだった。自白だけで物証が何もないまま起訴されたという意味で、当初から冤罪の疑いが極めて強い事件だった。 被告人らのほとんどが公判で、虚偽の自白をさせられたと無罪を主張。実際に、アリバイが見つかるケースも出て、捜査や供述の矛盾・非合理性が次々と指摘される結果となった。東京地裁は無罪を言い渡したが、検察側が控訴。1985年、高裁が1審の無罪判決を支持したことで、検察が上告を断念。全員の無罪が確定したのだった。この間、ピース缶爆弾事件には、真犯人を名乗る別人が、証人として現われるという一幕もあった。 その後、元被告らは1988年、国家賠償請求訴訟を起こした。しかし、裁判所は、一部を除いて却下。冤罪被害者らの名誉は十分回復されたとは言い難いままとなったのだった。もちろん彼ら元被告が無実だとして、では果たして誰があの爆弾事件を仕掛けたのか。真相は、その後40年を経た今日まで、闇に閉ざされたままだった。 そして、今回、その真相が初めて明らかになった。その詳細については、今回登場いただいた中島修氏の近々発売される著書で明らかにされるが、本誌は一足早く、その内容をお伝えすることにする。◆真実を明らかにして権力者たちに責任を◆―#N前の事件について、なぜいま真相を明らかにしようと考えたのか。まずその経緯を教えてください。【中島】日石・土田事件という戦後史に残る巨大な冤罪事件について、事実をきちんと記録しておく必要があるという思いから、2008年10月、ある程度事情を知っていた人間が集まりました。そうして、事件の実行者に連絡を取り、詳しい話を聞き出したのです。 結論から言うと、この2つの事件を起こしたのはブント戦旗派(日向派)の裏部隊でした。この裏部隊の隊長だった川原(仮名)から直接話を聞いて詳しい事実を知ることができたのです。 もちろん明らかにするにあたっては、刑事、民事での時効・除斥期間などを調べ、実行部隊全員、そして共謀共同正犯とみなされる可能性がある者全員の時効が成立したことを確認しています。また、損害賠償請求権の除斥期間も、同じく過ぎています。実行部隊のメンバーに真相を語ってもらうには、それを待たなければなりませんでした。 真相を明らかにしようと考えた動機は、あれだけの冤罪事件を起こしながら権力の責任は全く果たされていない。いわば冤罪被害者を灰色無罪にして逃げ切ったわけですが、それならば真実を明らかにして彼らに責任をとってもらおう。それが権力者たちに打撃を与える一番の方法だと考えたからです。――土田・日石事件はどういう経緯で起こされたのですか。【中島】まず、71年10月18日の日石爆弾事件ですが、小包のあて先は、後藤田正晴警察庁長官と新東京国際空港(成田空港)公団の今井栄文総裁のいずれも自宅でした。いわば当時の左翼にとっては最大の敵だった警察と成田空港のトップ2人だったのです。 事件を起こしたのは、ブント戦旗派の裏部隊です。隊長の川原(仮名)ら6人が自由が丘に設けたアジトで爆弾を製造し、変装をした女性メンバー2人が郵便局に持ち込みました。 使われた爆弾は、非常に単純なものでした。いわゆる起爆装置がなく、いきなり火薬本体に点火する、危険な仕組みです。火薬も裏部隊の隊員がゴルフ場から盗んだ除草剤をすりつぶし、パウダーシュガーと混ぜて作った手製です。それをアルミの弁当箱に詰め、その中にガスコンロ用の点火ヒーターを埋め込み、あり合わせの箱に入れて、手製のスイッチと電池をつないだという、非常に原始的な構造です。 スイッチは、2枚の小さなアルミ片を重ね、その間に絶縁体としてメジャー(巻き尺)を切り取った小片をはさんだだけの構造でした。小包を開けるために、外側をしばった荷づくりヒモを取り去ると、絶縁体が抜け、アルミ片同士が接触し、通電する仕組みでした。 郵便局で爆発が起きた原因は、郵便局員が小包本体を両手で支えて持つのではなくて、荷づくりヒモを持ち小包をぶら下げたため、ヒモが引っぱられ、点火してしまったためだと思います。それも、2つあった小包のうち片方は爆発しましたが、片方は燃えただけでした。おそらく接触不良だったのでしょう。このような単純な構造があだとなって、爆弾は送り先だった2人に届かず、無関係な郵便局員が負傷するという失敗に終わりました。◆爆弾を運んだ女性が眼鏡を忘れる大失態◆【中島】失敗はそれだけではありませんでした。爆弾を運搬した女性メンバー2人が現場近くの洗面所で変装をした際に、その様子を近くの理容室従業員に目撃されたうえ、そのうち1人が眼鏡を置き忘れるという大失態をしました。彼女はそのせいで、後日、警察に尾行・追跡されることになりました。 警察が事件後すぐに発表した2人のモンタージュ写真はかなりの出来映えで、特に片方は知っている人が見れば、一目でそれと分かるほどでした。その女性メンバーは、逮捕への重圧などから精神的に不安定になり、後々川原隊長の指示で海外へ脱出することになりました。 こうして日石爆弾事件は失敗に終わりましたが、裏部隊は事件後も爆弾の改良を重ねながら、新たな計画を押し進めていきました。 そうして2カ月後の12月18日、東京都豊島区雑司ヶ谷の土田国保警視庁警務部長(後の警視総監)の自宅に小包爆弾を郵送したのです。 今回の爆弾は、手製火薬や基本的な構造は前回と同様ですが、手製の雷管を改良し、弁当箱を大型にして火薬の量を増やしたほか、箱の外側に針金をぐるぐる、ほぼすき間なく巻きつけ、ガムテープで厳重に封をしました。密封性を高め、爆発の威力を上げることと、爆発時に針金が粉々に飛び散って、破壊力を増すための工夫でした。 また、スイッチ部分には、日石爆弾事件の失敗を踏まえて、市販のマイクロスイッチを使用することにしました。ふたを開ければ、マイクロスイッチのバネ板レバーが持ち上がって通電する仕組みでした。爆弾は、お歳暮を偽装するため、カステラの化粧箱に入れました。 爆弾は日石事件とは違う女性メンバーが、1人で神田南神保町郵便局に持って行きました。この郵便局を選んだ理由は、ここが送り主として名前を借用した防衛庁の久保卓也防衛局長(土田警務部長とは旧内務省で同期)の自宅から近いからでした。 この爆弾は途中で爆発したりせずに、土田邸まで配達されましたが、本人が不在の時に夫人が小包を開いてしまうという予想外の事態となり、本人は無傷で、夫人を死亡させ、4男を負傷させてしまいました。実行グループにとって最悪の結果で、当時の私たちの考えでも、この結果は論外でした。実行グループの川原隊長は「おれたちが甘かったと、心底思った」と話しています。 戦旗派リーダーの日向(荒)もこの事態は想定していなかったようで、この土田爆弾事件以降、しばらくして裏部隊の活動を停止させ、そのまま72年6月に解散、メンバーも関西など各地へ分散させました。
◆もし逮捕されれば組織は壊滅していたかも◆――戦旗派はどうして爆弾闘争を始めたのですか。【中島】60年代後半の全共闘運動は69年の東大安田講堂事件を頂点に、制圧されていくのですが、赤軍派を始め一部の党派は殺傷力の大きい武器を持つことで、限界を突破しようという動きに出て爆弾闘争へとエスカレートしました。 戦旗派リーダーの日向も、そういう方向をめざしたのです。彼は左翼内で「右派」と呼ばれたのをひどく嫌っていたため、自分たちが先鋭的だ、より革命的だと証明するために、過激な活動を起こす必要があると考えたのだと思います。一方でこれらの活動は、組織を守るために、裏でこっそりと行われました。だから戦旗派も「裏部隊」を作り、事件を起こしたのです。こうした裏部隊の存在を知っているのは、限られたメンバーだけで、部隊の具体的な活動内容を知っていたのはほんの数人に限定されていました。 戦旗派の場合、もともと組織内の分派闘争に備えて結成された部隊を再編して、裏部隊を作りました。71年6月に葛飾区新宿にある交番を火炎ビンで全焼させた事件を皮切りに、警察などの権力側を狙った闘争を起こし始めます。そして、71年10月に日石爆弾事件、12月に土田爆弾事件を起こすことになったのです。 後に赤軍派など爆弾闘争を行った党派は権力によって壊滅させられるのですが、爆弾闘争を行いながら生き残ったのは中核派と戦旗派だけでした。中核派は組織力があったためですが、戦旗派は幸運にも日石・土田事件で権力の標的とならなかったためだと思います。もしこの爆弾闘争が戦旗派の行動だと権力が知っていたら、戦旗派は壊滅させられていたかもしれません。――警察の捜査は及ばなかったのですか。【中島】2つの事件について当初、戦旗派がノーマークだったことが大きいと思います。71年12月18日、土田事件の当日、戦旗派の主力部隊は京都にいて、しかも、メンバーを京都府警に大量に逮捕されていました。ほかにも、警視庁公安部から、軍事路線には反対だと思われていたことや、組織内部で内輪もめをしていたことなどもあって、そこまで重大な事件を起こす余裕はない、と見なされていたのだと思います。 ただ、あわや発覚、という事態は何度もありました。爆弾闘争の準備で、アジトで火薬を作っていたとき、根をつめる作業に疲れたメンバーがタバコの灰を誤って火薬の上に落としたことがありました。換気扇が回っていたために、その白煙がものすごい勢いで室外にまで流れ出てしまいました。マンション中が大騒ぎになり、管理人も飛んできたのですが、応対に出た女性メンバーが、緊張と不安をおし隠しながら、笑顔でわびてうまくごまかし通せたのです。火薬が爆発して火事にならなかったことも、そして、管理人が警察や消防に連絡しなかったことも、運が良かったとしか言いようがありません。 但し、一時は警察も戦旗派を疑ったと思える節もあります。一つは、72年5月13日の5・13神田武装遊撃戦の直後でした。戦旗派指導部のアジトに家宅捜索があり、そのとき押収された極秘文書の中に、戦旗派と日石・土田爆弾事件の関係を類推できる記述があったのです。この結果、メンバーの多くに尾行・監視が付きました。 疑って見れば、日石爆弾事件の直前71年10月13日に、戦旗派が機関誌で発表した「非公然軍事戦闘の推進に関する我々の見解」という論文に、犯行予告とも言える文章が紛れ込ませてあることもわかったはずです。「権力と階級の先端攻防における突破を、敵の予期しない場所を、あるいは敵の弱点を、非公然軍事闘争として攻撃することを通し、党としての闘いを党の軍として実現する…」。これは、裏部隊の川原隊長が、指導部をせっついて書かせ、差し替えで載せた論文で、彼ら裏部隊の人間にとっては、日石爆弾事件の予告文でした。◆実は運搬役女性の近くまで迫っていた警察の捜査◆【中島】現場に残された眼鏡から女性メンバーの一人が浮かび上がってからは、警察は明らかに、戦旗派も追い始めていたはずです。冤罪で逮捕されたグループと両にらみだったのでしょうが、戦旗派メンバーも逮捕寸前にまで迫っていたはずです。 我々が肝を冷やしたのは、72年12月14日の新聞を見た時でした。「女物眼鏡を追及/西新橋・郵便局爆破の遺留品/土田邸事件に手掛り」と報道されていたからです。警察は遺留品を地道に捜査し、この時点で置き去りになっていた眼鏡と、日石爆破事件、土田爆破事件の2つの事件を正しく結びつけていたのです。 この記事や、83年に発行された『フレームアップ 土田・日石・ピース缶事件の真相』(高沢皓司編・新泉社)掲載の被疑者手記によると、この眼鏡が広島県のある時計店で売却されたことを、警察はつかんでいました。 販売店が分かれば、度数などのデータから購入者も分かります。こうして、眼鏡を現場に置き忘れた女性メンバーが捜査線上に浮かびあがりました。彼女は裏部隊の解散後、すでに活動を中止して、広島の実家に帰っていましたが、警察の尾行・監視が付きました。 新聞報道を受けて、リーダーの日向は慌てました。眼鏡を置き忘れた女性メンバーは事実上、組織を離脱していて、自分の力が及ぶ範囲にいなかったからです。活動を続ける意欲を無くして組織を離脱した人間に、完全黙秘(完黙)は期待できません。もし彼女が動揺し、緊張と不安に耐えきれず、自首でもしたら、えらいことになります。逮捕されれば、かつての裏部隊メンバーは、たちまち一網打尽になってしまうと考えたでしょう。それで、新聞報道後直ちに彼女のもとに使いを派遣して、「眼鏡だけでは証拠とは言えない。尾行に気づかないふりをしてしらばっくれろ。いざという時は組織が支援する」と伝えたのです。 このように、真犯人に限りなく近づいていた警察でしたが、73年3月13日に、冤罪で逮捕された人物が「自供」すると、捜査は彼を主犯とするストーリーに一気に流れこんだようです。翌日に彼と共犯とされた3人を再逮捕し、槙野勇警視総監が記者会見で「解決宣言」をして、戦旗派への捜査を打ち切ってしまったようです。戦旗派メンバーに付いていた尾行や監視は、この時期にぴたっと止みました。 戦旗派に疑いの目が向くより前の段階で、本人そっくりのモンタージュを作成された女性メンバーを国外に脱出させていたことや、土田爆破事件で爆弾を郵便局に運んだ別の女性メンバーに逮捕歴が無く、監視が付いたころには裏の活動をやめて、表の活動に従事していたことなどが戦旗派にとって有利に働いたと思います。結局、現場で押収された眼鏡が、法廷に証拠として提出されることはなかったようです。◆3月14日警視総監会見で引き返せない状況に◆――中島さんから見て、一連の捜査や裁判の問題点はどこにあったのですか。【中島】物証もないのに、無実の人たちを逮捕し、「自白」に追い込んだことが一番大きな問題です。自白はもちろん警察・検察の嘘ですから、それを根拠にした捜査・裁判がその後、どんどんおかしな方向へ向かったのは当然です。 私たちが見ると、検察の主張には明らかにおかしい点があります。たとえば裁判の冒頭陳述で検察は、土田事件の爆弾について、「右小包爆弾は外箱の木箱の中にアルマイト製の深大角弁当箱を配し、この中に塩素酸ナトリウム・砂糖が混合して充填され、その中央部に硝化綿と手製雷管が埋め込まれ…」と説明しています。しかし、裏部隊が作った爆弾には硝化綿は、そもそも使用されていませんでした。ですから、爆発現場で採取された残余物の中には、硝化綿の燃えかすが、存在していたはずはありません。 にもかかわらず検察の陳述が硝化綿に言及する理由は、日石・土田冤罪事件の被害者の一人の供述調書に、アパートで、土田爆弾用の硝化綿を製造したという「自白」があるからです。どういった経緯でこのような自白が出てきたのかはわかりませんが、本来ないはずの物質が登場してくることは、警察・検察が恣意的に供述を作り上げた証拠ではないでしょうか。 警察・検察は起訴を強行しただけではなく、アリバイや証言の食い違いなど、裁判中に表れてきた数々の矛盾を抱えながら、最長10年近くも彼らを勾留し続けました。物証が何ひとつないにもかかわらず引き返せなかった最大の理由は、73年3月14日、槙野勇警視総監が発表した「解決宣言」を取り消せなかったからでしょう。警察のメンツが彼らを縛ったのです。 裁判資料によると、日石・土田爆弾事件の捜査には、公安・刑事合同捜査本部の本部長である三井脩・警視庁公安部長(後の警察庁長官)をトップに、幹部3人、専従捜査員55人、さらに裏づけ捜査要員として41人の合計100人があたっていました。検察の主任は親崎定雄という検事でしたが、その指導をしたのは後に検事総長になる伊藤栄樹東京地検次席検事でした。つまり、後の警察トップと検察トップとが、冤罪の張本人なのです。 実際にどのような判断がなされたのか、捜査の内実は私たちにはわかりませんが、今回の真相公表により、捜査や裁判の問題点が再検証され、なぜ権力がこんな冤罪事件を生み出してしまったのか、という理由が明らかになることを期待します。(中島氏のつづった手記『40年目の真実――日石・土田爆弾事件』は創出版から発売中である)
多様化するテロ インドネシア 毒物混入、「本爆弾」水際で阻止
【産経】
多様化するテロ インドネシア 毒物混入、「本爆弾」水際で阻止
2011.6.19 12:00
インドネシア・ジャワ島中部のスコハルジョ県で今年5月、夜明け前の奇襲作戦の後、テロ容疑者の自宅周辺を警備する警察官ら。テロとの戦いはインドネシアでも続いている(AP)
インドネシアでは人知れず、テロリストと治安当局との攻防が繰り広げられている。テロが企てられては、その多くを治安当局が水際で防いでいるのだ。両者の攻防を追うと、テロの動向と手法のトレンドがみえてくる。
最新のトレンドは、有毒のシアン化物を使った「毒物テロ」である。
この毒物テロを企てたテロリスト7人が10日、首都ジャカルタで逮捕された。7人は食料や、ミネラル・ウオーターのペットボトルに、注射器などでシアン化物を混入。それを警察署の食堂や、警察の寮に持ち込むことを計画していた。
治安当局は4日間にわたる「作戦」の末、容疑者を一網打尽にし事なきを得た。だが、「毒物テロ」という手法に、テロリストが初めて手を染めたことに対する危機感は強い。
治安当局幹部は「テロ攻撃の新しい形態だ。毒物を用いたテロはいつでも、いかなる場所でも起こりうる」と警戒する。つまり「爆発物よりも発見が難しい」ことが最大の難点であり、テロリストが毒物テロを画策した最大の理由もそこにあると、治安当局はみている。
7人の背景などは、つまびらかではないが「新しいテログループであり、他の組織には属していない」という。
イスラム系テロ組織ジェマ・イスラミア(JI)といった、老舗的なテロ組織の力が、治安当局の「掃討作戦」によって低下する中で、小規模グループの「新しい細胞」が台頭していることは、すでに指摘されているところだ。
彼らこそが、インドネシアにおいてはこれまでになかった新しい手法を、実行に移している主体である。
毒物テロが発覚する以前の目新しい手法としては、例えば、本をくりぬき、その中に爆弾を仕掛けた「本爆弾」があった。この爆弾は3月、ジャカルタの警察関係者、イスラム穏健団体の本部などに送りつけられ、このときは4人の負傷者を出している。
ここ数カ月で治安当局はテロリスト数十人を逮捕、今月拘束された、バリ島爆弾テロ(2002年)の容疑者も含まれている。
こうした攻防は、「テロの多様化」という質的な変化に直面している。(シンガポール 青木伸行)
多様化するテロ インドネシア 毒物混入、「本爆弾」水際で阻止
2011.6.19 12:00
インドネシア・ジャワ島中部のスコハルジョ県で今年5月、夜明け前の奇襲作戦の後、テロ容疑者の自宅周辺を警備する警察官ら。テロとの戦いはインドネシアでも続いている(AP)
インドネシアでは人知れず、テロリストと治安当局との攻防が繰り広げられている。テロが企てられては、その多くを治安当局が水際で防いでいるのだ。両者の攻防を追うと、テロの動向と手法のトレンドがみえてくる。
最新のトレンドは、有毒のシアン化物を使った「毒物テロ」である。
この毒物テロを企てたテロリスト7人が10日、首都ジャカルタで逮捕された。7人は食料や、ミネラル・ウオーターのペットボトルに、注射器などでシアン化物を混入。それを警察署の食堂や、警察の寮に持ち込むことを計画していた。
治安当局は4日間にわたる「作戦」の末、容疑者を一網打尽にし事なきを得た。だが、「毒物テロ」という手法に、テロリストが初めて手を染めたことに対する危機感は強い。
治安当局幹部は「テロ攻撃の新しい形態だ。毒物を用いたテロはいつでも、いかなる場所でも起こりうる」と警戒する。つまり「爆発物よりも発見が難しい」ことが最大の難点であり、テロリストが毒物テロを画策した最大の理由もそこにあると、治安当局はみている。
7人の背景などは、つまびらかではないが「新しいテログループであり、他の組織には属していない」という。
イスラム系テロ組織ジェマ・イスラミア(JI)といった、老舗的なテロ組織の力が、治安当局の「掃討作戦」によって低下する中で、小規模グループの「新しい細胞」が台頭していることは、すでに指摘されているところだ。
彼らこそが、インドネシアにおいてはこれまでになかった新しい手法を、実行に移している主体である。
毒物テロが発覚する以前の目新しい手法としては、例えば、本をくりぬき、その中に爆弾を仕掛けた「本爆弾」があった。この爆弾は3月、ジャカルタの警察関係者、イスラム穏健団体の本部などに送りつけられ、このときは4人の負傷者を出している。
ここ数カ月で治安当局はテロリスト数十人を逮捕、今月拘束された、バリ島爆弾テロ(2002年)の容疑者も含まれている。
こうした攻防は、「テロの多様化」という質的な変化に直面している。(シンガポール 青木伸行)
2011年6月18日土曜日
停電だけでも被災証明書 全世帯に発行する自治体続出
【朝日】2011年6月18日19時35分
震災の被災者を対象に20日から東北地方の高速道路が無料化されることを控え、被災市町村の窓口で被災証明書の申請が相次いでいる。
短期間の停電や断水を理由に全世帯に被災証明書を発行する市町村が続出。東北の全住民が「被災者」になりかねない勢いだ。
高速料金は、料金所で市町村発行の罹災(りさい)証明書か被災証明書を示せば無料になる。罹災証明書は市町村が内閣府指針に沿って住宅などの損壊状況を確認して発行するが、被災証明書の発行基準は市町村次第だ。
簡易に発行されるとあって、被災市町村の窓口には被災証明書を求める被災者が殺到している。
福島県いわき市は市内で被災し、避難の可能性があれば発行する。
9日に専用受付場所を設けた。
30分待って被災証明書を手に入れた40代の女性は「原発事故が深刻になったら、すぐに高速で逃げ出せるようにと思って」。
震災の被災者を対象に20日から東北地方の高速道路が無料化されることを控え、被災市町村の窓口で被災証明書の申請が相次いでいる。
短期間の停電や断水を理由に全世帯に被災証明書を発行する市町村が続出。東北の全住民が「被災者」になりかねない勢いだ。
高速料金は、料金所で市町村発行の罹災(りさい)証明書か被災証明書を示せば無料になる。罹災証明書は市町村が内閣府指針に沿って住宅などの損壊状況を確認して発行するが、被災証明書の発行基準は市町村次第だ。
簡易に発行されるとあって、被災市町村の窓口には被災証明書を求める被災者が殺到している。
福島県いわき市は市内で被災し、避難の可能性があれば発行する。
9日に専用受付場所を設けた。
30分待って被災証明書を手に入れた40代の女性は「原発事故が深刻になったら、すぐに高速で逃げ出せるようにと思って」。
【土・日曜日に書く】
特別記者・千野境子 西太平洋の制海権と米中
2011.6.18 02:46
◆東・南シナ海の彼方に
東・南シナ海で拡大する中国の軍事活動に、批判や抗議行動が増している。
来月開催の東南アジア諸国連合(ASEAN)地域フォーラム(ARF)は、昨年につづいて南シナ海の「航行の自由」を俎上(そじょう)に載せ、東アジア・サミットも同様だ。中国の嫌う多国間で問題に対処する形が定着しつつある。
結構なことだが、東・南シナ海だけに目を奪われていてはいけない。なぜなら中国が合わせる照準はもっとずっと先にある。
南シナ海より西のインド洋、東シナ海より東の太平洋、そう、中国が目指すのはインド洋から太平洋までの広大な海域だ。歴史を思い起こせば、スペイン、大英帝国、米国…海を制した国が世界を制してきた。
中国は、初参加の梁光烈国防相がアジア安全保障会議(シャングリラ・ダイアローグ)で、中国脅威論を否定した舌の根も乾かぬうちに海軍艦艇が連日、沖縄・南西諸島近海を通過した。もはや太平洋への並々ならぬ関心を隠しはしない。国営新華社通信は近く西太平洋(ミクロネシア地域)で軍事演習を行うと伝えている。
伝説の桃源郷シャングリラが、中国の脅威を云々(うんぬん)する場となったのは何と皮肉なことだろう。
◆分割管理提案から3年
キーティング元米太平洋軍司令官が訪中した際に、中国高官から太平洋の米中による東西分割管理を提案されたと米上院公聴会で証言したのは2008年3月。同氏は当時、冗談と受け止めたと述べたが、3年後の現実は冗談どころか真実そのものだったことを示している。
シャングリラ・ダイアローグを主催する英国際戦略研究所(IISS)は今年の「ミリタリーバランス2011」で、中国海軍が米第七艦隊の支配する西太平洋で制海権確立のため、能力向上に全力を挙げていると分析した。
今年4月に刊行の防衛省防衛研究所の「中国安全保障レポート」も、「外へ向かう人民解放軍」や「役割を増す軍事外交」について特記する。人民解放軍は国連平和維持活動やソマリア沖・アデン湾の海賊対策活動などに熱心だ。あらゆる機会を利用して能力向上を図ると同時に、国際協調をアピールするのも狙いなのである。
大構想(西太平洋の制海権)を秘め、目標達成のためには労を惜しまず、高い波浪をものともしない。その努力と周到ぶりはなかなかのものだ。米国との過度な軍拡競争により体力を失い、結局は崩壊した旧ソ連の愚を、中国は反面教師としているに違いない。
◆太平洋と日本の国益
中国の影響力はすでに太平洋全域に広がっている。
太平洋島嶼(とうしょ)国の半数をこす7カ国と国交を結び(他は台湾)、温家宝首相や習近平副主席などの首脳訪問から中国艦船の訪問や軍装備品の供与、見返りとしての資源獲得まで、対アフリカと同様の貪欲な外交を展開する。
経済援助は日本はもとより米国をも超えた。米国もさすがに気づいて、クリントン国務長官は今年3月、議会公聴会で米国が中国と太平洋島嶼国地域で影響力を競っていることを認めた上で、資源大国パプアニューギニアやフィジー独裁政権に対する中国の支援に懸念を表明した。
日本も米中の競争に割って入るなどという身に余ることをせずとも、せめて太平洋の現状にもう少し敏感になりたい。
先頃、かつて日本の委任統治領だったミクロネシア・パラオのトリビオン大統領が、密漁船対策に反捕鯨団体で国際指名手配中のシー・シェパードの支援を取り付け、日本の水産庁はじめ関係者を驚愕(きょうがく)させた。
大統領が翻意し支援は反古(ほご)になったが、経済的に脆弱(ぜいじゃく)な太平洋島嶼国はまた広大な排他的経済水域(EEZ)の警備に悩んでおり、パラオが特別なのではない。助けてくれるなら、中国でもシー・シェパードでもありがたい。
こうした危うい状況に、太平洋地域も多国間連携が重要性を増している。パラオ、マーシャル諸島、ミクロネシア連邦の3カ国と日米豪計6カ国による海上保安能力強化もその一つだ。人口約18万、陸地面積1370平方キロのミクロネシア3カ国のEEZは550万平方キロ。一国では手に余る。
特徴は、豪州海軍以外は海上保安庁(日)や沿岸警備隊(米)が主体なことと、笹川平和財団や日本財団という民も参加しての官民共同事業であることだ。
海軍よりコーストガードの方が現地に受け入れられやすい上に、密漁も海賊もソマリア沖ほど凶暴ではない。しかしたとえ非軍事でも、海上保安能力の向上は台頭する中国に有形無形の牽制(けんせい)球となるだろう。(ちの けいこ)
2011.6.18 02:46
◆東・南シナ海の彼方に
東・南シナ海で拡大する中国の軍事活動に、批判や抗議行動が増している。
来月開催の東南アジア諸国連合(ASEAN)地域フォーラム(ARF)は、昨年につづいて南シナ海の「航行の自由」を俎上(そじょう)に載せ、東アジア・サミットも同様だ。中国の嫌う多国間で問題に対処する形が定着しつつある。
結構なことだが、東・南シナ海だけに目を奪われていてはいけない。なぜなら中国が合わせる照準はもっとずっと先にある。
南シナ海より西のインド洋、東シナ海より東の太平洋、そう、中国が目指すのはインド洋から太平洋までの広大な海域だ。歴史を思い起こせば、スペイン、大英帝国、米国…海を制した国が世界を制してきた。
中国は、初参加の梁光烈国防相がアジア安全保障会議(シャングリラ・ダイアローグ)で、中国脅威論を否定した舌の根も乾かぬうちに海軍艦艇が連日、沖縄・南西諸島近海を通過した。もはや太平洋への並々ならぬ関心を隠しはしない。国営新華社通信は近く西太平洋(ミクロネシア地域)で軍事演習を行うと伝えている。
伝説の桃源郷シャングリラが、中国の脅威を云々(うんぬん)する場となったのは何と皮肉なことだろう。
◆分割管理提案から3年
キーティング元米太平洋軍司令官が訪中した際に、中国高官から太平洋の米中による東西分割管理を提案されたと米上院公聴会で証言したのは2008年3月。同氏は当時、冗談と受け止めたと述べたが、3年後の現実は冗談どころか真実そのものだったことを示している。
シャングリラ・ダイアローグを主催する英国際戦略研究所(IISS)は今年の「ミリタリーバランス2011」で、中国海軍が米第七艦隊の支配する西太平洋で制海権確立のため、能力向上に全力を挙げていると分析した。
今年4月に刊行の防衛省防衛研究所の「中国安全保障レポート」も、「外へ向かう人民解放軍」や「役割を増す軍事外交」について特記する。人民解放軍は国連平和維持活動やソマリア沖・アデン湾の海賊対策活動などに熱心だ。あらゆる機会を利用して能力向上を図ると同時に、国際協調をアピールするのも狙いなのである。
大構想(西太平洋の制海権)を秘め、目標達成のためには労を惜しまず、高い波浪をものともしない。その努力と周到ぶりはなかなかのものだ。米国との過度な軍拡競争により体力を失い、結局は崩壊した旧ソ連の愚を、中国は反面教師としているに違いない。
◆太平洋と日本の国益
中国の影響力はすでに太平洋全域に広がっている。
太平洋島嶼(とうしょ)国の半数をこす7カ国と国交を結び(他は台湾)、温家宝首相や習近平副主席などの首脳訪問から中国艦船の訪問や軍装備品の供与、見返りとしての資源獲得まで、対アフリカと同様の貪欲な外交を展開する。
経済援助は日本はもとより米国をも超えた。米国もさすがに気づいて、クリントン国務長官は今年3月、議会公聴会で米国が中国と太平洋島嶼国地域で影響力を競っていることを認めた上で、資源大国パプアニューギニアやフィジー独裁政権に対する中国の支援に懸念を表明した。
日本も米中の競争に割って入るなどという身に余ることをせずとも、せめて太平洋の現状にもう少し敏感になりたい。
先頃、かつて日本の委任統治領だったミクロネシア・パラオのトリビオン大統領が、密漁船対策に反捕鯨団体で国際指名手配中のシー・シェパードの支援を取り付け、日本の水産庁はじめ関係者を驚愕(きょうがく)させた。
大統領が翻意し支援は反古(ほご)になったが、経済的に脆弱(ぜいじゃく)な太平洋島嶼国はまた広大な排他的経済水域(EEZ)の警備に悩んでおり、パラオが特別なのではない。助けてくれるなら、中国でもシー・シェパードでもありがたい。
こうした危うい状況に、太平洋地域も多国間連携が重要性を増している。パラオ、マーシャル諸島、ミクロネシア連邦の3カ国と日米豪計6カ国による海上保安能力強化もその一つだ。人口約18万、陸地面積1370平方キロのミクロネシア3カ国のEEZは550万平方キロ。一国では手に余る。
特徴は、豪州海軍以外は海上保安庁(日)や沿岸警備隊(米)が主体なことと、笹川平和財団や日本財団という民も参加しての官民共同事業であることだ。
海軍よりコーストガードの方が現地に受け入れられやすい上に、密漁も海賊もソマリア沖ほど凶暴ではない。しかしたとえ非軍事でも、海上保安能力の向上は台頭する中国に有形無形の牽制(けんせい)球となるだろう。(ちの けいこ)
2011年6月17日金曜日
原発作業員 暴力団系派遣会社が超ピンハネで集めるケースも
原発作業員 暴力団系派遣会社が超ピンハネで集めるケースも
(NEWSポストセブン - 06月17日 07:10)
福島第一原発の事故処理は、それ自体が、“巨大ビジネス”になろうしている。誰がどのように動き始めているのか、ジャーナリストの伊藤博敏氏がレポートする。
原発の事故処理にいち早く反応したのはゼネコン。大成建設は、東京電力からの要請を受けて、震災直後に130人を福島第一へ送り込んだ。がれき処理を中心とした復旧作業にあたっている。
その後、他のゼネコンも続き、無線遠隔操作の重機なども使いながら事故対策に奔走。マリコン(海上土木業者)も、港湾の補修、汚染水の海洋流出に対応している。
とはいえ、「怖がって作業員が集まらない」という現実の前で、怪しい影も見え隠れする。激しいピンハネの末に、作業員を集めてくるのは暴力団系派遣会社、というケースがある。
また、暴力団系業者のなかには、混乱に乗じて被災地の土建会社を資金力で企業買収し、チェック体制が緩んでいるのをいいことに、東電からの特命発注、随意契約で儲けを目論むところもある。
事故処理のための、「なんでもあり」の総力戦は今後も続くが、東電がカネを吐き出していくのはこれからだ。
事故後、三井住友銀行などメガバンクから2兆円を調達、当面の費用はそれで賄ったが、これから「汚染水処理」と1号機から4号機の「廃炉」へ向けた作業が始まる。費用は数兆円単位とも言われる。
普通なら倒産だが、原発賠償機構を設立のうえ、政府が交付国債で資金繰りを支えることになった。
※SAPIO 2011年6月29日号
(NEWSポストセブン - 06月17日 07:10)
福島第一原発の事故処理は、それ自体が、“巨大ビジネス”になろうしている。誰がどのように動き始めているのか、ジャーナリストの伊藤博敏氏がレポートする。
原発の事故処理にいち早く反応したのはゼネコン。大成建設は、東京電力からの要請を受けて、震災直後に130人を福島第一へ送り込んだ。がれき処理を中心とした復旧作業にあたっている。
その後、他のゼネコンも続き、無線遠隔操作の重機なども使いながら事故対策に奔走。マリコン(海上土木業者)も、港湾の補修、汚染水の海洋流出に対応している。
とはいえ、「怖がって作業員が集まらない」という現実の前で、怪しい影も見え隠れする。激しいピンハネの末に、作業員を集めてくるのは暴力団系派遣会社、というケースがある。
また、暴力団系業者のなかには、混乱に乗じて被災地の土建会社を資金力で企業買収し、チェック体制が緩んでいるのをいいことに、東電からの特命発注、随意契約で儲けを目論むところもある。
事故処理のための、「なんでもあり」の総力戦は今後も続くが、東電がカネを吐き出していくのはこれからだ。
事故後、三井住友銀行などメガバンクから2兆円を調達、当面の費用はそれで賄ったが、これから「汚染水処理」と1号機から4号機の「廃炉」へ向けた作業が始まる。費用は数兆円単位とも言われる。
普通なら倒産だが、原発賠償機構を設立のうえ、政府が交付国債で資金繰りを支えることになった。
※SAPIO 2011年6月29日号
2011年6月13日月曜日
2012年の米大統領選挙に向けた主な日程
2012年の米大統領選挙に向けた主な日程
(ロイター - 06月13日 15:30)
[13日 ロイター] 2012年の米大統領選挙に向け、野党共和党の候補指名をかけた候補者討論会が13日、ニューハンプシャー州マンチェスターで開催される。
討論会にはミット・ロムニー前マサチューセッツ州知事やティム・ポーレンティー前ミネソタ州知事、ニュート・ギングリッチ元下院議長、ロン・ポール下院議員、リック・サントラム元上院議員、元ピザチェーン経営者のハーマン・ケイン氏、ミシェル・バックマン下院議員ら7人の有力候補者が出席する。米東部時間午後8時に開始され、その模様は全米に向けてテレビ中継される。
ロムニー氏、ギングリッチ氏、バックマン氏の3人は、サウスカロライナ州で先月開かれた最初の討論会には参加しなかった。このうち、バックマン氏はまだ大統領選への出馬を正式表明していないものの、向こう数週間内には表明する見通し。ジョン・ハンツマン前駐中国米大使も11日に近く出馬を表明する考えを明らかにしたが、今回の討論会には出席しない。
2008年の同党副大統領候補だったサラ・ペイリン前アラスカ州知事とテキサス州のリック・ペリー知事は、指名争いに名乗りを上げるかどうかを依然検討している。
候補者選びは伝統的にアイオワ州とニューハンプシャー州の党員集会や予備選で幕を開けるが、フロリダ州など他州が前倒しで候補者選びを開催する計画を遂行するかどうかで日程が変わる可能性もある。アイオワ州とニューハンプシャー州の関係者は、両州で大統領選の候補者指名プロセスを開始できるよう、必要に応じて日程を調整する方針を示している。
大統領選挙に向けた今後の主な日程。
2011年
6月13日 ニューハンプシャー州で共和党候補者討論会
8月11日 アイオワ州で共和党候補者討論会
8月13日 アイオワ州で共和党模擬投票(序盤戦の大きな試金石)
9月 7日 カリフォルニア州レーガン大統領図書館で共和党候補者討論会
9月22─24日 フロリダ州共和党がオーランドで候補者討論会と模擬投票を開催
10月18日 ネバダ州ラスベガスで共和党候補者討論会
12月10─11日 アイオワ州で共和党候補者討論会
2012年
1月30日 アイオワ州で共和党候補者討論会
2月 6日 アイオワ州党員集会(候補者指名争いが正式スタート)
2月14日 ニューハンプシャー州予備選
2月18日 ネバダ州党員集会
2月28日 サウスカロライナ州予備選
3月 6日 スーパーチューズデー(予備選・党員集会が集中)
8月27─30日 フロリダ州タンパで共和党全国大会
9月3─6日 ノースカロライナ州シャーロットで民主党全国大会
11月 6日 投票日
(ロイター - 06月13日 15:30)
[13日 ロイター] 2012年の米大統領選挙に向け、野党共和党の候補指名をかけた候補者討論会が13日、ニューハンプシャー州マンチェスターで開催される。
討論会にはミット・ロムニー前マサチューセッツ州知事やティム・ポーレンティー前ミネソタ州知事、ニュート・ギングリッチ元下院議長、ロン・ポール下院議員、リック・サントラム元上院議員、元ピザチェーン経営者のハーマン・ケイン氏、ミシェル・バックマン下院議員ら7人の有力候補者が出席する。米東部時間午後8時に開始され、その模様は全米に向けてテレビ中継される。
ロムニー氏、ギングリッチ氏、バックマン氏の3人は、サウスカロライナ州で先月開かれた最初の討論会には参加しなかった。このうち、バックマン氏はまだ大統領選への出馬を正式表明していないものの、向こう数週間内には表明する見通し。ジョン・ハンツマン前駐中国米大使も11日に近く出馬を表明する考えを明らかにしたが、今回の討論会には出席しない。
2008年の同党副大統領候補だったサラ・ペイリン前アラスカ州知事とテキサス州のリック・ペリー知事は、指名争いに名乗りを上げるかどうかを依然検討している。
候補者選びは伝統的にアイオワ州とニューハンプシャー州の党員集会や予備選で幕を開けるが、フロリダ州など他州が前倒しで候補者選びを開催する計画を遂行するかどうかで日程が変わる可能性もある。アイオワ州とニューハンプシャー州の関係者は、両州で大統領選の候補者指名プロセスを開始できるよう、必要に応じて日程を調整する方針を示している。
大統領選挙に向けた今後の主な日程。
2011年
6月13日 ニューハンプシャー州で共和党候補者討論会
8月11日 アイオワ州で共和党候補者討論会
8月13日 アイオワ州で共和党模擬投票(序盤戦の大きな試金石)
9月 7日 カリフォルニア州レーガン大統領図書館で共和党候補者討論会
9月22─24日 フロリダ州共和党がオーランドで候補者討論会と模擬投票を開催
10月18日 ネバダ州ラスベガスで共和党候補者討論会
12月10─11日 アイオワ州で共和党候補者討論会
2012年
1月30日 アイオワ州で共和党候補者討論会
2月 6日 アイオワ州党員集会(候補者指名争いが正式スタート)
2月14日 ニューハンプシャー州予備選
2月18日 ネバダ州党員集会
2月28日 サウスカロライナ州予備選
3月 6日 スーパーチューズデー(予備選・党員集会が集中)
8月27─30日 フロリダ州タンパで共和党全国大会
9月3─6日 ノースカロライナ州シャーロットで民主党全国大会
11月 6日 投票日
2011年6月12日日曜日
能力高い外国人優遇へ、職歴や年収などを点数化
(読売新聞 - 06月12日 03:06)
政府は日本での就労を希望する外国人について、学歴や職歴、年収などを点数化し、高得点者を優遇する「ポイント制」を年内に導入する方針を固めた。
高度な能力や技能を持つ外国人労働者の受け入れを促進し、日本の技術革新や経済成長につなげるねらいがある。
アジア各国との人材獲得競争に勝ち抜くために必要だとして、経済界が政府に要請していた。
法務省の素案によると、制度の対象は、「学術研究」「高度専門・技術」「経営・管理」の三つの分野で活動している外国人。
詳細な評価基準を事前に示して、客観的評価を100点満点で行う方針だ。
例えば、「経営・管理」分野では、学歴(配点35点)と職歴(15点)、年収(35点)、企業での地位(15点)を基礎配点とし、日本語力や就労企業によってボーナス加点し70点を合格ラインとする方向で調整している。
政府は日本での就労を希望する外国人について、学歴や職歴、年収などを点数化し、高得点者を優遇する「ポイント制」を年内に導入する方針を固めた。
高度な能力や技能を持つ外国人労働者の受け入れを促進し、日本の技術革新や経済成長につなげるねらいがある。
アジア各国との人材獲得競争に勝ち抜くために必要だとして、経済界が政府に要請していた。
法務省の素案によると、制度の対象は、「学術研究」「高度専門・技術」「経営・管理」の三つの分野で活動している外国人。
詳細な評価基準を事前に示して、客観的評価を100点満点で行う方針だ。
例えば、「経営・管理」分野では、学歴(配点35点)と職歴(15点)、年収(35点)、企業での地位(15点)を基礎配点とし、日本語力や就労企業によってボーナス加点し70点を合格ラインとする方向で調整している。
2011年6月11日土曜日
中国海軍の拡大はどのような影響を与えるか
【ロシアの声】10.06.2011, 14:36
折木良一・統合幕僚長は、中国海軍の活動が活発化していることに懸念の念を表明している。
中国海軍の艦船11隻が沖縄本島と宮古島の間にある中立海域を通過した事件について、折木統合幕僚長は、中国海軍の活発化に懸念を表明し、必要な観察を行い、警戒感を引き上げると強調している。
日本側は、中国海軍の艦船が日本の領海を侵してはいないことを認めている。中立海域の航行は、国際海洋法に規定されている船舶航行自由の原則に則ったものだ。
どちらにせよ、中国の諸隣国は、中国海軍の活発化を警戒しているほか、中国による空母建設計画についても警戒感がもたれている。最近中国のチェン・ビンデ参謀長は、中国史上はじめてとなる空母建設について、情報を認めている。最近5年間で、中国の海洋政策にはアプローチの変化が見られており、あたかも「海洋拡大戦略」が描かれているようにも見える。
雑誌「ナショナル・ディフェンス」紙の編集長であり、軍事専門家でもあるイーゴリ・コロトチェンコ氏は、「ロシアの声」とのインタビューに答え、次のように指摘している。
―主要な問題としてあるのが、空母に搭載する艦上戦闘機をどのように調達するか、ということです。ロシアからスホイ33型戦闘機を購入するための交渉が行われていましたが、結局妥結には至りませんでした。中国側の発注数が限られたものであり、おそらくコピーを製造するためのものと思われたため、ロシア側は売却を拒否したわけです。しかし、ある情報筋によれば、中国側はウクライナで調達した戦闘機のコピー製造に成功したとの情報も入っています。
しかしロシアの専門家らは、中国が近いうちに完全な形での艦上戦闘機の量産に入るとは見ておらず、ロシアと中国の間での軍事協力の可能性は残っているといえる。
一方で、中国のライバルであるインドも発展をつづけているため、中国にはそれほどの時間的余裕がないというのも確かだ。インドは20年間で約500億ドルを使って100隻以上の軍艦を建造している。
またアメリカも自らのプレゼンスを縮小しようとは考えていない。カート・キャンプベル国務補佐官は、オバマ政権は現在、アジアにおけるプレゼンスを保つために地域での軍事戦略の再編を進めているとしている。
全体として、アジア太平洋地域においては、冷戦終結以後見られなかったような軍拡競争が進んでおり、いまやアメリカ、インド、中国の三つ巴となっている。そのことはほかの諸国の追随も招くことで、さらなる不安定化をもたらすことだろう。
折木良一・統合幕僚長は、中国海軍の活動が活発化していることに懸念の念を表明している。
中国海軍の艦船11隻が沖縄本島と宮古島の間にある中立海域を通過した事件について、折木統合幕僚長は、中国海軍の活発化に懸念を表明し、必要な観察を行い、警戒感を引き上げると強調している。
日本側は、中国海軍の艦船が日本の領海を侵してはいないことを認めている。中立海域の航行は、国際海洋法に規定されている船舶航行自由の原則に則ったものだ。
どちらにせよ、中国の諸隣国は、中国海軍の活発化を警戒しているほか、中国による空母建設計画についても警戒感がもたれている。最近中国のチェン・ビンデ参謀長は、中国史上はじめてとなる空母建設について、情報を認めている。最近5年間で、中国の海洋政策にはアプローチの変化が見られており、あたかも「海洋拡大戦略」が描かれているようにも見える。
雑誌「ナショナル・ディフェンス」紙の編集長であり、軍事専門家でもあるイーゴリ・コロトチェンコ氏は、「ロシアの声」とのインタビューに答え、次のように指摘している。
―主要な問題としてあるのが、空母に搭載する艦上戦闘機をどのように調達するか、ということです。ロシアからスホイ33型戦闘機を購入するための交渉が行われていましたが、結局妥結には至りませんでした。中国側の発注数が限られたものであり、おそらくコピーを製造するためのものと思われたため、ロシア側は売却を拒否したわけです。しかし、ある情報筋によれば、中国側はウクライナで調達した戦闘機のコピー製造に成功したとの情報も入っています。
しかしロシアの専門家らは、中国が近いうちに完全な形での艦上戦闘機の量産に入るとは見ておらず、ロシアと中国の間での軍事協力の可能性は残っているといえる。
一方で、中国のライバルであるインドも発展をつづけているため、中国にはそれほどの時間的余裕がないというのも確かだ。インドは20年間で約500億ドルを使って100隻以上の軍艦を建造している。
またアメリカも自らのプレゼンスを縮小しようとは考えていない。カート・キャンプベル国務補佐官は、オバマ政権は現在、アジアにおけるプレゼンスを保つために地域での軍事戦略の再編を進めているとしている。
全体として、アジア太平洋地域においては、冷戦終結以後見られなかったような軍拡競争が進んでおり、いまやアメリカ、インド、中国の三つ巴となっている。そのことはほかの諸国の追随も招くことで、さらなる不安定化をもたらすことだろう。
【ノルウェー空軍】 F-16 6機 リビア派遣から撤収
21st Century RNoAF
Libyan no-fly zone : – In a statement, Foreign Minister Jonas Gahr Støre condemned the violence against "peaceful protesters in Libya, Bahrain and Yemen", saying the protests "are an expression of the people’s desire for more participatory democracy.
The authorities must respect fundamental human rights such as political, economic and social rights. It is now vital that all parties do their utmost to foster peaceful dialogue on reforms.".[6]
On march 19th 2011 the Norwegian government authorized The Royal Norwegian Air Force to head for Libya and prepare for missions there.
Norway has approved 6 General Dynamics F-16 Fighting Falcon fighters and necessary personnel.
These fighters will head for Greece on March 21 and operate from the Souda Air Base in Souda Bay on Greece
.[7] On March 24, 2011, F16s from the Royal Norwegian Air Force was assigned to the US North African command and the Operation Odyssey Dawn . A number of Norwegian F-16s took off from their base in Greece for their first mission over Libya.[8][9] On March 25, 2011, 3 laserguided bombs were launched from 2 F-16s of the Royal Norwegian Air Force against Libyan tanks and during the night towards March 26 an airfield was bombed. . Equipment also depolyed to Operation Unified Protector on march 26th 2011.[10][11] By April 26, 2011 the Norwegian F16's had dropped over 200 bombs.[12][13] It was Norwegian F-16s that on the night towards April 26, bombed Gaddafis headquarter in Tripoli [13][14][15][16]
^ Forsvarsnett: 333 Skvadron Forsvarsnett: The “neversleeping eye” in the north
^ Norwegian military aviation OrBat
^ Forsvarsnett: Saab Safari
Libyan no-fly zone : – In a statement, Foreign Minister Jonas Gahr Støre condemned the violence against "peaceful protesters in Libya, Bahrain and Yemen", saying the protests "are an expression of the people’s desire for more participatory democracy.
The authorities must respect fundamental human rights such as political, economic and social rights. It is now vital that all parties do their utmost to foster peaceful dialogue on reforms.".[6]
On march 19th 2011 the Norwegian government authorized The Royal Norwegian Air Force to head for Libya and prepare for missions there.
Norway has approved 6 General Dynamics F-16 Fighting Falcon fighters and necessary personnel.
These fighters will head for Greece on March 21 and operate from the Souda Air Base in Souda Bay on Greece
.[7] On March 24, 2011, F16s from the Royal Norwegian Air Force was assigned to the US North African command and the Operation Odyssey Dawn . A number of Norwegian F-16s took off from their base in Greece for their first mission over Libya.[8][9] On March 25, 2011, 3 laserguided bombs were launched from 2 F-16s of the Royal Norwegian Air Force against Libyan tanks and during the night towards March 26 an airfield was bombed. . Equipment also depolyed to Operation Unified Protector on march 26th 2011.[10][11] By April 26, 2011 the Norwegian F16's had dropped over 200 bombs.[12][13] It was Norwegian F-16s that on the night towards April 26, bombed Gaddafis headquarter in Tripoli [13][14][15][16]
^ Forsvarsnett: 333 Skvadron Forsvarsnett: The “neversleeping eye” in the north
^ Norwegian military aviation OrBat
^ Forsvarsnett: Saab Safari
2011年6月10日金曜日
【海上自衛隊】 練習艦隊 5月24日晴海埠頭~
http://www.mod.go.jp/msdf/formal/operation/enyo.html
平成23年度遠洋練習航海について
■期間平成23年5月24日(火)~10月27日(木)(156日間)
■派遣部隊練習艦隊司令部
練習艦隊司令官:海将補 大塚 海夫 実習幹部:約180名(うちタイ王国海軍少尉1名)
練習艦「かしま」:艦長 1等海佐 柏原 正俊
練習艦「あさぎり」:艦長 2等海佐 小牟田 秀覚
護衛艦「みねゆき」:艦長 2等海佐 三浦 則文合計 約730名
■訪問(予定)国(寄港順)
米国:アンカレッジ/シアトル/サンフランシスコ/サンディエゴ/タンパ/ノーフォーク/パールハーバーカナダ:バンクーバー/ハリファックスメキシコ:ベラクルス/マンサニーヨパナマ:パナマシティペルー:カヤオチリ:バルパライソ総航程:約55,000km
写真で見る各寄港地での活動
東京湾晴海埠頭~アッツ島・キスカ島沖|
平成23年度遠洋練習航海について
■期間平成23年5月24日(火)~10月27日(木)(156日間)
■派遣部隊練習艦隊司令部
練習艦隊司令官:海将補 大塚 海夫 実習幹部:約180名(うちタイ王国海軍少尉1名)
練習艦「かしま」:艦長 1等海佐 柏原 正俊
練習艦「あさぎり」:艦長 2等海佐 小牟田 秀覚
護衛艦「みねゆき」:艦長 2等海佐 三浦 則文合計 約730名
■訪問(予定)国(寄港順)
米国:アンカレッジ/シアトル/サンフランシスコ/サンディエゴ/タンパ/ノーフォーク/パールハーバーカナダ:バンクーバー/ハリファックスメキシコ:ベラクルス/マンサニーヨパナマ:パナマシティペルー:カヤオチリ:バルパライソ総航程:約55,000km
写真で見る各寄港地での活動
東京湾晴海埠頭~アッツ島・キスカ島沖|
2011年6月9日木曜日
【中国海軍】 851情報収集艦
(艦番号「東調232」→「851」)
排水量:6,000t 全長:130m 速力:20kts 武装:76式37mm連装機関砲1基、61式25mm連装機関砲2基、三連装単魚雷発射管2基 ヘリコプター1機搭載
1999年に就役した情報収集艦で、同型艦はない。
船体中央部にパラボラ・アンテナ、艦橋直前に光学追尾装置用と思われるドームが装備されていることから衛星追跡能力を有する事は確か
船体規模からして比較的近海で中/短射程弾道ミサイルのモニタリングを行うのが主任務と思われる。就役後、電子装備にレドームを装着するなどの改装が施されている。
排水量:6,000t 全長:130m 速力:20kts 武装:76式37mm連装機関砲1基、61式25mm連装機関砲2基、三連装単魚雷発射管2基 ヘリコプター1機搭載
1999年に就役した情報収集艦で、同型艦はない。
船体中央部にパラボラ・アンテナ、艦橋直前に光学追尾装置用と思われるドームが装備されていることから衛星追跡能力を有する事は確か
船体規模からして比較的近海で中/短射程弾道ミサイルのモニタリングを行うのが主任務と思われる。就役後、電子装備にレドームを装着するなどの改装が施されている。
【福島原発】 3号原子炉建屋に散水した陸自隊員が語る
福島第一原子力発電所の水素爆発後、高い放射線量の中で最初に放水を行ったのは、陸上自衛隊木更津駐屯地のヘリコプター部隊だった。
任務にあたった当時の隊員が8日、心境を語った。
放水は、3月17日午前10時前から4回にわたって、水素爆発を起こした3号機の原子炉建屋へ行われた。
1番機のパイロット・伊藤輝紀三佐は当時の様子を「なんとかうまく建屋に放水して、命中させてやろうと、そればかり思っていました。防護マスクをつけたり、鉛のスーツを着たりすると、よりいっそう細かな操作が難しくなったので大変でした」と話した。
当時、隊員は被ばくを防ぐため重さ20キロにもなる鉛の入った防護服を8時間にわたって着用したまま、任務にあたったという。
中嶋建司三曹「機長の放水の合図が来たら、自分が実際に見て確認して、ボタンを押して放水した」 また、消防車を使った地上からの最初の放水は、夜間で目標が見えにくく、緊迫した中での作業となった。
斉藤祐之二曹「『東京電力』の方が、外で(放水をする)方向とここの位置に(放水をして)、というのを手で示された。サーチライトで場所を照らして、放水を実施した」 木更津駐屯地からは現在も、ヘリコプター3機を東日本大震災の被災地の宮城県内に派遣しているということで、24時間態勢の任務が続いている。
任務にあたった当時の隊員が8日、心境を語った。
放水は、3月17日午前10時前から4回にわたって、水素爆発を起こした3号機の原子炉建屋へ行われた。
1番機のパイロット・伊藤輝紀三佐は当時の様子を「なんとかうまく建屋に放水して、命中させてやろうと、そればかり思っていました。防護マスクをつけたり、鉛のスーツを着たりすると、よりいっそう細かな操作が難しくなったので大変でした」と話した。
当時、隊員は被ばくを防ぐため重さ20キロにもなる鉛の入った防護服を8時間にわたって着用したまま、任務にあたったという。
中嶋建司三曹「機長の放水の合図が来たら、自分が実際に見て確認して、ボタンを押して放水した」 また、消防車を使った地上からの最初の放水は、夜間で目標が見えにくく、緊迫した中での作業となった。
斉藤祐之二曹「『東京電力』の方が、外で(放水をする)方向とここの位置に(放水をして)、というのを手で示された。サーチライトで場所を照らして、放水を実施した」 木更津駐屯地からは現在も、ヘリコプター3機を東日本大震災の被災地の宮城県内に派遣しているということで、24時間態勢の任務が続いている。
2011年6月8日水曜日
【山口もえ夫】 尾関茂雄の素顔
”山口もえ夫”尾関茂雄が逮捕
2011年06月08日01時56分
山口もえ夫が「風営法違反容疑」 警視庁逮捕、否認の供述
━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─
【日経】
山口もえさん夫が風営法違反容疑 警視庁逮捕、否認の供述
2011/6/7 21:01
高級クラブを無許可で営業したとして、警視庁保安課は7日、東京都港区西麻布の会員制クラブ「Birth NISHIAZABU」の実質オーナー、尾関茂雄容疑者(36)=渋谷区広尾4=ら2人を風営法違反(無許可営業)の疑いで逮捕した。同課によると、尾関容疑者はタレント、山口もえさんの夫で、「店から金はもらっていたが、経営者としてではない」と容疑を否認している。
逮捕容疑は5月26日、都公安委員会の許可を受けずに、女性店員に男性客らの会話相手などの接客をさせ、風俗営業をした疑い。店の売り上げのうち、毎月300万~400万円が尾関容疑者の口座に入金されていたという。
■時系列
懸賞サイトやら何やらウエブサービス事業の草分け的な存在だったアクシブドットコムを起業
サイバーエージェントに会社を売却
芸能関係でいろいろあり
沖縄・石垣島に逝って、
良からぬ筋の皆様方とより強いご縁を得てあれこれ事業
風営法違反で逮捕
概略は探偵ファイルに
石垣島を本拠地にしていた自己啓発セミナーらしきもの
山口もえ夫を逮捕
http://www.tanteifile.com/diary/2011/06/07_02/index.html
●更新日 06/07●山口もえさんの夫を逮捕
無許可で会員制の高級キャバクラを営んだとして、警視庁保安課は風営法違反の疑いで、タレントの山口もえさんの夫で飲食店運営会社社長、尾関茂雄容疑者(36)=渋谷区広尾=ら男2人を逮捕した。検察および警察当局によると、尾関容疑者の逮捕は別の大きな事件への端緒だ。
昨日、ある別の事件に関して当方の質問に答えた尾関容疑者(6月6日 霞が関地裁前)東大コーチという自己啓発セミナーをご存じだろうか。「コミュニケーションは科学」と謳う。
東京大学が運営しているように見える“自己啓発”セミナーのパンフレット(実物)東京大学が保証した、学内発ベンチャーのような雰囲気だが、東大コーチ株式会社は東京大学とは全く関係ない自己啓発団体だ。尾関容疑者は代表者として、東大コーチの実質的な運営に深く関わっている。パンフレットに写真付きで、メッセージが掲載されている。
女優の山口もえと結婚した当時は、彼が“イケメン”だとみな羨ましがったこれまでIT系の企業家や政治家、芸能人も一部参加していた。その中には数回参加した山口もえさんも含まれている。1日コース10万円、1週間は50万円。1日24時間肉体を徹底的に追い込み、お互いが殴りあう。セミナーが終わると、参加女性を誘うとついてくるほど臨場感が変わっていくという。当時の尾関容疑者を知る関係者はいうーー「尾関は“洗脳セミナー”に関わり全く変わった。山口もえと考え方も合わなくなり、本当に殴り合いのケンカになっていた。尾関は強引に山口もえを洗脳セミナーに参加させていた」
出産後、テレビ出演は控えている山口もえさん現代洗脳に詳しい脳科学者の苫米地英人の教材(バーチャルDr.苫米地ワークスシリーズ)を販売するトゥールビオンエンタープライズ社の担当者は明かすーー「確認したところ、名前は言えませんが、東大コーチに関わる人物からある時期にDVDの大量の買い注文があったことは事実です」このセミナーに参加していた一人が鈴木新という人物だ。彼は1億5千万円を勤務先の会社の銀行口座から不正にお金を引き出した罪で、昨年7月に逮捕された。昨日は第一回目の公判(東京地裁)が行われた。「全ての金は尾関に渡した」と鈴木被告は検察に供述している。だが、いまそのお金がどこにあるのか、行方は分かっていない。鈴木被告は尾関容疑者を神と崇拝していた。きのう、逮捕前の尾関容疑者本人に聞いた。質問:本件裁判について何かコメントありませんか。「何もおはなしすることはありません」質問:別司法機関を調査したところ検察が(盗まれた1億5千万円の行方に関して)尾関氏追及の捜査を止めたという話がありますが。何かご存知ですか。「何も知らないですね。初耳です」質問:本件を今後見守るという形ですか。「何もないですね」尾関容疑者はアクシブドットコム(当時本社:東京都渋谷区、代表:尾関)というネットの創業ベンチャーをサイバーエージェントに売った2001年あたりから経営状況が悪くなっている。また、石垣島にレストランを開いたあたりから、地元の裏業界の人間と関係が深くなっている。ここはベンチャー株の未公開株のインサイダー情報の中継地になった土地だ。セミナーはその沖縄で開催されていた。デスク
実際には、内閣府にいろいろと食い込んで、暴力団のフロントと噂されたNPO団体に深く係わり合いがあった
NPOとはクーピーファッションという団体で、障害者団体を装っており
そこにいた構成員がまた… という話
Birth NIshiazabuでアートイベントを頻繁に開催
問題は、NPOの審査が甘すぎて、暴力団がここぞとばかりに食い込んで収拾がつかなくなっているという実態
某インターン派遣団体や、某在宅介護支援団体など、愉快NPOが堂々と営業する
http://www.coupii.npo-jp.net/event_report.html
このクラブ摘発の元ネタとなりました常連顧客に政治家の師弟や大手企業経営幹部などが混ざっており、要するにインサイダー情報を取り出す拠点になっていた
中には、成長著しい企業を棄てた良妻に看病されているはずの韓国籍男性も含まれている
尾関ですがクロニクル(なが多)というおもしろ銘柄ヲチャーには重点監視対象となる大関級クソ企業の取締役に就任
そこのストックオプションを何故か大量にガメたあとで
株価が乱高下したり、それはそれは箱乗りの醍醐味を魅せてくれたその筋の匠の技を心逝くまで鑑賞した。
この辺の話が、あんまりよろしくない公認会計士の方や、あんまりよろしくないほかの上場企業のオーナーや、あんまりよろしくない外資系(を装ったその筋の)ファンドなんかがずっとチラチラしてたわけなんです
尾関と石垣島と沖縄本島の間をコミュータなどでさんざん往復していた地方航空会社にお勤めの方が何人か国外に出てしまって行方が分からない、という話もあるそうです。
尾関はサイバーエージェントにアクシブ株を売却するなどして得た資金の大半を使い尽くしていた
横領事件というか、バイパス事件というか、勝手にエスクロー事件みたいなものも起こしておいでです。
上記探偵ファイルにもありましたが、尾関、要するに中継地になっていた
本尊からは程遠い存在だった。
山口もえ、夫・尾関茂雄の横領報道には無言
http://netafull.net/talent/035548.html
沖縄の話やら自殺した弁護士の話やら、不思議な事案が鈴なりになってるようであります
2011年06月08日01時56分
山口もえ夫が「風営法違反容疑」 警視庁逮捕、否認の供述
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【日経】
山口もえさん夫が風営法違反容疑 警視庁逮捕、否認の供述
2011/6/7 21:01
高級クラブを無許可で営業したとして、警視庁保安課は7日、東京都港区西麻布の会員制クラブ「Birth NISHIAZABU」の実質オーナー、尾関茂雄容疑者(36)=渋谷区広尾4=ら2人を風営法違反(無許可営業)の疑いで逮捕した。同課によると、尾関容疑者はタレント、山口もえさんの夫で、「店から金はもらっていたが、経営者としてではない」と容疑を否認している。
逮捕容疑は5月26日、都公安委員会の許可を受けずに、女性店員に男性客らの会話相手などの接客をさせ、風俗営業をした疑い。店の売り上げのうち、毎月300万~400万円が尾関容疑者の口座に入金されていたという。
■時系列
懸賞サイトやら何やらウエブサービス事業の草分け的な存在だったアクシブドットコムを起業
サイバーエージェントに会社を売却
芸能関係でいろいろあり
沖縄・石垣島に逝って、
良からぬ筋の皆様方とより強いご縁を得てあれこれ事業
風営法違反で逮捕
概略は探偵ファイルに
石垣島を本拠地にしていた自己啓発セミナーらしきもの
山口もえ夫を逮捕
http://www.tanteifile.com/diary/2011/06/07_02/index.html
●更新日 06/07●山口もえさんの夫を逮捕
無許可で会員制の高級キャバクラを営んだとして、警視庁保安課は風営法違反の疑いで、タレントの山口もえさんの夫で飲食店運営会社社長、尾関茂雄容疑者(36)=渋谷区広尾=ら男2人を逮捕した。検察および警察当局によると、尾関容疑者の逮捕は別の大きな事件への端緒だ。
昨日、ある別の事件に関して当方の質問に答えた尾関容疑者(6月6日 霞が関地裁前)東大コーチという自己啓発セミナーをご存じだろうか。「コミュニケーションは科学」と謳う。
東京大学が運営しているように見える“自己啓発”セミナーのパンフレット(実物)東京大学が保証した、学内発ベンチャーのような雰囲気だが、東大コーチ株式会社は東京大学とは全く関係ない自己啓発団体だ。尾関容疑者は代表者として、東大コーチの実質的な運営に深く関わっている。パンフレットに写真付きで、メッセージが掲載されている。
女優の山口もえと結婚した当時は、彼が“イケメン”だとみな羨ましがったこれまでIT系の企業家や政治家、芸能人も一部参加していた。その中には数回参加した山口もえさんも含まれている。1日コース10万円、1週間は50万円。1日24時間肉体を徹底的に追い込み、お互いが殴りあう。セミナーが終わると、参加女性を誘うとついてくるほど臨場感が変わっていくという。当時の尾関容疑者を知る関係者はいうーー「尾関は“洗脳セミナー”に関わり全く変わった。山口もえと考え方も合わなくなり、本当に殴り合いのケンカになっていた。尾関は強引に山口もえを洗脳セミナーに参加させていた」
出産後、テレビ出演は控えている山口もえさん現代洗脳に詳しい脳科学者の苫米地英人の教材(バーチャルDr.苫米地ワークスシリーズ)を販売するトゥールビオンエンタープライズ社の担当者は明かすーー「確認したところ、名前は言えませんが、東大コーチに関わる人物からある時期にDVDの大量の買い注文があったことは事実です」このセミナーに参加していた一人が鈴木新という人物だ。彼は1億5千万円を勤務先の会社の銀行口座から不正にお金を引き出した罪で、昨年7月に逮捕された。昨日は第一回目の公判(東京地裁)が行われた。「全ての金は尾関に渡した」と鈴木被告は検察に供述している。だが、いまそのお金がどこにあるのか、行方は分かっていない。鈴木被告は尾関容疑者を神と崇拝していた。きのう、逮捕前の尾関容疑者本人に聞いた。質問:本件裁判について何かコメントありませんか。「何もおはなしすることはありません」質問:別司法機関を調査したところ検察が(盗まれた1億5千万円の行方に関して)尾関氏追及の捜査を止めたという話がありますが。何かご存知ですか。「何も知らないですね。初耳です」質問:本件を今後見守るという形ですか。「何もないですね」尾関容疑者はアクシブドットコム(当時本社:東京都渋谷区、代表:尾関)というネットの創業ベンチャーをサイバーエージェントに売った2001年あたりから経営状況が悪くなっている。また、石垣島にレストランを開いたあたりから、地元の裏業界の人間と関係が深くなっている。ここはベンチャー株の未公開株のインサイダー情報の中継地になった土地だ。セミナーはその沖縄で開催されていた。デスク
実際には、内閣府にいろいろと食い込んで、暴力団のフロントと噂されたNPO団体に深く係わり合いがあった
NPOとはクーピーファッションという団体で、障害者団体を装っており
そこにいた構成員がまた… という話
Birth NIshiazabuでアートイベントを頻繁に開催
問題は、NPOの審査が甘すぎて、暴力団がここぞとばかりに食い込んで収拾がつかなくなっているという実態
某インターン派遣団体や、某在宅介護支援団体など、愉快NPOが堂々と営業する
http://www.coupii.npo-jp.net/event_report.html
このクラブ摘発の元ネタとなりました常連顧客に政治家の師弟や大手企業経営幹部などが混ざっており、要するにインサイダー情報を取り出す拠点になっていた
中には、成長著しい企業を棄てた良妻に看病されているはずの韓国籍男性も含まれている
尾関ですがクロニクル(なが多)というおもしろ銘柄ヲチャーには重点監視対象となる大関級クソ企業の取締役に就任
そこのストックオプションを何故か大量にガメたあとで
株価が乱高下したり、それはそれは箱乗りの醍醐味を魅せてくれたその筋の匠の技を心逝くまで鑑賞した。
この辺の話が、あんまりよろしくない公認会計士の方や、あんまりよろしくないほかの上場企業のオーナーや、あんまりよろしくない外資系(を装ったその筋の)ファンドなんかがずっとチラチラしてたわけなんです
尾関と石垣島と沖縄本島の間をコミュータなどでさんざん往復していた地方航空会社にお勤めの方が何人か国外に出てしまって行方が分からない、という話もあるそうです。
尾関はサイバーエージェントにアクシブ株を売却するなどして得た資金の大半を使い尽くしていた
横領事件というか、バイパス事件というか、勝手にエスクロー事件みたいなものも起こしておいでです。
上記探偵ファイルにもありましたが、尾関、要するに中継地になっていた
本尊からは程遠い存在だった。
山口もえ、夫・尾関茂雄の横領報道には無言
http://netafull.net/talent/035548.html
沖縄の話やら自殺した弁護士の話やら、不思議な事案が鈴なりになってるようであります
2011年6月7日火曜日
【山口もえ夫】 尾関茂雄(36)を逮捕
池田萌美(32)、大塚一良両容疑者(52)を無許可で高級キャバクラを営業していたとして逮捕。
風営法違反(無許可営業)の現行犯で、
東京都港区西麻布の飲食店「NERO」(ネロ)の経営者、池田萌美容疑者(渋谷区猿楽町)と
近隣ビルに入る「Birth NISHIAZABU」(バース ニシアザブ)の経営者、大塚一良容疑者(港区西麻布)ら男女3人を逮捕した。
ネロは歌舞伎俳優、市川海老蔵さん事件が起きた店と同じビルにある。
池田萌美(32)、大塚一良両容疑者(52)は、今月許可を得ずに、池田萌美、大塚一良両容疑者の店内で接待をさせたとしている。
池田萌美容疑者のネロは今年1月、大塚一良容疑者のバースニシアザブは3月に開店し、これまでに各約1600万円の売り上げがあった。
それぞれホステス役として10人以上の従業員が在籍し、中にはモデルや有名大学の女子学生もいたという。
池田萌美、大塚一良両容疑者の店とも会員制で、出入り口にカメラ付きインターフォンを設置し、来店客をチェック。客には芸能人もいたという。摘発を免れるため、客をチェックする無許可のキャバクラが増えているとみている。
【共同通信】2011年6月7日17時53分
山口もえ夫を逮捕!風営法違反も否認
山口もえの夫で、風営法違反容疑で逮捕された尾関容疑者
無許可で酒食の接待をする風俗営業をしたとして、警視庁保安課は7日、風営法違反(無許可営業)の疑いで東京都渋谷区広尾4丁目、会社社長尾関茂雄容疑者(36)を逮捕した。
保安課によると、尾関容疑者はタレント山口もえ(33)の夫。「お金はもらっていたが、経営者ではない」と容疑を否認している。
逮捕容疑は5月26日夜、港区西麻布2丁目の会員制飲食店「バースニシアザブ」で、風俗営業の許可を取らずに、女性従業員を客に同席させ、酒を提供するなどの接待行為をさせた疑い。
保安課によると、同店は尾関容疑者が2004年に開店した後、知人の男(52)=同法違反容疑で逮捕=に営業権を売却。しかし、その後も尾関容疑者が店の経営を指示していたほか、毎月数百万円を店側から受け取っていたことから、保安課は実質経営者だったとみている。
風営法違反(無許可営業)の現行犯で、
東京都港区西麻布の飲食店「NERO」(ネロ)の経営者、池田萌美容疑者(渋谷区猿楽町)と
近隣ビルに入る「Birth NISHIAZABU」(バース ニシアザブ)の経営者、大塚一良容疑者(港区西麻布)ら男女3人を逮捕した。
ネロは歌舞伎俳優、市川海老蔵さん事件が起きた店と同じビルにある。
池田萌美(32)、大塚一良両容疑者(52)は、今月許可を得ずに、池田萌美、大塚一良両容疑者の店内で接待をさせたとしている。
池田萌美容疑者のネロは今年1月、大塚一良容疑者のバースニシアザブは3月に開店し、これまでに各約1600万円の売り上げがあった。
それぞれホステス役として10人以上の従業員が在籍し、中にはモデルや有名大学の女子学生もいたという。
池田萌美、大塚一良両容疑者の店とも会員制で、出入り口にカメラ付きインターフォンを設置し、来店客をチェック。客には芸能人もいたという。摘発を免れるため、客をチェックする無許可のキャバクラが増えているとみている。
【共同通信】2011年6月7日17時53分
山口もえ夫を逮捕!風営法違反も否認
山口もえの夫で、風営法違反容疑で逮捕された尾関容疑者
無許可で酒食の接待をする風俗営業をしたとして、警視庁保安課は7日、風営法違反(無許可営業)の疑いで東京都渋谷区広尾4丁目、会社社長尾関茂雄容疑者(36)を逮捕した。
保安課によると、尾関容疑者はタレント山口もえ(33)の夫。「お金はもらっていたが、経営者ではない」と容疑を否認している。
逮捕容疑は5月26日夜、港区西麻布2丁目の会員制飲食店「バースニシアザブ」で、風俗営業の許可を取らずに、女性従業員を客に同席させ、酒を提供するなどの接待行為をさせた疑い。
保安課によると、同店は尾関容疑者が2004年に開店した後、知人の男(52)=同法違反容疑で逮捕=に営業権を売却。しかし、その後も尾関容疑者が店の経営を指示していたほか、毎月数百万円を店側から受け取っていたことから、保安課は実質経営者だったとみている。
東日本大震災:当選後も仮設未入居多く 食料打ち切り不安か--宮城・南三陸
【産経】
仮設住宅当選も避難所居残り
2011.6.5 11:51
宮城県南三陸町の被災者の多くが避難する鳴子温泉では、食べきれないほどの食事が毎日3食出る。この日は豚バラの串焼き、カツオの刺し身、グレープフルーツにキャベツのお浸し、茶碗蒸しまで付いていた=3日、宮城県大崎市(荒船清太撮影)
東日本大震災で家に住めなくなった被災者のうち、仮設住宅の抽選に当たっても避難所に残る人がいる。仮設住宅では食事や飲用水、通院などに支障をきたすというのだ。一方、「早く仮設に入りたい」と切望する多くの落選者もいる。さまざまな住民の「住まい」への思い。板挟みにあった宮城県南三陸町は仮設住宅への入居期限に締め切りを設けるなど、対策を強化し始めた。(荒船清太)
■ここは3食出る
宮城県大崎市の鳴子温泉の宿泊施設に避難している南三陸町の佐々木とし江さん(79)は、4月29日に南三陸町内の仮設住宅に当選した。
しかし、当選後の説明会で、仮設住宅からは病院への無料送迎車が出ないことや食事の配布がないことを知り、今も鳴子温泉に残っている。
腰と肩とひざを痛め、ふくらはぎもむくみ、歩行補助車を使って歩くのがやっと。震災前は介護ヘルパーに買い物をしてもらっていたが、今はそれもない。「足腰もろくに立たないのに3食作れというのか」と、ベッドで体の痛みに顔をゆがませた。
知的障害を抱えた孫の賢さん(26)と2人暮らし。町には6月中の移動を促されている。頼りにしていた兄は津波で流された。
「どう食べて、通院すればいいのか。このまま移れば、仮設で死ぬだけだ」と訴える。
母親(74)と妻(45)、1歳から18歳の子供4人で鳴子温泉に避難している大工の男性(45)も仮設住宅に当選しながら“残留組”だ。
「いつかは避難所を出なくてはいけない」と応募したが、中学3年の次女(14)が「友達と離れたくない」と反対。さらに、仮設住宅では津波の影響で水道水の塩分が高くて飲めないと知った。移れば、給水車に頼る生活になる。男性は「ここは3食出る。当面、この施設にいたい」と希望している。
■入居期限を設定
仮設住宅に当選しても移らない被災者に対し、南三陸町も対策を取らざるを得ない。町民約700人が避難する鳴子温泉の宿泊施設には国から1人1泊5千円が支給されている。仮設住宅への入居が決定している人には、支給は続けられないという理由だ。
同町建設課によると、仮設住宅の鍵の受け渡し後も入居していない世帯は数十戸。4月22日の第1回抽選の当選者にも未入居者がいる。
これまでは個別に説得していたが、「待っている落選者もいる」として、5月下旬から鍵を渡す際に1週間以内の入居を要請するようにした。6月中には仮設住宅を一度見回り、未入居の場合、入居を取り消して補欠当選の被災者や次の抽選に回すことも検討しているという。
■いつまで待てば
一方で、多くの被災者は一日も早い仮設住宅への入居を望んでいる。
南三陸町のホテル「南三陸ホテル観洋」に避難している主婦、菅原美穂さん(37)はいまだに仮設住宅に当選していない。
高校1年の長女、ひなたさん(15)は周りの友人が弁当持参で登校するなか、避難所から配給されたパンを持っていく毎日。菅原さんは「水なんかなくていい。一日も早く、娘に弁当を持たせてやりたい」と話す。
いつでも仮設住宅に移れるよう、服や生活用品は段ボールに入れたままだ。「住まいが落ち着かなければ仕事先も決められない。欲しい人に当たらず、当たった人は入らない。いつまで待てばいいのか」とため息をつく。
【毎日】
東日本大震災:当選後も仮設未入居多く 食料打ち切り不安か--宮城・南三陸
仮設住宅の入居者らを対象に開かれた説明会=宮城県南三陸町戸倉坂本で2011年6月5日午前10時4分、村尾哲撮影
宮城県南三陸町で、被災者が仮設住宅の抽選に当たりながら入居していないケースが多発している。入居した場合、食料の支給を打ち切られることなどへの不安が背景にあるとみられる。
仮設住宅への当選を待望して避難所暮らしを続ける被災者も多いため、町は5日の住民説明会で、1週間後の今月12日までに入居しない場合には明け渡しを求める対策を明らかにした。
町内の仮設住宅申込件数は2025件で、町は希望者全員を入居させる方針。ただ、5日時点の工事進捗(しんちょく)率は約50%にとどまっており、これまでに抽選に当たって鍵の引き渡しを受けたのは約450世帯という。
一方、被災者から「入居していない部屋があるのはなぜか」などの問い合わせが相次ぎ、町がガスメーターや夜間の照明などを確認したところ、かなりの数が未入居だったことがわかった。入居率が高いとみられる場所でも6~8割という。
背景には▽避難所から仮設住宅に移った場合、食料や物資の支給がなくなり、光熱費も自己負担になる▽働き口など生活基盤がほぼすべて流された中で自活を求められることへの不安が強い--などが挙げられる。
西城彰・町建設課長は5日の説明会で「待機者を早く入れるべきだという声が強い」と理解を求めた。【村尾哲】
【関連記事】
東日本大震災:仮設住宅当選者入居にためらい 生活不安で
東日本大震災:越前焼で仮設住宅にぬくもり…陸前高田
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毎日新聞 2011年6月6日 東京朝刊
仮設住宅当選も避難所居残り
2011.6.5 11:51
宮城県南三陸町の被災者の多くが避難する鳴子温泉では、食べきれないほどの食事が毎日3食出る。この日は豚バラの串焼き、カツオの刺し身、グレープフルーツにキャベツのお浸し、茶碗蒸しまで付いていた=3日、宮城県大崎市(荒船清太撮影)
東日本大震災で家に住めなくなった被災者のうち、仮設住宅の抽選に当たっても避難所に残る人がいる。仮設住宅では食事や飲用水、通院などに支障をきたすというのだ。一方、「早く仮設に入りたい」と切望する多くの落選者もいる。さまざまな住民の「住まい」への思い。板挟みにあった宮城県南三陸町は仮設住宅への入居期限に締め切りを設けるなど、対策を強化し始めた。(荒船清太)
■ここは3食出る
宮城県大崎市の鳴子温泉の宿泊施設に避難している南三陸町の佐々木とし江さん(79)は、4月29日に南三陸町内の仮設住宅に当選した。
しかし、当選後の説明会で、仮設住宅からは病院への無料送迎車が出ないことや食事の配布がないことを知り、今も鳴子温泉に残っている。
腰と肩とひざを痛め、ふくらはぎもむくみ、歩行補助車を使って歩くのがやっと。震災前は介護ヘルパーに買い物をしてもらっていたが、今はそれもない。「足腰もろくに立たないのに3食作れというのか」と、ベッドで体の痛みに顔をゆがませた。
知的障害を抱えた孫の賢さん(26)と2人暮らし。町には6月中の移動を促されている。頼りにしていた兄は津波で流された。
「どう食べて、通院すればいいのか。このまま移れば、仮設で死ぬだけだ」と訴える。
母親(74)と妻(45)、1歳から18歳の子供4人で鳴子温泉に避難している大工の男性(45)も仮設住宅に当選しながら“残留組”だ。
「いつかは避難所を出なくてはいけない」と応募したが、中学3年の次女(14)が「友達と離れたくない」と反対。さらに、仮設住宅では津波の影響で水道水の塩分が高くて飲めないと知った。移れば、給水車に頼る生活になる。男性は「ここは3食出る。当面、この施設にいたい」と希望している。
■入居期限を設定
仮設住宅に当選しても移らない被災者に対し、南三陸町も対策を取らざるを得ない。町民約700人が避難する鳴子温泉の宿泊施設には国から1人1泊5千円が支給されている。仮設住宅への入居が決定している人には、支給は続けられないという理由だ。
同町建設課によると、仮設住宅の鍵の受け渡し後も入居していない世帯は数十戸。4月22日の第1回抽選の当選者にも未入居者がいる。
これまでは個別に説得していたが、「待っている落選者もいる」として、5月下旬から鍵を渡す際に1週間以内の入居を要請するようにした。6月中には仮設住宅を一度見回り、未入居の場合、入居を取り消して補欠当選の被災者や次の抽選に回すことも検討しているという。
■いつまで待てば
一方で、多くの被災者は一日も早い仮設住宅への入居を望んでいる。
南三陸町のホテル「南三陸ホテル観洋」に避難している主婦、菅原美穂さん(37)はいまだに仮設住宅に当選していない。
高校1年の長女、ひなたさん(15)は周りの友人が弁当持参で登校するなか、避難所から配給されたパンを持っていく毎日。菅原さんは「水なんかなくていい。一日も早く、娘に弁当を持たせてやりたい」と話す。
いつでも仮設住宅に移れるよう、服や生活用品は段ボールに入れたままだ。「住まいが落ち着かなければ仕事先も決められない。欲しい人に当たらず、当たった人は入らない。いつまで待てばいいのか」とため息をつく。
【毎日】
東日本大震災:当選後も仮設未入居多く 食料打ち切り不安か--宮城・南三陸
仮設住宅の入居者らを対象に開かれた説明会=宮城県南三陸町戸倉坂本で2011年6月5日午前10時4分、村尾哲撮影
宮城県南三陸町で、被災者が仮設住宅の抽選に当たりながら入居していないケースが多発している。入居した場合、食料の支給を打ち切られることなどへの不安が背景にあるとみられる。
仮設住宅への当選を待望して避難所暮らしを続ける被災者も多いため、町は5日の住民説明会で、1週間後の今月12日までに入居しない場合には明け渡しを求める対策を明らかにした。
町内の仮設住宅申込件数は2025件で、町は希望者全員を入居させる方針。ただ、5日時点の工事進捗(しんちょく)率は約50%にとどまっており、これまでに抽選に当たって鍵の引き渡しを受けたのは約450世帯という。
一方、被災者から「入居していない部屋があるのはなぜか」などの問い合わせが相次ぎ、町がガスメーターや夜間の照明などを確認したところ、かなりの数が未入居だったことがわかった。入居率が高いとみられる場所でも6~8割という。
背景には▽避難所から仮設住宅に移った場合、食料や物資の支給がなくなり、光熱費も自己負担になる▽働き口など生活基盤がほぼすべて流された中で自活を求められることへの不安が強い--などが挙げられる。
西城彰・町建設課長は5日の説明会で「待機者を早く入れるべきだという声が強い」と理解を求めた。【村尾哲】
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東日本大震災:福祉避難所閉鎖、不安抱え移動 岩手・山田
毎日新聞 2011年6月6日 東京朝刊
【東電】 清水社長 謎の行動 /3月11日 奈良旅行
東電社長謎の夫人同伴奈良旅行
出張の中身すら言わぬ「隠ぺい体質」
2011/6/ 7 11:49
奈良からタクシーでなぜ神戸空港を目指したのか
震災発生後の清水社長の行動は、様々な汚点を残した。
清水社長は奈良からタクシーで神戸空港を目指したと伝えられているが、このルートも不可解だ。なぜ最寄りの関西国際空港や伊丹空港から帰京せず、最も遠い神戸空港に向かったのか。
結果的に清水社長は愛知県の航空自衛隊小牧基地から輸送機で東京の東電本店に戻ろうとしたが、離陸直後に「被災地救援を優先すべきだ」との防衛省の指示で輸送機が途中で引き返したため、その日は帰京できなかったのは周知の事実。
翌12日午前に民間のヘリで東京に戻り、初期対応の悪さの一例として国会などでも問題にされた。
電力会社は原発事故など有事に備えてヘリを保有している。それなら、清水社長は関西電力のヘリで帰京することだって可能ではなかったか。
もしも、そうしていたのなら、福島第1原発のベントや海水投入など、社長判断でもっとスムーズに危機管理ができていたのではないか。
しかし、関電にヘリを要請した事実はない。そもそも、関電は当時、東電社長の関西入り自体、知らされていなかったという。
清水社長の奈良行きに限らず、東電の「隠ぺい体質」は目立つ。事故調査委員会などでの徹底した真相解明
出張の中身すら言わぬ「隠ぺい体質」
2011/6/ 7 11:49
奈良からタクシーでなぜ神戸空港を目指したのか
震災発生後の清水社長の行動は、様々な汚点を残した。
清水社長は奈良からタクシーで神戸空港を目指したと伝えられているが、このルートも不可解だ。なぜ最寄りの関西国際空港や伊丹空港から帰京せず、最も遠い神戸空港に向かったのか。
結果的に清水社長は愛知県の航空自衛隊小牧基地から輸送機で東京の東電本店に戻ろうとしたが、離陸直後に「被災地救援を優先すべきだ」との防衛省の指示で輸送機が途中で引き返したため、その日は帰京できなかったのは周知の事実。
翌12日午前に民間のヘリで東京に戻り、初期対応の悪さの一例として国会などでも問題にされた。
電力会社は原発事故など有事に備えてヘリを保有している。それなら、清水社長は関西電力のヘリで帰京することだって可能ではなかったか。
もしも、そうしていたのなら、福島第1原発のベントや海水投入など、社長判断でもっとスムーズに危機管理ができていたのではないか。
しかし、関電にヘリを要請した事実はない。そもそも、関電は当時、東電社長の関西入り自体、知らされていなかったという。
清水社長の奈良行きに限らず、東電の「隠ぺい体質」は目立つ。事故調査委員会などでの徹底した真相解明
<北京女人天下>月収75万円の23歳マッサージ師・趙暁瑞
【コラム】 2011/06/07(火) 11:07
暗く仕切られた四畳半ほどの部屋に、清朝皇帝風の豪華な紅色ベッドが据え置かれている。その上に、ゴロンと寝転ぶ「肉塊」。そう、暁瑞にとっては、相手はどれも、大きな「肉塊」でしかない。
一時間から一時間半ほど、まるで粘土を捏ねるように、暁瑞は巧みに「肉塊」を捏ね上げていく。脚の爪先から始めて、踝、膝、腿、腰、背、肩、腕、首、頭へと上がっていく。暁瑞にとっては、まさに琴でも奏でている感覚である。
その間、多くの「肉塊」は鼾をかき、極楽浄土の上を彷徨っている。最後は、肩を揺するように揉んで、「完了!」(終わりました)と掛け声をかける。一丁上がりだ。
暁瑞は、このチェーン店が抱える約1万5000人のマッサージ師の中で、わずか3人だけに与えられた「超特級」の称号の持ち主である。
大方のマッサージ師は、一日に3~4人の相手をするが、暁瑞の場合、10人を下ることはない。午前11時から深夜2時まで、指名の予約がビッシリ入っていて、休む間もなく「肉塊との格闘」が続く。
マッサージの料金は、暁瑞を指名すれば、1時間あたり500元(約6300円)である。うち半額が、暁瑞の取り分だ。このためひと月の収入は、6万元(約75万円)を下らない。平均的北京市民の約2年分の年収に匹敵する額だ。
このマッサージ・チェーン店「優子」は、中国北部を中心に、中国最大の約1000店舗を展開している。
マッサージ師や従業員の大半が、河南省出身者というのが特徴だ。それは、オーナーが河南省出身だからで、多くの中国人の特性として、同郷の者しか信用しないからである。
鄭州郊外の一工員から叩き上げ、わずか15年で、中国北部の各都市に、巨大なマッサージ店網を築き上げた。「優子」という店名は、オーナーがかつて恋をしていた日本人女性の名前から取った。実らぬ恋ではあったが、いまや中国北部では、日本人女性の代名詞となっている。
この会社の本社は鄭州にあるが、本店は約10年前に北京に移した。「北三環」(第三環状線北路)と「北四環」(第四環状線北路)の間、かつてモンゴル人が元代に築いた城壁跡のすぐ隣に、3階建ての「宮殿風店舗」が鎮座する。
1階は北京地区の全支店を統括するオフィスとレストランになっており、2階は「2級」と「1級」のマッサージ師200人ほどが、客にマッサージを行う。3階は、高級なカフェバーとサウナ、浴室、マッサージ室から成っていて、ここに控えるのは「特級」のマッサージ師10人と、「超特級」の3人である。その最上階の一番奥、「皇帝の寝所」と名付けられた一室が、暁瑞の「仕事場」というわけだ。
趙暁瑞は、1988年に、河南省洛陽郊外の貧民地区の長屋で生まれた。父親は、暁瑞が知る限り、目まぐるしく職業を変えていた。近くの小学校の警備員をしていたかと思えば、旅館の宴会場の給仕をやっていたりする。印刷所に出入りし、海賊版の本を売っていた時期もあったし、明らかに盗品と思える中古自転車を転売していた時期もある。だが万事飽きっぽく、怠け者の性格のため、いつまで経っても一家が貧民地区を抜け出すことはなかった。
母親の職業も、長らく不明だった。午前中はたいてい寝ていて、午後の遅い時間や夜になると、派手な口紅をつけて、どこかへ出掛けていった。父親とは、家庭内別居のような状態が永く続き、顔を見合わせては罵り合っていた。暁瑞は母親と一緒に寝ていたが、たいていは放っぽらかしにされた。そんな母親は、暁瑞が小学校を卒業する直前に姿を消し、二度と帰ってこなかった。人民解放軍の軍人と駆け落ちしたという噂が長屋内に広まったが、真相は杳として知れない。
暁瑞はそんな母親とは気が合わなかったが、父親とはもっと合わなかった。母親が使っていた狭い部屋をそのまま使い、中学を卒業すると、村で唯一つの大通りに面した、床屋の掃除婦となった。日給は一日1元(約12.5円)だった。
なぜ床屋に「就職」したかと言えば、近所で一番、輝いて見えたからである。昼間は普通の床屋だったが、日が暮れると、原色のネオンを灯し、鄙びた通りに一片のアクセントを添えていた。
この店の「営業内容」は、掃除婦になって初めて知った。暁瑞は朝9時の開店前に床屋へ行き、日中は、店員が切り落とした髪を掃き、その合い間に、裏手でタオル類の洗濯と整理を行う。夕刻になって客がいなければ、1元の駄賃をもらって帰る。
暁瑞と入れ違うように、夕刻になると「マッサージ師」と呼ばれる若い女性たちが、ドヤドヤと入店してくる。彼女たちは派手な口紅を付け、肌を露出させたケバケバしい服装をしていて、店で暁瑞と挨拶を交わすことはなかった。
暁瑞は、中学生の時から、深刻な容姿コンプレックスを持っていた。貌から足元に至るまで、自分のすべてが醜いと感じていた。貌は浅黒く、サルのようだった。骨格はごっつくて豚のようだし、脚は凹脚で、熊の肢のように太かった。
だから夕方になると、華やかな女性たちに引け目を感じて、そそくさと帰っていた。だが、勤め出して半年ほど経った頃、腹の出た店長が、「深夜まで勤務すれば一日2元やるぞ」というので、夜まで延長して掃除係をやることにした。
夜の仕事場は、1階ではなく2階だった。
客は1階の床屋椅子に座り、5~6人いる女性の中から、お気に入りのコを指名する。そして、手を繋いでいそいそと2階へ上がっていく。2階は仕切られた狭い個室が4部屋あって、それぞれの部屋の中には、汚らしいベッドが一台置いてあるだけだ。2階の「喘ぎ声」が止んで、客と「マッサージ師」が降りてくると、暁瑞は2階へ上がり、部屋を片付ける。その繰り返しだった。
2階の部屋はオンボロだったため、ドアにカギさえ付いていなかった。そのため、何度か部屋の中を盗み見してしまったことがある。女が寝台に仰臥し、男たちは恍惚の表情で身体を揺すっていた。暁瑞は自分の容姿にとんと自信がなかったので、あそこまで男体を酔わせる「マッサージ師」が羨ましく思えた。
暁瑞が18歳になった年に、洛陽にマッサージ師の養成学校ができたという話を聞いて、居ても立ってもいられなくなった。ある時、初めて休みをもらって、バスを乗り継いで洛陽まで出掛けていった。かつて13の王朝の都だったというだけあって、洛陽の街は雄大だった。そこここに咲き誇る牡丹の花も美しく、夢を見ているようだった。
「優子マッサージ研修センター」という看板をようやく見つけ、中へ入って行くと、受付の女性が、懇切丁寧に説明してくれた。研修は半年コースであること、研修費は他の専門学校よりかなり割安なこと、優秀な卒業生は北京の直営店で就職できることなどである。これまで3年間コツコツと貯めた金をはたけば、学費はギリギリ何とかなった。そこで暁瑞は早速、来月からの研修を申し込んだ。家へ戻る途中で床屋へ寄り、中年太りの店長に、暇を告げた。
半年間の研修は、いま思い出しても、まるで軍隊に入隊したかのような辛い日々だった。日課は、朝9時から腕立て伏せ100回、続いて指立て伏せ100回。その後、サンドバッグを使って、ひたすら揉む練習を、一時間半行う。
午後は人体のツボの暗記。人骨模型を前にして、頭から爪先まで、通天、天柱、大椎、大木予、附分、肺兪、心兪、肝兪、脾兪、腎兪、上骨寥、秩辺、会陽、承扶、委陽、委中、合陽、承筋、承山、飛揚、崑崙、人ト参、申脈、至陰……と、覚えていく。人体とは、ツボの集積なのだ。その後、講師の男性を客に見立てたマッサージの実践を、2時間以上にわたって行う。
毎日が、この単調なコースの繰り返しだった。100人以上いた「同期生」は、一週間で半分以下に減った。1カ月経つと20人以下になり、前の月のグループと合併された。
研修期間中、暁瑞は毎晩深夜バスの席に腰掛け、饅頭のように膨れ上がった両手を眺めては、一人悦に入った。講師の男性たちは、研修生たちを汚い言葉で罵ったが、暁瑞は誉められこそすれ、一度も叱られたことがなかった。自分は確かに、他人よりはこの分野で才能があるようだった。何よりマッサージをしていると、自分の肉体コンプレックスを忘れられるのが嬉しかった。
半年間の研修が終わった時、暁瑞は最優秀賞を授与された。学費は返納され、北京の本店での勤務を命じられた。
「優子」の社員やマッサージ師など20名ほどで連れ立って、北京西駅に降り立った。北京西駅は、洛陽駅よりも数倍大きく、目が眩むほどだった。そのままバスに揺られて巨大な首都を北上し、「優子本店」に辿り着いた。
暁瑞は、「158番」という番号札を渡され、それが店での呼び名になった。店の裏手の寮は8人部屋で、二段ベッドが4つ詰め込まれただけの狭い部屋だった。
毎朝10時半過ぎに店に行き、「2級マッサージ師」の制服に着替え、「158番」の名札を付けて、控え室で待つ。フロア・マネージャーに「158番!」と呼ばれると、1時間ほど客にマッサージを施し、終わるとまた、控え室に戻る。その繰り返しで、深夜1時になって客がいなければ、寮に帰ってよい。休日は月に二日間だけだった。
入って3カ月もすると、自分への指名が付き始めた。半年後には、「1級マッサージ師」に昇格された。さらに一年後には、「特級マッサージ師」に格上げになり、3階へ異動した。まさに、同僚たちが羨む異例のスピード出世だった。
だが暁瑞は、別に特別なことをしているつもりはなく、「自分流」は最初だけだった。まず客をうつ伏せにして、脚の爪先から頭のてっぺんまで、両の掌を広げて静かに触ってみるのだ。それだけで、客の身体が、暁瑞の10本の指に鋭敏に「訴えかけ」を行ってくる。そこでその「声」に誠実に、1時間かけて揉んでいくだけのことだった。客から身体の具合を聞かれれば、ありのままに話したし、特に緊急を要する客に対しては、「一刻も早く胃の精密検査をしてください」などと忠言をした。
特級マッサージ師になると、給料が倍増するだけでなく、制服も高級になり、寮では個室が与えられ、控え室も見違えるように清潔だった。社員食堂での食事も「残飯」ではなく、一般客が注文するものを自由に注文して構わなかった。
2階から3階に異動して、一番ホッとしたのは、煩わしい人間関係が減ったことだった。内向的な性格の暁瑞は、2階の控え室の大部屋にいる時が、一番居心地が悪かった。皆、河南省の同郷者なので、通常の中国の「職場」より和気藹々としているのだが、暁瑞は一年経っても、一人の友達もできなかった。寮の8人部屋でも、7対1という状態だったし、2週に一度の休日には、独りでブラブラと北京の街を歩くだけだった。言ってみれば暁瑞にとって、客にマッサージを施している刹那だけが、存分に自己表現できる「聖域」だったのだ。
3階に来て、初めて友達ができた。
それは、50歳になるオカマの「三助」だった。彼は、男性の大浴場が「仕事場」で、客の垢を擦っては、一人当たり15元(約190円)の報酬を得ていた。店内では誰もがこの男をバカにしていたが、暁瑞は不思議と気が合った。この男はある時、毎日垢擦りをしながら、さりげなく男性客の急所を触っては興奮していると、暁瑞に告白した。暁瑞は、自分は男の身体を揉んでも興奮はしないが、幸福な気分になると返した。雲南省の少数民族の出身というこの男は、帰京した春節明けに、暁瑞にルビーのネックレスをプレゼントした。それは、暁瑞が生まれて初めて人からもらった贈り物だった。
「優子」へ入って、瞬く間に3年が過ぎた。暁瑞の人気は高まる一方で、毎月の指名の数でトップに立ったこの春、全店を通じて3人目の「超特級マッサージ師」に昇格した。他の二人は開店以来、10数年勤めているベテランで、わすか3年での「超特級」昇格は前代未聞だった。だが規定に従い、指名数トップの暁瑞に、一番奥の「皇帝の寝所」があてがわれた。
「皇帝の寝所」でマッサージを受けるのは、北京の富裕層や、香港、台湾から出張で来た経営者などだ。そんな上客たちから暁瑞は何度か、給料に糸目はつけないから、自分専用のマッサージ師になってほしいと頼まれたことがある。そのたびに逡巡したが、結局は未だに「優子」に身を置いている。
他の同僚たちは、寄ると男の話をしているが、暁瑞は彼氏が欲しいと思ったこともない。この薄暗い「皇帝の寝所」があれば十分だ。
人間の身体は、十人十色どころか、千人千色だとつくづく思う。新しい身体に触れるたびに、新たな発見がある。相手がどんな金持ちだろうが、地位のある人間だろうが、この1時間だけは自分が独占し、自由自在に揉みほぐし、開発し、昇天させる。これに勝る快楽があるだろうか?
(執筆者:近藤大介・前明治大学講師(東アジア共同体論)、北京在住)
暗く仕切られた四畳半ほどの部屋に、清朝皇帝風の豪華な紅色ベッドが据え置かれている。その上に、ゴロンと寝転ぶ「肉塊」。そう、暁瑞にとっては、相手はどれも、大きな「肉塊」でしかない。
一時間から一時間半ほど、まるで粘土を捏ねるように、暁瑞は巧みに「肉塊」を捏ね上げていく。脚の爪先から始めて、踝、膝、腿、腰、背、肩、腕、首、頭へと上がっていく。暁瑞にとっては、まさに琴でも奏でている感覚である。
その間、多くの「肉塊」は鼾をかき、極楽浄土の上を彷徨っている。最後は、肩を揺するように揉んで、「完了!」(終わりました)と掛け声をかける。一丁上がりだ。
暁瑞は、このチェーン店が抱える約1万5000人のマッサージ師の中で、わずか3人だけに与えられた「超特級」の称号の持ち主である。
大方のマッサージ師は、一日に3~4人の相手をするが、暁瑞の場合、10人を下ることはない。午前11時から深夜2時まで、指名の予約がビッシリ入っていて、休む間もなく「肉塊との格闘」が続く。
マッサージの料金は、暁瑞を指名すれば、1時間あたり500元(約6300円)である。うち半額が、暁瑞の取り分だ。このためひと月の収入は、6万元(約75万円)を下らない。平均的北京市民の約2年分の年収に匹敵する額だ。
このマッサージ・チェーン店「優子」は、中国北部を中心に、中国最大の約1000店舗を展開している。
マッサージ師や従業員の大半が、河南省出身者というのが特徴だ。それは、オーナーが河南省出身だからで、多くの中国人の特性として、同郷の者しか信用しないからである。
鄭州郊外の一工員から叩き上げ、わずか15年で、中国北部の各都市に、巨大なマッサージ店網を築き上げた。「優子」という店名は、オーナーがかつて恋をしていた日本人女性の名前から取った。実らぬ恋ではあったが、いまや中国北部では、日本人女性の代名詞となっている。
この会社の本社は鄭州にあるが、本店は約10年前に北京に移した。「北三環」(第三環状線北路)と「北四環」(第四環状線北路)の間、かつてモンゴル人が元代に築いた城壁跡のすぐ隣に、3階建ての「宮殿風店舗」が鎮座する。
1階は北京地区の全支店を統括するオフィスとレストランになっており、2階は「2級」と「1級」のマッサージ師200人ほどが、客にマッサージを行う。3階は、高級なカフェバーとサウナ、浴室、マッサージ室から成っていて、ここに控えるのは「特級」のマッサージ師10人と、「超特級」の3人である。その最上階の一番奥、「皇帝の寝所」と名付けられた一室が、暁瑞の「仕事場」というわけだ。
趙暁瑞は、1988年に、河南省洛陽郊外の貧民地区の長屋で生まれた。父親は、暁瑞が知る限り、目まぐるしく職業を変えていた。近くの小学校の警備員をしていたかと思えば、旅館の宴会場の給仕をやっていたりする。印刷所に出入りし、海賊版の本を売っていた時期もあったし、明らかに盗品と思える中古自転車を転売していた時期もある。だが万事飽きっぽく、怠け者の性格のため、いつまで経っても一家が貧民地区を抜け出すことはなかった。
母親の職業も、長らく不明だった。午前中はたいてい寝ていて、午後の遅い時間や夜になると、派手な口紅をつけて、どこかへ出掛けていった。父親とは、家庭内別居のような状態が永く続き、顔を見合わせては罵り合っていた。暁瑞は母親と一緒に寝ていたが、たいていは放っぽらかしにされた。そんな母親は、暁瑞が小学校を卒業する直前に姿を消し、二度と帰ってこなかった。人民解放軍の軍人と駆け落ちしたという噂が長屋内に広まったが、真相は杳として知れない。
暁瑞はそんな母親とは気が合わなかったが、父親とはもっと合わなかった。母親が使っていた狭い部屋をそのまま使い、中学を卒業すると、村で唯一つの大通りに面した、床屋の掃除婦となった。日給は一日1元(約12.5円)だった。
なぜ床屋に「就職」したかと言えば、近所で一番、輝いて見えたからである。昼間は普通の床屋だったが、日が暮れると、原色のネオンを灯し、鄙びた通りに一片のアクセントを添えていた。
この店の「営業内容」は、掃除婦になって初めて知った。暁瑞は朝9時の開店前に床屋へ行き、日中は、店員が切り落とした髪を掃き、その合い間に、裏手でタオル類の洗濯と整理を行う。夕刻になって客がいなければ、1元の駄賃をもらって帰る。
暁瑞と入れ違うように、夕刻になると「マッサージ師」と呼ばれる若い女性たちが、ドヤドヤと入店してくる。彼女たちは派手な口紅を付け、肌を露出させたケバケバしい服装をしていて、店で暁瑞と挨拶を交わすことはなかった。
暁瑞は、中学生の時から、深刻な容姿コンプレックスを持っていた。貌から足元に至るまで、自分のすべてが醜いと感じていた。貌は浅黒く、サルのようだった。骨格はごっつくて豚のようだし、脚は凹脚で、熊の肢のように太かった。
だから夕方になると、華やかな女性たちに引け目を感じて、そそくさと帰っていた。だが、勤め出して半年ほど経った頃、腹の出た店長が、「深夜まで勤務すれば一日2元やるぞ」というので、夜まで延長して掃除係をやることにした。
夜の仕事場は、1階ではなく2階だった。
客は1階の床屋椅子に座り、5~6人いる女性の中から、お気に入りのコを指名する。そして、手を繋いでいそいそと2階へ上がっていく。2階は仕切られた狭い個室が4部屋あって、それぞれの部屋の中には、汚らしいベッドが一台置いてあるだけだ。2階の「喘ぎ声」が止んで、客と「マッサージ師」が降りてくると、暁瑞は2階へ上がり、部屋を片付ける。その繰り返しだった。
2階の部屋はオンボロだったため、ドアにカギさえ付いていなかった。そのため、何度か部屋の中を盗み見してしまったことがある。女が寝台に仰臥し、男たちは恍惚の表情で身体を揺すっていた。暁瑞は自分の容姿にとんと自信がなかったので、あそこまで男体を酔わせる「マッサージ師」が羨ましく思えた。
暁瑞が18歳になった年に、洛陽にマッサージ師の養成学校ができたという話を聞いて、居ても立ってもいられなくなった。ある時、初めて休みをもらって、バスを乗り継いで洛陽まで出掛けていった。かつて13の王朝の都だったというだけあって、洛陽の街は雄大だった。そこここに咲き誇る牡丹の花も美しく、夢を見ているようだった。
「優子マッサージ研修センター」という看板をようやく見つけ、中へ入って行くと、受付の女性が、懇切丁寧に説明してくれた。研修は半年コースであること、研修費は他の専門学校よりかなり割安なこと、優秀な卒業生は北京の直営店で就職できることなどである。これまで3年間コツコツと貯めた金をはたけば、学費はギリギリ何とかなった。そこで暁瑞は早速、来月からの研修を申し込んだ。家へ戻る途中で床屋へ寄り、中年太りの店長に、暇を告げた。
半年間の研修は、いま思い出しても、まるで軍隊に入隊したかのような辛い日々だった。日課は、朝9時から腕立て伏せ100回、続いて指立て伏せ100回。その後、サンドバッグを使って、ひたすら揉む練習を、一時間半行う。
午後は人体のツボの暗記。人骨模型を前にして、頭から爪先まで、通天、天柱、大椎、大木予、附分、肺兪、心兪、肝兪、脾兪、腎兪、上骨寥、秩辺、会陽、承扶、委陽、委中、合陽、承筋、承山、飛揚、崑崙、人ト参、申脈、至陰……と、覚えていく。人体とは、ツボの集積なのだ。その後、講師の男性を客に見立てたマッサージの実践を、2時間以上にわたって行う。
毎日が、この単調なコースの繰り返しだった。100人以上いた「同期生」は、一週間で半分以下に減った。1カ月経つと20人以下になり、前の月のグループと合併された。
研修期間中、暁瑞は毎晩深夜バスの席に腰掛け、饅頭のように膨れ上がった両手を眺めては、一人悦に入った。講師の男性たちは、研修生たちを汚い言葉で罵ったが、暁瑞は誉められこそすれ、一度も叱られたことがなかった。自分は確かに、他人よりはこの分野で才能があるようだった。何よりマッサージをしていると、自分の肉体コンプレックスを忘れられるのが嬉しかった。
半年間の研修が終わった時、暁瑞は最優秀賞を授与された。学費は返納され、北京の本店での勤務を命じられた。
「優子」の社員やマッサージ師など20名ほどで連れ立って、北京西駅に降り立った。北京西駅は、洛陽駅よりも数倍大きく、目が眩むほどだった。そのままバスに揺られて巨大な首都を北上し、「優子本店」に辿り着いた。
暁瑞は、「158番」という番号札を渡され、それが店での呼び名になった。店の裏手の寮は8人部屋で、二段ベッドが4つ詰め込まれただけの狭い部屋だった。
毎朝10時半過ぎに店に行き、「2級マッサージ師」の制服に着替え、「158番」の名札を付けて、控え室で待つ。フロア・マネージャーに「158番!」と呼ばれると、1時間ほど客にマッサージを施し、終わるとまた、控え室に戻る。その繰り返しで、深夜1時になって客がいなければ、寮に帰ってよい。休日は月に二日間だけだった。
入って3カ月もすると、自分への指名が付き始めた。半年後には、「1級マッサージ師」に昇格された。さらに一年後には、「特級マッサージ師」に格上げになり、3階へ異動した。まさに、同僚たちが羨む異例のスピード出世だった。
だが暁瑞は、別に特別なことをしているつもりはなく、「自分流」は最初だけだった。まず客をうつ伏せにして、脚の爪先から頭のてっぺんまで、両の掌を広げて静かに触ってみるのだ。それだけで、客の身体が、暁瑞の10本の指に鋭敏に「訴えかけ」を行ってくる。そこでその「声」に誠実に、1時間かけて揉んでいくだけのことだった。客から身体の具合を聞かれれば、ありのままに話したし、特に緊急を要する客に対しては、「一刻も早く胃の精密検査をしてください」などと忠言をした。
特級マッサージ師になると、給料が倍増するだけでなく、制服も高級になり、寮では個室が与えられ、控え室も見違えるように清潔だった。社員食堂での食事も「残飯」ではなく、一般客が注文するものを自由に注文して構わなかった。
2階から3階に異動して、一番ホッとしたのは、煩わしい人間関係が減ったことだった。内向的な性格の暁瑞は、2階の控え室の大部屋にいる時が、一番居心地が悪かった。皆、河南省の同郷者なので、通常の中国の「職場」より和気藹々としているのだが、暁瑞は一年経っても、一人の友達もできなかった。寮の8人部屋でも、7対1という状態だったし、2週に一度の休日には、独りでブラブラと北京の街を歩くだけだった。言ってみれば暁瑞にとって、客にマッサージを施している刹那だけが、存分に自己表現できる「聖域」だったのだ。
3階に来て、初めて友達ができた。
それは、50歳になるオカマの「三助」だった。彼は、男性の大浴場が「仕事場」で、客の垢を擦っては、一人当たり15元(約190円)の報酬を得ていた。店内では誰もがこの男をバカにしていたが、暁瑞は不思議と気が合った。この男はある時、毎日垢擦りをしながら、さりげなく男性客の急所を触っては興奮していると、暁瑞に告白した。暁瑞は、自分は男の身体を揉んでも興奮はしないが、幸福な気分になると返した。雲南省の少数民族の出身というこの男は、帰京した春節明けに、暁瑞にルビーのネックレスをプレゼントした。それは、暁瑞が生まれて初めて人からもらった贈り物だった。
「優子」へ入って、瞬く間に3年が過ぎた。暁瑞の人気は高まる一方で、毎月の指名の数でトップに立ったこの春、全店を通じて3人目の「超特級マッサージ師」に昇格した。他の二人は開店以来、10数年勤めているベテランで、わすか3年での「超特級」昇格は前代未聞だった。だが規定に従い、指名数トップの暁瑞に、一番奥の「皇帝の寝所」があてがわれた。
「皇帝の寝所」でマッサージを受けるのは、北京の富裕層や、香港、台湾から出張で来た経営者などだ。そんな上客たちから暁瑞は何度か、給料に糸目はつけないから、自分専用のマッサージ師になってほしいと頼まれたことがある。そのたびに逡巡したが、結局は未だに「優子」に身を置いている。
他の同僚たちは、寄ると男の話をしているが、暁瑞は彼氏が欲しいと思ったこともない。この薄暗い「皇帝の寝所」があれば十分だ。
人間の身体は、十人十色どころか、千人千色だとつくづく思う。新しい身体に触れるたびに、新たな発見がある。相手がどんな金持ちだろうが、地位のある人間だろうが、この1時間だけは自分が独占し、自由自在に揉みほぐし、開発し、昇天させる。これに勝る快楽があるだろうか?
(執筆者:近藤大介・前明治大学講師(東アジア共同体論)、北京在住)
【NATO】 リビア攻撃 6月06日付
06 Jun. 2011
NATO strike pro-Qadhafi intelligence headquarters in TripoliEarly on 6 June 2011
NATO aircraft struck a command and control target in Tripoli,
specifically a key Qadhafi regime intelligence headquarters building. In a coordinated deliberate strike on the Qadhafi national intelligence centre,
NATO aircraft delivered precision-guided weapons as part of a campaign which continues to degrade Qadhafi’s ability to commit crimes on his own people.
The combined air operation was achieved by NATO aircraft working together in the skies above Libya to complete the mission.
Every day fast jets deliver precision-guided weapons on selected targets and each mission is a culmination of extensive planning.
Other aircraft on this mission included a NATO air-to-air refueling platform,
which delivered aviation fuel to the jets both before and after the mission and a NATO E3A Airborne Warning and Control System aircraft provided control for the aircraft above Tripoli. Prior to the mission,
NATO intelligence, Surveillance and Reconnaissance aircraft were collecting information activity across Libya,
whilst other aircraft provided suppression of enemy air defences to protect NATO asset.
“As long as Qadhafi continues to threaten civilians,
NATO will maintain the pressure upon his regime and will continue to degrade his ability to attack the population of Libya,” said Lieutenant-General Charles Bouchard, Commander of Operation Unified Protector.
NATO’s Operation Unified Protector is being conducted under United Nations Security Council Resolution 1973. This mandate authorizes NATO to use all necessary measures to protect the civilian population of Libya.
2011年6月6日
トリポリのNATOストプロカダフィインテリジェンス本社 初期の段階では
2011年6月6日、NATOの航空機は、特にトリポリのコマンドと制御対象を、キーカダフィ政権インテリジェンス本社ビル打った。
カダフィ国家情報センターの調整故意のストライキでは、NATOの航空機は彼自身の人々の犯罪を犯すカダフィの能力を低下し続けてキャンペーンの一環として、精密誘導兵器を伝えた。
複合空気操作はNATOの航空機は、ミッションを完了するには、リビア上空で一緒に働くことによって達成された。
毎日高速ジェットは、選択したターゲット上で精密誘導兵器を提供する各ミッションは、広範な計画の集大成です。
このミッションの他の航空機が前後と使命とNATO E3A空中警戒管制システムの航空機がトリポリ上記の航空機の制御を提供した後機に航空燃料を配信プラットフォームを、給油NATOの空対空が含まれています。
前のミッションは、NATOインテリジェンス、監視および偵察機はリビア間での情報活動を収集していたし、一方、他の航空機は、NATOの資産を保護するために、敵の防空の抑制を提供する。
"としてカダフィは、民間人を脅かし続けて、NATOは、彼の政権に圧力を維持するリビアの人口を攻撃する彼の能力が低下していきます限り、"中尉総長チャールズバウチャードは、操作ユニファイドプロテクターの司令官と述べた。
NATOの操作ユニファイドProtectorは、国連安全保障理事会決議1973の下で実施されています。この任務は、リビアの民間人を保護するために必要なすべての措置を使用してNATOが承認します。
NATO strike pro-Qadhafi intelligence headquarters in TripoliEarly on 6 June 2011
NATO aircraft struck a command and control target in Tripoli,
specifically a key Qadhafi regime intelligence headquarters building. In a coordinated deliberate strike on the Qadhafi national intelligence centre,
NATO aircraft delivered precision-guided weapons as part of a campaign which continues to degrade Qadhafi’s ability to commit crimes on his own people.
The combined air operation was achieved by NATO aircraft working together in the skies above Libya to complete the mission.
Every day fast jets deliver precision-guided weapons on selected targets and each mission is a culmination of extensive planning.
Other aircraft on this mission included a NATO air-to-air refueling platform,
which delivered aviation fuel to the jets both before and after the mission and a NATO E3A Airborne Warning and Control System aircraft provided control for the aircraft above Tripoli. Prior to the mission,
NATO intelligence, Surveillance and Reconnaissance aircraft were collecting information activity across Libya,
whilst other aircraft provided suppression of enemy air defences to protect NATO asset.
“As long as Qadhafi continues to threaten civilians,
NATO will maintain the pressure upon his regime and will continue to degrade his ability to attack the population of Libya,” said Lieutenant-General Charles Bouchard, Commander of Operation Unified Protector.
NATO’s Operation Unified Protector is being conducted under United Nations Security Council Resolution 1973. This mandate authorizes NATO to use all necessary measures to protect the civilian population of Libya.
2011年6月6日
トリポリのNATOストプロカダフィインテリジェンス本社 初期の段階では
2011年6月6日、NATOの航空機は、特にトリポリのコマンドと制御対象を、キーカダフィ政権インテリジェンス本社ビル打った。
カダフィ国家情報センターの調整故意のストライキでは、NATOの航空機は彼自身の人々の犯罪を犯すカダフィの能力を低下し続けてキャンペーンの一環として、精密誘導兵器を伝えた。
複合空気操作はNATOの航空機は、ミッションを完了するには、リビア上空で一緒に働くことによって達成された。
毎日高速ジェットは、選択したターゲット上で精密誘導兵器を提供する各ミッションは、広範な計画の集大成です。
このミッションの他の航空機が前後と使命とNATO E3A空中警戒管制システムの航空機がトリポリ上記の航空機の制御を提供した後機に航空燃料を配信プラットフォームを、給油NATOの空対空が含まれています。
前のミッションは、NATOインテリジェンス、監視および偵察機はリビア間での情報活動を収集していたし、一方、他の航空機は、NATOの資産を保護するために、敵の防空の抑制を提供する。
"としてカダフィは、民間人を脅かし続けて、NATOは、彼の政権に圧力を維持するリビアの人口を攻撃する彼の能力が低下していきます限り、"中尉総長チャールズバウチャードは、操作ユニファイドプロテクターの司令官と述べた。
NATOの操作ユニファイドProtectorは、国連安全保障理事会決議1973の下で実施されています。この任務は、リビアの民間人を保護するために必要なすべての措置を使用してNATOが承認します。
三菱自、バングラでSUV生産
バングラデシュ 面積(日本国の4割)
首都 ダッカ
人口 1億4,660万人(2009年7月、暫定値 バングラデシュ統計局)
宗教 イスラム教徒89.7%、ヒンズー教徒9.2%、
【日経】2011年6月07日
三菱自、バングラでSUV生産
三菱自動車はバングラデシュでの事業を拡充する。
現地の提携先の国営企業が今夏にも多目的スポーツ車(SUV)「パジェロスポーツ」を現地生産する。セダンの生産も検討する。
同国の新車市場はまだ小さいが、人口は1億5000万人を超え、将来は有望市場。早期に自社ブランド車の現地生産体制を整える。
首都 ダッカ
人口 1億4,660万人(2009年7月、暫定値 バングラデシュ統計局)
宗教 イスラム教徒89.7%、ヒンズー教徒9.2%、
【日経】2011年6月07日
三菱自、バングラでSUV生産
三菱自動車はバングラデシュでの事業を拡充する。
現地の提携先の国営企業が今夏にも多目的スポーツ車(SUV)「パジェロスポーツ」を現地生産する。セダンの生産も検討する。
同国の新車市場はまだ小さいが、人口は1億5000万人を超え、将来は有望市場。早期に自社ブランド車の現地生産体制を整える。
2011年6月6日月曜日
【英海軍】 攻撃へりで初攻撃 /6月04日
Apache Gunships Launched From HMS Ocean Have Struck For The First Time Against Colonel Gaddafi’s Forces In Libya
04 June 2011
A week after Britain’s biggest warship broke off from exercises in Cyprus,
she sent her Army Air Corps helicopters against government targets – a checkpoint and a radar site – at Brega in the south-eastern Gulf of Sirte, 120 miles south of Benghazi.Overnight,
the helicopters used their Hellfire missiles and 30mm cannon to eliminate their targets before returning to the Mighty O.The strike was part of another night of concerted NATO raids against the Libyan military machine:
the RAF struck at ammunition bunkers deep inside the country at Waddan, some 300 miles south-east of the capital Tripoli,
while French attack helicopters from the assault ship FS Tonnerre also took out land targets.Yesterday it was announced that the bulk of the Royal Navy’s Responsive Force Task Group had broken off its amphibious exercises in the eastern Mediterranean – Cougar 11 – and had instead been dispatched to the sea off Libya to tighten the screw on the Gaddafi regime.“The successful and safe operations by Apache Attack Helicopters required a first class performance by the sailors, soldiers and Royal Marines across the Royal Navy’s Response Force Task Group,” said Cdre John Kingwell, directing the RN task force off Libya from flagship HMS Albion.“I am very proud of all of their work so far which yet again underlines the versatility of this force."“This action highlights NATO’s resolve to protect the Libyan people and it is a further example of the increasing pressure on Colonel Gaddafi and his regime to recognise the will of the international community and cease attacks on his own people."“We remain ready for further operations.”This is the first deployment by the Apaches of 4 Regiment, 656 Squadron Army Air Corps, at sea.
They recently completed successful live firings of their weaponry off Gibraltar to prove their ability to fight at sea.There are now eight Royal Navy warships and Royal Fleet Auxiliaries committed to Operation Unified Protector:
destroyer HMS Liverpool,
minehunter HMS Brocklesby,
submarine HMS Triumph with her cruise missilesand
the five ships from the task group:
Albion,
Ocean,
frigate HMS Sutherland,
tanker RFA Wave Knight
and support ship RFA Fort Rosalie
04 June 2011
A week after Britain’s biggest warship broke off from exercises in Cyprus,
she sent her Army Air Corps helicopters against government targets – a checkpoint and a radar site – at Brega in the south-eastern Gulf of Sirte, 120 miles south of Benghazi.Overnight,
the helicopters used their Hellfire missiles and 30mm cannon to eliminate their targets before returning to the Mighty O.The strike was part of another night of concerted NATO raids against the Libyan military machine:
the RAF struck at ammunition bunkers deep inside the country at Waddan, some 300 miles south-east of the capital Tripoli,
while French attack helicopters from the assault ship FS Tonnerre also took out land targets.Yesterday it was announced that the bulk of the Royal Navy’s Responsive Force Task Group had broken off its amphibious exercises in the eastern Mediterranean – Cougar 11 – and had instead been dispatched to the sea off Libya to tighten the screw on the Gaddafi regime.“The successful and safe operations by Apache Attack Helicopters required a first class performance by the sailors, soldiers and Royal Marines across the Royal Navy’s Response Force Task Group,” said Cdre John Kingwell, directing the RN task force off Libya from flagship HMS Albion.“I am very proud of all of their work so far which yet again underlines the versatility of this force."“This action highlights NATO’s resolve to protect the Libyan people and it is a further example of the increasing pressure on Colonel Gaddafi and his regime to recognise the will of the international community and cease attacks on his own people."“We remain ready for further operations.”This is the first deployment by the Apaches of 4 Regiment, 656 Squadron Army Air Corps, at sea.
They recently completed successful live firings of their weaponry off Gibraltar to prove their ability to fight at sea.There are now eight Royal Navy warships and Royal Fleet Auxiliaries committed to Operation Unified Protector:
destroyer HMS Liverpool,
minehunter HMS Brocklesby,
submarine HMS Triumph with her cruise missilesand
the five ships from the task group:
Albion,
Ocean,
frigate HMS Sutherland,
tanker RFA Wave Knight
and support ship RFA Fort Rosalie
2011年6月5日日曜日
【横峯さくら】 今季初勝利 国内女子ツアー史上6人目となる生涯獲得賞金7億円を突破。196試合目、25歳174日での達成は、同ツアーでの最速&最年少記録
横峯は国内女子ツアー史上6人目となる生涯獲得賞金7億円を突破。
196試合目、25歳174日での達成は、同ツアーでの最速&最年少記録となる。
196試合目、25歳174日での達成は、同ツアーでの最速&最年少記録となる。
【軍事のツボ】 国により微妙に違う軍艦の色
【軍事のツボ】国により微妙に違う軍艦の色
【サンケイスポーツ】2011.6.5 11:36
日米艦艇色。双方ともねずみ色系だが、米海軍は薄く、海上自衛隊は濃い。
ロシア海軍は海自よりも濃い色。中国海軍は米軍よりもさらに淡い色でクリーム色。韓国海軍は少し海自よりも薄く青みがかる。
濃い順に並べると、ロシア海軍、海自、韓国海軍、米海軍、中国海軍の順。
「外舷色」とよばれる船体側面の色や、上部構造物の色の違いはなぜなのだろうか。
海自関係者は「日本周辺の海の色を考えてのこと。各国海軍も同様」とする。
冬に荒天になりがちな日本周辺で活動する海自は濃いねずみ色。陽光が明るい太平洋全域を股にかける米海軍はより明るい色。
水深が比較的浅く海の色も淡い色になる中国沿海部で活動する中国海軍はさらに明るいトーン。ロシア海軍は日本周辺よりも海の色が暗い海域なので、さらに濃いねずみ色になる。
イスラエル海軍の潜水艦はエメラルドグリーンのような色をしている。
活動海域の海の色に合わせることで、艦を風景にとけ込ませて発見されにくくしている。
海自の濃いねずみ色について。
日本海軍は創設期には外舷などの色は白だったが、1895(明治28)年から淡いねずみ色に指定される。その後、日露戦争を目前に控えた1904(明治37)年に濃いねずみ色に指定され、以後、1945(昭和20)年の敗戦まで続く。
濃いねずみ色以外の色を塗ったケースもわずかだがある。
第2次大戦中は濃緑色や淡緑色を使った迷彩塗装が空母瑞鶴などに施された。迷彩塗装については1943(昭和18)年から研究された。その結果、敵機や敵潜水艦からの発見を防ぐことも形や大きさなどを誤認させることもできないが、やらないよりはまし、という程度の効果しかないと判定された。
第2次大戦中の米、英、独も戦艦を中心に迷彩塗装をしていた艦があったが、レーダーが実戦で重要な役割を果たすようになると、迷彩の意義はほとんどなくなってしまった。それでねずみ色系の単色塗装に戻っていった。
海自の濃いねずみ色は、「海上自衛隊の使用する艦船等の塗装及び着標に関する訓令」で規定されている。
この色も海にとけ込みやすい色ではあるが、ある護衛艦の艦長経験者は「護衛艦の濃いねずみ色の海の色への溶け込みやすさが海域によって違ったということは経験がないし、聞いたこともない」と証言する。
つまり、ネズミ色系の単色でも複数の色を使うケースでも、視覚上、大きな“迷彩”効果は期待できないということになる。さらにレーダーの発達もあり、色にはさほど神経質にはなっていないようだ。
海自に限らず艦艇の色は微妙に違う。
その違いは意図的なものではなく、塗料メーカーや製造時期の違いによるごくわずかな差だ。
日本海軍は横須賀、呉、佐世保などの海軍工廠ごとに微妙な色の差があった。
海自の場合も「艦艇はしょっちゅう自分たちで色を塗る。停泊ごとに塗っているといってもいいくらい。それでそのとき自分たちで混ぜる有機溶剤の分量によっても色の違いが出てくるし、完全に同じ色にはならない」(海自関係者)。
ただ、色による効果はもちろんゼロではない。
前出の艦長経験者は「天候には影響される。曇天や雨天ではやはり多少は目視しにくくなる」とある程度の効果は認める。
さらに単色にすれば維持管理も容易。「汎用性があるということからも、世界的にもねずみ色系に落ち着いていったのでは」(軍事評論家)というのが現状ではないだろうか。
【サンケイスポーツ】2011.6.5 11:36
日米艦艇色。双方ともねずみ色系だが、米海軍は薄く、海上自衛隊は濃い。
ロシア海軍は海自よりも濃い色。中国海軍は米軍よりもさらに淡い色でクリーム色。韓国海軍は少し海自よりも薄く青みがかる。
濃い順に並べると、ロシア海軍、海自、韓国海軍、米海軍、中国海軍の順。
「外舷色」とよばれる船体側面の色や、上部構造物の色の違いはなぜなのだろうか。
海自関係者は「日本周辺の海の色を考えてのこと。各国海軍も同様」とする。
冬に荒天になりがちな日本周辺で活動する海自は濃いねずみ色。陽光が明るい太平洋全域を股にかける米海軍はより明るい色。
水深が比較的浅く海の色も淡い色になる中国沿海部で活動する中国海軍はさらに明るいトーン。ロシア海軍は日本周辺よりも海の色が暗い海域なので、さらに濃いねずみ色になる。
イスラエル海軍の潜水艦はエメラルドグリーンのような色をしている。
活動海域の海の色に合わせることで、艦を風景にとけ込ませて発見されにくくしている。
海自の濃いねずみ色について。
日本海軍は創設期には外舷などの色は白だったが、1895(明治28)年から淡いねずみ色に指定される。その後、日露戦争を目前に控えた1904(明治37)年に濃いねずみ色に指定され、以後、1945(昭和20)年の敗戦まで続く。
濃いねずみ色以外の色を塗ったケースもわずかだがある。
第2次大戦中は濃緑色や淡緑色を使った迷彩塗装が空母瑞鶴などに施された。迷彩塗装については1943(昭和18)年から研究された。その結果、敵機や敵潜水艦からの発見を防ぐことも形や大きさなどを誤認させることもできないが、やらないよりはまし、という程度の効果しかないと判定された。
第2次大戦中の米、英、独も戦艦を中心に迷彩塗装をしていた艦があったが、レーダーが実戦で重要な役割を果たすようになると、迷彩の意義はほとんどなくなってしまった。それでねずみ色系の単色塗装に戻っていった。
海自の濃いねずみ色は、「海上自衛隊の使用する艦船等の塗装及び着標に関する訓令」で規定されている。
この色も海にとけ込みやすい色ではあるが、ある護衛艦の艦長経験者は「護衛艦の濃いねずみ色の海の色への溶け込みやすさが海域によって違ったということは経験がないし、聞いたこともない」と証言する。
つまり、ネズミ色系の単色でも複数の色を使うケースでも、視覚上、大きな“迷彩”効果は期待できないということになる。さらにレーダーの発達もあり、色にはさほど神経質にはなっていないようだ。
海自に限らず艦艇の色は微妙に違う。
その違いは意図的なものではなく、塗料メーカーや製造時期の違いによるごくわずかな差だ。
日本海軍は横須賀、呉、佐世保などの海軍工廠ごとに微妙な色の差があった。
海自の場合も「艦艇はしょっちゅう自分たちで色を塗る。停泊ごとに塗っているといってもいいくらい。それでそのとき自分たちで混ぜる有機溶剤の分量によっても色の違いが出てくるし、完全に同じ色にはならない」(海自関係者)。
ただ、色による効果はもちろんゼロではない。
前出の艦長経験者は「天候には影響される。曇天や雨天ではやはり多少は目視しにくくなる」とある程度の効果は認める。
さらに単色にすれば維持管理も容易。「汎用性があるということからも、世界的にもねずみ色系に落ち着いていったのでは」(軍事評論家)というのが現状ではないだろうか。
ソマリア沖・アデン湾における海賊対処
海賊対処関連報道発表資料
■8次
2011年03月03日 発表 派遣海賊対処行動水上部隊の交替について
■7次
2010年11月18日 発表 派遣海賊対処行動水上部隊の交替について
■6次
2010年08月05日 発表 派遣海賊対処行動水上部隊の交替について
■5次
2010年04月22日 発表 派遣海賊対処行動水上部隊の交替について
■4次
2010年01月21日 発表 派遣海賊対処行動水上部隊及び航空隊の交替について
■3次
2009年09月28日 発表 派遣海賊対処行動水上部隊及び航空隊の交替について
■2次
2009年06月30日 発表 派遣海賊対処水上部隊の出港について
■1次
2009年03月13日 発表 派遣海賊対処水上部隊の出港について
■8次
2011年03月03日 発表 派遣海賊対処行動水上部隊の交替について
■7次
2010年11月18日 発表 派遣海賊対処行動水上部隊の交替について
■6次
2010年08月05日 発表 派遣海賊対処行動水上部隊の交替について
■5次
2010年04月22日 発表 派遣海賊対処行動水上部隊の交替について
■4次
2010年01月21日 発表 派遣海賊対処行動水上部隊及び航空隊の交替について
■3次
2009年09月28日 発表 派遣海賊対処行動水上部隊及び航空隊の交替について
■2次
2009年06月30日 発表 派遣海賊対処水上部隊の出港について
■1次
2009年03月13日 発表 派遣海賊対処水上部隊の出港について
2011年6月4日土曜日
日本のお尋ね者
日本のお尋ね者【11】瀬戸内最大の海賊は構成員2000人
NEWSポストセブン - 3時間前
5月20日からジョニー・デップ主演の『パイレーツ・オブ・カリビアン/生命の泉』が公開されているが、あちらは映画の中でのお話。
2005年にはマラッカ海峡沖で日本の商船が襲われる事件も発生したが、戦後の日本でも、瀬戸内海で海賊が跳梁跋扈した時期が ...
日本のお尋ね者【10】タイのハーレム日本人男、国際問題に
NEWSポストセブン - 18時間前
男性なら一度は夢想するハーレム生活だが、かつてそれを海外で実現させ、国際問題にまで発展させた日本人がいる。
タイで20人のアジア系少女に囲まれて生活を送った男は、とことん懲りない男だった。 昭和40年代後半、タイでは日本企業の進出に反対する ...
日本のお尋ね者【9】20~70代女性を毒牙にかけた鬼畜僧侶
NEWSポストセブン - 1 日前
被害者には尼僧までいたというから、「聖職」の冠はどこへいってしまったのやら……。
日本で実際あった事件を紹介しよう。
明治末から大正初期にかけて、僧侶による尼僧の強姦事件が発生した。最初の犯行は明治38年の兵庫県尼崎市の尼寺での強姦殺人。 ...
日本のお尋ね者【8】生首や人骨は万能薬と信じる墓荒らし兄弟
NEWSポストセブン - 1 日前
墓場と言う場所は決して気持ちの良い場所ではないが、増して“墓荒らし”ともなれば、いよいよまともな人間には想像も付かない話。
しかし過去には、世にもおぞましいその墓荒らしを行った兄弟がいた。彼らの、驚くべき犯行の動機とは? ...
日本のお尋ね者【7】「助平の始まり」と寅さんに呼ばれた男
NEWSポストセブン - 1 日前
男という生き物は大なり小なり“助平”なものだが、「助平の代名詞」とも呼ばれた男が戦後のドサクサ期に現われたのをご存じだろうか。
「稀代の連続殺人鬼」とも呼ばれた男が犯した残忍無比な罪とは?
映画『男はつらいよ』の寅さんの口上に登場する小平 ...
日本のお尋ね者【6】名古屋城のシャチホコの鱗を大量窃盗男
NEWSポストセブン - 2 日前
名古屋のシンボルといえば、徳川家康公が築城した名古屋城。
その名古屋城のシンボルといえば、地上高くそびえる金の鯱だが、かつて、この金の鯱の鱗を盗み出した不届き者がいたという。その男は一体どれだけの富を手にしたのか? 金の鯱で有名な名古屋城 ...
日本のお尋ね者【5】昔の新聞、被害者が処女か否かを報道
NEWSポストセブン - 2 日前
痴情のもつれが刃傷沙汰に結び付くことはままある話し。
しかし、それが古刹の住職と女中となるといきおい世間の注目を集めてしまうようで、事態は思わぬ経過をたどる。
福井県でかつて実際にあった話を紹介しよう。 福井県越前市にある窓安寺は、北陸三十 ...
日本のお尋ね者【4】ツルハシでめった打ちし6人殺害の男
NEWSポストセブン - 2 日前
五木寛之の『青春の門』の舞台となった福岡県筑豊地方は、気性の荒い人間が多く集まる地域として知られている。「黒ダイヤ」と呼ばれる石炭を採掘する炭鉱労働者たちは、みな一様に辛い労働を酒や博打で癒していたが、そんな彼らが集まれば、時には諍いも ...
日本のお尋ね者【3】国内初のバラバラ殺人犯はエリート官僚
NEWSポストセブン - 3 日前
返済を迫られた山田は外米管理部の後輩と共謀して男をバットで撲殺。金のこぎりで遺体を切断し、2つのトランクに詰めて信濃川に沈めたのだった(山田は死刑となる)。 この事件は日本で最初のバラバラ殺人といわれ、当時の日本では珍しいバットが凶器と ...
日本のお尋ね者【2】小説のモデルにもなった4回脱獄男
NEWSポストセブン - 3 日前
脱獄といえば、映画の題材としてもしばしば取り上げられるテーマだが、昭和の日本にも4回の脱獄に成功した男がいた。
吉村昭の『破獄』のモデルにもなったその男のやり方には、「味噌汁を使う」など、機知に富んだものもあった。 脱獄風景の模型が近く ...
日本のお尋ね者【1】気絶した相手2人の頭に五寸釘打ち込む
NEWSポストセブン - 3時間前
5月20日からジョニー・デップ主演の『パイレーツ・オブ・カリビアン/生命の泉』が公開されているが、あちらは映画の中でのお話。
2005年にはマラッカ海峡沖で日本の商船が襲われる事件も発生したが、戦後の日本でも、瀬戸内海で海賊が跳梁跋扈した時期が ...
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男性なら一度は夢想するハーレム生活だが、かつてそれを海外で実現させ、国際問題にまで発展させた日本人がいる。
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被害者には尼僧までいたというから、「聖職」の冠はどこへいってしまったのやら……。
日本で実際あった事件を紹介しよう。
明治末から大正初期にかけて、僧侶による尼僧の強姦事件が発生した。最初の犯行は明治38年の兵庫県尼崎市の尼寺での強姦殺人。 ...
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墓場と言う場所は決して気持ちの良い場所ではないが、増して“墓荒らし”ともなれば、いよいよまともな人間には想像も付かない話。
しかし過去には、世にもおぞましいその墓荒らしを行った兄弟がいた。彼らの、驚くべき犯行の動機とは? ...
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男という生き物は大なり小なり“助平”なものだが、「助平の代名詞」とも呼ばれた男が戦後のドサクサ期に現われたのをご存じだろうか。
「稀代の連続殺人鬼」とも呼ばれた男が犯した残忍無比な罪とは?
映画『男はつらいよ』の寅さんの口上に登場する小平 ...
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名古屋のシンボルといえば、徳川家康公が築城した名古屋城。
その名古屋城のシンボルといえば、地上高くそびえる金の鯱だが、かつて、この金の鯱の鱗を盗み出した不届き者がいたという。その男は一体どれだけの富を手にしたのか? 金の鯱で有名な名古屋城 ...
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NEWSポストセブン - 2 日前
痴情のもつれが刃傷沙汰に結び付くことはままある話し。
しかし、それが古刹の住職と女中となるといきおい世間の注目を集めてしまうようで、事態は思わぬ経過をたどる。
福井県でかつて実際にあった話を紹介しよう。 福井県越前市にある窓安寺は、北陸三十 ...
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五木寛之の『青春の門』の舞台となった福岡県筑豊地方は、気性の荒い人間が多く集まる地域として知られている。「黒ダイヤ」と呼ばれる石炭を採掘する炭鉱労働者たちは、みな一様に辛い労働を酒や博打で癒していたが、そんな彼らが集まれば、時には諍いも ...
日本のお尋ね者【3】国内初のバラバラ殺人犯はエリート官僚
NEWSポストセブン - 3 日前
返済を迫られた山田は外米管理部の後輩と共謀して男をバットで撲殺。金のこぎりで遺体を切断し、2つのトランクに詰めて信濃川に沈めたのだった(山田は死刑となる)。 この事件は日本で最初のバラバラ殺人といわれ、当時の日本では珍しいバットが凶器と ...
日本のお尋ね者【2】小説のモデルにもなった4回脱獄男
NEWSポストセブン - 3 日前
脱獄といえば、映画の題材としてもしばしば取り上げられるテーマだが、昭和の日本にも4回の脱獄に成功した男がいた。
吉村昭の『破獄』のモデルにもなったその男のやり方には、「味噌汁を使う」など、機知に富んだものもあった。 脱獄風景の模型が近く ...
日本のお尋ね者【1】気絶した相手2人の頭に五寸釘打ち込む
日本のお尋ね者【11】瀬戸内最大の海賊は構成員2000人
(NEWSポストセブン - 06月04日 07:12)
戦後の日本でも、瀬戸内海で海賊が跳梁跋扈した時期があった。
* * *
GHQ統治下、瀬戸内海では海賊が跋扈していた。機銃を据えた機帆船に乗った彼らは日本刀やピストル、ダイナマイトなどで武装して船舶を襲撃し、沿岸地域を荒らし回った。
中でも派手に暴れ回ったのが、昭和24年3月3日に逮捕された青果商・丸山秀義(29)らの一味。彼らは一般民家を襲うことは少なく、主に闇ブローカーや企業、官庁などを標的としていた。
丸山の自供によれば、海賊団の構成員は実に2000人。高松、丸亀、観音寺に拠点が置かれ、5人の貸元(頭目)が陣頭指揮を執っていたという。
構成員には会社員、漁師、博徒まで様々な職業の人間がおり、貸元の号令で集結していたが、構成員同士は互いに名前さえ知らなかった。そのため、警察は丸山を取り調べたものの、黒幕には辿り着けなかった。
※週刊ポスト2011年6月10日号
瀬戸内海は海賊の海
昭和24年2月4日夕方、岡山県邑久郡牛窓町沖の瀬戸内海で石炭輸送船第10和気丸(300トン)が遭難した事件で、船長(52)ら7人が海賊によって縛り上げられて船が漂流しているのを3日後に発見された。
当時、瀬戸内海は無警察状態で敗戦この方、海賊の海と化していたのである。
昨12月19日には香川県仲多度郡高見島
昨12月21日には岡山県児島市味野町専売局出張所を海賊が襲撃していた。
1月20日には宇野港外の香川県香川郡の喜兵衛島を
1月29日には三豊郡の粟島
2月1日には岡山県児島郡の石島をそれぞれ海賊が襲撃していた。
3月3日、香川県丸亀市新町の青果物商、丸山秀義(24)ら3人が宇野線の茶屋町駅で逮捕された。
海賊一味は大阪に本拠を持ち、香川県香川郡仏生山町にも拠点があったという。
そして高松、丸亀、観音寺と支部があり5人の貸元が指揮、およそ2000人のメンバーがいて昼は会社員、夜は海賊という者までいたが、縦のつながりで徹底していて丸山を逮捕したところで横のつながりがまったくわからずじまいであった。
戦後の日本でも、瀬戸内海で海賊が跳梁跋扈した時期があった。
* * *
GHQ統治下、瀬戸内海では海賊が跋扈していた。機銃を据えた機帆船に乗った彼らは日本刀やピストル、ダイナマイトなどで武装して船舶を襲撃し、沿岸地域を荒らし回った。
中でも派手に暴れ回ったのが、昭和24年3月3日に逮捕された青果商・丸山秀義(29)らの一味。彼らは一般民家を襲うことは少なく、主に闇ブローカーや企業、官庁などを標的としていた。
丸山の自供によれば、海賊団の構成員は実に2000人。高松、丸亀、観音寺に拠点が置かれ、5人の貸元(頭目)が陣頭指揮を執っていたという。
構成員には会社員、漁師、博徒まで様々な職業の人間がおり、貸元の号令で集結していたが、構成員同士は互いに名前さえ知らなかった。そのため、警察は丸山を取り調べたものの、黒幕には辿り着けなかった。
※週刊ポスト2011年6月10日号
瀬戸内海は海賊の海
昭和24年2月4日夕方、岡山県邑久郡牛窓町沖の瀬戸内海で石炭輸送船第10和気丸(300トン)が遭難した事件で、船長(52)ら7人が海賊によって縛り上げられて船が漂流しているのを3日後に発見された。
当時、瀬戸内海は無警察状態で敗戦この方、海賊の海と化していたのである。
昨12月19日には香川県仲多度郡高見島
昨12月21日には岡山県児島市味野町専売局出張所を海賊が襲撃していた。
1月20日には宇野港外の香川県香川郡の喜兵衛島を
1月29日には三豊郡の粟島
2月1日には岡山県児島郡の石島をそれぞれ海賊が襲撃していた。
3月3日、香川県丸亀市新町の青果物商、丸山秀義(24)ら3人が宇野線の茶屋町駅で逮捕された。
海賊一味は大阪に本拠を持ち、香川県香川郡仏生山町にも拠点があったという。
そして高松、丸亀、観音寺と支部があり5人の貸元が指揮、およそ2000人のメンバーがいて昼は会社員、夜は海賊という者までいたが、縦のつながりで徹底していて丸山を逮捕したところで横のつながりがまったくわからずじまいであった。
古川さん、宇宙長期滞在へ=新型ソユーズ、8日打ち上げ-初飛行で5カ月半
【モスクワ時事】国際宇宙ステーション(ISS)に長期滞在する宇宙飛行士古川聡さん(47)が搭乗するロシアのソユーズ宇宙船の打ち上げが、8日(日本時間同)に迫った。古川さんは初飛行で、ISSに約5カ月半滞在する。
日本人がソユーズで宇宙に向かうのは
2009年12月の野口聡一さん(46)以来3人目。
ソユーズは日本時間の8日午前5時12分、カザフスタンのバイコヌール宇宙基地から発射される。
日本人の長期滞在は09年3~7月の若田光一さん(47)と、同年12月~10年6月の野口さんに続き3人目。
古川さんは外科医出身で、1999年2月、星出彰彦さん(42)、山崎直子さん(40)と一緒に宇宙飛行士候補に選抜された。
ISSでは、日本の実験棟「きぼう」で、無重力状態での植物の成長観察やたんぱく質生成など多くの実験を行う。 特に注目されるのが、医師の経験を生かした実験。自身の脳波や血中酸素、心拍音などを調べ、その場で解析、診断する。今後の飛行士の健康管理に生かすための基礎データを取るのが狙い。(2011/06/04-05:41)
日本人がソユーズで宇宙に向かうのは
2009年12月の野口聡一さん(46)以来3人目。
ソユーズは日本時間の8日午前5時12分、カザフスタンのバイコヌール宇宙基地から発射される。
日本人の長期滞在は09年3~7月の若田光一さん(47)と、同年12月~10年6月の野口さんに続き3人目。
古川さんは外科医出身で、1999年2月、星出彰彦さん(42)、山崎直子さん(40)と一緒に宇宙飛行士候補に選抜された。
ISSでは、日本の実験棟「きぼう」で、無重力状態での植物の成長観察やたんぱく質生成など多くの実験を行う。 特に注目されるのが、医師の経験を生かした実験。自身の脳波や血中酸素、心拍音などを調べ、その場で解析、診断する。今後の飛行士の健康管理に生かすための基礎データを取るのが狙い。(2011/06/04-05:41)
【双葉町長】 独断で義援金を辞退 /埼玉県加須市
【朝日】
避難町民逮捕、双葉町長が義援金辞退 独断に批判噴出
2011年6月4日7時12分
福島第一原発事故を受けて埼玉県加須市に避難中の福島県双葉町は、町に直接寄せられる個人や企業からの義援金を当分辞退することを決めた。
避難町民の一人が警視庁に逮捕されたことを受け、自粛するという。決定は井戸川克隆町長の独断で、町民からは批判が出ている。
警視庁によると、逮捕されたのは自称布教師見習いの男(57)。
3月下旬、「除霊」名目で少女に裸の写真を自分の携帯電話に送らせたとして、5月下旬、児童買春・児童ポルノ禁止法違反容疑で逮捕された。
事件発覚以降、町には「役場ごと埼玉から出ていけ」といった苦情のメールが複数寄せられた。井戸川町長は「双葉町としてけじめをつける」と義援金の辞退を決め、今月1日、避難先の旧県立高校で開いた住民集会で報告した。
【スポットライト】
除霊のためなどと話し、女子高生に裸の写真送らせる
2011年6月2日 02:00
警視庁少年育成課は31日までに、当時高校1年生の女子生徒(17)に「除霊に必要」などと話し、女子生徒の裸の画像10枚を送信させたとして、埼玉県加須市の自称祈祷師見習い、佐藤昌弘容疑者(57)を児童買春・ポルノ禁止法違反(製造)の疑いで逮捕した。
逮捕容疑は、3月22日から23日の間、「悪夢にうなされる」と相談してきた東京都中央区の高校1年の女子生徒に対し「別れたお父さんの生霊が祟っている。除霊するには裸の写真が必要」などと話し、裸の画像計10枚を送信させた疑い。
関係者などによると、佐藤容疑者は福島県双葉町に住んでいたが、逮捕時は東日本大震災の影響で埼玉県に避難していた。
女子生徒も10数年前まで双葉町に住んでおり、女子生徒の母親と佐藤容疑者は親交があった。
母親が警察に相談したことで発覚したという。調べに対して佐藤容疑者は「自分が楽しむためにやった」などと供述しており容疑を認めている。
避難町民逮捕、双葉町長が義援金辞退 独断に批判噴出
2011年6月4日7時12分
福島第一原発事故を受けて埼玉県加須市に避難中の福島県双葉町は、町に直接寄せられる個人や企業からの義援金を当分辞退することを決めた。
避難町民の一人が警視庁に逮捕されたことを受け、自粛するという。決定は井戸川克隆町長の独断で、町民からは批判が出ている。
警視庁によると、逮捕されたのは自称布教師見習いの男(57)。
3月下旬、「除霊」名目で少女に裸の写真を自分の携帯電話に送らせたとして、5月下旬、児童買春・児童ポルノ禁止法違反容疑で逮捕された。
事件発覚以降、町には「役場ごと埼玉から出ていけ」といった苦情のメールが複数寄せられた。井戸川町長は「双葉町としてけじめをつける」と義援金の辞退を決め、今月1日、避難先の旧県立高校で開いた住民集会で報告した。
【スポットライト】
除霊のためなどと話し、女子高生に裸の写真送らせる
2011年6月2日 02:00
警視庁少年育成課は31日までに、当時高校1年生の女子生徒(17)に「除霊に必要」などと話し、女子生徒の裸の画像10枚を送信させたとして、埼玉県加須市の自称祈祷師見習い、佐藤昌弘容疑者(57)を児童買春・ポルノ禁止法違反(製造)の疑いで逮捕した。
逮捕容疑は、3月22日から23日の間、「悪夢にうなされる」と相談してきた東京都中央区の高校1年の女子生徒に対し「別れたお父さんの生霊が祟っている。除霊するには裸の写真が必要」などと話し、裸の画像計10枚を送信させた疑い。
関係者などによると、佐藤容疑者は福島県双葉町に住んでいたが、逮捕時は東日本大震災の影響で埼玉県に避難していた。
女子生徒も10数年前まで双葉町に住んでおり、女子生徒の母親と佐藤容疑者は親交があった。
母親が警察に相談したことで発覚したという。調べに対して佐藤容疑者は「自分が楽しむためにやった」などと供述しており容疑を認めている。
【米海軍】
【産経】
【早読み/先読み アメリカ新刊】
ビンラーディン殺害で脚光を浴びる「米忍者部隊」
2011.6.4 07:00
SEAL TEAM SIX
Seal Team Six: Memoirs of an Elite Navy Seal Sniper
シール・チーム・シックス:海軍エリート狙撃兵のメモワール
by Howard.E. Wasdin and Stephen Templin
St. Martin’s Press
2011.6.4 07:00
SEAL TEAM SIX
Seal Team Six: Memoirs of an Elite Navy Seal Sniper
シール・チーム・シックス:海軍エリート狙撃兵のメモワール
by Howard.E. Wasdin and Stephen Templin
St. Martin’s Press
ディズニー社が早くも商標登録確保に動いた名称
ビンラーディン殺害で一躍脚光を浴びた米軍特殊部隊「SEAL TEAM SIX」(シール・チーム・シックス)。3代10数年にわたって米政権が血眼になって捜してきた国際テロ組織の首謀者を見つけ出し、最後のとどめを刺したエリート部隊として、今アメリカで最もホットな英雄になっている。
まるで「日本の忍者のように仕事を終えると、名前を名乗ることもなく風のように去っていく。地位も名誉にも無縁な闇のヒーロー」(ロサンゼルス・タイムズ論説記者)にアメリカ人はしびれているのだ。
今回のドラマの映画化を視野に入れているのだろう。米大手映画会社ディズニーはいち早く商標登録を出願している。
本書は、かつてこの部隊に所属し、数々の修羅場をくぐり抜けてきた元隊員の回想録だ。
著者は、1993年にソマリアで起きた「モガディシオの戦闘」(映画「ブラックホーク・ダウン」のテーマとなった)にSEAL TEAM SIXの一員として参戦したハワード・ワズデン。共著者は同部隊訓練中に知り合ったステファン・テンプリン。巧みな表現や臨場感あふれる描写は、現在沖縄の名桜大学で英語を教えるテンプリンが手伝ったのだろう。
これまでこの部隊の実態は、国家機密の名の下にベールに包まれてきた。分かっていることといえば、世界の特殊部隊の中でも群を抜いた高度な戦闘技術を有し、テロリストの拘束・殺害や米人人質救出といった特殊作戦だけに出動する「現代版忍者」ということぐらいだ。
SEALとは、Sea(海)、Air(空)、Land (陸)の頭文字をとって命名されたもので、まさに海からでも空からでも陸からでも狙った獲物を急襲し、「Dead or Alive」(つまり殺害するか生け捕りにするか)で仕留める。
名は体を現している。組織的には海軍に属し、正式名はUnited States Naval Special Warfare Development Group (DEVGRU=海軍特別戦術開発グループ)。陸軍のDelta Force(1st SFOD-D)とは双子の兄弟の関係にある。
若干紛らわしいのだが、SEAL TEAM SIXは、海軍特殊戦術司令部の傘下にある8つあるSEAL部隊の中の一つ。つまり前者イコール後者ではない。SEAL部隊の中からさらに選抜されたのがSEAL TEAM SIXなのである。
若干紛らわしいのだが、SEAL TEAM SIXは、海軍特殊戦術司令部の傘下にある8つあるSEAL部隊の中の一つ。つまり前者イコール後者ではない。SEAL部隊の中からさらに選抜されたのがSEAL TEAM SIXなのである。
編成のきっかけは80年のイランでの人質救出失敗
ベールに包まれているとはいえ、揣摩憶測(しまおくそく)を交えて巷間ながれている話だと、SEAL TEAM SIXは、バージニア州オーシャナ海軍航空基地内ダムネック・アネックスに本陣を構えている。だが、いったいどのような訓練を行っているのかは、一切正式には明らかにされていなかった。
本書は、断片的だが、そうした猛訓練の一端を一隊員の口から明らかにしている。
この部隊は、1980年、イランで人質となったアメリカ大使館員救出作戦での失敗から生まれた。テロリストと戦うフルタイムの精鋭部隊の必要性を痛感したからだ。もっとも米軍には昔からこの種の「忍者部隊」はいるにはいた。
米海軍には第2次世界大戦で活躍した「Under Water Demolition Team(=UDT=水中破壊工作部隊)が特殊部隊として存在した。これがケネディ政権下でSEALとして生まれ変わったのである。そして朝鮮戦争、ベトナム戦争を経て、各地域、担当ごとに8つのSEALが編成された。6番目にできたのが、テロリスト必殺を専門にするSEAL TEAM SIXというわけだ。
同部隊員になるには、「狭き門」が立ちはだかっている。他のSEAL隊員の中から約1000人が選抜され、「地獄の1週間」と呼ばれる基礎訓練テストでふるいにかけられる。この期間、隊員が寝られるのは1日4時間。残りの20時間は訓練に次ぐ訓練。1週間後に、このサバイバル・ゲームに勝ち残った隊員は200人から250人。晴れてSEAL TEAM SIXの隊員になってもそれが終わりではない。
一定期間、猛練習が続く。侵入訓練、爆発物処理、長距離偵察、高度落下訓練、夜間活動訓練、戦闘訓練。「今日、汗をかけば、明日流す血は少なくてすむ」。同部隊発足以来、歴代隊員たちが胸に刻みつけてきたスローガンだという。
出動命令はいつ出されるか、分からない。大統領からの命令が下れば直ちに行動を起こす。待っているのは、物的な報酬でもなければ、メダルでもない。死と背中合わせての「必殺作戦」なのだ。
出動命令はいつ出されるか、分からない。大統領からの命令が下れば直ちに行動を起こす。待っているのは、物的な報酬でもなければ、メダルでもない。死と背中合わせての「必殺作戦」なのだ。
一体なんのために若者たちはこれほど過酷な「プロフェッション」を選んだのか。なぜ、それほどまでに国家のために命を投げ出そうとするのか。軍事独裁国家でも軍国主義国家でもないアメリカ合衆国で、なぜ彼らは「陰の忍者」になろうとするのだろうか。
著者は、それについては多くを語ろうとしない。いや、何も言っていない。ただ、子供の時に継父の家庭内暴力に耐え抜いた思い出をこうつづっている。
「サバイバルするためには、頭で考えること、魂で感じること、そしてこの耐え難い肉体的な痛みにも耐えること、それらすべて自分でコントロールできないとダメだ、と思った。そしてそれこそは、過酷な訓練と極限状態の戦場でなすべきとをするというSEAL隊員になるラッキーな準備体操にはなった」
引っ張りだこの元SEAL隊員のオックスフォード大博士
この本と前後して出版されたのが、元SEAL隊員が書いた「The Heart and the Fist; The Education of a Humanitarian, the Making of a Navy Seal」(魂と拳骨:ヒューマニタリアンになるための教えと海軍特殊作戦部隊員)という本だ。
著者エリック・グレイテンズは、名門デューク大学を優等で卒業、その後ローズ奨学生に選ばれてオックスフォード大学に留学、政治学博士号を習得している。その後SEALに入隊するという変わり種だ。
博士号論文は「人道主義運動と救済活動」。博士号をとるや、クロアチアの難民キャンプやルワンダの救済施設で働いた後、インドにわたり、そこでマザー・テレサ修道院の療養所を訪ねる。そこで献身的に働く修道女たち。戦火やジェノサイド(殺戮)から命からがら逃げ、たどり着いた難民。どうしたらこんな悲劇をなくすことができるのか。武装する男たちやテロリストからどうやったら罪のない女性や子供たちを守れるのか-。
グレイテンズは、オックスフォードの「ローズハウス」の壁に張られている、学究生活半ばで第1次大戦や第2次大戦に参戦して殉死していった数多くのローズスカラーたちの名前を思いだす。
そしてイギリスの哲学者、ジョン・スチュアート・ミルの言葉を噛み締める。
「戦争は卑劣だ。が、最も卑劣な行為ではない。それよりも、戦争は無意味だと考える腐敗し、堕落したモラル、愛国心にしがみついていることのほうがもっと卑劣だ。戦うべき対象もなく、自分の身の安全の方が大切だと考える人間ほど惨めな生き物はない。そういう人間は自分よりも優れた人間の助けによってしか、自分自身、自由の身になれない、情けない生き物だ」
「自分自身の肉体を鍛え上げ、悪に立ち向かうために武器を持つことは卑劣なことなのだろうか」
それがSEAL入隊の確たる理由だった。グレイテンズはSEAL TEAMSIXのメンバーではないが、SEAL隊員として過酷な訓練を受け、何度も何度も戦場に出撃する。何人もの戦友を失う。現在大学の研究員をしながら戦死した米兵士の遺族のための支援基金「The Mission Continues」を立ち上げている。
「一般的に、SEALはその凶暴性、マチョイステッィクな面ばかり強調されている。が、SEALが本当にスペシャルなのは、死に物狂いで体得した武闘パワーをいざというときに、思慮深く、規律正しく、バランスの取れた形で発揮できる戦闘部隊であるという点ではないだろうか」
この元SEAL隊員博士に各方面から講演依頼が殺到している。SEALとはなにかに留まらず、ビンラーディン殺害に歓喜するアメリカ人に武力とはなにか、正義とはなにか、を教える最高の「説教師」なのかもしれない。(高濱 賛)
2011年6月3日金曜日
「負けないで」岩手の少女、天国の母へ涙のトランペット
【朝日】
「負けないで」岩手の少女、天国の母へ涙のトランペット
2011年5月20日22時40分
【動画】岩手の少女、天国の母へ涙のトランペット
「負けないで」を吹き終え、会場の拍手に涙する佐々木瑠璃さん=20日午後8時31分、東京都新宿区、森井英二郎撮影
トランペットを持ちながら、会場にいる家族を紹介する佐々木瑠璃さん。左はコンサート進行役の加藤タキさん=20日午後8時12分、東京都新宿区、森井英二郎撮影
東日本大震災から1カ月後、津波に流された岩手県陸前高田市の自宅跡で、海に向かってトランペットを吹いていた少女がいた。震災から70日たった20日、少女は東京オペラシティの舞台に立った。聴衆約1500人に披露したのは、あの時、天国の母らに捧げたZARD(ザード)の「負けないで」。
被災地で演奏する姿が朝日新聞(東京本社発行)に掲載された縁で招待された慈善コンサート「故郷(ふるさと)」。被災地出身のプロの音楽家らが企画した。
制服姿で舞台に立った岩手県立大船渡高校3年の佐々木瑠璃さん(17)は「負けないで」の後に「威風堂々」、そしてアンコールの「故郷」を吹いた。
父の隆道(たかみち)さん(48)、弟の証道(しょうどう)さん(15)も見守った舞台。「故郷」では演奏に聴衆の合唱が加わり、被災地や天国へ届ける歌が会場を包み込んだ。
「負けないで」岩手の少女、天国の母へ涙のトランペット
2011年5月20日22時40分
【動画】岩手の少女、天国の母へ涙のトランペット
「負けないで」を吹き終え、会場の拍手に涙する佐々木瑠璃さん=20日午後8時31分、東京都新宿区、森井英二郎撮影
トランペットを持ちながら、会場にいる家族を紹介する佐々木瑠璃さん。左はコンサート進行役の加藤タキさん=20日午後8時12分、東京都新宿区、森井英二郎撮影
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父の隆道(たかみち)さん(48)、弟の証道(しょうどう)さん(15)も見守った舞台。「故郷」では演奏に聴衆の合唱が加わり、被災地や天国へ届ける歌が会場を包み込んだ。
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